Noism『ラ・バヤデール』2016

標記公演を見た(7月1日 KAAT神奈川芸術劇場 ホール)。新潟3公演を経て、神奈川3公演、続いて兵庫2公演、愛知1公演、静岡2公演、鳥取1公演と、全国を回る。演出:金森穣、脚本:平田オリザ、振付:Noism1、音楽:ミンクス、笠松泰洋、空間:田根剛、衣装:宮前義之、木工美術:近藤正樹、出演:Noism1&2、奥野晃士、貴島豪、たきいみき(以上SPAC)という重量級のコラボレーション。ただし振付は金森ではない。Noism1のダンサーたちに振り付けさせたのは、芸術的な試みなのだろうか。あるいは教育的な試みなのだろうか。金森が最終的に仕上げているせいか、金森の語彙を際立って外れる振付は見当たらなかった。ただしカリオン族の女性達の、バレエのパを多く組み込んだ踊りには意外性がある。全体に、金森単独振付の時のような、生きた音楽性を感じさせたのは、二幕の所謂「山下り」の場面からだった。
金森の演出は、鈴木忠志へのオマージュにあふれる。冒頭に登場する老人ムラカミは、鈴木のリア王のごとく、看護師に付き添われ、車椅子に乗ったまま舞台を見守る。物語は狂人の回想、という形である。終幕には登場人物たちが、鈴木メソッドのバレエ歩きで、塔の周りを回る。また能の橋掛かりをイメージしたという、両袖に通じる斜線の道の出入りも、鈴木流の歩行で行われ、振付にも随時取り入れられている。加えてSPACの俳優たちの、意味よりも強度を重視する発話法。鈴木ファンからすると、この作品は、舞踊が加わった鈴木作品に見えるかもしれない。
平田オリザの脚本は、プティパの『ラ・バヤデール』の舞台を、満州国と思われる幻の国に置き換えたもの。金森の意見を取り入れながら6稿(3月現在)を重ねたとのことで、平田の意図がどこまで残されたのかは分からないが、設定と部族の命名だけでも面白い。物語は、オロル帝国とヤンパオ帝国に挟まれたマランシュ帝国が舞台。五族協和の名のもと、5つの民族と馬賊が皇帝プーシェに仕える。カリオン族(朝鮮族)、メンガイ族(モンゴル族)、マランシュ族(満州族)、オロル人(ロシア人)、ヤンパオ人(日本人)、馬賊が、それぞれ水色、銀色、黄土色+こげ茶色、紫色、白色、赤紫の衣裳を身に着けて、民族の誇りを示す。皇帝は人形を配し、ヤンパオ人の傀儡であることを視覚化した。
平田の芝居は、絶妙な間合いと語り口で、発話する登場人物の実存を浮かび上がらせるのが特徴。鈴木メソッドは真逆にある。平田の言葉をSPACの俳優が喋る、という興味深さはあるが、平田の幻の国への想い、それを子孫に伝えたいという切実な気持ちが、平田芝居で見た(と想像する)ほどには、残らなかった。翻って、平田の芝居のように発話した場合、舞踊とのコラボは可能だろうか。例えば、ガムザッティとニキヤのマイムに相当する、フイシェン(たきい)とミラン(井関佐和子)の場面。フィシェンの「木槿の咲く国へ帰りなさい」を、現代劇リアリズムでやると、ミランのマイムに拮抗できるのか。いずれにしても、平田ファンにとっては、馴染みにくい舞台だっただろう。
バレエファンにとっては、『ラ・バヤデール』の筋書き通りに話が進み、カリオン族などはバレエ色濃厚な振付でもあったので、面白かったのではないか。「山下り」は縦一列に並んだミランの12の影が、鋭く両腕を開きながら、左右に分かれる。プティパ振付の残像が相乗効果となり、また宮前の美しい衣裳(今回はダンサーのラインを考慮した)も加わり、コンテンポラリー・ダンスによる画期的なバレエ・ブランとなった。
ミランの井関は、前回公演の『カルメン』再演から、脱皮した印象。周囲との距離を図り、演技の計算(いい意味で)を感じさせるようになった。今回も、存在感を見せながらも、一歩引いた演技で、美しいミランを造形した。ただ、パートナーが金森や小尻健太だった場合(『愛と精霊の家』のように)、さらに高次に止揚された身体を見せたかもしれない。