新国立劇場バレエ団2007年公演評

標記公演評をまとめてアップする。

●『眠れる森の美女』


新国立劇場開場記念公演から十年、五回目のセルゲーエフ版『眠れる森の美女』は、川村真樹の主役デビュー公演として記憶されることになった。川村は99年に入団、04年にソリストに昇格し、リラの精、ミルタ、『シンデレラ』の仙女など、重要な役どころを踊ってきた。美しい容姿に伸びやかなライン、正確な技術を持ちながら、今一つ押し出しの弱さが弱点となっていたが、初主役の今回、これまでの印象を完全に覆すパフォーマンスを見せた。


とても初役とは思えない完成度の高さ。川村の七年間が凝縮されている。踊りは繊細で、真情がこもっている。役解釈はすみずみまで施されているが、演技上の工夫で見せるよりも、常に周囲を祝福する存在として輝きを放つ、理想的なオーロラ像だった。バレエ団は酒井はなを登録ダンサーに移行させた後、酒井の跡を継ぐプリマを育てようと努めてきたが、現状では必ずしも成果が上がっているとは言えない。その中で今回川村が成功を収めたことは、バレエ団にとって重要な意味を持つと言えるだろう。さらに川村は酒井同様、舞台を一変させ、劇場を親密な空間に変える力を持っている。プリマ誕生への期待を十二分に抱かせるデビュー公演だった。


王子は初役の貝川鐵夫。ヴァリエーションの完成はこれからだが、踊りに勢いがあり、何よりも舞台を明るくするポジティヴな精神性が魅力である。前髪はわざとカジュアルにしたのだろうか、少し気になった。


トリプル・キャストのうち最終日を踊った真忠久美子は、二度目のオーロラ役。パートナー山本隆之の手厚いサポートを得て、二幕では夢のようなアダージョを展開した。真忠のおっとりした眠り姫らしい存在感は、バレエ団随一と言えるだろう。しかし一方で、一幕の不安定さはオーロラ役から大きく乖離している。古典全幕の主役としては、もう少し自立した踊りが要求されるだろう。山本は、回転技に少し乱れがあったものの、王子役としては完成されている。パートナーへの目配りと舞台をまとめる責任感は、山本の美点である。


初日と三日目を踊ったゲストは、キエフ・バレエソリストのアナスタシア・チェルネンコと、ボリショイ劇場ゲストソリストのデニス・マトヴィエンコ。チェルネンコは初役なのか、役作り、踊りともに精彩を欠いていた。初日のゲストとしては力不足だろう。パートナーのマトヴィエンコはここ一年で踊りが格段に進歩した。しかし依然としてノーブルな演技は不得手のようで、王子らしさを出すつもりが陰気としか映らない。ドゥミ・キャラクテールが本来なのかもしれない。


リラの精とカラボスはダブル・キャスト。西川貴子は役(リラ)の性根が入った踊りを見せる。三幕のヴァリエーションはもう少し柔らかさが欲しいが、ロシア派の規範に則った踊りと善の精としてのリラが二重写しになり、作品の堅固な要となっている。一方湯川麻美子のリラは、妖精らしい甘い雰囲気。踊りも精度を増しているが、残念ながら役の踊りとまでは行かなかった。


カラボス初日のイリインは、音楽のドラマ性を汲み取った優れたマイムで舞台にアンサンブルを作り上げる。今やバレエ団の宝的存在。一方のアクリはかわいらしく華やかなカラボスだった。妖精では、鷹揚の西山裕子、呑気の高橋有里、勇気の厚木三杏、元気の寺田亜沙子が、妖精らしい雰囲気を伝える。また寺島まゆみの白い猫がかわいらしい。パも明晰だった。


エルマノ・フローリオ指揮、東京交響楽団の初日は、まるでゲネプロだった。セルゲーエフ版の目玉である間奏曲も安定しない。最終日までにはフローリオがまとめ上げたが、もったいないプロセスだった。(2月1、2、4日 新国立劇場オペラ劇場)  *『音楽舞踊新聞』No.2718(H19.3.11号)初出

●『オルフェオとエウリディーチェ


新国立劇場バレエ団が、アメリカ人振付家ドミニク・ウォルシュの新作『オルフェオとエウリディーチェ』(グルック曲)を上演した。05年の石井潤振付『カルメン』に続くエメラルド・プロジェクト(内外の振付家に物語のある新作バレエを委嘱する)の一環である。


ウォルシュ版『オルフェオとエウリディーチェ』は、グルックのオペラ全三幕を二幕に縮め、オルフェオバリトンに変更した上で、オペラのアリアやレチタティーヴォ、合唱を最大限に生かしている。序曲とバレエ曲を使ってプロローグとエピローグを設け、物語に現代的な枠組みを加えているが、概ねオペラの構成に忠実である。


ただし、グルック独特のオルフェオとエウリディーチェによる迷路の掛け合いから解釈したのか、エウリディーチェ像が女性の原型的な二面性(聖母と娼婦)を併せ持つ人物にまで膨らんでいる。さらに、プロローグの出かけようとするオルフェオをエウリディーチェが引き留める愛の戯れは、ウォルシュ自身が今回の主役の一人、酒井はなと踊った『マノン』を想起させて、この版の出自の一つを明らかにした。


振付はバレエを基礎に、モダン、コンテンポラリーの語彙を加えている。ポアントはFuries(復讐の女神たち)のみが使用、その化け物性は、エリュシオンの精霊たちによる平面的でアルカイックな動きと対照を成す。全体的にマクミラン張りのリフトの浮遊感が多用されるが、物語に立脚した使用と言える。演出は緻密。特にウォルシュがその音楽によって作品を選ぶきっかけとなった復讐の女神たちと死霊のシーンは、照明バトンの上下動と、奥舞台の距離感を有効に生かした劇的な演出だった。ルイザ・スピナテッリの洗練された衣裳も効果的。


音楽のドラマ性を写し取るウォルシュの力は、『ア ビアント』(牧阿佐美バレヱ団)におけるクラシックの振付同様、明白である。ただしこの作品が、歌手の参加する舞踊作品ではなく、舞踊シーンの多いオペラ作品に見えるのは、ソリストの踊りが歌と拮抗するだけの強度に欠けること、独立したパ・ド・ドゥがないこと、ソリストが三名のみで、群舞は音楽の背景と化してしまうこと、また、照明がダンサーの判別を許さないオペラ寄りであることが理由として挙げられるだろう。この作品の可能性は、オルフェオバリトン(吉川健一)の歌唱と、オルフェオ役ダンサー(中村誠)の音楽性が響き合った二日目の組で発揮された。


ダンサーは初日と三日目が山本隆之と酒井はな、二日目は中村と湯川麻美子、四日目は江本拓と寺島ひろみという組み合わせである。山本と酒井の踊りは、動きの隅々まで解釈が行き届き、振付の希薄さを感じさせない。特に二幕の迷路は感情のやりとりが濃厚で、近松の道行きを思わせた。酒井は女性の聖性と魔性を、細かい役作りと磨き込まれた身体で浮かび上がらせる。繊細でエロティックな感触は酒井独特のもの。ファム・ファタルの輝きがあった。


中村と湯川組も、相性の良さを窺わせる熱演。特に湯川は、今までで初めて形式と内容が一致した踊りを見せている。体も透明で美しい。一方の中村も、美しいラインと優れた音楽性を発揮する。体が音楽で分節化されているようだった。振付の音楽性を振付家の意図以上に身体化させたという点では、エリュシオンの女性リーダー西山裕子と双璧である。江本=寺島組は、実力を出し切れなかったせいか、先行二組がそれぞれ達成した虚構度の高さを示すには至らなかった。


バリトンオルフェオ)の吉川、ソプラノ(エウリディーチェ)の國光ともこ、八名からなる新国立劇場合唱団がすばらしい。編曲を担当したガーフォース指揮の東京フィルも緊密な音を響かせた。(3月21、23、24、25日 新国立劇場中劇場)  *『音楽舞踊新聞』No.2721(H19.4.21号)初出

●『椿姫』


新国立劇場バレエ団が、同劇場開場10周年記念公演の一環として、『椿姫』(全二幕四場)を上演した。振付・演出は99年より芸術監督を務める牧阿佐美、音楽はエルマノ・フローリオ編曲のベルリオーズを使用、舞台装置・衣裳はルイザ・スピナテッリ、照明は沢田祐二の組み合わせによる全幕創作バレエである。


牧版『椿姫』の根幹はフローリオの優れた音楽構成にあった。ヴェルディのオペラ『椿姫』の台本を踏襲し、ベルリオーズの『幻想交響曲』『イタリアのハロルド』『ファウストの劫罰』等から的確な選曲を行なっている。自ら率いる東京フィルの好演もあり、継ぎ目を感じさせない独立した音楽世界を築き上げた。演出・振付はアシュトン、マクミラン、ノイマイヤー等の影響を感じさせはするが、牧自身の呼吸と思考が全編を貫いている。牧が現在持てる力を出し切った力作と言えるだろう。


独自性を感じさせたのは、二幕ディヴェルティスマン。ポアント使用のジプシー、チャルダッシュ、タランテラや、官能的なアラブは、音楽の見事な舞踊化だった。特に回転技やステップの切れに、振付家の自然な音楽性を見ることができる。一方、本筋のドラマ場面では、マルグリットとアルマンの父による引導を渡すデュエット、終幕のマルグリットとアルマン、アルマンの父による脱力のパ・ド・トロワに力があり、逆にマルグリットとアルマンのパ・ド・ドゥに物足りなさが残った。


出会いのパ・ド・ドゥは短く、田舎での幸福のパ・ド・ドゥは困難なリフトが二人の愛を妨げるかに見える。終幕のマルグリットはすでに死の淵にあって脱力しており、さらにアルマンの父の介入もある。二人の愛の悲劇よりも、マルグリットの崇高な自己犠牲に焦点が当てられた演出は、残念ながらドラマのダイナミズムを失わせる結果となった。


マルグリット四キャストのうち、これまでの印象を塗り替える進境を示したのが、初日のザハロワ。アルマン役マトヴィエンコの形式的な演技や演出傾向のせいもあり、ドラマティックな愛を描くことはなかったが、高級娼婦の華やかな存在感、女主人の毅然とした立居振舞、アルマン父との苦しみの葛藤、終幕の崇高なソロと、牧の振付を十全に咀嚼し、そこに自らの解釈を加えている。ドラマティック・バレリーナとしての思いがけない一面を見た。


国内組では、トップを切った酒井はなの磨き抜かれたラインが圧倒的だった。アルマン父森田健太郎との激烈なパ・ド・ドゥは、二人によるマクミラン版『ロメオとジュリエット』を想起させる。またバレエ団の若手、本島美和は終始駆け抜ける若々しいマルグリットを、ゲストの田中祐子(牧阿佐美バレヱ団)は落ち着いた母性的なマルグリットを造形した。


対する男性陣は、山本隆之がソフトな語り口で恋するアルマンを、ゲストの菊地研(牧阿佐美バレヱ団)が無謀さを秘めた激しいアルマンを、そしてゲストのテューズリーがデ・グリュー張りの美しいアラベスクで正統派アルマンを作り上げた。ただし国内ゲストの演技は、所属団員の出演機会を奪うに足るレヴェルとは言い難い。


アルマンの父森田の力強い存在感と美しいラインが印象深い。公爵のテューズリー、冨川祐樹は適役、プリュダンスの厚木三杏は主役を凌ぐ華やかさだった。また小間使いナニーヌの神部ゆみ子が、優れた演技でザハロワを支えている。


ディヴェルティスマンでは、ジプシー川村真樹の正統的な踊り、アラブ真忠久美子の魔術的な上体の美しさと金の奴隷を思わせる中村誠の官能的な踊り、チャルダッシュ西山裕子の驚異的な音感の鋭さと精妙な腕使いが楽しみだった。また女装のメヌエットダンサー、トレウバエフと相手役吉本泰久の演技力も注目に値する。


二幕でマルグリットの落とした扇を傍らの男性ではなく自らが拾う演出にしたのは、何か特別な意図があったのか。不明だった。指揮はフローリオ、演奏は東京フィル。(11月4、7、10、11日 新国立劇場オペラ劇場)  *『音楽舞踊新聞』No.2742(H20.1.1-11号)初出