NBAバレエ団『ラ・フィユ・マル・ガルデ』2022

標記公演を見た(7月9日昼夜 新国立劇場 中劇場)。併演はティペット振付『ブルッフ ヴァイオリン協奏曲第1番』。ニジンスカ版『ラ・フィユ・マル・ガルデ』は、2010年バレエ団に導入された。舞踊史家で顧問だった故薄井憲二氏の監修による。翌年再演、今回は11年振り3度目の上演である。演出・再振付は初演時と同じ、元 ABT 、デンマーク王立バレエ団プリンシパルで、バレエウエスト、ボストンバレエ団芸術監督を歴任したブルース・マークス、振付アシスタントは、フィラデルフィアバレエ団副芸術監督のサマンサ・アン・デンスターが担当。今年85歳のマークスはデンスター共々、にこやかな笑顔でカーテンコールに応えていた。

ニジンスカ版は1940年、バレエ・シアター(後のABT)の開幕シーズンに初演された。リリアン・ムーアによれば、ボリショイ系のモルドキン版(37年)を踊ったルシア・チェイス、ディミトリ・ロマノフ、振付のニジンスカが、共同でスコアを検討し、パントマイム部分を再考したという(Ivor Guest, La Fille mal gardée, Dance Books, 2010 / The Dancing Times, 1960/ p. 80)。サンクト・ペテルブルク版(音楽:ヘルテル)を多少覚えていたニジンスカは、後から挿入された音楽を削除し、ダンスを再振付した。その後本作はタイトルを変えながらレパートリーに残る。1953年にはロンドンのロイヤルオペラハウスでも上演された(アシュトン版は1960年初演)。

マークスの再振付が加わった現行版は、コミカルで細やかなマイム(含結婚マイム)にバットリー、アン・ドゥダン回転を多用する、19世紀の香り高いヴァージョンだった(ドーベルヴァル初演は18世紀)。マークスはデンマーク人の妻トニ・ランダーと共に、デンマーク王立バレエ団に一時期所属している。ブルノンヴィル・スタイルの習得が、演出・再振付に磨きを掛けたとしても不思議ではない。足技の清潔な切れ味、マイムの真実味にその効果が際立っていた。

1幕2場リーズとコーラスのPDDアダージョでは、『ジェンツァーノの花束』風顔そらしを見ることができる。コーラス Va も繊細な仕上がり。2幕終盤、リーズとコーラスのシモーヌに向けた懇願アダージョも素晴らしかった。シモーヌはコーラスがマイムで結婚の許しを求めると拒絶、膝に抱きついて懇願した途端、二人を許す。シモーヌはアランにも腰に抱きつかれたり、嵐の場でスカートに入られそうになるなど、母性的な女らしさが強調される。一方、箒をぶん投げたり、トーマスを殴ったりと、トラヴェスティならではの荒々しいふるまいも忘れなかった。

主役のリーズはWキャスト。初日マチネと二日目は勅使河原綾乃、初日ソワレは野久保奈央、コーラスはそれぞれ二山治雄、新井悠汰、アランは孝多佑月、シモーヌはそれぞれ古道貴大、刑部星矢、トーマスは三船元維である。マチネ組はすっきり爽やか、ソワレ組は情熱的で破天荒、それぞれ個性を生かした組み合わせだった。

勅使河原は適役。芝居も自然で、風が吹き抜けるような爽やかさがある。足技、回転技は美しく楽々、特にアン・ドゥダン回転の巻き付けが鮮やかだった。対するコーラスの二山は、意外にも男らしい演技。踊りは神がかっている。バットリーの正確な美しさ、回転技の完璧なコントロール、マネージュの疾走感が素晴らしい。テクニシャンの二人ながらこれ見よがしなく、役の踊りに徹っする清潔感があった。二人の仲を割るつもりのないアランは、献身的な孝多が務めた(マチネは髙橋真之の代役)。人の好さが演技の端々からにじみ出る。満面の笑顔に引き込まれた。虫取り網、鍵のソロとも役になり切っている。シモーヌの古道はすっきりと美人風の造り。1幕トーマスとのパ・ド・ドゥでは楚々とした女らしさを披露した。トーマスの三船ははまり役。無表情、大きさ、重さがトーマスそのものだった。

ソワレのリーズ、野久保はオールラウンダー。普段の笑顔からコメディ向きを思われがちだが、パトスの深さは終盤の懇願アダージョで証明されている。コボー版『シンデレラ』においても感情は全方向に開かれていた。その場でのコミュニケーションを大事にし、周囲と観客を巻き込んでいく。すでにプリマの風格。踊りは限りなく柔らかく自在。4、5回ピルエットしてからのグラン・フェッテは4回転もあったが、技術を見せるのではなく、観客への捧げものになっている(アナニアシヴィリのように)。コーラスの膝を足でつついたり、膝に抱きつくコーラスの頭を叩いたり、ユーモア表現もピンポイントだった。対するコーラスの新井は真っすぐで献身的。舞台に全てを捧げている。マネージュの伸びやかさ、端正な踊りが、涼やかな風を舞台にもたらした。

シモーヌの刑部は華やかで破天荒。野久保リーズとエネルギーの点で見合っている。この母にしてこの娘あり。愛情深さは持ち味だろうか。箒投げ、トーマス殴り、タンバリン叩きの激しさ。トーマスとのパ・ド・ドゥ最後で、がっぷり四つに腕を組み、互いにリフトしつつマネージュする場面では笑ってしまった。三船とも息が合っている。

同版オリジナルのゴシップガール、公証人、公証人アシスタントの芝居も行き届いた仕上がり。リーズ友人たちの繊細で香り高い踊り、安西健塁率いるコーラス友人たちのダイナミックな踊りが、バレエ団の地力を明らかにした。

併演の『ブルッフ ヴァイオリン協奏曲第1番』は、4組のカップルを中心とした闊達なシンフォニックバレエ。抒情的なアクア(㋮猪嶋沙織=伊藤龍平、㋞須谷まきこ=大森康正)、ダイナミックなレッド(浅井杏里=刑部星矢、浅井=本岡直也)、格調高いブルー(竹内碧=宮内浩之、福田真帆=三船元維)、華やかな技術を誇るピンク(山田茉子=孝多、山田=柳島皇瑶)と、それぞれの個性を楽しむことができた。福田を始め、新人が実力発揮できる指導が行われている。

 

 

5, 6月に見たダンサー2022

水城卓哉 @ 貞松・浜田バレエ団「バレエ・リュスの世界」(5月22日 あましんアルカイックホール

プログラムは、フォーキン振付『レ・シルフィード』、ロビンズ振付『牧神の午後』、ゴレイゾフスキー原振付/貞松正一郎振付『ボロヴェッツ人の踊り』によるバレエ・リュス関連トリプル・ビル。水城卓哉はロビンズ版『牧神の午後』を踊った。牧神とニンフの森をバレエスタジオに置き換え、ダンサー二人が鏡(正面)を見ながら踊りを確認する様子が描かれる。半覚醒のエロティシズムはそのまま。組む時も常に正面を見るため、感情の交換は鏡を通して迂回し、そこはかとないドラマが生成する。バレエダンサーの謎に迫る神秘的な傑作である。

水城のための作品。濃厚な肉体美、ロマンティックな色気、パの清潔な美しさ、リフトの確かさが揃った瑞々しい現代の牧神である。現在この役にこれほど適したダンサーがいるだろうか。透明感あふれる上山榛名との呼吸もよく、指導のベン・ヒューズも満足そうだった。

水城を初めて見たのは、山本隆之版『白鳥の湖』(21年)のパ・ド・トロワ。切れの良いノーブルスタイル、両回転トゥール・アン・レールと5番着地の鮮やかさが印象的だった。今年3月には、スターダンサーズ・バレエ団「Dance Speaks」のソト作品『マラサングレ』に客演し、ダイナミックなコンテンポラリーダンスを披露している。周囲やパートナーとコミュニケーションできる、開かれた身体の持ち主である。

 

石橋奬也 @ Kバレエカンパニー『カルメン』(6月2日夜 オーチャードホール

2014年初演、熊川哲也版『カルメン』。ほぼオペラ台本通りながら、カルメンとホセの愛のパ・ド・ドゥには「間奏曲」が使われる。ローラン・プティへのオマージュと思われる。また一人の娼婦が登場人物を見守る演出は、熊川版の大きな特徴。道化のごとく舞台と観客を結びつける役割を果たしている。今回仕上がりにいつもの熊川スピリットを感じられなかったが、モラレスの吉田周平が全身全霊を傾けた踊りで場を盛り上げた。

石橋奬也のホセははまり役だった。真面目で終始衛兵であり続ける。カルメンへの激情、ミカエラへの兄のような愛情に、真っ直ぐな真実味がある。カルメンに翻弄されながらも男としての誇りを忘れない、ハードなホセだった。考え抜かれた演技に美しいシャープな踊りが素晴らしい。これ見よがしのない、大人の味わいがあった。

カルメンはカンパニーを代表するプリマ、日髙世菜。1月クラリモンドの圧倒的存在感が記憶に新しいが、カルメン造形はまだ日髙の腑に落ちていない模様。特に終幕は日髙ならではの解釈が作品に新たな局面をもたらす可能性がある。期待したい。ダンカイロを演じたグレゴワール・ランシエは、3月『R&J』のキャピュレット卿で強烈な印象を残した。スチュアート・キャシディの父権的無骨さもよかったが、ランシエのエレガンスと気品に満ちた貴族らしいキャピュレットには見惚れてしまった。舞踏会でティボルトとロミオの争いを収める鮮やかさ。フランス派マイムの粋を見た。

 

本島美和新国立劇場バレエ団『不思議の国のアリス』(6月3, 4日昼夜 新国立劇場オペラパレス)

クリストファー・ウイールドン振付『不思議の国のアリス』は、11年に英国ロイヤル・バレエで初演、18年に新国立劇場バレエ団に導入された。本来は20年6月に上演予定だったが、コロナ禍で中止となり、4年ぶりの再演である。バレエ団初演評はコチラ。公演日程前半のみを見たが、初演時には感じられた魔術的な時空の変容がやや曖昧だった(ガーデンパーティから穴、チェシャ猫出現)。初演時には振付家も来日し、コレオロジストが加わっていたことも理由の一つだろう。今回ダンスが多いように思えたのも、振付家のスピリット伝授の問題かもしれない。

初役のダンサーを含め、適材適所。その中で初演時から深化を見せたのは小野絢子。お茶目でお転婆、常に目の前の出来事に疑問を持ち、一歩引いて考えるウイットの持ち主。今回はさらに破天荒な味わいも加わった。英国的エキセントリシティに馴染む性格なのだろう。もう一人はイモ虫の宇賀大将。男臭さをよく出していた。初めて見た気がしたのは、執事/首切り役人と料理女のラブシーン。中家正博と渡辺与布の斧と包丁を重ねる仕草が妙に色っぽかった。

本島美和はアリス母/ハートの女王がバレエ団最後の役となった。今作をもって退団。その理由は今月発売の『ダンスマガジン』(新書館)で明らかにされるとのことで、現在は不明である。プリンシパル・キャラクター・アーティストとして、バレエ団の宝とも言うべき存在のため、退団は非常に残念と言うしかない。

本島は新国立劇場バレエ研修所(一期生)を卒業後、2003/04年シーズンに入団。05年石井潤版『カルメン』で初主役、この時ホセの貝川鐵夫は本島を「マイベストパートナー」と語っている。同年『ドン・キホーテ』でキトリを踊り、その後古典から創作まで主役を歴任した。徐々に個性を発揮し始めたのは、ビントレーが芸術監督になった2010/11シーズンから。主役と対抗する役や全体を見守る役が増え、本島の作品解釈が深まりを見せるようになった。当然それまでの主役経験が大きく生かされる。現在では舞台に立つだけで作品世界を現出させる境地にまで達している。

主なところでは、『マノン』娼館のマダム*、『ホフマン物語ジュリエッタ**、『シンデレラ』仙女***、『白鳥の湖』王妃、『ライモンダ』ドリ伯爵夫人、『眠れる森の美女』カラボス、『ロメオとジュリエット』キャピュレット夫人、『くるみ割り人形』シュタルバウム夫人、『不思議の国のアリス』アリス母/ハートの女王など。

* 舞台のもう一人の要は、通常そこまでの役割とも思われない娼館のマダム、本島美和だった。登場するすべてのシーンで、自らの人生が生きられている。1幕でのマノンを値踏みする鋭い視線、家に来ない?と誘う姿の妖しい美しさ。2幕でマノンのソロを見る眼差しには、かつての自分を見るような懐かしさと、酸いも甘いも嚙み分けた遣り手の塩辛さが入り混じった。娼婦たちの統括、客あしらいに品があり、テーブルに乗って踊る姿やレスコーとのおふざけにも、矩を踰えないプロ意識が滲み出る。究極のはまり役だった(20年)。

** 本島美和は前回の実存的造形から、一歩先に進んでいる。臈たけた美しさが光輝き、この世の全てを抱擁する慈愛に満ちている。娼婦と聖母マリア、遊女と観音菩薩という男性の望む理想的女性の顕現だった(18年)。

*** 仙女の本島美和は一挙手一投足に、これまでの人生が滲み出る境地に至っている。光が放射するような滋味あふれる踊り。本島の愛のエネルギーが空間を変容させた(17年)。

本島美和は体の質を変え、仙女そのものと化している。一挙手一投足から滲み出る慈愛。幽玄だった(19年)。

コンテンポラリー・ダンスでは、デヴィッド・ビントレー振付『ペンギン・カフェ』の熱帯雨林の家族(10年)、ジェシカ・ラング振付『暗やみから解き放たれて」(14年)、平山素子振付『Revelation』(15年)、中村恩恵振付『ベートーヴェンソナタ』(17年)、ウィールドン振付『DGV』(20年)、番外として福田紘也振付『死神』(20年)。特に『Revelation』では、本島にしか創出し得ない異次元、異空間が広がった

かつてザハロワが、その研ぎ澄まされたラインで機能美を主張した『Revelation』(招待作品)。本島の踊りには、研修所時代の自作ソロから現在までを走馬燈のように蘇らせる深さがあった。振付・構成の解釈は的確。動きの強度、鮮烈なフォルムに、ヴッパタール・ダンサーのような剥き出しの実存を感じさせた。

今回のアリスの母/ハートの女王でも、初演時に引き続き、考え抜かれた造形を見せる。学寮長の妻としてガーデンパーティを取り仕切る1幕では、全体を俯瞰する大きさと、細部に気を配る細やかさが同居する。潔癖さの中にも品格が滲み出て、社交的な女主人役を華やかに務めた。ラジャに妻が二人いることを夫に伝える絶妙なニュアンスは、本島ならでは。2、3幕のハートの女王は、エキセントリックではあるが夫への慎みと可愛らしさも交える、本島らしい味付けだった。余人をもって代えがたいダンサーである。

井上バレエ団「バレエの潮流Ⅱ~ロマンティックからコンテンポラリーまで」2022

標記公演を見た(6月19日昼夕 東京芸術劇場プレイハウス)。「バレエの潮流」の第2弾。前回は2017年「ブルノンヴィルからプティパまで」という副題で、『ラ・シルフィード』第2幕より、『ジェンツァーノの花祭り』よりパ・ド・ドゥ、『ラ・ヴェンタナ』より第2(現3)景、『眠りの森の美女』第3幕が上演された。今回は、ブルノンヴィル振付『ラ・ヴェンタナ』全3景、島地保武振付『The Attachments』、石井竜一振付『グラン・パ・マジャル』という、バレエ団の特徴を生かしたプログラムである。

幕開けの『ラ・ヴェンタナ』は1856年、デンマーク王立劇場で初演された。54年プライス姉妹のために振り付けられた「鏡の踊り」*に、第2(現3)景の屋外シーンを加えて拡大させた作品である。第2(現3)景にはパ・ド・トロワ、セギディリヤが含まれ、後者はマジリエのバレエ『悪魔と4人』のセギディリヤ(P・タリオーニ振付、55年ウィーン)に部分的に基づいている**。

*「鏡の踊り」はロマンティック・バレエの人気モチーフだった。

** Knud Arne Jurgensen, The Bournonville Ballets - A Photographic Record 1844-1933, Dance Books, 1987, pp.90-93. 本書では「2景のディヴェルティスマン」とジャンル書きにある。公演プログラムは「全3景」。第3回「ブルノンヴィル・フェスティバル」プログラムには3景(tableau)とあるので、それに準拠した模様。1景は短く、プロローグとも考えられる。

ヴェンタナとは「窓」のこと。セニョリータとセニョールの恋の駆け引きが、街の人々の踊りと共に綴られる。第1景では、白ドレス、赤バラを髪に飾り、赤リボンを胸に付けたセニョリータが登場。入れ違いに、紫マントに紫上下服、黒い縁あり帽にギターを下げたセニョール、黄緑上下服に縦笛を持った従者が現れる。今からセニョリータへの音楽を奏でようというところ。第2景はセニョリータの居室。鏡のカーテンを開け、軽いステップで「鏡の踊り」を踊る。続いて窓から聞こえるギターと笛(実際はチェンバロとフルート)の愛の曲で、アントルシャ、プティ・バットリー多用の踊りを踊る。赤バラが投げ入れられ、赤リボンを投げ返すセニョリータ。

第3景は街の広場。カスタネットの音で始まる。セニョールの華やかなブルノンヴィル・ソロの後、黒ベールを被ったセニョリータがハープと共に登場。哀調を帯びた情感あふれる曲でセニョールと踊る。続いて従者と女性二人によるトロワ(アダージョ、女性ソロ、男性ソロ、女性ソロ、コーダ)。アチチュード・ターン、アラベスク・パンシェ、細かい足技、切り詰めた跳躍、最後はアン・ドゥダン・ピルエットのユニゾンで締める。明確なエポールマンと、クッと動きを止めるアクセントが特徴。続くセニョリータのソロは、セニョールや街の人々のパルマと共に。セニョールも加わり、さらにアンコール。最後はタンバリンを持ったセニョリータ、セニョール、8組の男女がセギディリヤを踊る。男女が向かい合う民族舞踊らしさ、全員でアントルシャするブルノンヴィルらしさ。全体に細かいステップや跳躍が多く、見ているうちに心がウキウキと湧き立つ。あっさりした構成、難技を易しく見せる これ見よがしのない振付遂行に、19世紀職人技の心意気が感じられた。

パ・ド・トロワは、アカデミックなスペイン・スタイルと前掲書にあるが、ブルノンヴィル・スタイルにしか見えない。振付の変遷があったのか。19世紀半ばヨーロッパを席巻したスペイン舞踊家達は、コペンハーゲンにも登場し、ブルノンヴィルは彼らと共にスペイン舞踊を踊っている(1840年)。直後にスペイン物『The Toreador』全2幕も制作(音楽:ヘルステッド)。16年後の本作はホルムがスペイン風音楽を担当した(ワルツはロンビュー)。ミンクスの『ドン・キホーテ』(1869年)に似た部分があり、インターナショナルなスペイン熱を思わせる。

主役はWキャスト。セニョリータとセニョールは、宮嵜万央里と浅田良和、阿部碧と檜山和久、鏡像セニョリータは、井上愛、井手口沙矢。トロワは3キャストで当日昼は、井手口・松井菫・川合十夢、夕は西沢真衣・根岸莉那・荒井成也だった。宮嵜、井上、井手口、西沢、松井、荒井は、長年に及ぶブルノンヴィル研鑽の跡を窺わせる。阿部は怪我で降板した源小織の代役とのことだが、ラインの見せ方などロシア系のニュアンス。若手の根岸は安定した技術の持ち主ながら、エポールマンの習得が望まれる。

ゲストの浅田は高い技術、献身的なサポートで、檜山はニヒルな色男振りで、川合は明確なエポールマンと折り目正しい踊りで、ブルノンヴィル本邦初演作に貢献した。振付指導は、38年の長きにわたりバレエ団との関係を深めてきた、エヴァ・クロボーグ、フランク・アンダーソン。額縁をモチーフとした美術は、デンマーク王立劇場版(2005年)を参考に大沢佐智子がデザインした。

2つ目の島地作品『The Attachments』は、バレエベースのコンテンポラリー・ダンス。ジャンル横断作品を数多くプロデュースしたバレエ団創立者、故井上博文が見たらどう思っただろうか。井上バレエ団に付設された舞台衣裳製作会社「柊舎」では、かつて山崎広太がチュチュを縫いながら身体模索を続けていた。島地はザ・フォーサイス・カンパニー、Noism 以前は、山崎作品の中心的存在だったこともあり、縁の深い起用と言える。

冒頭は、ラヴェルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』を使用した酒井はなと島地によるデュオ(3月初演)。老いをテーマに3度同じフレーズを繰り返す。パキパキとエネルギッシュなデュオから、落ち着いたデュオ、さらにゆったりとしたデュオへと変化する。振付はアクロバティックなパートナリングを軸に、クネクネした動き、空手の突きなどを採用。全てが音楽から生み出されている。マッツ・エックを思わせるのは、島地の実存が濃厚に反映されているからだろう。年齢を重ねていく男女二人のしみじみとしたデュオだった。

音楽を繋いで、バレエ団に振り付けたパートが始まる。ハイドン鍵盤楽器のための協奏曲(チェンバロ使用)の中間に、ブルージーなジャズの女声歌唱を挟み、3場を構成する。ハイドン部分はまるでモーツァルトのオペラのような軽快さ。音楽的な振付である。赤スーツにベージュの肌着を着た8人の女性ダンサー、2人の男性ダンサーが、バレエのポジションとくねる動きを混淆させた振付を果敢に遂行。酔っ払い動きや、不自然に長い停止状態など、これまで一度もやったことのない動きを生き生きと踊っている。宮嵜にはなぜかロン・ド・ジャンブ・アン・レール・ソテも。

中間部のジャズは、島地が照明係。シモテに現れて、ミラーボール、客席、ダンサーに光を当てる。まさに島地空間。白の上下を身に着けた男女が、接着する発泡スチロール製の三角、お椀二つ、ボールとバットなどを体に付けて歩く。藤井ゆりえの的確な振付理解に基づく音楽的踊りに続き、石田稀朋が摺り足で登場。ブルージーな歌の根っこを肚に入れた、気だるく濃厚なソロを踊った。最も衝撃的だったのは、荒井のほぼヌード・ソロ。肌色の肌着に赤いビラビラの紐状首飾りを付けて、ショーダンス仕様で踊る。張りのある臀部と脚を見せたあと、ライトを腹部に当てられながらカミテへと退場した。荒井の妙な味を見抜いた島地渾身の振付、荒井渾身の踊りだった。

石井の新作『グラン・パ・マジャル』は、グラズノフの『ライモンダ』を使用。「ロマネスク」に始まり、男女ソロ曲、3幕「パ・クラシック・オングルワ」、「ギャロップ」で構成される。ハンガリー色はなく、純粋なクラシック・スタイルのシンフォニック・バレエ。振付は全て音楽から生み出されている。音取りに当然違いはあるが、芸術監督だった故関直人の系譜を継いだと言える。明るく奇をてらわぬ作風で、ユニゾンの迫力などシンフォニック・バレエの醍醐味にあふれる作品だった。主役2人、ソリスト男女2組、アンサンブル男女6組、女性群舞というピラミッド構成だが、フォーメーションがやや詰まって見える。動きの躍動感を見るためには大劇場での再演が期待される。

主役は阿部と浅田、根岸と荒井の二組。阿部の伸びやかなライン、浅田のノーブルなスタイル、根岸の闊達さ、荒井の献身的サポートと、それぞれが個性を発揮した。ソリスト田辺淳、川合を始め、男性ゲストダンサーもクラシカルな味わい。石井はロシア派で育ったため、バレエ団のデンマーク=フランス・スタイルとの兼ね合いが今後の課題と思われるが、ノーブル・スタイル、技術強化の点でバレエ団に新風をもたらしている。大沢による背景画は、水色を基調に赤と黄色が上方を彩る印象派風。水色のチュチュとよく合っていた。

指揮の井田勝大はロイヤルチェンバーオーケストラを率いて、ハイドンからブルノンヴィル作曲家、グラズノフラヴェルまで、それぞれの時代に即した色鮮やかな音楽を紡ぎ出した。中劇場の親密な空間で、音楽が直に体を直撃する喜びがある。

5月に見た公演 2022

谷桃子バレエ団『眠れる森の美女』(5月4日昼夜 彩の国さいたま芸術劇場 大ホール)

2016年バレエ団初演のエルダ-・アリエフ版。監修のイリーナ・コルパコワはアリエフと綿密に話し合い、「この作品と、古いロマンティック・バレエのスタイルや雰囲気の特色を結び合わせること」を目標にしたと語っている。初演時には、プティパ時代の優美で調和のとれたスタイル、自然体のマイム・芝居が実現。舞踊が突出することなく、まるで水が流れるように物語が進行した。主な改訂は、1幕ワルツ、2幕パ・ダクション、3幕シンデレラとフォルチュネ王子の新振付。特にシンデレラと王子のパ・ド・ドゥは、アリエフの優れた振付手腕を明らかにしている。

今回は埼玉の子供たちがオーディションで参加する短縮版。ロシア現況のためアリエフ指導は難しく、初演時の優美なスタイルはやや影を潜めたが、バレエ団の地力は発揮された。主役は3組。初日マチネは馳麻弥と今井智也、同ソワレは山口緋奈子と三木雄馬、二日目は竹内菜那子と田村幸弘という組み合わせだった(二日目は見られず)。

初日マチネの馳は、2月公演「Love Stories in Ballet」で(ゾベイダならぬ)シェヘラザードを妖艶に踊り、個性を全開させた。どちらかと言うと強いキャラクターのタイプだが、『眠り』の1幕では繊細な可愛らしさを、3幕では品格を意識して、明るめのオーロラを造形した。ローズアダージョの長いバランスなど、高い技術は証明済み。主役としてはもう少し周囲との細やかなコミュニケーションを期待したい。対する王子の今井は、バレエ団のノーブルスタイルを体現していた。献身的なサポート、神経の行き届いたソロに、ベテランらしい成熟した味わいがある。

初日ソワレの山口は『オセロ』のエミリアで強烈な印象を残した演技派。今回も『眠り』が物語バレエであったことを再確認させられた。登場した瞬間から周囲と対話を交わし、舞台が生き生きと息づき始める。全ての振りから言葉が聞こえるのは、物語の全体像が体に入っているからだろう。繊細な腕使い、美しいライン、気品の揃ったオーロラだった。幻影の場の透明感あふれる体も素晴らしい。一方、陰影あるイアーゴー、慎ましやかなシャフリヤール王が印象的だった三木は、今回は規範に則った古典的な王子。品格あるノーブルスタイルを貫いた。もう少し笑顔を望みたいところだが、山口との呼吸は万全だった。2月公演で切れの良い『ドン・キホーテ』pdd を踊った竹内・田村組も見てみたかった。

カラボスには高岸直樹がゲスト出演。遠藤康行振付『Little Briar Rose』(21年 日本バレエ協会)での重心の低いカラボス、フリードマン版『R&J』(3月 NBAバレエ団)での激しく力強いキャピュレット公など、バレエ界全体のキャラクターダンサーになりつつある。今回はこれまでの蓄積が花開いた模様。大きく鮮やかな存在感に、美しい女性の香りまで漂う(既に白雪姫の義母を経験)。マイムと演技が融合する独特のアプローチは、初演時カラボスがバレエダンサーでなかったことと関係があるだろうか。直接アリエフに指導を受けていたら、もっとマイム寄りになった可能性も考えられる。これからどのような役が待ち受けているのか、非常に楽しみである。

フロレスタン国王は、初日マチネの内藤博がなぜか少しコミカルな演技、ソワレの小林貫太はリラの精と共に世界を善で満たす国王だった。行き届いた芝居を見せる王妃の尾本安代は、小林と呼吸が合っている。リラの精は初日マチネが森本悠香、ソワレが中川桃花。森本の風格あるリラ、中川の善の体現者としてのリラは、それぞれの主役に見合った配役と言える。

5人の妖精たちはWキャスト。前原愛里佳の呑気、星加梨那の勇気を始め、気持ちの良い古典スタイルを遵守している。フロリナ姫・青い鳥は、齊藤耀・池澤嘉政の繊細さ、加藤未希・市橋万樹のすっきりした技巧と対照的。シンデレラ・フォルチュネ王子は、永井裕美・昂師吏功、北浦児依・土井翔也人による瑞々しい愛のパ・ド・ドゥ競演だった。ベテラン菅沼寿一の練り上げられた狼、若手 松尾力滝の力強い長靴猫など、見応えのある童話ディヴェルティスマンだった。

 

スターダンサーズ・バレエ団『ジゼル』(5月15日 テアトロ・ジーリオ・ショウワ)

1989年バレエ団初演のピーター・ライト版。デニス・ボナーを振付指導に迎え、主役からアンサンブルまで、細やかな演技を身につけている。主役はWキャスト。初日のジゼルは渡辺恭子、二日目が喜入依里、アルブレヒトはそれぞれ林田翔平、池田武志、その二日目を見た。

喜入はこれまでドラマティックで強い役柄を踊ってきたため、ミルタ配役かと思われたが、今回はジゼル。1幕では村娘らしい可愛らしさをよく工夫して演じている。初役ゆえ、まだ自然な感情の発露には至っていないが、2幕では母性的で一本気な「喜入らしさ」を垣間見せて、今後の役作りへの端緒を開いている。対する池田はノーブルスタイルをよく意識したアプローチ。2幕では所々、立ち居振る舞いが素になることもあったが、初めての役を真っ直ぐに演じている。次回はもう少し感情を込めた造形を期待したい。ヒラリオンの久野直哉は無骨さがよく出た明確な演技。ミルタの杉山桃子は美しく艶やかな踊りで、夜の森にかぐわしい香りを漂わせた。4人とも身長が高いので、主役二人にドラマが生じた場合は迫力が増すだろう。

ウィルフリードの友杉洋之、ベルタの周防サユルの行き届いた演技もさることながら、最も驚かされたのがバチルドのフルフォード佳林。新国立劇場でのキトリ母で、生まれながらの役者と思っていたが、想像を上回る演技だった。登場した途端に、どういう人物で何をしようとしているのか分かる。好きに育って人は好いが、さほど周囲に興味はなく、思うがままに振る舞う。かと言って我儘ではなく、意地悪でもなく、もちろん世間知らずだが、貴族らしい品格を見せる。これまで見たバチルドの誰とも似ていない絶妙なあわいを、針に糸を通すように演じていた。父親クールランド公の鈴木稔も「仕様がないなぁ」と思いながら可愛がっている様子。鈴木父は洒落者で洒脱。熟練の狩猟長 鴻巣明史との阿吽の遣り取りが楽しかった。

パ・ド・シスのトップ西原友衣菜、西澤優希、また塩谷綾菜、佐野朋太郎(初日トップ)が牧歌的な踊りで村人アンサンブルを、ドゥ・ウィリの石山沙央理、東真帆が伸びやかな踊りでウィリ・アンサンブルを牽引した。また貴族アンサンブルの生きた芝居が1幕の悲劇を濃厚に彩っている。

テアトロ・ジーリオ・ショウワ・オーケストラ率いる指揮の田中良和は、装飾の多い編曲版をすっきりと演奏し、舞台と音楽を繋ぐ要となった。

 

ケダゴロ『세월』(5月27日昼 神奈川芸術劇場 大スタジオ)

表題の読みは「せうぉる」で、2014年に起きた韓国最大の海難事故「セウォル号」転覆・沈没を題材としている。乗客447人のうち325人は修学旅行の高校生だった。振付・構成・演出は下島礼紗。出演は、下島を含む5人のケダゴロ団員(女4、男1)、劇団東京乾電池団員(男1)、7人の無所属ダンサー(女5、男2)である。

舞台は0場(30分)から始まる。救命具のオレンジ色に塗られた平台をアーチ状に組み、その上にTシャツ・トレパンの生徒たちが立っている(一部座り)。無表情に、何かを耐えるでもなく、時おりトイレの我慢でモジモジしながら。上演前の注意アナウンスに続き、中央の4つのスピーカーから男性の声で同じアナウンス。さらに女性の声が何か言う。突然男性の声で「まもなく出航致します」。汽笛の音。生徒たちが驚いてアーチを離れると、平台が崩れた。生徒たちが重しとなってアーチを作っていたのだ。

舞台が船そのものとなって、ダンサー(と観客)が事故を体感していく1時間。シモテに全員が寄りかかり、スピーカーが斜めになる衝撃的場面。逆立ちになり「水くれー」と叫ぶ声、薄闇の中「暑いー、ヒュー」と呻く声。息を詰めて平台を運び、「ハー」と息を吐く生徒たち。階段状に組まれた平台をゴロゴロと横転する生徒たち、横転できない女生徒。斜めになった平台に乗りかかり、滑り落ちる生徒たち。平台を背負い、次々と倒れていく生徒たち。時折聞こえる女声アナウンス「カマニッソ(そこで待っていろ)」は、避難誘導が行われなかったことを示している。

もちろん見る側の体は鉛のように重くなり、事故を追体験したような心持になる。だが、そこに差し挟まれる朴訥な男声アナウンス、阿波踊りステップ、大股プリエ、ジムナスティック動き(倒立、倒立前転、仰向け跳び起き、前跳び回転)、人体の救命胴衣化といった振付が、下島のストイックな自己省察、抜群の運動神経と結びついた身体思考、巧まざるユーモアを示して、事故に対する安直な共感を禁じる。下島は次のように語っている(プログラム)。

企画が立ち上がった当初、ある舞台装置を使用することが計画されていました。今、思い出すと言いようのない激しい怒りが込み上げてきますが、それは「巨大な水槽」を使用するというものでした。色々な言い訳はあるにせよ、この事件のスペクタクルに無意識の高揚を感じていたことは否定できません。そんな演出を考えていたおぞましい自分への憎悪を震源地として、きょうまで創作を続けてきました。しかし、この題材は”表現されること”をことごとく拒絶し、作品を創ることでこの題材を選んだ責任を取ろうとする私を跳ね除け続けました。

1時間という区切りの中で、ダンサーたちの苦しい呼吸に見る側の呼吸も同期し、船内の状況を体感させられるが、同時に虚構の限界(当事者への理解不可能性)も共有させられる。見た後の胸苦しさ、体の強張りは、安全地帯にいるがゆえなのだ。

下島のユーモアは救命胴衣の場面で炸裂した。下島明(礼紗祖父)の「救命胴衣を、を、を、に、なってください」のアナウンス。直後、男性4人が「シュッシュッシュッシュ」と言いながら腕立て伏せをし(空気入れ)、立っている女性たちが体を膨らませる(救命胴衣化)。限界になると「ハーッ」と言ってぶっ倒れる。何回か繰り返すなか、男性が自分のTシャツの袖を食いちぎり、体を膨らませる女性の鼻に近づける。女性はたまらずぶっ倒れる。隣にいた下島は笑ったと思う。下島祖父は「上演時間はあと〇〇分です」、「この作品は状況が分からないので、乗客は早く離れる(べき)か、船長は判断してください」、「係員がご案内しますので着席のままお待ちください」といった、船と劇場を掛け合わせたアナウンスも。下島房子(礼紗祖母)による鋭い「カニマッソ」とともに、周到に演出されたアナウンスだった。

振付の面白さ、題材を自分の無意識の奥底に落とし込む思考の強さ、ダンサーを100%出し切らせる演出力(振付家の権力を自覚しつつ)がぎっしり詰まった濃密な1時間だった。

 

バレエシャンブルウエスト『タチヤーナ』(5月28日 J:COM ホール八王子)

演出・振付は今村博明・川口ゆり子。2002年に初演され、国内はもとよりキーウ、サンクトペテルブルク、モスクワでも上演された重要なレパートリーである。今回は、04年のキーウ公演、05年、06年の国内公演で指揮をしたアレクセイ・バクランを、避難先のポーランドから招聘した。バクランはプログラムで次のように述べている。

ウクライナ国立歌劇場で初めて『タチヤーナ』を指揮した時の鮮烈な感動は今でも忘れられません。チャイコフスキーの楽曲からの絶妙な選曲、オペラ『オネーギン』の世界を巧みにバレエ化した今村さんとゆり子さんの演出・振付、お二人のロマンチックで息の合った踊り、迫真の演技、深い洞察に裏打ちされた役作り、バレエシャンブルウエストの高いレベルのアンサンブル、どれも秀逸でした・・・今回がゆり子さんにとって最後のタチヤーナとうかがい、残念な気持ちで一杯です。ゆり子さんと今村さんはまさに日本のバレエ史に燦然と輝く至宝です。その輝きをいつまでも保ち続けてくださるようお祈りいたします。

バクランの言葉通り、マイムと舞踊の継ぎ目がないドラマティックで音楽性豊かな振付、紗幕使いの場面転換、登場人物の出入りが隅々まで計算された緻密な演出を誇る。江藤勝己選曲、福田一雄編曲によるチャイコフスキー音楽は物語と渾然一体となり、完全に使い切られている。またマイムがダンサーの体に入ったことで、物語の流れがより自然になった。生え抜きダンサーの年輪、アンサンブルの呼吸の一致は、付属スクールを持つバレエ団の長所と言える。

川口ゆり子のタチヤーナは円熟の極みにある。1幕の読書好きで人見知りの少女、その裏に秘めたロマンティックな情熱、2幕の憂いに沈む少女、3幕の気品あふれる社交界の華、貞節と情熱に引き裂かれる成熟した女性を、一挙手一投足に至る緻密な役作り、細やかな振付ニュアンスで描き出す。役を生きると同時に、全体を俯瞰する眼差しを忘れないのは、長年の主役経験によるものだろう。体の繊細な切り替え、リフト時に見せる絶対的フォルムの相変わらぬ素晴らしさ。体の隅々まで意識化されている。アクロバティックなリフトには1ミリの迷いもなく、舞台に体を投げ出す苛烈さに、精神そのものを見る思いだった。

対するオネーギンには逸見智彦。序盤のニヒルな佇まいにはやや硬さが見られたが、夢のパ・ド・ドゥ、終幕のパ・ド・ドゥの荒々しい情熱で本領を発揮した。クールな外見とは裏腹に、タガが外れた時に個性が光る。アクロバティックなサポートも切れがよく、川口を思い切り踊らせた。師匠の今村博明は絵に描いたようなスタイリッシュなオネーギンだったが、逸見は狂気に近い生な感情を川口にぶつけている。二人の呼吸もよかった。

吉本真由美の明るく邪気のないオリガ、山本帆介のノーブルで人の好いレンスキー、深沢祥子の美しく華やかなラーリナ、延本裕子の温かく懐の深い乳母、鈴木愛澄、土方一生、井上良太の庭師等が1幕を彩る。2幕パーティでは、芸人たちを率いる藤島光太の鮮やかな踊りが高揚をもたらし、決闘シーンではベテラン宮本祐宜のザレツキー、同じく奥田慎也のギリオが悲劇的な場を引き締めた。3幕では正木亮の大らかで温かみのあるグレーミンが、白いショールをタチヤーナに与えて、夫婦の絆を深めている。いつもながら、伸びやかな女性アンサンブル、ノーブルな男性アンサンブルが、全編を通して踊る喜びを体現した。

指揮のバクランは、大阪交響楽団から豊かで厚みのある音を引き出し、幕開けから終わりまで舞台を強力に牽引した。最後は川口と一体化する指揮ぶり。川口への深い敬意と愛情を感じさせる。今回は副指揮者(福田夏絵)を迎えることで、伝統を次代に伝える貴重な機会ともなった。

新国立劇場バレエ団『シンデレラ』2022

標記公演を見た(4月30日、5月1日、3日昼、5日 新国立劇場オペラパレス)。アシュトン版『シンデレラ』(48年/65年)は、1999年バレエ団に導入された。当時英国ロイヤル・バレエ プリンシパル吉田都現芸術監督もゲスト出演し、アシュトン振付の魅力を伝えている。プティパ研究に基づいた精緻でクリティカルな古典舞踊、英国パントマイムのエキセントリックな同時多発芝居、幾何学的で複雑なアンサンブルフォーメーション。74年を経た現在でも、新鮮さと強度を保った全幕物語バレエである(可愛らしい小姓たちは19世紀バレエへの賛歌)。今回は吉田監督就任後初、バレエ団としては13回目の上演となる。監修・演出はウェンディ・エリス・サムズ、マリン・ソアーズ。

前回との際立つ違いは、仙女と四季の精の踊り方にあった。腕使いと上体を連動させ、大きく柔らかく、切れ目のない動きが実践されている。結果、この世の者ではない透明感あふれる体が、デヴィッド・ウォ-カーの夢のような衣裳をまとって立ち現れた。吉田監督指導の賜物と言える。義姉(姉)と道化のタイプにも変化が見られた。これまでの主だった義姉(姉)は、マシモ・アクリ(7回)、古川和則(5回)、保坂アントン慶(3回)。いずれも乱暴だが華やかで妹思い。特に古川は自在な演技におかしみを滲ませる熟練舞台人の味わいがあった。

今回は奥村康祐(2回目)、清水裕三郎(初)、小柴富久修(初)。奥村は王子(5回目)、道化(1回)も踊り、芸域の広さを誇るが、清水、小柴共々、ノーブル寄りと言える。それもあってか、1幕の首飾り回しは重視されなかった(そもそも誰が始めたのか)。道化の木下嘉人(4回目)、佐野和輝(初 - 山田悠貴 故障降板で代役)も、いわゆる道化役と言うより、すっきりとした品格を持ち味とする。吉田監督の両役へのイメージを窺わせる配役と言える。義姉(妹)については変わらず。堀登(7回)の伝統を受け継ぎ、上演順に、小野寺雄(3回目)、福田圭吾(初)、髙橋一輝(6回目)が担当。小野寺の切れの良い動き、福田のエネルギッシュな造形、髙橋の自らをも俯瞰する懐の深い演技が、姉たちを支えている。

シンデレラと王子は4組。それぞれ組み慣れたパートナーのため、従来の安定した造形が踏襲された。初日の小野絢子と福岡雄大は、ベテランらしい落ち着いた舞台。小野はアシュトン振付の正確な実現、福岡は古典の精緻な踊り方に心を砕き、トップダンサーの気概を示した。阿吽のパートナーシップは言うまでもない。

二日目の米沢唯と井澤駿は、米沢の成熟が際立った舞台。役へのアプローチはこれまで通り、シンデレラを内側から生きる手法だが、古典の踊り方に新たな局面が見られた。特に2幕ソロのマネージュは、技術で圧倒するのではなく、パの細やかなニュアンスと絶妙なアクセントを組み合わせ、そこにある種の精神性を加えている。プリマとしてというよりも、アーティストとしての探求心を感じさせた。対する井澤はゆったりとした佇まいに王子らしさを漂わせた。今後は舞台への集中をさらに期待したい。

三日目の木村優里と渡邊峻郁は、これまでのパートナーシップをそのまま反映させた舞台。仙女を兼任する木村は、暖炉の傍よりも華やかな舞踏会で持ち味を発揮した。対する渡邊は優しく木村をサポートする。見た目もよく、舞台は滑らかに進んでいくが、観客を物語に引き込むという点では、まだ工夫の余地が残されている。

最終日の池田理沙子と奥村康祐は、徐々に築き上げたパートナーシップを基に丁寧な舞台を見せた。池田の緻密な役作り、感情を伴った踊りが、生き生きとしたシンデレラを造形する。直前に2回の義姉を踊った奥村は、ノーブルスタイルをよく意識した爽やかな王子だった。2幕パ・ド・ドゥではしみじみとした情感が醸し出される。奥村はこの幕で怪我を負い、3幕は井澤にバトンタッチしたが、池田と共に緊密な物語の流れを作り出した(次回公演『不思議の国のアリス』の白ウサギは残念ながら降板となった)。

*カーテンコールについてひとこと。米沢と池田は「カーテンコールも舞台のうち」を心得て、観客とのきめ細やかなコミュニケーションを実行しているが、小野と木村には物足りなさが残る。吉田監督現役時代のカーテンコールは、全身全霊が込められていた。舞台の余韻をさらに増幅させ、観客は幸福感に浸りながら家路についたものだ。画竜点睛を期待したい。

父親役には円熟の貝川鐵夫、指揮をしながらダンスを見るのが楽しみのようだ(1幕ダンス教師の場、2幕舞踏会)。地を生かした愛情深い父親だった。初役の中家正博は、3月の日本バレエ協会公演で米沢エスメラルダとフェビュスを踊ったばかりだが、今回は父親役。マイム・演技が明快で、心情がよく伝わってくる。ただし娘へのサポートがつい騎士風に。17年の王子役でアモローソの両腕伸ばしリフトを実行したとたん、空気が一変し、古典バレエの世界が広がったことを思い出した。

仙女は細田千晶と木村。はまり役だった本島美和は、深い作品理解と自らの人間性に基づく慈愛に満ちた仙女像を作り上げたが、細田もこうした域に達している。煌めくソロも素晴らしい。木村は華やかな存在感と力感あふれる踊りで、四季の精、星の精たちを率いている。一方、道化の木下は、道化に不可欠の知性と柔らかな踊り、佐野は素直な可愛らしさと柔らかな踊りで舞台を彩った。共にすっきりと控えめな演技が印象深い。

四季の精はWキャスト。いずれも吉田メソッドを遵守する柔らかでニュアンス深い踊りだったが、中でも飯野萌子(夏)は、優れた音楽性に、細部まで意識の行き届いた様式性豊かな踊りを見せた。踊りそのものを見る喜びがある。五月女遥(春)の粒だった踊り、柴山紗帆(秋)の正確で美しい踊りも、ピンポイントの音楽性を誇る。

ダンス教師の井澤諒、原健太、ナポレオンの髙橋、渡部義紀、ウェリントンの趙載範ははまっている。ウェ初役の渡邊拓朗は少しはみ出ている(それが持ち味だが)。職人たちは1回ポカもあったが面白い。福田紘也はまり役のエキセントリックな宝石屋には、今回 味のある上中佑樹が加入した。王子友人は速水渉悟が怪我から復帰、8人それぞれに見応えがある。古くなるが、昨秋の『ナット・キング・コール組曲』で渡部義紀のショーダンサーぶりに瞠目したことも付記しておきたい。

星の精アンサンブルの動きの繊細さと切れ味、体の美しさが素晴らしい。マズルカアンサンブルは生き生きと大きな動きで宮廷に活力を与えている。

指揮のマーティン・イェーツは東京フィルハーモニー交響楽団と共に、プロコフィエフの玄妙で美しいメロディを全身で紡ぎ出した。音楽への感動が直に伝わってくる。

2、3月に見た振付家 2022

2、3月に見た振付家について、メモしておきたい。

 

関口啓 @ 舞踊作家協会ティアラこうとう連続公演 No.220「Exploring Creation」(2月1日 ティアラこうとう 小ホール)

作品名は『Strategy』。出演はスターダンサーズ・バレエ団の小澤倖造、西澤優希による。逆扇型のこぢんまりとした舞台。バックには〇-✕=、床にも同記号が映されている。グレー衣裳が〇、茶の衣裳が✕の動きを担当(どちらが小澤、西澤かメモがなく不明)。床をスケートのコンパルソリーのように使い、そこから動きを生み出していく。互いに組むことも。コンタクトインプロとフォーサイス風ポジションの組み合わせにも見えるが、オーガニックな味わいが関口の特徴と言える。ミニマルな音楽も人の声のような感触。タスクはあるが人間的。アンシェヌマンの面白さ、動きの音楽性、振付家の緻密な思考が詰まったクリエイティヴな作品だった。関口の頭の中を視覚化した小澤、西澤も素晴らしい。

 

笠井叡✕山崎広太 @ 天使館ポスト舞踏公演『牢獄天使城でカリオストロが見た夢』(3月3日 世田谷パブリックシアター

天使館(1971~)の同窓会のような公演。笠井叡が1979年に渡独するまでの天使館は即興中心の自由な創造の場、帰国後はオイリュトミーの教場となった。笠井によれば、「旧天使館はプロ養成の施設とはま逆の雰囲気、新天使館はダンスの技術性を学ぶ場」(プログラム)とのことだが、印象としては、旧天使館出身者は自分の踊りを追求するダンサー、新天使館出身者は修養に重きを置く修行者に見える。オイリュトミーの儀式性、正面性がそう思わせるのだろうか。

新旧14人のダンサーが即興、または笠井の振付で、ソロ、デュオ、トリオを踊る。マーラーで総踊り、クセナキスで個々のソロ、バッハで笠井禮示ソロ、ロックで笠井叡ソロ、マーラーで総踊りという構成(途中、笠井久子の朗読が入る)。「作品」というよりも、笠井が様々な言葉と音楽で枠組みを作り、精神レヴェルを統一した「場」の趣。オイリュトミーが含まれるせいか、批評の対象ではないような気がして、まだらな気持ちのまま帰宅したが、公演を見た翌朝は早く目覚め、頭がすっきりしていた。礼拝か何か、精神性の高い気持ちのよい場に遭遇し、その空気を浴びた後のようだった。

今回の公演について笠井は「ダンスのインプロヴィゼーション性とコレオグラフィー性の融合と離反と言う観点から、見ることができるかもしれません」と語る。その意味で最も興味深かったのは、山崎広太(旧)がマーラーのアダージェットで、浅見裕子(新)、上村なおか(新)と踊ったオイリュトミー・トリオ。前半部で激しい即興ソロを踊った山崎が、笠井兄弟(瑞丈はコロナ陽性で降板)のパートナーたちと、フェミニンな振付を踊る。新しいボキャブラリーをじっくり味わい、体の感覚を試すように楽しげに踊っていた。

山崎は笠井と唯一拮抗する、または背反するダンサー。笠井の滑らかで分節不可能な音楽的ソロ(年齢不詳になる)に対し、山崎は体の重さ、物質的な音取り、クキクキと分節された動きでソロを踊る(時計をはめていた?)。暴力的に場を撹乱する一方、周囲や全体を注視し、静かにフェイドしていく慎ましさも。笠井が椅子に乗って登場した時には、なぜか正座をしていた。学び舎に戻ったような嬉しさにあふれた体だった。

作品全体と他の出演者については、呉宮百合香評(『オン★ステージ新聞』2022.4.15号)を参照のこと。

 

山口茜 @ サファリ・P『透き間』(3月11日 東京芸術劇場シアターイースト)

演劇公演と銘打っていて(芸劇 dance とも)、実際言葉が大きな役割を果たしているが、同じくらい身体性が重視される。山口は劇作家・演出家。サファリ・Pとは京都を拠点とする、パフォーマー(俳優・ダンサー)、技術スタッフ(照明・音響)、演出部(演出家・ドラマトゥルク)からなる劇団とのこと。

舞台には黒い長方形の台が16個。その透き間から、手、脚が見えては沈んでいく。もちろん 3.11 を想起。そのリアリティに気持ちが悪くなったほど。台本にはアルバニアの作家イスマイル・カダレの小説『砕かれた四月』が反映されている。カヌンという掟の話で、血族が殺害された場合、その一族の男性が仇討ちをしなければならない。もしこの復讐のフェーズがなかったら、3.11 追悼の作品になっただろう。団員を含む5人の出演者は、俳優とダンサーの区別がつかないほど、演技・ダンス共に秀でている。特にブレイク・ダンス(達矢)がドラマの中で効果を発揮するのを初めて見た。

 

黒田育世 @ 再演譚 vol.1『病める舞姫』『春の祭典』(3月11日 KAAT神奈川芸術劇場 大スタジオ)

『病める舞姫』(18年)は、土方巽の同名散文集を基にした自演ソロ作品。今回は鈴木ユキオが全く同じ振付で踊る。『春の祭典』は『落ち合っている』(14年)の劇中ダンスとして創作された。共に再演ながら初見。『病める舞姫』は鈴木が踊ったのでよく分からなかったが、『春の祭典』は以前見ていた黒田作品の印象と全く変わらなかった。

春の祭典』は振付家にとって作品の大きさ、高難度の音楽に、ややもすると押しつぶされそうになるチャレンジングな作品だが、本作は作品上演史を忘れさせるくらい、全くの黒田作品だった。パトスの強さ、自傷行為に近い暴力的な動き、振付家の生の肉体感覚が、全編を通して炸裂する。主演の加賀谷香はバレエのライン、パの明確な美しい体に、狂気を漂わせた。母子の踊りとあるので、母役なのだろう。子供たちは「BATIK」のメンバー。ベテランの大江麻美子が、若手6人の女性ダンサーを駆り立てるように激しく踊る。大江は番頭役か軍曹役。さほどエキセントリックに見えない若手たちも、憑りかれたような陶酔感を踊りに滲ませる。加賀谷も加わった左右グランバットマンのユニゾンは迫力があった。女の血の結びつきだろうか。

『病める舞姫』は土方の言葉を随所に視覚化させた誠実な作品。音楽は伊福部昭を使用。四角い舞台の周りを、鈴木が枝を押し頂いて歩行する。鈴木によるバレエ歩きゆえに儀式性が際立った。ロン・ド・ジャンブ、アチチュードターンなどバレエ寄りの振付も、黒田が踊った時より異化効果があるだろう。胞衣(?)を股から引っ張り出す行為には、生々しさがなく、舞踏の両性具有を思わせる。鈴木は淡々とニュートラル。観客に感情移入を許さず、遮断する感じ。ミラーニューロン作動を禁じている。恐らく黒田とは真逆のソロだったのではないか。不思議な体だった。

 

馬場ひかり現代舞踊協会「時空をこえる旅 - 舞台 - へようこそ」Bプロ(3月21日 東京芸術劇場プレイハウス)

作品名は『COSMIC RHAPSODY - 宇宙狂詩曲 - 』。師匠 芙二三枝子のゆったり体を継承しつつ、コンセプトへのアプローチ、衣裳(岩戸洋一・本柳里美)、選曲に独自性を見せる。宇宙を題材とするが、その壮大さよりも、馬場の濃密な思考を辿るところに面白さがあった。14人のダンサーたちを振付の駒とはせず、喜びと共に自らのヴィジョンに引き寄せている。フォーメーションも緻密。美術、音楽、振付の揃った円熟の作品である。

「月の暈」と題された馬場のソロはゴージャスだった。青白ライトのなか、突起物のあるピンクのオールタイツを身に着けた馬場は、よく利く体に、ゆったり動きと、なぜか舞踏のニュアンスを加えている。震えながら突っ張る。回転してはよろける。またニジンスキーの牧神動きも。今現在の馬場の体と思考が横溢した、瑞々しく強度の高い踊りだった。照明(加藤学)も素晴らしい。

スターダンサーズ・バレエ団「Dance Speaks 2022」

標記公演を見た(3月26日 東京芸術劇場 プレイハウス)。演目は、バランシン振付『セレナーデ』(35年/83年)、カイェターノ・ソト振付『マラサングレ』(2013年/22年)、クルト・ヨース台本・振付『緑のテーブル』(32年/77年)。1930年代のモダンバレエ作品の間に、今世紀のコンテンポラリーダンス作品が挟まれる 興味深いトリプル・ビルである。

幕開けの『セレナーデ』はバレエ団の重要なレパートリー、5年振りの上演である。初日は渡辺恭子、塩谷綾菜、喜入依里、西澤優希、林田翔平、二日目は塩谷、渡辺、杉山桃子、久野直哉、林田の配役。その初日を見た。指導は前回と同じくベン・ヒューズだが、出演者26人中、作品経験者は9名ということもあり、これまでとは全く異なる感触だった。メリッサ・ヘイドン由来(と思われる)の生々しい情感は後退し、親密で暖かい雰囲気が漂っている。劇的というよりも詩的。最終場面もパセティックではなく、薄明りに消えていくようなはかなさが漂った。渡辺の華やかさ、塩谷の規範に則った踊りと詩情、喜入の太っ腹な貫禄が三つ巴となる。林田と西澤はノーブルな味わい。ベテラン率いるアンサンブルの呼吸の一致は変わりなく、バレエ団の優れた音楽性を証明した。

二つ目はソト作品『マラサングレ』。ソトは75年バルセロナに生まれ、当地とハーグの舞踊学校で学ぶ。ミュンヘン・バレエ入団後、初の振付作品がレパートリーに。その後フリーの振付家として、欧米各地で作品を提供している。日本でも昨秋、新国立劇場バレエ研修所のコンサートで『Conrazoncorazon』の抜粋が上演された。指導は今回も担当した新井美紀子。ショーアップされたダンス、黒ハイソックスが共通する。

題名の『マラサングレ』は「悪い血」を意味する。キューバ出身の歌手ラ・ルーペことグアダルーペ・ビクトリア・ヨリ・レイモンドへのオマージュ作品。彼女のだみ声に近いエキセントリックな歌に合わせ、床一面に撒かれた黒い紙屑(に見える)を踏みちらしながら、10人の男女が激しく踊る。男性は上半身裸、白スカートに黒ソックス、女性は白シースルーTシャツに黒ブラジャー、黒ハイソックス。ソロ、デュオ、トリオ、総踊りが、切れの良い出入りで次々に展開された。

初日は小澤倖造、加地暢文、関口啓、飛永嘉尉、冨岡玲美、フルフォード佳林に、1週間前 神戸で本作を上演した貞松・浜田バレエ団の切通理夢、名村空、水城卓哉、宮本萌が加わった。ユーモアを交えながらも、マチズモ全開の喧嘩のような踊り。特に水城のたくましさ、フルフォードの鉄火肌が目につく。女性がドスを利かせて「ハイハイ」と言うと、男性一列が「クンクン」とカミテに引っ込む場面も(逆マチズモ)。ラテン風の細かいステップよりも、プリエを深く使い、上体を大きくくねらせる土俗的な味わいが印象深い。ペーソスなくカラッとした怒りを含む、腹から踊るダンスだった。顔を確認しようとオペラグラスを覗いていたら終わってしまった。15分は短い。

最後は『セレナーデ』と並ぶ重要なレパートリー『緑のテーブル』。2020年バランシン振付『ウェスタン・シンフォニー』と共に、14回目の上演が行われる予定だったが、コロナ禍のため中止に。今回ロビーで販売された2年前のプログラムには、『緑のテーブル』作品紹介、クルト・ヨースの小伝、ヨースの娘で振付指導者のアンナ・マーカードと小山久美総監督による対談(05年)、32年の「国際振付コンクール」で本作初演を見た江口隆哉のエッセイ、当団における本作上演の歴史が掲載され、貴重な資料となっている。特にマーカード=小山対談では、本作のエッセンス、スタイル、音楽、さらにヨースが影響を与えたチューダー、クルベリ、ピーター・ライト、ピナ・バウシュについての言及があり、当団レパートリーにおけるヨース、チューダー、ライトの必然的流れが浮き彫りとなった。

作品は「死の舞踏」をモチーフに、戦争の始まりから、戦争が引き起こす様々な悲劇、戦争の終結までを、モダンダンスとバレエを融合させた力強い振付で描く。現在の世界状況と合致する普遍的な力を、依然として持ち続けている。指導は前回同様、マーカードの跡を継いだジャネット・ヴォンデルサール。ヨースの息吹を感じさせる生き生きとした舞台を作り上げた。ピアノも同じく小池ちとせ、山内佑太。ハバネラ、ワルツ、葬送行進曲等、劇的かつ引き締まったピアニズムで舞台を大きく支えている。

ヨース自身が踊った「死」は池田武志。前回よりも実質的な存在感が増している。ソロは呼吸が深く、内側からの力が漲っていた。世界を統べる存在であることがよく伝わってくる。前任者の新村純一は、求心力のある体で悲劇的なドラマを作り出したが、池田は体の大きさを生かすボワッとした存在感で、死すべきことが常態であると示した。死が常に人に寄り添い、救いともなるような明るさがある。

騎手の林田、若い兵士の佐野朋太郎、若い娘の早乙女愛毬、(パルチザンの)女のフルフォード、老兵士の大野大輔、老母の喜入、戦争利得者の仲田直樹、兵士たちの加地、関口、渡辺大地はそれぞれ適役。特に大野のどっしりとした存在感、仲田の軽妙な動きが印象深い。老母の喜入は覇気があり、「死」と互角に見えた。黒服紳士アンサンブルの切れの良さ、避難民、娼婦の女性アンサンブルも気迫がこもり、動きが明快。ヨース振付の意図するところを的確に示している。

プログラムもよく、高レベルのパフォーマンスを堪能したトリプル・ビル。今後は鈴木稔(新作コンテ期待)を始めとする所属振付家作品との組み合わせも見てみたい。