エッセイ『批評家の直観』2016

標記エッセイは、『ダンスワーク』74(2016夏号)の特集、「舞踊批評―透視するものとは」に寄稿したものである。

批評とは、知性と感性を総動員して作品を「経験」し、結果を分析すること。最終的には、その作家が現代の文脈の中でどのような位置を占めるのか、また歴史的にどのような意味を持つのかを見極めることである。批評家は当然、様々に研究を重ねなければならない。ただ学者とは異なり、自らの論に証明の必要がない。証明を省き、時間短縮して、作家及び作品の可能性を、直観で見抜く。批評は、後代の学者の二次資料として活用されるだろう。「批評家の直観のみが、作品に到達しうる」のは、批評家が人生を賭けて作品を見ているからである。


この一年で最も震撼させられた批評は、柄谷行人の「津島佑子さんを悼む」(『朝日新聞』2016.2.23)だった。津島の文学史における位置付けはなく、自分にとっての津島が綴られているだけだが、彼女の生涯が濃厚に立ち昇る。柄谷が津島の可能性を全力で見抜き、それが開花するさまを見続けてきたことがよく分かる。追悼文は、「日本では知られていないが、津島佑子ノーベル文学賞の有力な候補者であった。それに最もふさわしい多様な作品を書き、国際的な活動をしていた。もう少し長生きすれば、受賞したであろうから残念である。また、私は反原発デモで、何度か、彼女と一緒に国会周辺を歩いた。そういうことが二度とできないのかと思うと悲しい。」で終わる。その慟哭は、作家津島佑子への最大の祝福である。批評に境地があるとするなら、最高位は、追悼文にある。


本誌に公演評を書く場合、どのような選択をしているのか。本誌の性格上、ジャンルはコンテンポラリー・ダンスを選び(バレエ評は編集部依頼)、その中でよいと思ったものを書く。何をよしとするかは、「踊り」が生じているか否かで決まる。「その場で動きが生み出される、ダンサーが周囲と交感しつつ、無意識の領域に達している、観客に向かって開かれている」、そうした公演をよいと思う。反対に、緻密に作り上げられていても、ダンサーがその場を生きていない公演は、よいとは思わない。それらは劇場のコンテンツになるかも知れないが、「踊り」とは言えない。


かつて作家で詩人の富岡多惠子が、詩と歌詞の違いは、「分からないものを目指して書く」と、「分かっていることを書く」にあると、(日本歌謡曲への愛を込めながら)語っていた。それに倣って言えば、分からないものを目指してもがくのが、「踊り」なのではないか。これは振付の有無とは関係ない。振付があってもそれは、未知のレヴェルに到達する手立てに過ぎないからである。「分からないものを目指すこと」は、一見、社会の規範から限りなく逃れることと同義に思える。しかし、分からないものを目指すには、メソッド(玄人の体)が必要である。それがなければ、分からないものを目指していることさえ、分からない。メソッドを手に入れる場合、そこには最低限の社会性が生じる(かつて山崎広太は、韓国舞踊とベリーダンスの両方を踊るダンサーに対して、フォーマルな踊りを二つやるのは、下品だと思う、と語った)。メソッド(社会性)を体に入れつつ、そこから逃れるところに、詩=踊りが生まれると思う。


批評家は、作り手の併走者だ。振付家がどのような作品を作っていくのか、ダンサーがどのように進化していくのか、傍で見届ける役回りである。しかし両者の間には、渡ることのできない川がある。振付家は作る玄人、ダンサーは踊る玄人、批評家は作ること、踊ることに関しては素人。誤読を前提に、何とか作り手に自分の言葉が届くように、祈って書く。心掛けているのは、後世に残す記録ということ。作品データを除くと、客観的記述はあり得ないので、自分が感じたことを、正確に書く。たとえ振付家やダンサーの意図と掛け離れていたとしても、彼らの気付かない無意識を指摘できるのでは、と思って書く。心持ちとしては道化のつもりだ。笑われながら、「本当のこと」を書く。道化同様、批評家は社会的には非力の存在だと思う。


「自分の」コンテクストを編むことは、学者にはない、批評家の特権である。なぜ勅使川原三郎には体が反応せず、山崎広太には反応するのか。自分の体を信じて、あれこれ考える。勅使川原の空間構成、音楽構成はすごいと思う。ヨーロッパで受け入れられる理由はそこにあるだろう。しかし、その場にいるダンサーを見ていると、「それで本当に満足なのか」と思わされる。さらに、至近距離で見ても、何のエネルギーも届かないことに驚かされる。動くインスタレーションを見るのと同じで、見ることが、こちらの細胞を揺るがす「経験」として刻印されない。対して、山崎の時空構成は(意図的に)緩く、分析を拒むが、そこにいるダンサーは、自分が組み換えられる経験をする。つまりは観客も。その作品に加わることが、人生と関わっているのだ。美的な作家よりも、実存的な作家、美的なダンサーよりも、実存的なダンサーを偏愛する。