新国立劇場バレエ団『コッペリア』2021

標記公演を無観客ライブ配信で見た(5月2, 4, 5, 8日 新国立劇場オペラパレスより中継)。政府の緊急事態宣言を受けて、新国立劇場も4月25日から5月11日までの全公演が中止となった。有料配信を希望する観客の声もあったが、準備期間が短いため無料配信にしたとのこと。初日のみ配信が予想されたが、結果は全キャスト。吉田都芸術監督の「ダンサーを踊らせたい」という強い意志が窺える。当日配布予定のリーフレットも HP上で公開された。

同団『コッペリア』は古典版ではなく、ローラン・プティ版(75年マルセイユ・バレエ団/07年)。プティ版がパリで初演される2年前、パリ・オペラ座バレエ団後輩のピエール・ラコットが、復元版を手掛けている(「スラブ風主題と変奏」のフランス脚!)。それに対抗してか、プティ版では舞台をフランスの都市に移し、村人の代わりに衛兵と町娘が登場する。スワニルダと友人たちはピンクのミニチュチュ姿で脚線を強調。コッペリウスは偏屈な老人から、気をあやつるスタイリッシュな紳士へと変貌を遂げた。さらに、牧歌的なドリーブの傑作に手廻しオルガンを登場させ、フランス風の乾いたエスプリを主張する。

3幕ディヴェルティスマンを省略した全2幕。最後にスワニルダとフランツのパ・ド・ドゥ、コッペリウスの愁嘆場が加わる。1幕スワニルダ・ソロの恐るべき技巧、「戦い」使用の男らしいフランツ・ソロ、スワニルダとフランツの「心ここにあらずパ・ド・ドゥ」(フレデリとヴィヴェット、ヨハンとベラと同系)など、クラシカルな見せ場に加え、スワニルダと友人たちの鳥動き、衛兵たちの脚伸ばし前傾歩行、低重心チャルダッシュ、フランツとコッペリウスの鳩首動きなど、プティの音楽的で破天荒なムーヴメントが全編にちりばめられている(鳥動きの点で、マルコ・ゲッケの先輩)。 プティ版『こうもり』同様、客席に向かって芝居をする演技手法のため、観客の反応が通常作品以上に 舞台を成立させる鍵となる。今回 無観客で演じるダンサーにとっては大きな試練だが、連日4万人の視聴者に含まれる「バレエを初めて見る観客」にとっては、ドリーブの音楽を含め、最適の演目だったかもしれない。今回で4度目、4年ぶりの上演である。

主役4キャスト(コッペリウスはWキャスト)はいずれも個性を発揮、無観客の困難を乗り越えている。本来初日の小野絢子と渡邊峻郁は、最終日のみとなり、米沢唯と井澤駿が配信初日を務めた。米沢のスワニルダは動きの解像度が高く、明晰なパが特徴。フランス派の細かい脚技、軸のぶれない回転技で見る者を圧倒する。コケットリーはやや真っ直ぐめながら、常に相手とコミュニケーションをとる王道の演技で、座長の芝居を見せつけた。配信初日ゆえ、舞台で全力を尽くしても観客の反応がないことに 見る側も衝撃を受けたが、その虚ろな間合いを物ともせず、最後まで揺るぎのない舞台を作り上げた。

対する井澤はあまり小芝居をせず、ダイナミックな跳躍と美しい回転で、ノーブルな青年フランツを造形。米沢とも息の合ったパートナリングを見せる。やや古典色の強い組み合わせと言える。コッペリウスは抜擢の中島駿野。コッペリア人形とのデュエットがソロに見えたものの、初役とは思えない落ち着いた演技に驚かされた。燕尾服のラインが美しく、歴代に比べるとすっきりと癖のないニュートラルな造形だった。

2日目は木村優里と福岡雄大コンビ。初めて見る組み合わせだが、アスレティックな味わいが共通し、踊り合いの様相となった。初役の木村は、1幕ではまだムラがあったが思い切りよく芝居、2幕のボレロジーグで爆発する。プティが見たら喜ぶ 決然とした脚で、空間を切り裂いていく。最後のパ・ド・ドゥも笑顔で思い切りよく、サバッとした明るさの出た舞台だった。

対する福岡は、冒頭のタバコを吸う姿から すぐにはまり役と思わせる。通常よりも男らしいプティ版フランツにぴったり。踊りの切れはもちろん素晴らしく、やんちゃ系の味付けもこなれている。コッペリウス 山本隆之とのやり取りは地のように自然だった。久しぶりに帰団した山本は、並外れた虚構度の高さを誇る。パ・ド・ドゥの名手で、コッペリア人形が生きて見えるのは当然として、モノ扱いする時の酷薄さも得意とするところ。コミカルな動きから、踊りに至るまで、全て演技に含まれて、なおかつ音楽と一致している。町娘アンサンブルに囲まれる時の受けの力、そこから生じる色気は舞台人として貴重。終幕、崩れたコッペリアと佇む姿からは、悲哀と言う言葉では言い尽くせない人間存在の深みを感じさせた。なぜここにいるのか考え抜いている。

三日目の池田理沙子と奥村康祐は、1月の『ジェンツァーノの花祭り』pdd、2月の『眠り』ブルーバードpdd、3月の平山素子『Butterfly』デュオと、スタイルの異なる作品を踊りこなしてきた。2回目となる本作でも、長年培った自然な呼吸が際立っている。池田は確かな技術に加え、前回よりも踊りが美しく明快になった。スワニルダは適役だが、今回はやや表情が硬く、持ち前の 役に入り込む美質が なぜか生かされていないように見える。本調子ではなかったのだろうか。対する奥村は伝統的なフランツタイプ。煙草は似合わなかったが、元気で溌溂とした人気者を明るく演じ切った。中島コッペリウスが順当に年上に見える。中島は客席への目の芝居が細かく、ノーブルな楷書の動き。プティ研究の成果だろう。

最終日は本来初日組の小野絢子と渡邊峻郁。昨秋の中村恩恵作品でも見せた相性の良さが、今作でも生かされた。渡邊のパートナーを受け止める力が、小野のプリマとしての資質を存分に開花させている。その気品、気怠いユーモア、間隙を縫うウィットの炸裂。振付家の限定なく、小野の振付解釈は優れているが、特にプティ振付への感度は異常に鋭い。片肩回し、アキンボでの腰振り、フレックス足からのつま先伸ばし。プティが意図したニュアンスを完璧に動きに乗せることができる。しかも自然に伸び伸びと演じている姿から、ベテランの落ち着いた境地を感じさせた。コッペリウスが若手時代の先輩パートナー、山本であることも一因だろう。二人のピンポイントの音楽性がぴたりとはまり、2幕の芝居に心地よい風が吹いた。

渡邊はフランス味の自然体。ノンシャランな感触も出せる。手の力みに少し目が行くが、ラインも美しく、伸びやかな跳躍で爽やかな空気を醸し出した。女性に正面から向き合う一種の包容力は、パートナーとしての貴重な資質と言える。山本コッペリウスはパ・ド・ドゥの喜び、踊りの巧さ、実存の重みがやはり際立つ。ただ小野相手のせいか、この回はどこか楽しんでいるようにも見えた。以前は思わなかったが、自分を語らない密やかさという点で、似た者同士なのかもしれない。

スワニルダの友人は、細田千晶、寺田亜沙子率いるベテラン・中堅組(柴山紗帆、渡辺与布、飯野萌子、広瀬碧)、益田裕子率いる中堅・若手組(朝枝尚子、中島春菜、原田舞子、廣川みくり、廣田奈々)が担当。前者はダイナミックな踊りと濃厚な演技、後者はおっとりした可愛らしさで、スワニルダをバックアップした。

衛兵は全員黒髪(プティ仕様)で帽子をかぶり、髭を生やしているため、配信画面からは判別しづらかったが、速水渉悟の鮮やかなトゥール・アン・レールと踊りの巧さは目立った。またアンサンブル最年長 貝川鐡夫の切れの良い軽みも。プティのニュアンスを余すところなく伝える福田圭吾は、冒頭の行進のみ確認、絶品のチャルダッシュは見逃してしまった(配役なし?)。衛兵、町娘共に、生き生きとしたアンサンブルに仕上がっている。

東京フィルハーモニー交響楽団率いる冨田実里の指揮は、懐が深かった。時折拍手を交えながら、観客のいないダンサーの心許なさを大きく受け止めている。ドリーブの輝かしい色彩も素晴らしく、東京フィルから厚みのある弦を引き出した(コンマスは三浦章宏)。最後はオケピットからの熱い拍手が、ダンサーたちを祝福。温かい気持ちで配信画面から離れることができた。

4月に見た公演・イベント 2021

代地 第七十一回「紫紅会」(4月17日午後 国立劇場 大劇場)

現当主である藤間蘭黄の祖母 藤間藤子の二十三回忌、母 蘭景の七回忌追善公演。詞章を不勉強のため、ダンスを見るように見て、浄瑠璃、唄も、音楽を聴くように聴いた。演目は、長唄「八島官女」、常磐「粟餅」、「倣三枡四季俳優」、義太夫「櫓のお七」、清元「女こよみ」、「阿吽秋晴狐狸競」、常磐「閏茲姿八景」、「積戀雪関扉」(下)舞踊家を生かす選曲で、特に「櫓のお七」を踊った蘭翔の華やかなスター性、「閏茲姿八景」を踊った勘次の、すっきりと大きな踊りが印象深い。

最終演目「積戀雪関扉」は、藤間流勘右衞門派家元 藤間勘右衞門(特別出演)と蘭黄が、それぞれ関守関兵衛と傾城墨染を演じた。歌舞伎で上演される際は、藤子、蘭景、蘭黄が、代々振り移しを行なってきたという。斧を持つ勘右衞門(四代目 尾上松緑が登場、重心低く動き始めると、一気にこちらの体がほぐれる。巧さ、器用さを目指すことなく、真っ直ぐに役を務める役者の日々が浮かび上がる。役柄とは別に、観客を浄める神事に近い動きだった。「仲蔵振り」と関係するのだろうか。対する蘭黄の墨染の出は妖しい。緊密な体が「舞踏」のような感触で日舞が先なので倒錯しているが)女形の意味まで考えさせる。安貞の片袖を見た瞬間の驚きは鋭く、小町桜の精への変容に肉体のリアリティがあった。三味線との呼応には、現代的な音楽性も。狂気に振れる時の蘭黄には独特の生々しさがあり、なぜか成瀬巳喜男浮雲』の森雅之が思い出された。

作品自体が面白かったのは「櫓のお七」。人形振りだが、人形の真似ではなく、文楽の技法を取り入れている。後見の黒衣が3人、2人は人形遣い、1人はシモテで足拍子を踏む。人形遣いがお七を振り上げ、横抱きにし、膝に乗せるアクロバティックな技術は、バレエのリフト並み。人形状態のお七との呼吸に見応えがある。古井戸秀夫によると、「人形振りは、三代目中村歌右衛門ら大坂の役者が江戸に持ち込んだ。大坂には、チンコ芝居といって、子供が浄瑠璃に合わせて身振りだけをする首振り芝居があった。歌右衛門もその出身で、成長して大立者になったのちにその演出を取り入れた。最初は立役だけのものだったが、歌右衛門門下の富十郎がやるようになってむしろ立役よりも激しく恋に燃える女心を表現するのにふさわしい演出だとわかって、以来女形のものとなった」(『新版 舞踊手帖』,  新書館,  2000年)。人間の振りを人形に移した人形浄瑠璃、そこに感情の凝縮が生まれ、それを再び人間に振り移す。しかも立役が踊っていたとは、どのような味わいだったのか。今回は女形ですらなく、女性のお七。蘭翔の無意識の体、顔が素晴らしかった。人形遣いは坂東五郎、向井信、澤村紀ノ介。

 

バレエチャンネル「踊れ、その身体がドラマになるまで ― 振付家・矢上恵子と弟子たちと」(4月24日 ブックハウスカフェ2F + 配信)

2019年に亡くなった矢上恵子の作品上映会とメモリアルトークが行われた。出席者は、K ★バレエスタジオ出身の山本隆之、福岡雄大、福田圭吾、福田紘也、ゲスト出演の多かった佐々木大(ビデオ出演)、客席から姉の矢上久留美、解説に舞踊評論家の桜井多佳子を迎え、司会をバレエチャンネル編集長 阿部さや子が務めた。矢上作品の上映は7作品、映像編集は福田(紘)による。

東京で上演された矢上作品を見て、スタイリッシュでハードな振付、鋭い音楽性、ドラマティックな感情表現に加え、出演ダンサーの共有する共同体的な不文律が強く印象に残った。一種伝統芸能のような呼吸の一致がある。その裏には、ダンサーたちが追い込まれ方を知っていて それを甘受する、振付家との愛の交換があるのではないか。通常のコンテンポラリー作品には感じられない 運命共同体のような熱さを、矢上作品は帯びていた。矢上と弟子たちとは どのような関係だったのか、振付家としての福田兄弟は どのような影響を受けたのか、興味が湧く。

山本はKスタ出身者の中では年齢も離れていて、矢上とは従弟の間柄。山本の気質もあるのか、共同体から外れた所にいる模様で、トーク中も後輩たちのお喋りを微笑みながら聞いていた。『ノートルダム・ド・パリ(11年)のフロロを踊った時には、出演時間を分刻みで契約したとのこと。だが、恵子先生がいなかったら、ダンサーになっていないし、新国立劇場バレエ団でドゥアトを踊った際は、矢上作品の経験が大きかったと語る。

福岡は血縁関係にはないが、矢上と最も強い絆で結ばれているようだ。最後に上映された『Toi Toi』(03年)で、矢上と福岡の師弟デュオを見ることができた。自ら育てた弟子とユニゾンを踊る矢上の嬉しそうな表情。当時はまだ矢上の方が踊りの切れがよく、福岡は力強く踊る印象。共にアスレティックな味わいがあり、福岡のスポーティな資質はこのように育まれたのだと分かる。福岡のために作られた『Bourbier』(08年)は、矢上久留美によると、「『カヴァレリア・ルスティカーナ』の間奏曲で作品を作って、と恵子に頼んだことがある、一番の傑作だと思う」とのこと。映像上映されたが、実演も見たことがあり、福岡にとって魂のような作品 と思った記憶がある。実母が嫉妬するほど一緒にいたとのことで、チューリヒ・バレエ在籍当時は、月に一回 矢上に電話報告していた。「背骨の歪みは心の歪み」との矢上の箴言、「生徒は教師の鏡」という指導者としての戒めも、心に刻まれている。

福田(圭)は矢上の甥にあたり、総領としての責任感が言葉の端々から感じられる。矢上振付の本質を見抜き、それに自らの全てを捧げるダンサーである。矢上のアシスタントに入った時には、アイコンタクトで指示を理解していたとのこと。矢上をストイックと語るが、自らも同じ。ダンサーとしては矢上の「ドラマ系」を実践し、振付家としては「斬新系」を引き継いでいるようだ。できない子を見捨てない矢上の愛情、いついかなる場でも全体を見る在り方も。

福田(紘)も甥だが、兄や福岡とは異なり、矢上の要求に「自分は無理です」と言ってしまったという。「こいつちょっとおかしい」と師匠は思ったと思うが、正直に言ってから本音が言えるようになった。矢上から音の作り方、作品の作り方を聞くようになる。今回の予告編や、上映作品の編集も担当。福田(紘)のクリティカルな作品作りが机上の空論にならず、地に足の着いたオリジナリティを持つのも、強烈な矢上作品が目の前にあるからだろう。

佐々木は誰かの代役で、初めて矢上作品を踊ったという。自分への指導も厳しかったが、Kスタダンサーの話を聞くと、言葉を選ばれていたのかなぁとも思う。あちこちのスタジオに呼ばれたとき、休憩中に恵子先生の振付を練習して、そのすごさをアピールした。恵子先生は最後のリハで仕上がり切れなくても、手直ししなかった。「本番で本気出したらできる」と言い、ダンサーと心中する覚悟だった。自分の作品を壊すかもしれないのに。佐々木が田中ルリと踊った『accordance』(99年)の映像を見て、改めて狂気と接するダンサーだと思った。巧拙を超えて、そこまで踊ってしまうという意味で。『accordance』は「斬新系」とのことだが、振付家 矢上の可能性が詰まっている。

3月に見た公演 2021

Kバレエカンパニー『白鳥の湖(3月25日 オーチャードホール

5日間7公演4キャストのうち、新加入した日髙世菜の日を選んだ。カンパニーは『マダム・バタフライ』終了以降、舞台の方向性が定まらなかったが、今回ようやく芸術監督 熊川哲也の息吹がもどり、団員たちの質の高いパフォーマンスも蘇った。ピンポイントの音取り、上体を大きく使う躍動感あふれる動き、クリーンな足元。熊川の復帰を喜ぶように、一人一人が自分を超える踊りを見せて、パワー漲るポジティブな舞台を作り上げている。白鳥たちの統一されたスタイル、抜きんでた音楽性が素晴らしい。エネルギッシュなキャラクターダンスもさらに磨きがかかり、久々にKバレエの醍醐味を感じることができた。

主役の日髙は、ワガノワ・バレエ・アカデミーからルーマニア国立バレエ団に入団、ヨハン・コボー芸術監督によりプリンシパルに任命、その後タルサ・バレエへ移籍し、19年にプリンシパルになる。20年に始まったコロナ禍で公演中止が相次ぎ、帰国。今年1月Kバレエカンパニーにプリンシパルとして入団した。団デビューとなるオデット=オディールは、主役経験豊富なベテランダンサーの踊りだった。舞台を作り上げる安定した力がある。白鳥、黒鳥をことさら演じ分けることなく、丹田を意識した芯の強い演技で貫かれる。舞台全体を低い視点から冷静に把握する姿勢が印象的だった。今後は徐々に自分の色を出していくと思われる。

対する王子の高橋裕哉は、線の細さが消え、より逞しい姿を見せた。ノーブルな佇まい、節度ある演技、ヴァリエーションの鮮やかさが揃い、香り高い王子を造形。日髙に常に寄り添う よきパートナーでもある。踊りの多い熊川版ロットバルトにはグレゴワール・ランシエ。ダイナミックなヴァリエーションもさることながら、自然なマイムに目を奪われた。悪を作り込まない控えめな演技が素晴らしい。主役3人の連携により、ゆったりと流れる成熟した舞台が立ち上がった。

パ・ド・トロワの高橋怜衣、吉田周平、毛利実沙子、ワルツの佐伯美帆、2羽の白鳥 成田紗弥、チャルダッシュの高橋(怜)、石橋奨也、さらにマズルカ、スペインの面々が高レベルの踊りで、また王妃の山田蘭、ベンノの関野海斗、家庭教師の伊坂文月が心得た演技で、井田勝大指揮、シアター オーケストラ トーキョーが阿吽の演奏で、舞台に大きく貢献した。全体に古典の香り漂う完成度の高い演出だが、1幕 儀典長は要らないような気がする。

 

スターダンサーズ・バレエ団「Diversity」(3月27日 東京芸術劇場 プレイハウス)

「多様性」と題されたトリプル・ビル。フォーサイスの『ステップテクスト』(85年  / SDB 97年)、チューダーの『火の柱』(42年 / 65年) 、バランシンの『ウェスタン・シンフォニー』(54年 / 91年)というプログラムである。当初は団初演となるロビンズの『コンサート』を予定していたが、コロナ禍で指導者の来日に見通しが立たず、バランシン作品に変更された。図らずも 2005 年3月公演と同じ組み合わせである。コンテンポラリーバレエの傑作、プロットあり、プロットなしの両モダンバレエの名品は、バレエ団の歴史と関わる重要な財産と言える。

演出・振付指導は、フォーサイス作品がアントニー・リッツィー、チューダー作品がアマンダ・マッケローとジョン・ガードナー、バランシン作品がベン・ヒューズ。リモート指導とのことだが、2年前にも上演された『ウェスタン・シンフォニー』の仕上がりが、当然ながら最もよかった。1楽章 塩谷綾菜の繊細で美しい踊り、2楽章 渡辺恭子の華やかさ、それぞれのパートナー 林田翔平、池田武志の男っぷり、3楽章 鈴木就子と関口啓の鮮やかな技巧、4楽章 秋山和沙のゴージャスな踊り、パートナーにはジョージア国立バレエ団の高野陽年がゲスト出演した。アンサンブルも手の内に入った溌溂とした踊りで、バランシン導入の歴史の長さを印象付けた。

『火の柱』も団初演から現在に至るまでの蓄積に裏打ちされる。作品はシェーンベルク浄夜』のデーメル原詩を下敷きとしつつも、キリスト教信仰に基づく共同体と個人の対立により 引き裂かれた精神を描く。腕を使わない硬直した身振り、突発的な回転やアラベスクといった切り詰められた振付が、主人公ヘイガーの強張った感情を表している。彼女を取り巻く共同体の人々は、壁紙のような平面的フォーメイションで動き、全てがヘイガーの妄想、意識内の出来事なのでは、という疑念を浮かび上がらせる。

ヘイガーの喜入依里は、力強い存在感、舞台の求心力が際立つダンサー。今回は初役でリモート指導ということもあり、相互的なドラマの微妙な感触や、神経症的な強張りよりも、チューダー振付を遂行する健康的な逞しさが優った。ドラマティック・ダンサーなので、直接指導の再演に期待したい。姉の榎本文、妹の西原友衣菜を始め、恋人たち、愛人たち、老嬢たちは、ドラマの枠組みを的確に作り上げて、バレエ団の歴史の厚みを感じさせた。友だちの池田、向いの男の林田には、さらなる役の彫り込みを望みたい。

『ステップテクスト』は5回目となるが、同じくリモート指導の難しさを感じさせた。17年夏にフォーサイスの『N. N. N. N.』を踊った石川聖人のみが、動きの切れと強度、音楽との同期を実現させている。紅一点の渡辺は、メロディを解釈して動くバレエ寄りのアプローチ。池田、林田も動きに意味が発生し、動きのみで人間の実存を浮かび上がらせるには至らず(終幕の手話対話)。もし所属の鈴木稔、遠藤康行のコンテンポラリー作品を踊った経験があれば、足掛かりになったかもしれない。バレエ団のもう一つの歴史、日本人振付家への新作委嘱の継続も期待したい。

 

新国立劇場ダンス「舞姫と牧神たちの午後」(3月26, 28日 新国立劇場小劇場)

6作品全て 男女のデュオで構成される。新国立劇場のレパートリー2作以外は、女性舞姫が作品か、パートナー(牧神)を選ぶ方式とのこと。プログラムは以下の通り。

 

1 貝川鐡夫 振付『Danae』(音楽:J. S. バッハ、編曲:笠松泰洋

   出演:木村優里、渡邊峻郁

2 島地保武 振付『かそけし』(音楽・演奏:藤元高輝 gt.)

   出演:酒井はな、森山未來

3 平山素子 演出構成、平山・中川賢 振付『Butterfly』(音楽:マイケル・ナイマン、落合敏行)

   出演:池田理沙子、奥村康祐/五月女遥、渡邊拓朗

         (休憩)

4 加賀谷香 演出構成、加賀谷・吉﨑裕哉 振付『極地の空』(音楽・演奏:坂出雅海

   出演:加賀谷香、吉﨑裕哉

山田うん・川合ロン 振付『Let's Do It』(音楽:ルイ・アームストロングコール・ポーター

   出演:山田うん、川合ロン

6 クリスタル・パイト 振付・テクスト『A Picture of You Falling』より(音楽:オーウェン・ベルトン、作品指導:ピーター・チュー)

   出演:湯浅永麻、小㞍健太

 

再演3作、新作3作、男性振付家2作、女性振付家4作(内3作は男性との共同振付)新国立劇場バレエ団所属振付家から、海外振付家までを含む バラエティに富んだプログラムである。ただし実際に見た感触としては、プログラム順がアンバランスに思われる。貝川、島地の冒頭が大きく、後は尻すぼみの感じ。最終演目が海外既存作品の抜粋であるのも疑問が残る。

貝川と島地は共に音楽性に優れ、ムーヴメントが物語性(意味)に侵されていない点で、他の4人とは異なる(たまたま男性と女性に分かれたが、ジェンダーによる偏向はないと思う)。貝川はメロディ、島地は音形に反応、ムーヴメントに関しても無意識、意識的と対照的ながら、自分の体と動きが乖離していないところは共通する。共に変な動きが頻出するが、貝川は音楽から必然的に出てくるので躊躇なく、島地は動き自体の味わいを追求した結果である。貝川の振付はレパートリー化可能だが、ダンサーによる解釈の余地が大きく、島地振付は即興性重視のため、共に空間が広々としている。それで冒頭の感想になったのだろう。貝川の幕開けはよいとして、最終演目は、新作で実験性が高く、優れた技量の生演奏、酒井はな、森山未來 出演の島地作品が妥当ではないか。貝川→加賀谷→平山(休憩)山田→パイト→島地、とすると、前半がバレエ・モダン系、後半がコンテンポラリー系となり、納まりがよい。

島地新作『かそけし』は、ギター 藤元高輝の質の高い音楽と演奏が軸となっている。音楽の形を体に入れ、ニジンスキー『牧神の午後』の引用、フォーサイス崩し、バロックダンス、発話、ギタリスト即興演奏(パーカッション仕様、含発話)を緻密に構成する。ただし細かすぎて追い切れない部分あり。期待を裏切る、状況を覆す島地の性向は、果てのない空間の追求を生み出し、何かが生成された感触のみを後に残す。言わば 風のような爽快感が持ち味と言える。

酒井と森山は正面切って組むことなく、ユニゾンに終始する。濃厚でポジティブな酒井に対し、森山は控えめで影のような存在。2月の笠井叡作品にも通じるが、「かそけし」を実践したのかもしれない。コミックリリーフのような酒井の「ドンガラガッシャン」も、酒井の一面がよく出ている。ただ二人ならではのポジ=ネガ・デュオを見せてもよかったか。島地自身は情熱的なパートナーである。空間が瞬時に切られて断片化する清々しさと、男女デュオは、矛盾なく成立するのではないか。物語が体に入った振付家・ダンサーなのに、なぜ物語の発芽、感情の発露を忌避するのか、島地の可能性はまだ全開とは言えない。

第 186 回吹田市民劇場『白鳥の湖』2021

標記公演を見た(3月21日 吹田市文化会館メイシアター 大ホール)。吹田市制施行 80 周年、メイシアター開館 35 周年を記念する節目の公演である。監修に前新国立劇場舞踊芸術監督の大原永子を迎え、芸術監督・演出・改訂振付を、新国立劇場バレエ団オノラブルダンサーの山本隆之、バレエミストレスを同団元ソリストの真忠久美子、同じく元ファースト・アーティストの仙頭由貴、山本の出身団体 K☆BALLET STUDIO の石川真理子が担当した。

関西のバレエダンサー 73 人が結集、アンサンブルはオーディションで選ばれ、5ヵ月に及ぶリハーサルを重ねたという。主役のオデットには新国立劇場バレエ団プリンシパルの米沢唯、ジークフリード王子には同じくプリンシパルの井澤駿を招聘、さらに吉本興業所属 松浦景子の出演も話題となった。

長年、新国立劇場バレエ団で王子役を務めてきた山本は、特にジークフリード、アルブレヒトで、王子の造形を熟成させた。演出は自ら踊ったセルゲーエフ版に準拠するが、1幕パ・ド・トロワの直前に踊られるジークフリード憂鬱のソロを、トロワのアダージョ直後に置いて、メランコリーの深さを強調した。また結婚相手を決める3幕舞踏会に王子を遅刻させ、結婚への忌避感を露わにさせている。

最も特徴的だったのはオディールの扱い。チラシやプログラムには、オデット 米沢唯と記載されていたため、3幕黒鳥を踊らないものと考えていた。2幕ではオディール役の伊東葉奈が父ロットバルトと共に登場。白鳥たちの踊りに混じって、パ・ド・シス曲の黒鳥ソロを踊る。だが3幕になると、米沢がオディールとなって登場し、客席を驚愕させた。伊東オディールが米沢オデットに化けて王子をだます設定である。山本が王子時代に感じた疑問を解消する秘策で、説得力があった。伊東オディールはオデットが窓外に現れる場面、最後の王子嘲笑場面には元の姿に戻り、自分たちの企みを明らかにする。4幕でも父と共に登場。オデットと王子が自らの体で十字を作り、愛の誓いを謳いあげると、悪魔父娘は苦しみ、最期を迎える。『ジゼル』を思わせるダイナミックな場面で、終盤のクライマックスを形成した。米沢の配役記載徹底は大胆。王子のみならず観客も騙された。幕ごとに休憩があり、かつてのたっぷりとした『白鳥』の空間を思い出させる。

主役の米沢は、磨き抜かれた体に、クリスタルガラスのような多面体のきらめきを見せる。2幕グラン・アダージョの呼吸の深さ、緩急のメリハリが素晴らしく、動きのみで時間の永遠化を実現させた。米沢と共に観客の体が同期する 高密度の動きである。一方黒鳥の演技は、オディールがオデットに化けたことを仄めかす多重性を帯びていた。通常版でもその意識はあるだろうが、あくまで似ているというレベル。これほど緻密で微妙な演技は米沢にしかできない。辺りを睥睨するなど、ちょっとした演技のアクセントも洗練の極みにある。様々な団体から集まったダンサーを一つにまとめる求心力、さらに、いかなる場においても これまでの蓄積に頼らず、進化し続ける米沢の胆力に驚かされた。

対する井澤は、悠揚迫らぬ王子。ノーブルな雰囲気に加え、安定した美しい回転、大きな跳躍で、山本直伝の憂鬱のヴァリエーション、喜びのヴァリエーションを踊り分けた。もう少し自分を出してもよいと思われるが、よきパートナーとして米沢を献身的に支えている。

オディールの伊東は高い技術に濃厚な演技で、悪魔の娘を華やかに演じた。米沢に負けない回転技に迫力がある。ロットバルトの宮原由紀夫は、色悪系のノーブルタイプ、王妃の田中ルリは風格ある佇まい、道化の林高弘は、王子に寄り添う献身的な優しさが際立っていた。アンドレイ・クードリャの心得た家庭教師も忘れ難い。

パ・ド・トロワの石本晴子、北沙彩、水城卓哉が、関西ダンサーの実力を遺憾なく発揮した。女性陣のアラベスク後脚の高さ、躍動感あふれる踊り、水城の切れの良いノーブルスタイル、両回転トゥール・アン・レールと5番着地の鮮やかさ。客席を一気に熱くさせる。石本は2幕の大きい白鳥、北は4幕の大きい白鳥でも、伸びやかで美しい踊りを見せている。同じく4幕大きい白鳥の𠮷田千智は、1幕では王妃のお付き、3幕では豪奢なハンガリーの踊りと活躍。道化の林とシンメトリーの踊りを見せた松浦は、人を喜ばせる道化の精神も共有して、活気に満ちた踊りを披露した。

1幕ワルツ・アンサンブルは品格あるスタイルで統一、若手の多い白鳥アンサンブルは呼吸を合わせて踊り、5ヵ月の稽古の跡を見せている。貴重な経験だったのではないか。3幕キャラクターダンスは濃厚だった。ベテランダンサーからジュニアを含む全員が、確信に満ちた踊りで自らをアピールする。見巧者が多く 技術に厳しい客席が、高レベルのダンサーを作り上げるのだと改めて思わされた。 

牧阿佐美バレヱ団「プリンシパル・ガラ」2021

標記公演を見た(3月14日 文京シビックホール 大ホール)。演目は、『パキータ』第3幕より(振付:マリウス・プティパ、『フォー・ボーイズ・ヴァリエーション』(振付:牧阿佐美)、『ル・コンバ』(振付:ウィリアム・ダラー)、『ライモンダ』第3幕(振付:テリー・ウェストモーランド、マリウス・プティパによる、改訂演出振付:三谷恭三)の4作。ブルノンヴィル・スタイルでの創作、古典バレエと民族舞踊の融合2作、モダンバレエの名品、とバレエスタイルの変遷に目配りした 充実のプログラムである。

第1部幕開けの『パキータ』は、全幕の第3幕舞踏会よりグラン・パを独立させたもの。古典バレエとスペイン舞踊が融合する華やかな作品である。今回はバレエ団の持つダニロワ版ではなく、ブルラーカ版ボリショイ・バレエ、ワガノワ・バレエ・アカデミー現行版)に準拠した。振付指導の西川貴子によると、男性ヴァリエーション終盤のマズルカが復元されているとのこと(ドリゴ曲)。子供のポロネーズマズルカも予定されたが、コロナ禍のため今回は見送られた。

主役のパキータは光永百花(初日は阿部裕恵)、リュシアンには石山陸(初日は水井駿介)光永は華やかな踊りに、パトスの強い演技を持ち味とする。アダージョではまだ古典の様式性と折り合いがつかなかったが、ヴァリエーションでは主役の貫禄を垣間見せた。対する石山は長身のノーブルタイプで、若々しいマズルカを披露した。三宅里奈、今村のぞみ、茂田絵美子のソリスト陣は、難度の高いヴァリエーション、アンサンブルはスペイン風アクセントに加え、ロシア派スタイルに果敢に挑戦している。

続く牧振付の『フォー・ボーイズ・ヴァリエーション』は、男子生徒のために作られた教育的な作品。今回はバレヱ団の主役級用に書き換えらえたという。音楽はブルノンヴィルの『ナポリ』を使用。男性4人が『パ・ド・カトル』風にポーズをとる場面から始まる。それぞれがヴァリエーションを踊り、最後は再び4人のポーズで幕となる。振付はプリパレーションのないパの連続が特徴。トゥール・アン・レール両回転、ロン・ド・ジャンブ・アン・レール・ソテ、前方へのグラン・ジュテなど、牧のブルノンヴィル・スタイルへの思いが滲み出る。順番に細野生、清瀧千晴、濱田雄冴、水井駿介が牧の熱い思いに応えたが、中でも水井が、滑らか かつ自在な踊りで高度な振付をまとめている。清瀧のダイナミズムと振付は、ややそぐわない印象。

第1部最後のダラー振付『ル・コンバ』は、モダンバレエの名作。ローラン・プティのバレエ・ド・パリでパ・ド・ドゥのみを初演(1949)、その後3人の騎士を加えた現行版が NYCB で初演された(1950)。バレヱ団初演は 1977 年。ダラーとの2ヵ月におよぶ交流を綴った牧自身の文章、当時の写真がプログラムに掲載されている。牧が影響を受けたバランシン、そのバランシン作品を初演し、共作もしたダラーとの繋がりに、日本におけるモダンバレエ受容の一端を見ることができる。今回 完全版に初めて接し、ダラーの才能を改めて確認した。

金と銀の巨大な樹木が絡み合う背景が作品を象徴。ラファエロ・デ・バンフィールドの、変拍子に彩られたモダニズム音楽も素晴らしい。生演奏の力は大きく、サラセンの娘(実はエチオピアの姫)クロリンダと、十字軍の騎士タンクレッドの衝撃の出会いから、互いを分からぬままでの死闘、瀕死のクロリンダとタンクレッドの愛のパ・ド・ドゥ、そしてクロリンダの死までを、ドラマティックに牽引する。

片手で馬の手綱を引き、ギャロップで馬脚を表す振付、ナイフを刺すリアルな死闘、硬直し痙攣する死の場面が印象的。男装クロリンダの可憐な凛々しさ、兜を取ってはらりと落ちる長い髪、タンクレッドおよび騎士たちの逞しさが、古風な様式美とモダンなエレガンスを帯びて、一幅の絵画を形成する。

クロリンダの日髙有梨(初日は佐藤かんな)は、持ち前の伸びやかなラインに繊細な踊り、さらに役を生きる肌理細やかな演技で、作品にリアリティを加えている。死闘による疲労、断末魔の痙攣に息をのんだ。タンクレッドの近藤悠歩(初日は石田亮一)との相性もよく、情熱的で気品のあるドラマを立ち上げた。抜擢の近藤は、長身の凛々しい騎士。脚遣いに迫力があり、愛のパ・ド・ドゥの力強さ、終幕の嘆きに、ドラマティックな素質が見えた。ラグワスレン・オトゴンニャム、米倉大陽、小池京介の長身騎士団を、悠揚迫らぬ態度で率いている。

第2部は『ライモンダ』第3幕。ライモンダの中川郁(初日は青山季可は、舞台に薫風をもたらす清澄なオーラを取り戻している。通常 プリマの貫禄で見せがちなヴァリエーションも、精神を整え、周囲に光を分け与える本来の踊り方。雑音の多い現代では得難い個性である。対するジャン・ド・ブリエンヌは元吉優哉(初日は清瀧)。十字軍騎士の凛々しさよりも、ロマンティックな味わいが前面に出る。忠実で優しいパートナーとして中川を支えた。地のままで役に入ることのできる稀有なダンサー。コロナ禍でカジモド役が流れたのは残念だった。グラン・パ・クラシックの様式性、ヴァリエーション 上中穂香の切れ味、チャルダッシュの統一感も素晴らしかった。

東京オーケストラ MIRAI を率いる冨田実里は、現代曲から古典までを指揮した新国立劇場バレエ団「ニューイヤー・バレエ」に引き続き、懐の深さを見せる(この間にも、NBA バレエ団『シンデレラ』、新国立『眠れる森の美女』、井上バレエ団『古典交響曲』、ワーグナー「愛の死」を振る)。ミンクス他、ヘルステッド=パウリ、デ・バンフィールド、グラズノフ、そのいずれもが味わい深く、音楽的喜びにあふれていた。

 

日本バレエ協会『眠れる森の美女』2021

標記公演を見た(3月6日 東京文化会館 大ホール)。今年の都民芸術フェスティバル参加公演は、『眠れる森の美女』を コンテンポラリーダンスクラシックバレエで踊るダブルビル。コロナ禍の制約「密にならない」を逆手にとった 斬新な企画である。コンテンポラリー版『眠り』は、振付・構成・演出:遠藤康行、美術:長谷川匠、音楽監修:平本正宏、衣裳:朝長靖子、バレエ・ミストレス:梶田留以、アシスタント:原田舞子。クラシック版(第3幕)は、振付・構成・演出:篠原聖一、振付補佐:下村由理恵、バレエ・ミストレス:佐藤真左美による。

 

● 遠藤版『眠り』は表題が『Little Briar Rose』。「小さないばら姫」の名の通り、可愛らしく少しお転婆なオーロラ姫である。マッツ・エック版のエコーも遠くに聞こえるが、遠藤の 群舞を生き生きと動かす度量が際立つ、オリジナリティ豊かなコンテ版だった。音楽は、原曲、メロディアスなピアノ曲メトロノームの乾いた音、弦を擦る音で構成される。三角と四角を組み合わせたモビール状の吊りもの、いばらの棘をイメージしたスタイリッシュな吊りものは、それぞれ素朴で幾何学的な面白さ、硬質な現代性を空間を付与した。

幕開けは三角・四角を上方に、1幕ワルツで全員が踊る。黒スカートのカラボス、リラの精、妖精たち、そして銀のビスチェに金のブルマを履いたお下げのオーロラ姫、銀色スーツの王子が見える。カラボスは一人重心が低く、柔術風に動く。オーロラのお転婆ソロの後、原曲を使った妖精たちのグラン・パ。さらに奥から王子が歩み来て、オーロラと見つめ合う。ローズアダージョでのパ・ド・ドゥは、ストリート系の動きを使うやんちゃなデュオ。這いつくばって見つめ合う二人、王子に抱きつくオーロラ、王子の肩を触って膝カックンするオーロラ、王子前転、オーロラ側転、背中でのサポート、背面リフト、肩乗せ回し、出前リフトが、次々に繰り出される。ハードで可愛らしい出会いのパ・ド・ドゥだった。

いばらの森が下りてきて、カラボスと仮面の手下たちが現れる。刺股で妖精たちを生け捕るカラボスたち。王子は勇敢に戦うが、捕らえられて...いばらの森が上がると、代わりに三角・四角が床まで下りてくる。その木枠に、ベージュの布をかぶったアンサンブルが一人ずつ入り、メトロノームと弦に合わせて絶妙な間合いで踊る。チューニングの音で場面転換。木枠で作った門の奥からオーロラと王子が現れ、2幕幻影の曲で愛のパ・ド・ドゥを踊る。ユニゾンや、手を弓なりにゆっくりと合わせて愛を確認する。リラの精がオーロラの目を覆い、眠りにつかせると、王子がオーロラに口づけをして幕となる。

意味のよく分からない場面があろうとも、ぐいぐいと場を進める遠藤の向日性のパワー、人間存在を寿ぐ胆力が作品に充満し、観客は肯定的な力を与えられる。遠藤の動きを作り込むことへの興奮、新手を生み出す瑞々しい好奇心が、ダンサーたちに その場に加担する前のめりの踊りを促す。結果、ソリストからアンサンブルまで自分を超える新鮮な動きを見せて、作品のスケールが増すことになる。

オーロラ姫には、2週間前にイーグリング版のオーロラを踊った木村優里。はまり役である。可愛らしい外見に、体の強さ、気の強さ、脚の強さが加わり、好奇心旺盛な お転婆オーロラが立ち上がる。ブルマー(男装?)ゆえ、木村の最大の武器 ― 脚力、脚線が有効に生かされた。裸足の脚が何とも艶めかしく、まるで生き物のように鮮烈に動く。王子と互角の男前の動きは、ミストレスの梶田を想起。梶田の体が移されているのだろうか。

対する王子の渡邊峻郁は、デジレタイプの優男。銀色スーツがロックシンガーのような色気を醸し出す。鮮やかな跳躍、相手を注視する優れたパートナリングは、先頃踊った古典版と同じ。遠藤が繰り出す多彩な動き、難度の高いサポートも滑らかにこなし、瑞々しい恋する王子を描き出した。姫に振り回されるのを厭わない点も二枚目。

カラボスの高岸直樹は、究極のはまり役。黒スカートの長身が奥から現れるだけで、禍々しい芯となる。武術風の重心は、どうやって手に入れたのか。女性たちをちぎっては投げ、ちぎっては投げるリフトの連続が面白く、高岸のもつユーモアが滲み出る。舞台を裏からまとめる大らかさが、作品のスケールアップに貢献した。

リラの精の金田あゆ子を中心に、梶田、木ノ内乃々、柴山紗帆、石山沙央理、原田舞子が妖精を担当。6人の女性アンサンブル、5人の男性アンサンブルと共に、遠藤の覇気あふれるコンテ・スタイル、濃密な脳内イメージを十全に可視化させた。

 

● プティパ版による篠原版の表題は『オーロラ姫の結婚』。原典版第3幕を再構成し、一幕物とした。行進曲の直後にサラバンドを置いたのが最大の特徴。王(小林貫太)と王妃(テーラー麻衣)、お付きの女性8人がバロック・ダンスを踊る。優雅な上体に素早い足技で、宮廷舞踊の妙技を披露した。ポロネーズの後、リラの精のヴァリエーション、金、銀、サファイヤ(男性)、ダイヤモンドの踊り、猫、フロリナ王女と青い鳥、赤頭巾と狼、オーロラ姫とデジレ王子のパ・ド・ドゥ、マズルカ、アポテオーズとなる。全体に繊細な古典スタイルが浸透、ソリストからアンサンブルまで丁寧な踊りを心掛けている。

オーロラ姫 初日は、酒井はな、二日目は寺田亜沙子、デジレ王子は橋本直樹、浅田良和、リラの精は平尾麻実、大木満里奈という配役。その初日を見た。

酒井は新国立劇場開場記念の『眠り』で主役を務め、以降、新国立でも日本バレエ協会でもオーロラを踊ってきた。磨き抜かれた身体による 肌理細かい踊りを持ち味とするが、今回も実践されている。古典の様式性を前面に出すのではなく、パートナーとのコミュニケーション、感情の発露に重きを置いたのは、全幕を踏まえた解釈ということだろうか。酒井の愛らしい個性が際立つオーロラだった。対するデジレの橋本は、ボリショイ仕込みのノーブルスタイルで王子の王道を示す。酒井へのサポートも万全、信頼できるパートナーだった。

リラの平尾は全幕でも経験済み、柔らかい佇まいで、舞台を善のオーラで包み込んだ。フロリナ王女の清水あゆみ、青い鳥の荒井英之は細部まで行き届いた踊り、白い猫 岩根日向子の色っぽい美脚、猫 田村幸弘の力強さ、金の精 大山裕子、銀の精 吉田まいの様式性が印象深い。リラを奥に配置したアポテオーズは荘厳、コンテ版の破格に対し、古典版の重厚さを対置させた。

米沢唯 ✕ 島地保武 @「音楽×空間×ダンス」GP 2021

標記公演ゲネプロを見た(2月27日 音のふりそそぐ武蔵ホール)。会場は、西武池袋線武蔵藤沢駅にある八角形の音楽ホール。ゲネのため2階から見た(聴いた)が、井戸をのぞき込むような態勢で、音がふりそそぐ、というよりも、地面から湧き上がる印象だった。ダンスも造形ではなく、気配や気の漲りが前面に出る。プログラムが分からないまま(メモ取りもせず)、音と踊りのうねりに身を任せる稀有な経験をした。後日入手したプログラムは以下の通り。

〈第一部〉

●木ノ脇道元「UKIFUNE」(フルート:木ノ脇、ピアノ:松木詩奈)

笠松泰洋「The garden in the South, or solitude」(ダンス:島地保武、ピアノ:松木

●J・S・バッハ 無伴奏フルートパルティータより "Corrente"(ダンス:米沢唯、フルート:木ノ脇、振付:島地)

ドビュッシー 前奏曲集第1巻より「デルフィの舞姫達」「アナカプリの丘」「亜麻色の髪の乙女」(ピアノ:松木

●即興演奏×ダンス(ダンス:米沢、ピアノ:笠松

〈第2部〉

●木ノ脇道元「月は有明のひんがしのやまぎわに細くていずるほどいとあはれなり」(ダンス:島地、フルート:鎌倉有里、畢暁樺、棚木彩水、アルト・フルート:中村淳、バス・フルート:木ノ脇、ピアノ:松木

シューベルト 3つのピアノ曲D946より第二曲(ピアノ:松木

●即興演奏×ダンス(ダンス:米沢、島地、フルートなど:木ノ脇、ピアノなど:松木、ピアノ/オーボエなど:笠松松木の持つ小さい箱、抑える or 弾くとチェレスタのような音がする

 

バッハ、シューベルトドビュッシー、さらに木ノ脇、笠松と、楽譜はあるが即興と地続き。木ノ脇、笠松の曲は、その場で音を生み出す生成感が強く、西洋古典曲には奏者(木ノ脇、松木)の即興性が乗り移ったようだ。音楽とダンスがぶつかり合い、挑発し合うクリエーションの熱気が、終始 空間を満たす。

米沢は3曲、島地も3曲 踊った。唯一振付があるのは、島地がバッハに振り付け、米沢が踊ったCorrente。バレエをベースにしたフォーサイス崩しだが、島地の原始的な可愛らしさが加わる。米沢の粘りのある四肢、特徴的な指使いが、ハードな振付に柔らかさを与えた。動くたびに不思議そうな表情をするのは、島地の指示か。木ノ脇と体でコミュニケーションをとる余地もあった。島地のバッハ解釈というよりも、バッハと正面から対決する振付だった。

即興では、二人は対照的だった。米沢はメロディーに反応し、そこから動きを生み出すが、島地は音を体に入れ、音の形に反応する。米沢は周囲とコミュニケーションを取ろうとするが、島地はそれを覆そうとする。米沢のクネクネとした半意識の回転を、島地は「おっ」と言いながらサポート。米沢に操られ、操り返し、空間に切れ目を入れていく。フルートとの声の対決も。米沢の空間を動かす気の力、島地の原始的素っ頓狂な佇まいに、奏者たちの音も全開になった。中盤、米沢が舞踏風に蠢き、無意識になる瞬間があった。米沢の新たな可能性を見た気がする。

誰もが自分に素直でいられる、生まれたままでいられる空間。主催者 笠松人間性が大きく作用しているのだろう。ゲネ直前に最後の即興リハが行われ、ゲネでは繰り返さないことになった。だが、木ノ脇作品の島地に触発された笠松は、「最後の即興もやろうか」と言い出す。米沢が「島地さんが踊りすぎになるのでは」と懸念を示したところ、笠松「島地さん、いい?」、島地「いいです」となり、行うことになった。その前に松木シューベルトがあったが、すっ飛ばしそうになった笠松に、松木は「弾きたいです」と言って、熱狂的なシューベルトを弾く。松木はその後の即興でも、熱い演奏を聴かせた。笠松「本番に取っておこうと思ったんだけど、ついやってしまった」。本番では また別の熱い空間が生まれたのだろう。