新国立劇場バレエ団『くるみ割り人形』2015

標記公演を見た(12月19、22、23、26昼夜、27日 新国立劇場オペラパレス)。いつも通り、全キャストを見る強行軍だったが、体のほぐれる自然な観劇体験。大原芸監による有機的な配役と細かいステージング、指揮者バクランの繊細な音楽作りがその理由だろう。
牧阿佐美版は、クララと金平糖の精を分ける伝統的な演出に、ワイノーネンのアンサンブル振付、牧自身の音楽的なディヴェルティスマン、ダニロワ直伝の二幕アダージョを組み合わせたもの。美術のオラフ・ツォンベックのコンセプト(クララが新宿副都心のマンションから、20世紀初頭のドイツへワープし、再び戻ってくる)は、東京所在国立劇場のレパートリーにふさわしい。ツォンベックは衣装のスタイルをタイタニック沈没(1912年)より少し前に設定。その洗練されたモダニズムは、エルキュール・ポアロのテレビ版を思い出させる。個人的には「花のワルツ」の衣装(と装置)が、理屈抜きに好き。子どもの頃、児童文学を読んで憧れたような舞踏会ドレスだ。ツォンベックは「このバレエを通して、人間の持つ内面的美しさ、平和や調和といった美質を描きたい」と語っている(09年初演プログラム)。
また『くるみ』初登場のバクランは、「『くるみ割り人形』には、非常に精神性の高い曲が散りばめられています。だから、音楽家や指揮者は、心に偽りや不誠実があると弾けません。序曲や第1曲は子どもの世界を描いた曲です。子どもは心がとても清らか。ですから我々大人も、子どものようなピュアな心で演奏しなければいけません」と語っている(『The Atre』2016年1月号)。当然ダンサー達も、以上のような心持で演じなければならない。
金平糖の精は5人。全員が技術に秀で、主役としての器もある。ただ無心、無私ということで言えば、筆頭は長田佳世。米沢唯が命がけの献身、柴山紗帆が微細なクラシカル・スタイルの実践で、その後に続く(誰よりも細かい)。木村優里は大きく、華やかで、プリマの風格があるため、小野絢子はずっと矢面に立たされてきたせいか、本来の自分と乖離しがちなため、上記の条件からは外れる(両者ともパフォーマンス自体には何の問題もない)。
小野は今後、自分に即した踊りを追求するよう、方向転換すべきだ。江戸前のシャキシャキ感、キュートでチャーミングな持ち味を生かす方へ。周囲の期待に応えることを止めて、あるべき自分ではなく、今の自分を愛して欲しい。バーミンガム出発前日のオデット=オディール、転倒した後にバリバリ踊ったシルヴィア、コルネホに翻弄されても押し返したベラが、本来の小野。「カカカ」と笑う鉄火肌オディールが忘れられない。
今回最も音楽を感じさせたのは、ドロッセルマイヤーの貝川鐵夫。ツリーが大きくなる場面では、貝川の体を通してチャイコフスキーの音楽が流れた。江本拓のワルツソリストは、繊細なエポールマンが素晴らしい。まさにクラシカルな体。同様にハーレキンの美しい爪先も。また輪島拓也扮する夜会老人のリアリティ+ユーモア、原健太の無意識の存在感、八木進のコメディセンス、宇賀大将の明るさ、女性では川口藍のワルツソリストが印象深い。東京フィルは、6月の『白鳥の湖』とは打って変わった充実ぶり。バクランの緻密な解釈を具現した。