フォーサイス×トリシャ・ブラウン 2006年

共演した訳ではなく、両者のダンスカンパニーが同じ彩の国さいたま芸術劇場で、時を置かずに公演を行なったので。両公演評をアップする。

フォーサイス・カンパニー


ウィリアム・フォーサイスが新カンパニー結成後、初の来日公演を行なった。50分スタンディングのAプロと、近作三作によるBプロのうち、亡き妻へのレクイエムであるAプロが圧倒的にすばらしかった。


昨年制作された 『You made me a monster』 は客席を使用せず、観客は舞台に上がる。客席との間にはスクリーンが張られ、不定形の映像と英語の文章が随時流れている。八個ほど置かれたテーブルの上には細い棒が乱立し、そこに得体の知れない紙細工が取り付けられている。ヘルパーの説明で、観客も紙のパーツを切り取り、棒に付ける作業をする。それがライトに当たってできた影を見て、ダンサーが踊ることになるという。10分ほど作業した後、ダンサーが登場、影を見て踊り始めた。うなるように苦しむように声を出して踊る。踊りはフォーサイス風だがグロテスクで、舞踏のような内面的な重さがあった。


男性二人女性一人のダンサーが入れ替わり立ち代わり踊るなか、ふと机に置かれた紙の文章(日本語訳共)を読んでしまった。それには、妻が癌にかかり手術して亡くなったこと、映画『エイリアン』から現代文化における「外国人嫌い」を分析しようとした当時の新作のことが、フォーサイスの振付同様、剥き出しのストイックな言葉で書かれてあった。妻がなくなった後、数年たって、生前知人から妻にプレゼントされた紙細工の人体模型をばらばらに組み立て始めた「わたし」は、ついにそれが何かの形になるのを知る。「それは、深い悲しみという模型だった」。


突然、目の前に乱立する恐竜のような紙細工が、「わたし」フォーサイスの悲しみであること、この作品は、観客を巻き込んだ喪の儀式であることに気付いた。ダンサーはフォーサイスの悲しみを見て踊っている。それが怪物のようにグロテスクなのは、フォーサイスが妻の死によって怪物になったからだ。 『You made me a monster』 は、スクリーンに映し出された「It was a model of grief.」 という言葉で終わった。


これは作品ではあるが、結果としての作品である。クリエイターとしてのフォーサイスの誠実さが胸に迫った。(2月28日 彩の国さいたま芸術劇場大ホール)  *『音楽舞踊新聞』No.2691(H18.4.12号)初出

トリシャ・ブラウン・ダンスカンパニー


ポストモダン・ダンスの旗手トリシャ・ブラウンが自らのカンパニーを率いて来日、依然として先鋭的な思考家であることを印象付けた。プログラムは79年の『アキュムレーション・ウィズ・トーキング・プラス・ウォーターモーター』(映像)から、83年の『セット・アンド・リセット』、00年の『グルーヴ・アンド・カウンタームーヴ』、そして03年の『プレゼント・テンス』まで、ブラウンの仕事を大きく概観している。


最初の映像では、ミニマルな動きのみで、思考を含めた全人格を伝えうる不可思議な振付を、ブラウン自身の優れたダンスで見ることができた。だがもっとも衝撃的だったのは、過去の作品『セット・アンド・リセット』を、現在の所属ダンサーが、今現在動きを生み出しているように踊ったことである。たとえばピナ・バウシュによる旧作の上演は、忠実な過去の再現であって、新たな相貌を帯びることはないが、ブラウンの場合は、作品の完成度を損なうことなく、新たに動きが生み出されている(かに見える)。この現在性は近作の『プレゼント・テンス』でも強く感じられた。


ジョン・ケージプリペアド・ピアノが、ガムランのような酩酊感を醸し出すなか、ダンサーはブラウンらしい流動的な滑らかな動きのままで、複雑なコンタクトを見せる。このコンタクトに美的な要素が微塵もないことに驚かされた。肉体の接触ではなく、人と人が接触している。二人の男性がアラベスクした女性の頭と足を持って、コマのように回す場面。また大きいダンサーが仰向けになり、小さいダンサーの腹を両脚で支えてリフトする、反対に小さいダンサーが大きいダンサーの胸を両脚で支え、最後には腹を支点に同じようにリフトする場面。動きとしてはありきたりと言えるが、人の体に触れた時のずっしりと重い感触が直に伝わってきて、なぜか崇高なものに触れた気がした。


直前に来日したフォーサイスが、自らのロジックを強硬に遂行しダンサーがハードに応えるという、一種禁欲的な関係をダンサーとの間に築いているのに対し、ブラウンは自らの思想をダンサーに浸透させ、ダンサーの資質とブラウンの求める理想像をゆっくりと混ぜ合わせる。ダンサーはブラウンの振付を体の内側から実行しているように見える。特徴的なのは、こうした場合にありがちなセクト色がないこと。ダンサーは個で立っている。ブラウンが自らの思想を教条的にではなく、実践しているからだろう。


子供のように真剣で優雅、そして何よりも退廃のない作品に、観客の拍手は熱かった。一月にこの彩の国さいたま芸術劇場の芸術監督が交代している。ヨーロッパ=美的路線からアメリカ=倫理的路線へと、公演傾向も変わったかに見える。ダンスが観客の思考を促すという点で、社会への還元率は高まったような気がする。(3月26日 彩の国さいたま芸術劇場大ホール)  *『音楽舞踊新聞』No.2695(H18.6.11号)初出