牧阿佐美バレヱ団『リーズの結婚』2019

標記公演を見た(6月8, 9日 文京シビックホール 大ホール)。アシュトン版『ラ・フィーユ・マル・ガルデ』(=『リーズの結婚』)は、1960年英国ロイヤル・バレエ初演。牧阿佐美バレヱ団では1991年に導入し、再演を重ねてきた。今年4月、新国立劇場バレエ団がアシュトン版『シンデレラ』(48年)を上演したため(牧阿佐美元芸術監督が99年に導入)、アシュトンの全幕代表作を続けて見る機会を得た。

両作とも、優れた音楽性、振付のクリスピーなアクセント、細かい足技が際立っている。英国風ウイット、パントマイム様式のトラヴェスティも共通。英国初の全幕バレエ『シンデレラ』では、上体の鋭い切り替えを伴う精緻なヴァリエーション、切れの良い幾何学的フォーメイションに、古典バレエに対するアシュトン独自の探求、実験性を見ることができる。

一方12年後の『ラ・フィーユ・マル・ガルデ』は、英国フォークダンス(モリスダンス、ランカシャー木靴ダンス、メイポール)、リボンダンス、ボリショイ風のグラン・リフト、ダイナミックな男性ヴァリエーション、ブルノンヴィル風の足技と、振付語彙は多岐にわたり、カルサヴィナ指導によるマリインスキー版のマイムも加わる。これら全てを牧歌的な音楽(ランチベリー編曲、エロールに基づく)と、アシュトンの力みのない円熟の振付手腕が、一つの世界にまとめ上げた(参照: Julie Kavanagh, Secret Muses, faber and faber, 1996 / La Fille mal gardée ed. Ivor Guest , Dance Books, 2010 )。アシュトンの孫世代を代表する振付家 クリストファー・ウィールドンは、本作を「もっとも完璧に作り上げられた物語バレエ」と語っている(『ダンスマガジン』2019年1月号)。

4年ぶりの今回は、振付指導にウィーン国立歌劇場バレエ団バレエマスターのジャン・クリストフ・ルサージュが招かれた。シモーヌを中心とするパントマイムシーンが明快になり、雄鶏の動きが野性的になった(人間を攻撃する)。カーテンコールでは鶏5羽が激しく羽ばたいて、牧歌的喜劇の後味を濃厚にした。

主役はWキャスト。初日のリーズはベテランとなった青山季可。様式を重んじる古典的なアプローチで、鋭い音取り、アシュトン・アクセントの切れ味に、振付への深い理解が見える。カルサヴィナ・マイムも慎ましやか。パ・ド・ドゥでは透明感あふれる詩情に、格調の高さを滲ませた。対するコーラスは清瀧千晴。明るい好青年そのままに、跳躍の高さ、回転の大きさなど、ダイナミックなヴァリエーションで個性を発揮した。

二日目リーズはバレエ団の中核を担う中川郁。確かな技術に裏打ちされた温かみのある踊り、コメディ・センスに彩られた真実味のある演技で、明るく伸びやかなリーズを造形した。舞台に自らの全てをさらけ出せる、自然体のプリマである。

対するコーラスは、菊地研の怪我降板で急遽代役となった元吉優哉。2015年ドミニク・ウォルシュ振付『牧神の午後』(09年)で、ラグワスレン・オトゴンニャムの牧神仲間として、東洋的エロティシズムの体現者となった。今回は持ち前の美しい踊りを存分に発揮。対話のようなサポート、役を心得た演技も揃い、ノーブル寄りの二枚目青年を、中川リーズと同じく自然体で演じ切った。今後の活躍が期待される。

第三の主役、リーズの母シモーヌには、当たり役となった保坂アントン慶。アシュトン版『シンデレラ』で見せた義姉同様、愛情深い母親である。喜劇のツボを押さえた演技、女装役特有の懐の深さと愛嬌に、優れた音楽性が加わり、舞台を牽引する強力な要となった。

演技的にシモーヌの相棒となるアランはWキャスト。初日の細野生は、ピュアで美しい踊りにアランの心根が見える。踊りと演技につなぎ目のない純粋な造形は、長年にわたる経験の確かな裏打ちを感じさせた。保坂シモーヌとの阿吽の呼吸、不思議な交感は、見る者全てを幸福にさせる。二日目は初役の山本達史。まだ照れのようなものが見え隠れするが、ノーブルな踊りを軸に、金持ちの息子というキャラクターを浮かび上がらせた。

アラン父のトーマスには京當侑一籠。恰幅のよい、大らかな愛情を持つ父親で、二人のアランの股くぐりを鷹揚に受け止める。持ち前の明るく暖かいオーラが舞台を温めた。公証人の塚田渉、書記の鈴木直敏も、熟練の演技で脇を固めている。

アンサンブルは牧歌的というよりもやや洗練に傾いているが、音楽的によく揃い、バレエ団の特色を伝える。その中で、リーズ友人 日髙有梨のリーズを祝福する自然な笑顔、農夫 坂爪智来の溌溂とした演技が、アンサンブルをまとめ上げた。

指揮はウォルフガング・ハインツ。東京オーケストラMIRAIから、くっきりとした厚みのある音楽を引き出している。

 

 

 

 

 

5月に見たダンサー・公演 2019

森下洋子 @ 清水哲太郎振付『眠れる森の美女』(5月3日 オーチャードホール)。

清水版『眠れる森の美女』は、清水独自のモダンな振付に混じって、ヌレエフの構成・振付が遺跡のように残り、バレエ団の歴史の一端を垣間見せる。森下(48年生まれ)のオーロラ姫は何度か見ているが、当然その時々の身体に応じた変化がある。今回はローズ・アダージョのアティチュードを、ドゥヴァンに変えて踊った。デリエールに比べると華やかさは減るが、気品や優雅さは増している。本来はこうだったのでは、とまで思わせる。二幕幻影の場でのソロ、及び、三幕グラン・パ・ド・ドゥでのソロの上体は、依然として国内(海外でも?)最高峰である。

森下ほどダンス・クラシックを追究したダンサーはいない。筋肉の極限までの意識化・細分化、フォルムの絶対性。現在も維持している上体の素晴らしさに加え、かつては脚の動きそれだけで、劇場空間を異化することができた。フランス派の脚が見せる機敏な運動性とは異なる、日本古典芸能に近づいた脚の感触だった。本来はバレエ団の垣根を超えて、現役バレリーナたちへのマスタークラスが開かれてしかるべきである。森下の貴重な財産を、少しでも残す方法はないものだろうか。

先ごろ現役引退を表明した吉田都は、松山バレエ学校出身だった。ローザンヌ・コンクール出場時の映像に見られる、明晰なテクニック、抜きん出た音楽性、鮮やかな脚の軌跡は、吉田が森下の後継者であったことを告げる。加えて吉田の個性、晴れやかな詩情が、すでに芽吹いていることにも驚かされた。英国系の慎ましやかな踊りに変わる以前の、ヴィルトゥオーゾ風の踊り(映像)に、吉田が辿ったかもしれないもう一つの道筋を思った。

 

Jason Respilieux @ ローザス『至上の愛』(5月9日 東京芸術劇場 プレイハウス)

『至上の愛』(17年)は、サルヴァ・サンチスとアンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケルが、ジョン・コルトレーンの同名曲(65年)に振り付けた作品。全編45分中、冒頭の15分は無音で踊られる。「承認」、「決意」、「追求」、「賛美」の4部からなり、4人のダンサーはコルトレーン(テナーサックス、ヴォーカル)、マッコイ・タイナー(ピアノ)、ジミー・ギャリソン(ベース)、エルヴィン・ジョーンズ(ドラムス、銅鑼、ティンパニ)とほぼ対応したパートを踊る。ソロから一斉ユニゾンになる瞬間と、ソロ演奏から全員演奏になる瞬間とが(当然だが)一致して、外から家に戻ってきたような暖かい快感をもたらす。

振付の分担は分からないが、アン・ドゥダン回転、腕を起点とする動き、後ろ走り、ナンバでの振り子動きは、ローザス的。そこに角ばった腕の動きや、フォルムを見せる動き、武術的なニュアンスが加わる。原曲の持つスピリチュアルな物語性の反映は、サンチスによるものだろう。

コルトレーンの Thomas Vantuycom は骨太でダイナミック。最終部の「賛美」ではキリストのように十字架リフトをされる。タイナーの Jason Respilieux は、動きがミニマルで、高度にコントロールされた踊り。ギャリソンの Robin Haghi はリハーサル・ディレクターだったが、急遽代役に転じた。癖のない温かみのある踊りが特徴。ジョーンズの Jose Paulo dos Santos はバネがあり、弾むような踊りだった。音楽(家)の個性に合わせた配役に思われる。

全員が PARTS の出身者でローザス所属とのことだが、唯一 Respilieux のみ、ダンスの質が異なっている。と言うか、ケースマイケルに近い。中盤、本来のピアノ・パートから離れて、ベースによる瞑想的なソロを踊った。内向きのコンパクトな動きで、体で考えているようにも、自分の体と対話しているようにも見える。ケースマイケルの色気や自意識はなく、淡々と枯れた踊り。ローザスの良心のようなダンサーだった。

 

中国国立バレエ団『赤いランタン』(5月10日 東京文化会館大ホール)

映画監督の張芸謀が、自作『紅夢』(91年)を基に演出したバレエ作品(2001年)。夥しい赤いランタン、床一面に広がる赤い布、壁に叩きつけられ血の跡を残す巨大な棒など、張の美学が息づいている。劇中劇の京劇や1920年代の風俗も興味深く、京劇役者とその観客が互いに抱挙礼をしたことに驚かされた。

振付(王新鵬、王媛媛)は個性を出すことよりも、物語に即した明快さを重視する。主役の感情表出はモダン寄りの振付、群舞は男女それぞれに、中国の身のこなしや武術を取り入れている。高水準のダンサーを含め、全体に「中国のバレエ」として過不足のない仕上がりだが、オケ・ピットが見える席だったせいか、音楽が最も印象に残った。

指揮は張藝、管弦楽東京フィルハーモニー交響楽団。ピットの中は指揮台を囲むように、中国民族音楽奏者が陣取り、舞台袖花道には打楽器奏者が配置されている(京劇の場面は、京劇の奏者が舞台上で演奏)。作曲は陳其鋼。中国民族音楽と20世紀初頭のフランス風音楽が違和感なく混じりあい、躍動感あふれるパーカッションに牽引される。篳篥チャルメラ)や胡弓の痛切な音が耳に残った。また麻雀の場面では、ピット全員が大きなソロバンを持ち、ジャラジャラと効果音を出す。見た目も音も楽しかった。東フィルメンバーは初体験ではないか。

現在の日本では、同時代作曲家にバレエ音楽を委嘱することはほとんどない。新国立劇場の『梵鐘の聲』を蘇らせることは難しいだろうか。細川俊夫委嘱の新たな「日本のバレエ」も見てみたい。

                      

 

蘆原英了『舞踊と身体』✖ 井口淳子『亡命者たちの上海楽壇』2019

前者は音楽・舞踊評論家の蘆原英了が、1920年代から70年代にかけて書いた舞踊エッセイを集めたもの(1986年 新宿書房)。クルト・ヨースの『緑のテーブル』予習のため、手に取った。ヨースの箇所は朧気、覚えているのはパブロワの遺骨をめぐる旅と、ゴンチャロワ夫妻訪問記のみだったので、再読することにした。

「思い出の舞踊家たち」、「舞踊の周辺」、「スペイン舞踊の世界」、「日本舞踊の身体」という章立て。記録としての価値もさることながら、蘆原の批評家としての立ち位置が面白く(ヴィグマンを認めない、バランシンは嫌い、プティが好き)、どんどん読み進めた。舞踊そのものについての見識も、当然ながら深い。日本舞踊と西洋舞踊の比較は、今読んでも新鮮だった。

戦前の『思想』に掲載された「菊五郎の眼」「三津五郎の足」「猿之助の口」、同じく『中央公論』掲載の「ナンバン」では、居所と能の関係、摺り足の起源、ナンバンの舞踊における意味など、多くを知ることができた。また、蘆原の行きつ戻りつする思考も格別の楽しさだった。

バレエ関係で一つ付け加えておくと、蘆原は「ボーモントを偲ぶ」において、あまりにも貴重なため誰にも教えたくない本を、ボーモントが自分にだけメモしてくれたエピソードを書いている。ブルノンヴィルの『エチュード・コレグラフィック』だった。

  『亡命者たちの上海楽壇』では音楽学者の井口淳子が、1920~40年代租界における上海楽壇の実態を、当時の新聞等から明らかにしている(2019年 音楽之友社)。概要は、

●(上海バレエ・リュスの本拠地だった)ライセアム劇場の歴史、客層の変遷

●上海楽壇における主役交代―英国人、フランス人から、革命を逃れたロシア人音楽家、亡命ユダヤ人へ

●当時演奏されたモダニズムからコンテンポラリーに至る音楽作品

●上海バレエ・リュス結成の経緯と上演作品一覧表

●極東のインプレサリオ、アウセイ・ストロークの生涯と、アジア・ツアーで招聘した音楽家舞踊家の一覧表

ストロークの右腕と言われた原善一郎の活躍

まず、ライセアム劇場の実態が、新聞記事やプログラム、様々な統計によって、立体的に分かったことが大きい。付属の上海工部局オーケストラ、また上海バレエ・リュスの上演作品一覧も、アーカイヴとして貴重である。バレエ・リュス旗揚げ公演では、ディアギレフ以降のモダン・バレエも上演されたとのことで、当時の上海の同時代性(西洋との)を改めて認識することができた。

標記2冊は、上海を本拠とする興行主 ストロークで繋がっている。蘆原が取り上げた来日舞踊家のうち、デニショウン舞踊団、アルヘンチーナ、サカロフ夫妻、グラナドス、クロイツベルクとページ、マヌエラ・デル・リオ(蘆原表記)が、ストロークのアジア・ツアー上海公演・日本公演一覧(井口)に載っている。それによると、デニショウン舞踊団は、国内では東京、名古屋、大阪、宝塚、サカロフ夫妻は、東京、大阪、京都、神戸を巡演した。

ストロークは、渡米途上にあったプロコフィエフの帝国劇場演奏会もプロデュースしたという(以下も井口による)。ストロークが最初に手掛けた大掛かりなアジア・ツアーは、1919年のロシア・グランド・オペラである。帝政ロシアの一流歌手25名、オーケストラ38名、合唱20名という大所帯で、東京(帝国劇場)、横浜(ゲーテ座)、大阪(中央公会堂)、京都(岡崎公会堂)、神戸(聚楽館、東遊園地劇場)、上海(オリンピック劇場、ライセアム劇場)、マニラ、インド(都市名なし)を巡業した。

日本では、『カルメン』、『アイーダ』、『椿姫』、『ファウスト』、『ボリス・ゴドゥノフ』、『ラクメ』、『トスカ』、『カヴァレリア・ルスティカーナ』、『道化師』、『リゴレット』、上海ではロシア語で(日本でも?)、『カルメン』、『リゴレット』、『ミニョン』、『スペードの女王』、『蝶々夫人』、『タイス』、『ユグノー教徒』、『デーモン』、『皇帝の花嫁』、『ジプシー男爵』、『ラ・ジョコンダ』、『ロミオとジュリエット』、『ラ・ボエーム』、『トロヴァトーレ』が上演された。現在のオペラハウス・レパートリーと全く変わらない作品群を、大正7年の人々が(ロシア語で?)聴いたかと思うと痛快で、ストロークの情熱と剛腕がありがたく思える。

ストローク1920年代以降、帝国劇場と朝日新聞社の財政的バックアップを得て、上海から日本に拠点を移そうとしていた。1937年英国出発直前の談話として「日本に国立オペラをつくるつもり、英国最高のオペラ団を極東に招聘することになるだろう」と述べたが、上海事変が起こり、活動停止を余儀なくされた。もしこの時、国立オペラができていたら...

戦後米国へ移住したストロークは、空路のアジア・ツアーを再開(戦前は大型客船)、メニューヒン等を招聘したが、日本で客死する。本書に詳述されたストロークの生涯から、彼がディアギレフと文化的に地続きだったことが分かった。日本がアジア・ツアーの一寄港地であったことも、インターナショナルな俯瞰から知ることができた。

新国立劇場バレエ団 『シンデレラ』 2019

標記公演を見た(4月27, 28, 29日, 5月4, 5日 新国立劇場オペラパレス)。99年団初演、1年半ぶり12回目のアシュトン版『シンデレラ』である。何度見ても尽きない面白さ、発見がある。クリスタル・カットを施された切れの良い主役・ソリスト振付、星の精群舞の幾何学的振付、宮廷群舞の込み入ったキャラクターダンス、さらに同時多発的な演技。アシュトンの古典バレエへの批評が詰まった傑作である。

今回は動きのメリハリを重視する演出に加え、冨田実里指揮、東京フィルによる音楽が、歯切れよくエネルギッシュなため、明るく元気な舞台となった。マーティン・イエーツがメロディに深く分け入り、テンポも緩やかであるのに対し、冨田はダイナミズムを保ちつつ、構造や適正テンポを重視する。舞台と呼応するパトスの表出も陽性だった。

主役キャストは4組。初日の米沢唯と渡邊峻郁は『不思議の国のアリス』と同じ顔合わせ。その時の駆け抜けるような瑞々しさとは打って変わり、今回は落ち着いた大人の雰囲気である。米沢の静かに包み込む座長的な懐の深さに対し、渡邊は真摯で誠実な演技で応えた。来季の『R&J』も同じ組み合わせだが、どのような恋人たちになるだろうか。

二日目の小野絢子と福岡雄大は、長年にわたるパートナーシップが安定した舞台を形作る。小野はアシュトン振付の機微をピンポイントで実現。炉辺での踊りに繊細な音楽性を滲ませた。一方、福岡は絵に描いたような王子だった。自分の個性とノーブルスタイルを見事にすり合わせ、ベテランらしい落ち着きと格調の高さを備えている。時々「ピルエットをしすぎて、頭のネジが2、3本飛んでる」という、小柴富久修(福田紘也?)の福岡評(「Dance to the Future 2019」)が頭に浮かんで困ったが。

三日目は木村優里と井澤駿。来季『R&J』でも組むダイナミックな持ち味の二人だが、パートナーシップを徐々に築いているところか。木村は伸び伸びとした演技で、不遇を感じさせず。2幕アダージョは風格があるが、もう少し王子との対話を聞かせてほしい。一方、井澤は階段に蹴躓くなど立ち上がりが遅く、3幕でようやく本来の姿が顕現した。虚構度の高さという点で、団先輩の山本隆之と似たところがある。「王子がそこにいる」のである。

四日目の池田理沙子と奥村康祐は、確かなパートナーシップを築いている。池田の役にはまり込む真っ直ぐな姿勢と、奥村の優しさ、作品への理解が噛み合い、胸を打つ2幕アダージョを作り上げた。心のこもった舞台。唯一、役に沿った感情の流れを感じさせた。二人の芝居心と個性は、『R&J』よりも『マノン』を思わせる。

もう一方の主役、義理の姉妹たちは、姉が持ち役の古川和則が帰還。細かい反応をそこここに差し挟んで、舞台を牽引する。妹想い。加えて自らをも俯瞰する眼差しが、ユーモアともつかぬ妙なおかしみを生む。音楽的な妹 小野寺雄が古川の愛情によく応えた。また奥村が、王子配役日を挟んで、姉娘の初役。華があり、王子同様ビロビロと広がるオーラをまき散らした。妹はすでにベテラン臭のある髙橋一輝。かつての姉 古川同様、芝居が細かく、また悲しげな無表情が愛らしい。

仙女は盤石の配役。本島美和は体の質を変え、仙女そのものと化している。一挙手一投足から滲み出る慈愛。幽玄だった。細田千晶は踊りも滑らかになり、柔らかい包容力が一段と増している。木村は大きくダイナミックな踊りで妖精たちを導いた。

道化も同じ。福田圭吾は暖かく王子に寄り添う献身派、木下嘉人はエスプリを利かせた爽やかタイプだった。共に脚技を駆使した鮮やかな踊りで、観客を楽しませた。父親の菅野英男は奥行きある深い愛情、貝川鐡夫は人情味あふれる優しさで、娘たちを見守った。

四季の精、王子の友人ともレヴェルが高い。中でも五月女遥(春)、奥田花純(秋)、寺田亜沙子(冬)、友人の中家正博、速水渉悟が印象的。速水はアシュトン振付を面白がる余裕がある。1幕職人たち、2幕ウェリントン=ナポレオンは各自に任されている模様。ナポレオン初役の渡部義紀も馴染んでいた。カツラの向きはどれが正しいのか。

 

佐東利穂子『泉』 2019

標記公演を見た(4月13日 KARAS APPARATUS)。佐東初めての振付作品。計8回のアップデイトダンスのうち、2回目の公演である。カミテ奥には、滝のような、泉が盛り上がったようなインスタレーション。薄暗い照明のなか、佐東がゆっくりと動き始める。

現代的なバイオリン協奏曲(プロコフィエフとのこと)、女声の宗教曲、チャイコフスキーの「感傷的なワルツ」、バッハのバイオリン協奏曲という音楽構成。照明は微妙に変化し、途中、黒い床が水面のように見える。両腕を広げてのぞき込む佐東の姿が、逆さ富士のようなシンメトリーを形成した。概ね、勅使川原三郎の美意識と重なっているが、重なっているからこそ、佐東の個性が浮き彫りになる。

音楽との関係、インスタレーションとの関係が親密で、触覚に基づいている点が、佐東の大きな特徴。一方、勅使川原は視覚的。構成への意志が厳然とあり、コミュニケーションの有無よりも、美的であることを優先させる。佐東はその場で音楽と呼応し、インスタレーションと対話しているように見えた。

振付は勅使川原メソッドを使用。ただし床面を多く使い、肚への意識を感じさせる。バッハの荘厳な曲で踊る高速ダンスは、全身の呼吸を伴い、空間に気を充満させた。勅使川原作品で見せる聖性を保ちながら、一人の人間としての思考、それに由来する強度を感じさせた初振付作だった。

終演後の挨拶では、初めて作品を作る戸惑いと喜びを語る。勅使川原三郎さんや周囲の方にずっと勧められていたが、これまで作らなかったのは、踊りの追求が面白かったから。作り始めて、石ころと思っていたものが、何かになることに驚きを感じた、など。終始、「勅使川原三郎さん」とフルネームで呼んだことに、佐東の来し方を思わされた。

大竹みか先生を追悼する 2019

コデマリバレエスタジオ主宰の大竹みか先生が、3月27日に亡くなられた(享年85歳)。スタジオでは毎年4月に「コデマリコンサート」を開催する。今年は4月7日、貝谷バレエ団80周年記念を兼ねての特別公演である。その直前の訃報に、胸が詰まる思いだった。闘病されていたことも知らず、昨年4月のお元気に踊られる姿のみが脳裏に焼き付いている。

大竹先生(師匠ではないが、こうお呼びする)は、1934年3月5日東京・大森生まれ。以下『バレリーナへの道』48号の連載「日本のバレリーナ」から、プロフィールを引用する(コデマリスタジオ提供)。「3歳から母、雅子にピアノ、声楽を習い、16歳で貝谷八百子バレエ団入団、19歳で団員。67年コデマリスタジオを開設。貝谷八百子バレエ団福知山、舞鶴、小浜研究所主任講師。レニングラードで短期研修。振付作品『舞姫イース』『陽はまた昇る』ほか多数。主演『眠れる森の美女』『コッペリア』ほか。01年京都府舞鶴市福知山市より文化功労賞贈られる。」

大竹先生と初めてお目にかかったのは、福田一雄先生ご自宅での談話会だった。福田先生の汲めども尽きせぬバレエ音楽のお話を伺い、バレエへの認識を新たにしていたが、ある日大竹先生が、「貝谷(八百子)先生の『くるみ割り人形』の最後に、ミツバチの巣が出てくるの」とおっしゃられた。近くにいたため、プティパの台本のこと、また貝谷版『白鳥の湖』のことなどを、お話しすることができた。それ以来、日本バレエ協会や世田谷クラシックバレエ連盟の公演等でお目にかかると、ご挨拶するようになった。

先生はゆったりとした佇まいで、常に相手を見守るような笑みを浮かべていらした。声はアルト。お話はいつも「ウフフフ」というくぐもった笑いのような発話に彩られる。貝谷先生のことと、教え子のことを話される時だけ、声高く情熱的になられた。

最初にバレエ協会の「バレエフェスティバル」評を担当した時、隣席になったが、今思えば、セコンドの役回りをされていたような気がする。他公演でお目にかかった時に場違いな質問をしても、咎めることなく、誠実に答えてくださった。

ダンサーとしての先生は、華やかで気品にあふれる。舞台に登場するだけで、劇場全体を一瞬のうちに掌握された。貝谷時代からの盟友 吉田隆俊氏(女装)と並んで歩くと、女友達のような華やかな香気が立ち昇った。一方、童女のような純粋さ、洗礼名であるマリアのような慈愛も。かなり高齢になられてからも、そしてつい昨年も、献身的なパートナーで振付家の安藤雅孝氏による大胆なリフトを、楽しそうに受けていらした。「バレリーナへの道」本文によると、「高所恐怖症なのに、飛び込みのリフトがうまく、八百子はみかの振付にはリフトを多く採り入れた。」とある。

コデマリコンサート」の大きな楽しみは、先生の新作を拝見することだった。「私は新作しかないのよ」とおっしゃって、いつも新たに振付をされる。その音楽性の深さ、常に音楽と共に生活されていることが分かる。自然で品のある音楽性だった。フォーメイションは明快。いわゆる成人クラスの場合でも、シンプルなパのみで薫り高い作品を作り上げる。「文体」のある振付家だった。

今年の「コデマリコンサート」は貝谷バレエ団80周年記念と銘打たれ、貝谷版『白鳥の湖」第二幕が上演された。同団アカデミー生の大西聖奈によるオデットを、福田圭吾(新国立劇場バレエ団)の王子、白鳥たちに加わった壁谷まりえ(コデマリスタジオ)が見守る。共に貝谷八百子の孫弟子にあたる。

大竹ほか振付の『シンデレラの夢』では、吉田隆俊の継母、同じく『仮面舞踏会』では、吉田の「男」、さらに大竹の代役を務めた山本教子の「女」に、華やかな存在感、優雅で華麗なマイムという、貝谷の遺産が受け継がれている。

長年、ダンサー大竹の魅力を引き出してきた安藤雅孝は、今年もスタイリッシュな振付で男女の機微を描いた。大竹は白いドレスとなって、そこにいた。公演フィナーレでは、華やかな赤いドレスに変わり、感謝の花が捧げられた。そしていつものようにあっさりと幕。舞台人 大竹みかに準じた、粋な幕引きだった。

 

 

 

新国立劇場バレエ団「DANCE to the Future 2019」①

標記公演を見た(3月29, 30夜, 31日 新国立劇場 小劇場)。前芸術監督 D・ビントレーが2012年に始めた振付家育成企画。団員の振付を団員が踊ることで、両者にクリエイティブな相互関係が生まれる。前監督時代は、振付家の卵たちが思うがままに作品を発表する、言わば孵卵器として機能していた。今では、そこから育った振付家たちだけで、自前のコンテンポラリー・ダンス公演が成立する。ビントレーが見たら喜ぶだろう。

6回目となる今回は、4人の振付家による新作4作、再演2作、さらに前回に続いて生演奏での即興というプログラム。アドヴァイザーも同じく、中村恩恵が担当した。3部構成の1部は、中堅2人の新作である。

髙橋一輝『コルトベルク変奏曲』は、バッハの同名曲を抜粋。薄暗い照明のなか、バックドロップに2つの赤い太陽が明滅し、心臓の鼓動のような生命感を作り出す。4人のダンサーが椅子と関わりながら、ソロ、ユニゾン、シンメトリーを踊るが、関係性は繊細で緻密。振付家の息を詰めた思考が感じられる。

芯となるべき渡邊拓朗は、プティの『若者と死』のような神話への道筋を示したが、肉体に詰まったパトスをまだ完全には放出し切れていない。宇賀大将の躍動感、奥田花純の情熱、益田裕子の抒情性と、それぞれの個性を生かした振付。特に宇賀の、振付の機微を完全に捉えた踊りに目を見張った。

福田紘也は『猫の皿』と『Format』を続けて(入れ子で?)上演した。福田が登場し、マイクと座布団の前に座る。座布団の中から鏡と粘着テープを取り出して、口に貼る。暗転後、カミテにポニーテールの本島美和が忍者座り。少し動いて、シモテに忍者走りで去る。さらに暗転後、カミテから小柴富久修が金色の着物で登場。タンデュの小手調べをしてから膝を折って座る。観客に来場の礼を言い、「見ての通り、バレエダンサーです」で観客をつかむ。4回公演のうち3回を見たが、つかみは全て違っていた。そして全て面白かった。小柴の経験・感想を基にしているので、小柴のつかみなのだろう。

本題の『猫の皿』は柳家三三流。言葉の意味ではなく、言葉の音とリズムに合わせて、本島、福岡雄大、福田圭吾がコンテを踊る。なぜか忍者風の任務(振付)遂行。噺の区切りと動きが同期する、セッションに似た快感があった。噺が終わって暗転。福田(紘)が、拍子木の音から始まるパーカッション(音楽:福田紘也)で、『Format』を踊る。踊りにはニュアンスがなく、フォーマットそのもの。動きの基本を見せるミニマルな面白さがあった。

今回は小柴遣いが圧巻だった。なぜボーリングのピン(宝満作品)にさせられたのか、よく分かった。落語が初めてというのは嘘だろう。茶を飲む所作、着物の立ち居振る舞いが板についている。だが、バレエと落研は両立できるのか。もし初めてなら、振付を覚えるように覚えたのだろうか。謎である(普段の小柴は、ノーブルなラインの持ち主で、優れたパートナー)。②はこちら