鈴木忠志×中村雄二郎『劇的言語』増補版

標記対談集を読み終えた(2016年6月15日)。昨年末、SCOTの公演時に購入し、少し読みかけて積んでおいたのを、ようやく読み終えたのだ。長年続いた様々なことが終わり、脳がリセットされたため。
『劇的言語』自体は1977年に白水社から刊行、増補版は1999年、朝日文庫朝日新聞社)の形で出版された。対談はいずれもその前年に行われ、最初の対談時は、鈴木37歳、中村51歳、2回目が59歳と73歳である(誕生日計算なし)。最初の対談がやはり面白い。一部、覚えとして抜き書きする(全て鈴木の言葉)。

生活のほうが演劇を真似るということも、昔はいろいろあったようです。例えば初代の中村富十郎が舞台上を内股で歩くことをはじめて考えだした・・・それ以前は女性も外股歩きだったらしい(p.20)。


うちの劇団員に・・・舞台にバケツを置いて、そこに小便してみろと。これがなかなかできない。最初に集中がいるんですね。スタニスラフスキーの言う公開の孤独、つまり他人の注視のなかでも孤独になって集中しなきゃ小便はできない・・・ただしそこから、観客の前で実際に小便することがタブーや制度に反対する、価値のある演技なり行為になると考えてしまうのは・・・落とし穴なんですね。小便する演技が役者に課せられたとするときに、観客を前にした舞台上でほんとうに小便しうる役者が、小便を出さないで小便したとき、「小便する演技」が成立する。演技論として僕はそう思うのです。観客の前で小便ができないのに小便の真似をするというのは、自分の軀のなかにある制度と批評的に関わっていない、ただの空真似です。しかし、舞台で小便をすること自体に価値があると言っているのじゃない。それができる集中にまで行っていて、それをフィクショナルに再構成する。それが僕の言う演技なわけです(pp.27-28)。


舞台というものは明らかに現実空間です。そこは現実の軀がそのまま移行しているのですから、僕の考えでは、舞台で行われることは「変身」ではなくて「顕身」なんですね。(p.31)


能の詞章なんかは、何を言っているのか分からないけれども、感じだけは分かる。つまり、一義的な意味は伝えてこないけれども、比喩とかイメージの連続みたいなもので、全体としてある感覚を分からせる。音声でもそうなんですね、ある台詞を意味として伝えるのじゃなくて、むしろ音色で伝える。(p.38)


歌舞伎の場合でも空間の拡大はたいへんなものでしょう。国立劇場のような広い舞台になっちゃって、昔は例えば駆ける芸であったものが、今では舞台の中央から花道までほんとうに駆けるわけです・・・(歌舞伎の成立期の舞台は)間口二間から三間。幕末には八、九間になったと言われてますね。(pp.46-47)


スタニスラフスキーは、一応はリアリズムと言われるチェーホフを背景にして、そのシステムをつくったのですね・・・そのために彼のシステム全体が古風なリアリズムに見られたのですが、スタニスラフスキーが言っていることはそうじゃない。俳優が舞台で、自分のなかの潜在的なものを開いて飛躍するための滑走路を提供するのだ、というのがスタニスラフスキーのシステムの狙ったことなんです。潜在意識というものは変に人為的に近づくと、意識的になって貧しいものになる。だからそれを貧しくしないあらゆる方法を講じておいて、あとは神様の助けを借りるしかない。つまり、インスピレーションを得る方法である、と言っているのです。インスピレーションを得るためには、肉体というのは偶然性の強いものだから、考え方とか訓練法を厳密にしていかなければだめだということで、分析的な方法論を提出したわけです。(pp.52-53)


近代劇でもチェーホフの場合などは、全員がコロスであるという構造ですね・・・全員がコロスで、それが奏でるシンフォニーの全体をチェーホフは狙っている。無関係の関係が一つの全体を形づくっている。全体としてはコロスが黙って座っているだけで出てくるような印象へと持っていった。うんとおしゃべりをしつつ結果としては沈黙の言語と言える一点に収斂させたという意味では、チェーホフ劇の登場人物はコロスですね。(p.79)


ベケットの『ゴドーを待ちながら』は、明らかにコロスですね・・・チェーホフ以後どんどんヒーローを消していったという過程があって、現代は本来はコロスの芝居しかあり得ないと思うのです。(p.80)


一般に演劇は祭式から出てきたと言われていますね。現実的にはコロスは英雄の墓の前で行われた民衆の鎮魂歌舞で、その歌舞のうちに死んだ英雄がお面を被って生き返るんだという説があるわけでしょう。つまり、その点では、能の構造に似ているわけですが、実際の舞台のほうからギリシャ劇の成立の事情を考える、柳田国男的に言えば、逆に、信仰を等しくせざる者が出てきたときに、初めて観客が成立し、だからまた必然的に舞台意識というものが成立するわけですよね。(p.81)


ヒーローを表現するときに、媒体としてコロスが出てくるのじゃないかという気がする・・・アイスキュロスは、オイディプースを絶対に書きたいのです。ところがオイディプースをそのまま書いていくことには、ある危険な感覚があるだろうと思うのです・・・アイスキュロスなりソポクレスがオイディプースとかアガメムノンを書いていくときに、その作家自身にすでに共同性からはずれているという自覚があると思う。(pp.82-83)


不条理演劇が、内面の危機感とか孤独感とか、生存するだけで感ずるような一つの直観なりある感覚を、イメージとして舞台上に実現させようとするとき、俳優自体はオブジェでいいわけです。ベケットの芝居でも別役実の芝居でも、俳優が言っている一語一語には、それ自体としては意味がない。ある時間が流れ終わった瞬間に、その時間が、作家の危機感なり疎外感なり、アイデンティティーの亀裂といったものの信憑性を観客に感じさせられればいい。俳優はそのための道具立てであり、オブジェであるわけです・・・俳優たちが自分をオブジェ化する、自己物化する演技によって、作家の潜在的な直観の深さというか、無意識なものを全体として出そうとする。そういう意味で不条理劇は俳優に舞台上ではコロス的に存在することを要求している。(p.84)


(中村―アントナン・アルトーが、一所懸命に肉体の復権を強調するでしょう。日本人から見るとどうしてあんなに強調しなければならないのか分からないところがある。)その肉体というのも、バリ島の例を出したり、演劇をペストにたとえたりするのですが、どうも僕らが感じる演劇上の身体とか肉体とはちょっと違うのですね。演劇論はいろんな人が書いているけれども、身体や肉体にまで関わった演技論がほとんどない。また、渡辺守章さんが指摘しているように、俳優個人の回想録ふうのものはあっても日本の芸談のようなものは全然ないらしい。一方、日本には、正宗白鳥の言葉を借りれば、演劇史はあっても戯曲史がない。この場合の演劇史というのは芸能史のことで、芸能という側面の強い歴史はあるけれども戯曲のほうの歴史はないということなんですね。演劇といえば型とかしゃべり方の歴史が重要な位置を占めている。(pp.88-89)


ポーランドの演出家グロトフスキーが日本に来たときに、国民性の特徴を表すもので演劇にとってもっとも重要なものは何か、と僕に訊いたわけです。僕はそれに対して、行為の美意識であると答えた。日本人の場合、倫理意識と行為の型とはかなり強く結びついているでしょう。一つの行為のあり方が美しくあること、それがその人間の倫理意識を表すし、精神状態を反映しているという見方が、ついこの間まであった。(p.93)


日本人の肉体表現には、苦痛に対する哲学みたいなものがあるような気がします。能でも、ずっと立っているとかずっと座り続けているとか、中腰のままでいたりする・・・肉体というものを苦痛で追い込んでいって、意識を非常に明晰に追及していった果てに、それが無意識に、つまり全身的に転化する。全身的な何かを顕在化させる肉体的な方法として、苦痛というものが考えられていたのではないか。(p.102)


呪術的なものの残影が一時期、歌舞伎役者などに残っていて、自分の肉体を対象化して、リフレインに耐えるようにそのこと自体を遊ぶ。つまり肉体のなかで、コントロールしながら越境して戻ってくる。人為的なヒステリー症状や憑依状態を起こすわけです・・・本当の歌舞伎役者はファシズムなんかに対する抗体を持った人なんですね、僕に言わせれば。(p.104)


西洋演劇で言うアンサンブルというのは、日本語で言えば息=呼吸が合うということだと思うのです。日常でも親しい人間同士だと・・・相手の存在のリズムが分かる。それが息が合っているということで、舞台でもそういう表現が必要なわけです・・・演出家が外側からリズム的に強制しても本当のアンサンブルはできない。外面は同じでも、ちょっとしたことが違う。生命のフクラミのようなものが欠けてくる。それぞれが相手の存在のリズムをさぐりながら瞬間に同時にハッと行ったときに、表現がアタリになるのです。(pp.109-110)