新国立劇場バレエ団2011年公演評

標記公演評をまとめてアップする。

●『ラ・バヤデール』


新国立劇場バレエ団新春公演は二年半ぶり4回目の牧阿佐美版『ラ・バヤデール』。聖なる森の梢が上下する、ダイナミックな場面転換が見せ場の一つである。牧版の特徴は結婚式と寺院崩壊の場(ランチベリー曲)を加え、物語に一貫性を持たせた点にある。演出はコンパクトでスピーディ。結婚式直前にソロルが苦悩する幻影場面は、簡潔で効果的だった。ただし結婚式列席者の省略には物足りなさが残る。終幕はニキヤとソロルの魂が結ばれず、ソロルは断罪される。他の牧作品同様、女性の無謬性、不可侵性が印象づけられた。


バレエ団にとっては一年ぶりの古典バレエ。芸術監督が変わったこともあり、アンサンブルは伸び伸びと個が際立って見える。このため影の王国では、以前の息詰まるような様式美の代りに、32名(元は48名)の人間が数珠繋ぎでアラベスクし、ユニゾンでパの組み立てを行う振付そのものの破格が、浮き彫りになった。一方、マイム場面については前回よりも迫力が減じた。老け役がまだ育っていないこと、マイム教育の不備が原因だが、名脇役イリインの不在も大きい。


ニキヤ、ガムザッティのそれぞれ4キャストは全員初役。その中で圧倒的な完成度を誇ったのが、長田佳世のガムザッティだった。本来はニキヤの柄だろうが、マイムの気品、音楽性、パトスのこもった雄弁なポール・ド・ブラ、抑制されたライン、磨き上げられた繊細な踊り、万全の技術と、全て揃っている。有名なヴァリエーションはイデアそのもの。舞台への献身性を併せ持つ、まさにプリマの器である。


他のガムザッティはベテランの厚木三杏、中堅の本島美和、堀口純と適役である。ただ残念ながら厚木と堀口は本調子とは言えず、本島はよく健闘したものの、マイムの音楽性とポール・ド・ブラに難があった。


主役のニキヤはベテランの域に入りつつある川村真樹に一日の長があった。美しく、詩情と気品にあふれるニキヤである。演技はあっさりめだが、踊りは美しいラインに強度が加わり、申し分ない。三幕ヴェールの踊り、ディアゴナルの切れ味、スピードが素晴らしかった。


ザハロワの代役という重責を担った小林ひかる(英国ロイヤルバレエ)は、技術も安定、プロダンサーとして舞台を作ることの意味をよく理解している。詩情や情感を見せるには至らなかったが、立派に代役を務めた。反対に技術やスタミナの点で少し綻びはあったものの、日本人に馴染み深い情感を醸し出したのが寺田亜沙子。美しい容姿に大人っぽさが加わり、終始しっとりした情緒を舞台に漂わせた。


最年少の小野絢子は懸命な踊りが共感を呼んだが、ニキヤとしてはまだ少し幼く、二、三幕では踊りに強度を乗せるには至らなかった。終幕のグラン・ジュテでようやく本来の優れた音楽性を確認することができた。


ソロルはそれぞれ、芳賀望、マトヴィエンコ、山本隆之、福岡雄大。芳賀はサポートの向上が望まれるが、りりしい踊り、福岡は少し線が細いが端正な踊りが魅力、マトヴィエンコは力強い造形で初役の小林を支えた。


牧版ソロルの極めつけはやはりベテランの山本。役にはまり込んだ演技が寺田ニキヤとの間に濃密なドラマを立ち上げる。ガムザッティの長田を加えた大阪出身トリオが最終日に初めて、物語のあるべき姿を描き出した。


マグダヴェヤの吉本泰久、八幡顕光、黄金の神像の福田圭吾が献身的な踊りで場を盛り上げる。また湯川麻美子の円熟のつぼの踊り、パ・ダクションの西山裕子、寺田まゆみ、伊藤真央の明るく爽やかな踊りが、舞台を華やかに彩った。


重厚な東京交響楽団を率いる熱血アレクセイ・バクラン。長田の踊りで一気に火が点いたのが印象的だった。東響はカーテンコールにおいても、観客の拍手を背中ではなく、正面から受け止めて欲しい。(1月15、16、22、23日 新国立劇場オペラパレス)  *『音楽舞踊新聞』No2836(H23.3.1号)初出

●『ビントレーのアラジン』


東日本大震災による中劇場公演中止から一ヶ月と十日、新国立劇場バレエ団が『ビントレーのアラジン』を上演した。老若男女を心から楽しませるレパートリーで公演が再開されたことは、バレエ団、観客の双方にとって幸運だったと言える。


劇場では恒例の筋書きと共に、ビントレー芸術監督のメッセージも配布された。自身も大地震をリハーサル中に体験、最悪の事態を免れた東京においてさえ、喪失と悲しみの感覚に打ちのめされたこと、被災者への深い思い、復興期における芸術家の役割について語り、この公演で観客に元気を取り戻して欲しいと呼びかけている。英語ではThe National Ballet of Japan に改称されたバレエ団の監督にふさわしい、愛情と洞察に満ちた一文だった。


二年半振りの再演は、初演時に感じられた二、三幕の弱さが解消され、引き締まった仕上がりを見せている。公演に合わせて来日した作曲家カール・デイヴィスの音楽がやはり魅力的。『ロミオとジュリエット』や『ばらの騎士』といった劇場音楽の豊かな遺産を援用し、ライトモチーフを駆使して強力に物語と踊りの世界へ観客を導く。情熱的なルビー、華麗なダイアモンドワルツ、我々には馴染み深い5音音階の行進曲やドラゴンダンスなど耳について離れない。

ビントレー振付の緻密かつ自然な音楽解釈、多彩な語彙はもはや驚きではなかった。アンドレ・プロコフスキーと比肩されるドラマに即した詩的(音楽的)演出こそ、「生の肯定」とも言うべき根本的な明朗さと共に、振付家の個性を主張している。ワイヤー宙乗りや背景の引き抜き、人形の代役など、劇場らしいローテク演出もすばらしい。日本の『アラジン』受容を考慮して、アラジン親子をアラビアの中国移民として描いたことも、異文化の融合という思わぬ副産物をもたらした。


主役のアラジンとプリンセスにはゲスト無しの3キャストが組まれた。その内ビントレー振付の核心を示したのが、3公演踊った八幡顕光=小野絢子組である(他組は2公演)。


小野は存在自体が周囲を祝福する、まさにプリンセスだった。気品と優しさ、そして明るいユーモア、何よりも全身が音楽と化した伸びやかなアダージョがすばらしい。その清らかな佇まいには、舞台と客席を爽やかに浄化する力があった。一方の八幡は、音のツボを押さえた小気味よい踊りとエネルギッシュな演技で、やんちゃなアラジンを造形。小柄ながら小野のラインを美しく見せる献身的サポートも披露した。


この組と対照的だったのが福岡雄大=さいとう美帆組。福岡の端正で美しい踊りと情熱的な演技、さいとうの清楚なお姫様ぶりが、しっとりと情緒あふれる恋物語を描き出した。プリンセスの投げ返したリンゴをアラジンがガブリと囓る場面では、みずみずしい初恋の詩情が、チェスと狩りの誘いの場面では、新婚の慎ましやかな愛情が溢れ出す。バランスの取れた組み合わせだった。


初日を飾った山本隆之=本島美和組はドラマティックな要素を期待された配役だろう。山本は少し上品なアラジン。舞台を支配する華やかな存在感、細やかな演技、優れたパートナリングに個性を発揮した。一方の本島は初演時よりもアダージョの踊りが滑らかになったが、やはり浴場とハーレムでのキャラクター色濃厚な踊りに精彩があり、山本との間にドラマを築くには至らなかった。


ソリストはほぼダブルキャスト。若手登用もあり、適材適所が楽しめた。ジーンには力強い吉本泰久と軽快な福田圭吾、マグリブ人は正統派トレウバエフと妖しい冨川祐樹、アラジンの母にはコミカル遠藤睦子とあっさり楠元郁子、サルタン役ガリムーリンは究極のはまり役だった。


宝石のディヴェルティスマンはまさに珠玉の舞踊集。ルビー長田佳世が完璧なクラシックスタイルで他を圧する。精妙な腕使いと鮮烈な足捌きに陶然となった。またダイアモンド西山裕子の音楽的肉体のきらめき、エメラルド古川和則の気の漲った踊り、同じく寺田亜沙子の繊細な踊り、サファイア井倉真未の豪華な踊り、ライオンダンス福田=菅野英男の献身的祝祭性も印象的だった。


バレエ団の美脚を揃えた砂漠の風アンサンブルや、ソリストを多く含むジーンの手下アンサンブルがすばらしい。ポール・マーフィー指揮、東京フィルも思い切りのよい華麗な演奏で公演再開を祝した。ただしカーテンコールの原則が崩れ、ダンサーが拍手を貰いに行く姿を目にしたのは残念。(5月2、3、4、8日 新国立劇場オペラパレス)  *『音楽舞踊新聞』No.2843(H23.6.11号)初出

●『ロメオとジュリエット』


新国立劇場バレエ団今季最終演目は、7年ぶり三度目のマクミラン版『ロメオとジュリエット』(65年、バレエ団初演01年)。芸術監督が変わり、舞台装置・衣裳だけでなく演出もバーミンガム・ロイヤル・バレエ担当となった(振付指導 デズモンド・ケリー)。


前回との最大の違いは、個々の動きのアクセントが明確になり、演技がすみずみまで浸透した点である。ビントレー作品と共通する全員参加の舞台作りと言える。主役をフォーカスするマクミラン色は後退したが、硬直と脱力を繰り返すジュリエットの生々しい肉体や、男性ダンサーのシンメトリーな肉体など、振付の特徴が再確認された。


今回はゲストを含め4キャストが組まれた。最大の焦点は新旧プリマの競演である。初日を飾った小野絢子は優れた音楽性、確かな技術、バランスの取れた身体の持ち主。古典ではまだ力を発揮できていないが、ビントレー作品では特徴である明朗な精神と繊細な音楽性を見事に体現、振付家のミューズとなっている。ジュリエットにおいても徒に感情に走らず、振付のニュアンスをよく把握、地を生かした自然な役作りで臨んでいる。真っ直ぐな演技と踊りが気持ちよい。時にコミカルに見えるのは個性。まだ彫り込むべき部分が残されているが、魅力のあるみずみずしいジュリエットだった。


一方最終日を踊った酒井はなは、同版三度目のベテラン。これまではその途方もないパトスの力で型を逸脱する場合もあったが、今回は両者が拮抗した円熟の舞台である。その解釈の緻密さには、振付を分解し再構築した感触が残る。同時に解釈を実行推進するパトスの強さは、周囲と観客を引きつけ異世界へと連れ出す力を持つ。硬直と脱力の激しさ、最後は本当に「死んだ」。カーテンコールは無表情で蒼白の死の顔、何回が繰り返す内に徐々にほぐれ、いつもの笑顔に戻った。酒井の実存に深く根差した舞台である。定位置に戻ったプリマに、観客の熱い拍手が鳴りやまなかった。


バレエ団からもう一人の配役は来季プリンシパルに昇格する本島美和。本来の柄はキャピュレット夫人のため、一幕の無邪気な少女らしさ、清らかさには無理があったが、三幕の苦悩の演技では、本島の可能性の一端を見ることができた。他の昇格組(小野、川村真樹、湯川麻美子、トレウバエフ)と比べるとまだ実力発揮とは言い難い。観客のためにも更なる精進、研鑽を期待する。


ゲストは英国ロイヤル・バレエ団プリンシパルのリャーン・ベンジャミン。長年踊り込んだ役だけに、マクミラン版の良さを生かすお手本のような演技。初登場ながら周囲に溶け込み、落ち着いた舞台を作り上げた。


ロメオはそれぞれマトヴィエンコ、山本隆之、福岡雄大、セザール・モラレス(BRBプリンシパル)。マトヴィエンコはマクミランのニュアンスに乏しいが、エネルギッシュなソロと献身的サポート、山本は圧倒的なドラマの立ち上げと、対話のような細やかなサポート、福岡はやんちゃな激しさと華やかな色気、モラレスは少しおとなしめながらノーブルなスタイルで作品に奉仕した。


脇役ではBRBから移籍した厚地康雄(パリス、ベンヴォーリオ)が存在感を示した。振付スタイルの把握、音楽性、サポートの充実、演技の安定感がすばらしい。また湯川のキャピュレット夫人は母としての大きさがあり、二幕では血が迸るような嘆きで場をさらった。


遠藤睦子の愛情深いコミカルな乳母、トレウバエフのニヒルなティボルト、八幡顕光の音楽的なマキューシオが印象的。森田健太郎の迫力ある大公と、川村の美しいロザライン、千歳美香子の洒脱なモンタギュー夫人が舞台に厚みを加えた。


熱気あふれる男女アンサンブルが、大井剛史指揮、東京フィルの重厚な音楽と共に、公演の成功に大きく貢献している。(6月25、26、29日、7月2、3日 新国立劇場オペラパレス)  *『音楽舞踊新聞』No.2848(H23.8.1号)初出

●『パゴダの王子』


新国立劇場バレエ団が世界に誇れるレパートリーを作り上げた。現芸術監督デヴィッド・ビントレー振付による『パゴダの王子』全三幕である。


本作の意義は重層的だった。まずベンジャミン・ブリテン唯一の全幕バレエ曲(57年)を現代に蘇らせた点、日本の身体(能、杖術)や美術(版画、切り絵)を引用し、その国の文化に根差したバレエを作った点、さらに離散した家族が苦難を乗り越え、最後に再会を果たすプロットを用意して、震災で傷ついた国民を鼓舞した点である。才能豊かな円熟期にある振付家が、我々の劇場のために精魂込めて創った作品に接すること自体、一種の僥倖である。


『眠れる森の美女』を下敷きにし、ガムランを内包するブリテンの曲は魅力があった。神秘的、植物的なメロディは、東洋の宮廷を舞台とする兄妹の物語に合っている。


ビントレー版のプロットは先行のクランコ、マクミラン版に倣い、『眠り』『美女と野獣』『リア王』の要素を含むが、独自に姉のエピーヌを継母に設定し直し、王子(継子)をサラマンダーに変える場面を登場させた。妹のさくら姫(ローズから変更)が試練を乗り越えて兄を救うプロセスは、アンデルセンの『野の白鳥』のエコーを含んで説得力がある。


繊細な音楽性と明確な演劇性を基盤とするビントレーの演出は、作り手の手が見えないほど詩的だった。特に子役の扱い(甕棺、昔語り)と、衰えた皇帝と道化の場面が素晴らしい。振付も役どころを的確に表現。宮廷アンサンブルがすり足で歩行し、体を鮮やかに切り替えた時、袴姿でトゥール・アン・レールやグラン・バットマンをした時には、言い知れぬ感動を覚えた。


レイ・スミスの繊細な美術は振付家の美意識と一致している。白い紙細工のような動物や棘(エピーヌ)の点在する黒地の額縁が、物語を見守る。切り絵の富士山と青い月(最後は日の丸に)がバックに配され、同じく切り絵の波、炎、稲妻が観客を版画の世界へと誘う。宮廷の装束や盛り上がったチュチュも美しく、国芳に想を得たかわいい妖怪やパゴダ人の被り物は、いかにも英国風だった。


照明は日英コラボレーションの一環として沢田祐二が担当。沢田らしい絶妙な色調は二幕で生かされ、漆の黒も実現されている。ただ宮廷場面では少し主張が強く、特に一幕は暗めの照明のため、残念ながら演出の全てを見ることができなかった。またスポットライトでの踊りは、ダンサーの作る空間を確認できない難がある。


主要キャストは三組。さくら姫には、小野絢子、長田佳世、米沢唯、王子には福岡雄大、芳賀望、菅野英男、共に期待に違わぬ出来栄えである。


第一キャストの小野は美しいラインと優れた音楽性で振付の規範を提示。勇気とユーモアを兼ね備えた、絵に描いたような姫である。王子の福岡も凛々しい若武者姿が光り輝いている。覇気のある華やかな踊りが素晴らしく、パートナーとして磨きが掛かれば盤石の主役である。


第二キャストの長田はいわゆる姫タイプではないが、役にはまり込み、二幕ソロでは深い音楽解釈を示した。一挙手一投足に誠実さが滲み出る、心温まる舞台だった。王子の芳賀は以前のような踊りの切れには欠けるものの、無意識の押し出しと鋭い音感が魅力。


第三キャストの米沢は、すでにベテランのような舞台だった。踊りは自在、振付の全てに解釈が行き届き、さらにそれを上回るクリエイティヴィティを見せる。舞台で自由になれるのは二代目ゆえだろうか。王子の菅野は優れたパートナー。妹を見守る愛情深い兄だった。


美しい継母エピーヌには、湯川麻美子、川村真樹、本島美和という迫力あるキャスティング。湯川の明確な演技と舞台を背負う責任感、川村のダイナミックな踊りと能面のような怖ろしさ、本島の華やかな存在感が適役を物語った。


ダンサー冥利に尽きるのは皇帝の堀登(他日トレウバエフ)と道化の吉本泰久だろう。衰えた老皇帝を道化が抱っこする三幕デュオは、リア王原型の究極の愛の形である。堀の気品に満ちた枯れた演技、吉本の裏表のない献身性が素晴らしい。吉本は観客の優れた水先案内人でもあった。


さくら姫に求婚する四人の王には12人の精鋭が投入され、場を大いに盛り上げたが、中でも西の福岡、南の厚地康雄が抜きん出た踊りを見せた。新加入の奥村康祐、ソロデビューの小口邦明も実力発揮、厚地は他日、怖ろしく優雅な宮廷官吏を演じている。


宮廷、異界両アンサンブルの美しいスタイルと的確な演技、ポール・マーフィ指揮、東京フィルの熱演が、舞台の成功に大きく寄与している。


本公演を最後に、開場以来バレエ団に貢献してきた西山裕子が退団した。流れるような自然な音楽性、明晰なマイムと演技はバレエ団随一。春の精は世界一のアシュトン解釈だろう。ジゼル、シンデレラ、マーシャ、ガムザッティ、ドゥエンデ、チャルダッシュ、ノミ、そして盟友 遠藤睦子と組んだキトリの友人を、我々は二度と見ることはできない。(10月30日、11月1、3、5、6日 新国立劇場オペラパレス)  *『音楽舞踊新聞』No.2860(H24.1.1-11号)初出

●『くるみ割り人形


新国立劇場バレエ団が恒例の12月公演として、牧阿佐美版『くるみ割り人形』(09年)を再演した。牧版の特徴は物語の外枠に現代の東京を設定した点。クリスマス気分の若者たちがビル街を行き交うなか、主人公のクララはブルーマンを従えた興行師風ドロッセルマイヤーによって、1910年代ドイツのクリスマスパーティにワープさせられる。


振付・演出は英国系を枠組に同団先行版であるワイノーネン版の振付を適時残し、牧が新たに振り付けたものである。今回の再演は初演時の熱気を呼び戻すには至らなかったが、安定したレパートリーであることを証明した。オラフ・ツォンベックの子供時代の記憶を投影した豪華でエレガントな衣裳と装置、立田雄士の美術と呼応する魔術的照明が、舞台に大きく貢献している。


金平糖の精は4キャスト。先の『パゴダの王子』に続いて主役を勤めた米沢唯が、プリンシパル3人の再演組を向こうに、極めて完成度の高い踊りを見せた。役作り、空間を支配する気の漲り、高度で自在な技術に加え、様式(形式)への意識が高い。アダージョではチャイコフスキーの音楽が内包する悲劇性を、深部まで表現し得ている。


一方、初日の小野絢子は初演時と比べて格段の成長ぶり。美しいライン、音のツボを押さえた明晰な踊り、清潔で暖かみのある存在感は、他にない個性である。小野と米沢という対照的資質が、バレエ団の二枚看板としてどのように成長していくのか期待したい。


ベテランの川村真樹はゆったりとした造型。演技はやや控え目、正統派ラインが繰り出す踊りのダイナミズムが美点である。気品あふれる輝く金平糖の精だった。同じく本島美和は華やかな存在感に成熟した美しさが加わっている。今後は腕使いの洗練と、踊りの密度を上げることが期待される。


王子はそれぞれ厚地康雄、山本隆之、芳賀望、福岡雄大。主役デビューの厚地は美しいラインをもつ英国仕込みのダンスールノーブル。演技にも優れ、他日配役のねずみの王様でも、王子同様、立ち姿でドラマを喚起する。身長差のある米沢には献身的なサポートぶり、雪の女王寺田亜沙子とのパ・ド・ドゥでは、爽やかな情感を醸し出した。


これまで多くの舞台を担ってきたベテランの山本は、さすがに安定感のある舞台。小野を大らかに見守る年上紳士のような王子だった。一方川村を支えた芳賀は、王子の典型とは言えないが、不定形の生々しさで独特の個性を発揮。本島の王子福岡はノーブルを意識し過ぎたか、持ち味を生かすには至らず。今後は福岡らしい覇気ある王子像を期待する。


一幕を牽引するクララには再演組のさいとう美帆、井倉真未と、初役組の加藤朋子、五月女遥。その中で五月女が一、二幕を通して溌剌と元気なクララを演じ、舞台度胸の良さを示した。雪の女王には舞台を大きく包む湯川麻美子、大人っぽい美しさを誇る寺田亜沙子、華やかな堀口純の3人、またドロッセルマイヤーの冨川祐樹は一貫した役作り、森田健太郎は迫力ある存在感で適役を証明した。


被り物が多く一層の献身性が求められる作品だが、それを身をもって示したのがベテランの吉本泰久。トロルの踊りに初めてあるべき姿を与えている。またフリッツ八幡顕光の過不足のない演技、ハレーキン江本拓とコロンビーヌ高橋有里の貫禄の踊り、エジプト厚木三杏、貝川鐵夫のスリリングなリフトが印象深い。


雪、花のアンサンブルはかつての超人的統一感を失っているが、バレエ団の現在の方向性を考えればやむを得ない流れかもしれない。大井剛史指揮、東京フィルは交響的な音作り。舞曲にもう少し艶っぽさが望まれるものの、オペラ劇場にふさわしい重厚な迫力があった。(12月17、18、21、23日 新国立劇場オペラパレス)  *『音楽舞踊新聞』No.2864(H24.3.1号)初出