新国立劇場バレエ団『ロメオとジュリエット』2016

標記公演を見た(10月29、30日、11月3日 新国立劇場オペラパレス)。新国立はマクミラン版『R&J』を01年に初演、今回で4度目の上演となる。その特徴は、まずシンプルであること。余計な背景説明を省いて、若い二人の恋と死に焦点を当てる。先行版のラヴロフスキー版、クランコ版が演劇的であるのに対し、暗転やクローズアップの手法を用いるマクミランの演出法は、映画的と言える。肉体の絡まる官能的なパ・ド・ドゥは、マクミラン振付の表徴。プログラム(今季から無料配布、ただし配役表が主要キャストのみとなった)によれば、マクミランは1940〜50年代、初期のローラン・プティ作品などフランスのバレエ、アメリカのジェローム・ロビンズ作品、英国演劇のジョン・オズボーンの舞台に傾倒した(マクミラン公式サイトより)。動きそのものを追求する振付姿勢、パ・ド・ドゥの官能性は、プティの影響もあるのだろうか。
カール・バーネットとパトリシア・ルアンヌを招いた演出は、細かく行き届いていた。前回よりも動きがくっきり見える。フェンシングの場面、舞踏会も見応えあり。またマーティン・イェーツの気品あふれる指揮が、東京フィルの弦の美しさを十二分に引き出していた。金管も健闘。美術が以前よりもよく見えるようになったのは、気のせいだろうか。
主役は、二日目ロミオ役の井澤駿が故障降板したため、完全なWキャストになった。井澤はパリス役も降板。パリスはシングル・キャストに、またベンヴォーリオは最初からシングル、キャピュレット夫妻もシングルと、手堅い布陣だった。大原監督のマクミラン作品に対する敬意の表れと考えられるが、全体的に見ると、6回公演としては、やや彩りに欠ける配役という印象。なおプリンシパルの八幡顕光は、今回出演がなかった。


初日のジュリエットとロミオは小野絢子・福岡雄大、二日目は米沢唯・ワディム・ムンタギロフ(英国ロイヤル・バレエ団プリンシパル)という組み合わせ。小野・福岡は絵に描いたようなロミジュリだった。いつものように振付のニュアンスをよく研究し、稽古を重ねてきたのが分かる。初日のせいか、所々、振付を正確に踊るという意識が見え隠れしたが、2回、3回と踊るにつれて、自然な流れになっていったのではないだろうか(未見)。
一方、米沢・ムンタギロフは、まず役の体となり、結果として振付を踊るというアプローチ。いわゆるマクミランの濃厚な色合いよりも、東洋風のあっさり、すっきりした舞台だった。米沢は、『ジゼル』の時にも思ったが、恋の喜びよりも、別れ、裏切り(乳母)、絶望といった悲劇の方に、親和性があるようだ。つまり悲劇から逆算しての恋。ムンタギロフとの出会いも、恋人というより、自分を理解する分身との出会いのように見える。それほど孤独が深いということだろうか。
小野にも言えることだが、先輩の酒井はなが恋の場面で見せてきた、生の喜び、エロスの迸りといったものが、二人とも希薄である。さらに言えば、小野は肉体を、美を表す手段として使い、米沢は精神を表す手段として使っている。バレエが演劇と大きく異なる点は、肉体の顕現。アラベスク一つ、デヴェロッペ一つで、見る者の人生を変えることができる。手段ではなく目的としての肉体が、バレエダンサーの最終目標ではないか。つまりフェティッシュとしての肉体。


新国立の『R&J』史上、最強の組み合わせは、森田健太郎のロミオ、熊川哲也のマキューシオ、山本隆之のベンヴォーリオだった(もちろんジュリエットは酒井)。彼らの音楽的に統一された「マスク」、キャラクターに即した的確な演技を超えることは難しいだろう。そうだとしても、マキューシオ(福田圭吾、木下嘉人)、ベンヴォーリオ(奥村康祐)が彼らの最高の演技をしたとは言い難い。再演の福田は自分なりの工夫があったが、他は演出の手が入っていないように見えた。
全体で最も印象に残ったのは、キャピュレット夫人の本島美和。貴婦人らしい美しい立ち姿は言うまでもない。ジュリエットの優しい母として、やや人の好い夫(貝川鐵男)を見守る妻として、ティボルトの愛情深い叔母として、その場を生きている。ティボルトの死体を抱く姿は、聖なるピエタそのものだった。
中家正博の抜き身のような鋭いティボルト、菅野英男の兄のようなティボルト、渡邉峻郁の貴族らしいパリス、丸尾孝子のふくよかな乳母、輪島拓也の情熱的なロレンス神父、またモンタギューも悠々と演じた古川和則の、古ダヌキのような司祭、長田佳世&寺田亜沙子率いる娼婦連が脇を固めた。輪島の真剣な祈り、古川の懐の深すぎる祝福は、舞台の幅を大きく広げている(古川は、哲学者のようなロットバルトを演じていたので、大公や家庭教師もできるだろう)。