9月に見た公演・美術展・トーク 2017

9月に見た公演等について、短くメモする。


東京バレエ団「20世紀の傑作バレエ」(9月9日 東京文化会館
プログラムはキリアンの『小さな死』(91年)、プティの『アルルの女』(74年)、ベジャールの『春の祭典』(59年)。前2作はバレエ団初演、さらにプティの作品は初めての導入である。プティとベジャールという、対極にある同世代ライバルの対決が見ものだったが、作品の強度はどちらも譲らず。円熟期プティの、音楽性・物語性を思いもよらない動きに転換させる鮮やかな手腕、初期ベジャールの、モダンダンスの語彙を組み合わせて動きを創出する力技に圧倒された。特にプティは動きを作る天才としか言いようがない。フレデリとヴィヴェットのパ・ド・ドゥは、プティ版『コッペリア』のフランツとスワニルダ、『こうもり』のヨハンとベラ(一幕)と共に、「心ここにあらずの男×追いすがる女」の三大パ・ド・ドゥと言える。フレ=ヴィのみ悲劇だが。
これまで東京バレエ団は、海外の傑作を次々とレパートリー化してきた。振付指導に従い、高レヴェルの公演を実現していたが、どこか作品とダンサーの間に隙間が感じられる。知人の言を借りれば「立派なんだけどねぇ」。例外はあったものの、傑作というレッテルに縛られて、ダンサーたちは自分の踊りを置き去りにしているように見えた。だが今回は、全てのダンサー(二日目)が自分の踊りを踊っている。結果、作品の構造もよく見えるようになった。長年のレパートリー『春の祭典』が、これほど東バのダンサーたちによって肉化されたのを見たことがない。ダンサー自身の咀嚼を促す、斎藤友佳理芸術監督の功績だろう。生贄 伝田陽美の意志の強さが印象的。コントラクションの鋭さが目に焼き付いている。


ヨコハマトリエンナーレ2017「島と星座とガラパゴス」(9月12日 横浜美術館横浜赤レンガ倉庫
木下晋を見るために行く(6/4ブログ参照)。巨大な合掌図を中心とする木下作品群は、横浜美術館2階の長方形の部屋に展示されていた。見た目は「礼拝堂」のようだったが、予想された静寂とは裏腹に、隣室の映像作品から腹に響く音が絶えず聞こえてくる。何か批評的な意図があるのだろうか。考えても分からず、ただただ絵を見る集中が殺がれるばかりだった。
最も衝撃的だったのは、風間サチコ。彼女の木版画は以前にも見ているが、今回の学校物は胸に突き刺さった。男子生徒が竹トンボのように宙で回転する『水晶の夜』、女子生徒が下駄箱の交わる直角上で身動きがとれなくなる『登/下』、女子生徒が画鋲をまき散らして片脚を蹴り上げる『獲物は狩人になる夢を見る』等。特に竹トンボの男子生徒が、『水晶の夜』と銘打たれることの悲劇的奇想に震撼させられた。学生服にまつわる記憶の共有がない場合、この作品は有効だろうか。海外では理解されるのだろうか。受け手がどうとろうと構わない、ギリギリまで追い詰められた想像力の表れだった。
横浜美術館は石造りの豪華な建築物。その中心にジョコ・アヴィアントの巨大な竹製インスタレーション(しめ縄からイメージされた、しかしウンコ状でもある)を据え、島のテラスを思わせる木製の床や横板が両翼に組まれている。だが、建物のコンセプトと今一つそぐわない印象。翻って横浜赤レンガ倉庫は、建物と対話するようなクリエイティヴな空間を作り出した。小沢剛岡倉天心のインドでの足跡をたどり、現地アーティストとのコラボを映像その他で発表。真っ暗な中をそろそろと歩み、座って映像を見る。ただK.T.O.という表記が何だか分からず。置かれていたフリーペーパーを後から読んで、岡倉だと分かった。面白かったのはクリスチャン・ヤンコフスキーによる白黒写真の連作、『アーティスティック・ジムナスティック』。様々な時代の公共彫刻と、それを訓練器具として使ったり、傍らでポーズをとったりするスイスの男子体育大生(短髪体操着姿)を撮っている。ユーモラスであると同時に、戦前の身体を思わせるヒリヒリした切迫感が画面から感じられた。ドイツ出身。


●山崎広太 @ KAAT de CINEMA『Back to the 80's』アフター・トーク(9月24日 KAAT 神奈川芸術劇場大スタジオ)
山崎広太が、標記ダンス映像上映会のアフター・トークに出演した。映像は、ショピノ、ドゥクフレ、プレルジョカージュ、ガロッタ、ディベレス、バグエ、サポルタ、コルシーノ、ラリュー、デュボック、カンパニー・レスキス、バエス、による12作品から構成される(フランス国立ダンスセンター所蔵)。舞台映像ではなく、ダンスを映像で見せる形式のため、振付そのものよりも演出に重点が置かれている。ヌーヴェル・ダンスの勢い、時代の匂い、そしてフランスの香りが立ち込めるなか、動きの面白さで時空を超えたのは、ダニエル・ラリューだった。スイマーの水中での動きとプール際での行進が、ミニマルに切り取られている。動きの清潔な繰り返しに、ラリューの禁欲性が感じられた。
山崎はプロデューサーの佐藤まいみの紹介で、ラリューの振付を経験。それまで即興で踊っていたのが、初めて作品を作る方向性を与えられたという(『舞台の謎』 ダンスワーク舎 2005年)。アフター・トークは、神奈川芸術劇場芸術監督の白井晃との対談だった。白井が質問し、山崎が答えるのだが、通常の対話にはならない。山崎が質問にピンポイントで答えるのではなく、そこから連想したことを答えるからだ。また自分の思いや考えを、社会的言語に落とし込むことを拒絶している(できないのではない)。つまり、ダンスを踊るように、言語化しているのだ。
初耳だったのは、指揮者になろうとして、齋藤秀雄(1902年5月23日-1974年9月18日)に電話したこと。「先生は昨日お亡くなりになりました」と言われ、舞踏をやることにしたと言う。
山崎のダンスのようなトークを堪能した30分。次回は踊る姿を見たいものだ。