荒井晴彦監督『この国の空』2015

標記映画を見た(8月22日 シネリーブル池袋)。なぜ見たかと言うと、荒井晴彦の映画だから。97年の『身も心も』以来の監督作品。『遠雷』や『Wの悲劇』などは、荒井の脚本と知らずに見ていたが、阪本順治監督の『KT』や『大鹿村騒動記』は荒井脚本だと思って見た。『映画芸術』の編集人時代、自らの原稿を年下の編集者に掲載拒否される事件があったが、それを金井美恵子が愛情を込めてエッセイにしていたことを思い出す。
本作は、荒井が長年温めていた高井有一の原作を、戦後70年の節目にようやく映画化できた作品。日常と非日常が綯い交ぜになった戦時下の生活を描き、最後に茨木のり子の詩『わたしが一番きれいだったとき』の朗読で終わる。一見メッセージ性の強い作品に見えるが、やはりエロスを核とするいつもの荒井作品。ショットはすべて内発的。こう撮りたい、こうでなければという監督の思いが、画面全体から伝わってくる。日本の夏の闇、湿気と冷気、蚊の音、虫の音、風の音、木々の音。今にも夏の匂いが漂ってきそうだ。『KT』の時も、日本の夏の闇が、物語の筋と関係なく挿入されていた。この日本の自然(身体を含む)に対する濃やかな感覚は、恐らく日本近代文学によって培われたものだろう。性愛の場面も文学的。微妙な心身の変化、体温の上昇まで事細かに描写される。
役者はほぼ揃っていたが、主役の二階堂ふみの台詞回しが、荒井の世界を壊していた。なぜ演技指導をしなかったのか。長谷川博己池部良の系譜、知的で色気がある)との濡れ場でも、二階堂がセリフを言うや否や、コメディかパロディになってしまう。『朝日新聞』のインタヴューによれば、「あれは僕(荒井)じゃない。二階堂が成瀬巳喜男小津安二郎監督を勉強してきたんじゃないか。高峰秀子原節子のしゃべり方をね」(2015,8,21夕刊)。
もちろん監督は、二階堂が高峰や原とは異なるタイプの女優だと言わなければならなかった。それ以前に、身体と台詞の乖離を指摘しなければならなかった。台詞のない時の二階堂はアップに耐える女優である。自分の生地を生かした台詞回しをすれば、こんなおかしなことにはならなかったと思う。残念。