阪本順治『団地』2016

標記映画を見た(6月10日14:50 新宿シネマカリテ)。見終えたあと、ボーっとした。人間、生と死、がまるごとそこにある。そして何よりも監督が役者を愛している。自分の映像美学を優先するために役者を駒のように扱う監督、とは対極にある阪本監督が、同時代にいる、と思うだけで嬉しくなる。
ネタバレになるので言えないが、終盤から結末にかけて、「それでいいのか」と言いたくなるほど浪花節だ。大楠道代藤山直美の対話は、『顔』(2000年)における同じ二人の対話と呼応して、人生を賭けた切実さを帯びる。ありえない結末にしても、映画全体が壊れてもいいから、登場人物たちをこのように遇してやりたかったのだろう。
映画評論家の宇田川幸洋は「終盤は、SFに転調する。くわしくはかかないが、そこからが長く、ウェットで、そこまでのコメディーのいい風味をすべて帳消しにするまで、なくもながの世界観(異世界観?)のリクツをならべる。オチで遊びすぎて、元も子もなくなった。」(『日本経済新聞』2016.6.3 夕刊)と書いていて、阪本の浪花節を真っ向から否定する。阪本監督は、それでもいいと思っただろう。藤山直美岸部一徳大楠道代石橋蓮司の4人にあて書きして、存在の底にまで降りていく対話・会話をさせたかっただけだ。結末はどうころんでもいいのだ。
藤山直美は、時折画面からはみ出て、強力な気を放つ。藤山の気の飛ばしを監督がドキュメントした、とも言える。藤山はテレビの対談番組で、舞台との大きな違いは、まばたき、と答えた。映画ではまばたきはしない。舞台では、まばたきをする。「まばたきは脳内の情報処理と密接に関わっている」と阪大の脳科学者、中野珠実准教授(『日本経済新聞』2016.6.12)。まばたきをするとリラックス時に活動する脳の領域が活発化する。「まばたきは脳に入る情報に区切りをつけて、新たな展開に備えられるようにする役割を果たしているのではないか」(中野)。即興・アドリブが命の舞台では、まばたきは重要。監督のフレームに入る映画では、不要? その場ではなく、その世界に入る集中力が必要なのだろう。