11月に見た公演 2018

11月に見た公演について短くメモする。


●伊藤郁女・森山未来 『Is it worth to save us?』 (11月1日 KAAT神奈川芸術劇場 大スタジオ)
伊藤が実父と踊る作品『私は言葉を信じないので踊る』を見ることができなかったので、同じ彩の国さいたま芸術劇場で制作された伊藤と山崎広太のデュオと比較することに(その時は女性ダンサーがもう一人加わった)。パートナー選択の時点で作品は決まる。山崎とは破天荒なエネルギーの応酬、踊り狂いの炸裂だった。今回はより演劇的で、伊藤が攻撃、森山が受ける形。子供の頃、マイケル・ジャクソンにホテルのトイレで会ったと話す森山に、伊藤が「うそでしょ、うそでしょ」と言いながらまとわりつく。森山は「ほんと、ほんとなんだけど」と受けるが、徐々に受け身から攻撃に転じ、伊藤を千切っては投げ、千切っては投げ、最後には首を絞めるに至る。作品のハイライトだった。終盤、スタンダード・ナンバーを歌う森山の巧さ、ショーダンスの巧さ。伊藤はリズムに乗れない。不思議だ。フランス公演を控えているせいか、狂言の動き、舞踏系の動き(白目剝きも)を入れている。どうかと思ったが、後から考えるとジョークだったのかもしれない。


シュツットガルト・バレエ団 『白鳥の湖』 (11月9日 東京文化会館 大ホール)
1963年初演。ジョン・クランコの演出・振付は、ロマンティック・バレエ仕様だった。特に一幕。
①村人達は『ジゼル』風で、同じフォーメイションを踊る。
②王子は『ラ・シルフィード』のマッジ風に登場、手相見のマイムをする。
③王子は家庭教師の曲でブルノンヴィル風ソロを踊る。
④王子の女友達5人は『コッペリア』の友人風。
いずれも『白鳥の湖』のロマンティックな側面を強調するための引用と言える。古風な趣がある一方で、伝統的マイムは使用せず、踊りと演技は自然に繋がっている。一幕選曲(?)が激しい。ワルツはなく、一寸法師の曲で男友達5人が踊り、パ・ド・シスとパ・ド・トロワ曲の組み合わせで王子と女友達5人が踊る。自然な演劇性の重視、パ・ド・シスの使用は、1953年初演のブルメイステル版を思わせる。結末は異なるが(クランコは悲劇)、両者ともいわゆる「プティパ以前」を探究したということだろうか。


さわひらき×島地保武 『silts - シルツ -』 (11月25日 KAAT神奈川芸術劇場 大スタジオ)
「KAAT EXHIBITION 2018 - 潜像 -」は、映像作家さわひらきの個展(同劇場 中スタジオ)。その映像作品『silts』他と共に、島地保武、酒井はなが踊る企画である。映像は完成・固定されているが、あたかも二人の踊りに応えているように見える。さわの映像がダンスと共通するミニマルな運動性を帯びていること、演出・振付の島地が周囲に開かれた肉体と思考を持っていることが、インタラクティブな共同作業を可能にした。
舞台には大きな衝立(映像はここに映写)、折り返しに丸い大きな穴が開いている。シモテにはターンテーブルが乗った丸テーブル、カミテには角笛のような複数のライトに裸電球が吊るされている。レコードの針を暗示する人差し指突っ込み運動、裸電球のフリフリ動き、柱時計振り子の高速運動、棒の回転など、温かみのあるミニマル映像に目が吸い込まれる。星空、川底、燈台、海岸、砂漠、ドールハウス、そこにヤギ、鳥が通り過ぎ、脚の生えたやかん、ポット、コーヒーカップ、鋏がトコトコと歩いていく。終演後にさわの個展も見たが、重なる作品も多く、パフォーマンスの続きのような懐かしさを覚えた。
音楽は主に映像に付されていたものを使用。ピアノとチェロ、アコーデオン、歯車の音、メトロノーム、ピチピチ音など、とぼけた脱力系ミニマル。前後には、レコードから流れるという設定で『コッペリア』のワルツが掛かる。島地が silts =沈泥 から連想した『砂男』(ホフマン作、『コッペリア』の原作)に因んだ選曲。酒井との絡みもあるのだろう。小道具の段ボール砲(スモークを充満させ両脇を叩くと、丸い穴から煙が発射される)がいかにも島地らしかった。
島地が円盤とレコードを持って顔を隠しながら登場。軽妙な腰つきで歩き、バレエの3番で向こう向きになる。終幕は反対に、酒井が同じシークエンスを演じて終わる。島地のストリート、モダン、コンテンポラリー、バレエを通過した肉体は、その片鱗を見せながらも、ただ「いる」ことのできる零度の体。バレエのポジションを含んだ伸びやかな踊り、ヒョコヒョコ、クキクキ踊り、コマネチなど、環境(映像・音楽)を感じ、それに体で応えている。一方の酒井は、バレエ、コンテンポラリー、能の入った体。『バヤデール』風のソロではポアントの威力を見せつける(島地の口からベールが、愛の形としての)。島地とのデュオもあり、可愛らしい存在感を発揮した。だが、本来の酒井は「いる」ことのできる野性味のあるダンサーである。振付を体に入れて存在の底まで落とし込んでいく実存派である。酒井の呼吸、気が感じられなかったのは、何か遠慮があったのだろうか。あるいは身体的に移行する時期なのだろうか。ギエムは瞑想にまで至っているようだが、酒井も見せることから解き放たれてもよいのかもしれない。