8月に見た振付家 2018 伊藤/宝満/貝川/中村 【追記あり】

8月に見た振付家について、短くメモする。その前に、今夏のガラ等で印象に残ったダンサーを振り返りたい。まずは「バレエ・アステラス」に出演した相澤優美(ジュネーヴ大劇場バレエ団)。知的なダンサーで、振付の本質を瞬時に見抜くことができる。動きそのものを見る快楽があった(元新国立の厚木三杏を思い出した)。「世界バレエフェスティバル」では、佇むだけで妖精に見えるアレッサンドラ・フェリと、特異な音楽性の持ち主 アリーナ・コジョカル。この二人のみがスターの名に値する。男性ではゴメス、ボッレに続いて、カマルゴが世界の王子になるか。バレエ団の個性を反映したアシュレイ・ボーダー、ミリアム・ウルド=ブラームの妙味(マチアス・エイマンは不調)。『夏ノ夜ノ夢』には服部有吉が出演した。音楽の細部まで腑分けする生来の音楽性と、それを完全に身体化できる高度な技術は相変わらず。楷書の踊りと自由奔放な精神の奇跡的な融合だった。


●伊藤範子 @ 谷桃子バレエ団附属アカデミー 「第58回生徒発表会」 (8月7日 大田区民ホール・アプリコ 大ホール)
作品は『カフェ DEMEL』。リヒャルト・シュトラウス台本・音楽のバレエ作品『ホイップクリーム』(1924年 ウィーン国立歌劇場)の組曲版に振り付けた。ホイップクリーム、チョコレート、ボンボン、コーヒー、ギャルソンが登場し、それぞれキャラクターを生かした踊りを見せる。リヒャルト・シュトラウスのめくるめくニュアンスが身体化された高度に音楽的な振付。音のすみずみまでが形となって現れる。大井昌子の品のある+おいしそうな衣裳が加わり、粋で洒落たウィーンの雰囲気が舞台に充満した。ホイップクリームの上野新葉、渡邉桜子は高等科ながら、美しいラインを誇り、たおやかな色気さえ感じさせる。伊藤の薫陶ゆえだろう。ギャルソン 横岡諒(団員)の小粋な踊り、包容力も。伊藤は『リゼット』第2幕も構成・振付指導し、谷伝統のおっとりした娘らしさを蘇らせている。


●宝満直也 @ 大和シティバレエ 「サマーコンサート」 (8月10日 大和市文化創造拠点 シリウス芸術文化ホール メインホール)
作品は『Ebony Ivory』。黒檀と象牙はピアノの黒鍵と白鍵のこと。P・グラスとM・リースマンの音楽で、米沢唯と自身が踊る。ピアノを弾く振りが入る、ピアノと連関させた米沢讃歌。白のドレスと黒のドレスで米沢の両面を描き出す。衝立の上から現れた白の米沢は、細かいパ・ド・ブレで聖性を示す。衝立の中に入り、黒となって現れた米沢は狂乱のパ・ド・ブレで、内なる狂気を露わにする。白鳥と黒鳥よりも、ニキヤの一幕ソロと二幕ソロを思い出させた。宗教的ニュアンスがあるからだろう。最後は登場場面と同じ、中空に浮かんでフェイドアウト。宝満は白の長袖Tシャツに黒ズボンで、ピアノorピアニストの役回り。米沢(ピアノの精?)を激しく恋慕しつつ、冷静に踊らせる(弾いている)。ダンサーを見抜くクールな眼差しは、振付家 宝満の資質である。デュエットでありながら、内実は米沢のソロ。一緒に踊るのではなく、踊る米沢を傍で見ているという印象だった。
併演の『三匹の子ぶた』はショスタコーヴィチの音楽と完全に一致した傑作。豊富なボキャブラリーが生き生きとキャラクターを造形する。新国立初演時の男性陣(八幡顕光、福田圭吾、池田武志)を配したが、宝満を含めて全員が別々の所属になった(福田のみ元のまま)。つい2年前だったのだが。主役の妹ぶたには、小野絢子の代わりに菅井円加。小野のエスプリの効いた細やかな演技、コケティッシュな可愛らしさ、は当然なく、兄ぶたたちと互角に跳躍するお転婆な妹ぶただった。オシポワ並みの脚力は、彼女をジゼルやシルフィードに誘うだろうか。宝満作品はコンサートの第2部、第1部は鈴木未央振付改訂の『千夜一夜物語』、第3部は関直人振付の『ゆきひめ』だった。いずれも優れた創作バレエで、ダンサー配役も考え抜かれている。ダンサー達が所属団体では見せないような側面を披露するのも、本公演の強力な磁場ゆえ。主宰の佐々木三夏は、前日のアカデミー公演(未見)でも外部から振付家を招き、創作の場を設けている。古典パ・ド・ドゥのみならず、ブルノンヴィルの『ラ・シルフィード』パ・ド・ドゥ、同じく『ラ・ヴェンターナ』パ・ド・トロワも。それぞれにゲスト出演した木下嘉人、福田圭吾のブルノンヴィルも見てみたかった。


●貝川鐵夫 @ Ballet Now 「第11回発表会」 (8月24日 八王子芸術文化会館いちょうホール 大ホール)
作品は『人魚姫』。物語に沿った選曲が素晴らしい。ドビュッシーの『神聖な舞曲と世俗的な舞曲』に始まり、サティの『ジムノペディ』、グリンカの『幻想的ワルツ』、ドビュッシーの『亜麻色の髪の乙女』、ストラヴィンスキーの『プルチネッラ』より、グリンカの『リュスランとリュドミラ』序曲、ロッシーニ泥棒かささぎ』序曲、そして『タイスの瞑想曲』で終わる(一部、主催者に確認)。アンデルセンの原作を詩的に抽出し、要所を踊りで締める形式。振付は言うまでもなく音楽的。貝川の踊り同様、音楽の中に入り込み、そこから自然に動きが生み出される。一種狂気と接するほどの没入は、ロッシーニに顕れた。ロッシーニの肚からの喜劇性が逐一掬い取られ、狂ったような繰り返しの快感がエネルギーとなって舞台に渦巻く。大人から子供まで(発表会なので)、ロッシーニのアクセントを、肩を2回上下させるヘンテコ振付で体現した。音楽にはまり込む喜び、その場を生きる喜びを、子供たちは経験している。
ゲスト陣は新国立組。人魚姫の木村優里は振付を自分のものにし、そこに緻密な感情を乗せている。脚の鮮やかさは空間を変えるほど。王子との幻想のパ・ド・ドゥの強度、死の瞬間のミリ単位の演技が素晴らしかった。王子の奥村康祐は求められる王子像を完璧にこなし、物語に厚みを加えている。深海の魔女には福田圭吾。ビントレーの『パゴダの王子』を思わせる【ディズニー由来の?】タコの着ぐるみで、ツボを押さえた女形芸(ドラグクイーン風)を見せる。人魚姫に王子を殺すよう説得する場面では、ロッシーニのクレッシェンドするリズムに合わせ「3回ナイフで刺して、首を切ってコトン」を一分の隙もなく演じて見せた。優れた音楽性に円熟の演技が加わった名場面である。貝川と同じ、魔女のお付きを演じた渡邊拓朗は、バレエ研修所時代に貝川の作品を踊っている。背丈も同じ。ノーブルで力強い腕使いで空間を切り開いた。熱い魂が歴然と存在するにもかかわらず、表面はクールで少しシニカルにも見える。どのような役を踊っていくのか楽しみ。


中村恩恵横浜みなとみらいホール 「音楽と舞踊の小品集〜水・空気・光」 (8月30日 横浜みなとみらいホール 大ホール)
横浜美術館企画展『モネ それからの100年』と連携した音楽と舞踊のコンサート。福間洸太郎(Pf)、崎谷直人(Vn.)、門脇大樹(Vc.)、齊藤一也(Pf)の演奏、中村恩恵首藤康之、折原美樹、米沢唯、中島瑞生、渡邊拓朗の舞踊で、中村が監修・振付を行なっている。第一部はドビュッシーサン=サーンス、マスネ、第二部の舞踊は、スクリャービンラヴェルメシアンコダーイ、最後にカタロニア民謡『鳥の歌』(演奏のみ)、第三部はドビュッシーラヴェルで終わる。副題の「水・空気・光」そのもののような、呼吸のできる気持ちの好いプログラミングだった(誰の選曲だろう)。これを象徴していたのが門脇のチェロ。力みのない深い呼吸を感じさせる奏法で、温かみのある音に全身が包まれるようだった。このような身体性を帯びた『白鳥』、『鳥の歌』は聴いたことがない(数少ない経験ながら)。また齊藤の『月の光』は奏者のパトスが、クッキリと鮮やかな月夜の情景を描き出した。
「舞踊は音楽に添える挿絵のような感じが理想」(『日本経済新聞』2018.8.11)と語るように、今回の中村の振付は音楽と戯れる軽やかさを帯びていた。昨秋の『7つの短編』(日本バレエ協会)で見せた、自らを抉るような実存の深みとは対照的である。首藤のソロに始まり、中村と中島・渡邊、首藤と米沢、折原の『ラメンテーション』(M・グレアム)という構成。グレアムとの関係は、自らの師キリアンの部屋に写真が掛かっていたことに端を発する(詳しくはチャコット中村恩恵インタビュー参照 2018.8.18)。
中村は新国立の若手男性ダンサーを従えて、または見守る形で、官能的な踊りを見せる。演奏者をも支配する「気」の強さ。中島は不定形の動きが醸し出す中性的存在感、渡邊は間違えばスポーツ選手になるかと思わせる凛々しい体躯、鮮やかな腕使いに気迫を漲らせる。もちろん中村の掌の上ではあるが。首藤と米沢のデュエットは、昨春の『ベートーヴェンソナタ』の続編、または首藤にとってのリベンジ編だった。中国かベトナムの少女のような瑞々しく儚い少女、米沢を、首藤が力強く欲情して追いかける。最後は首藤の椅子のソロ。冒頭のソロと同じシークエンスを持つが、違っていたのは、隠れていたものが開かれ、中身(実存)が見えたこと。米沢が触媒となったのだろう。