大竹みか先生を追悼する 2019

コデマリバレエスタジオ主宰の大竹みか先生が、3月27日に亡くなられた(享年85歳)。スタジオでは毎年4月に「コデマリコンサート」を開催する。今年は4月7日、貝谷バレエ団80周年記念を兼ねての特別公演である。その直前の訃報に、胸が詰まる思いだった。闘病されていたことも知らず、昨年4月のお元気に踊られる姿のみが脳裏に焼き付いている。

大竹先生(師匠ではないが、こうお呼びする)は、1934年3月5日東京・大森生まれ。以下『バレリーナへの道』48号の連載「日本のバレリーナ」から、プロフィールを引用する(コデマリスタジオ提供)。「3歳から母、雅子にピアノ、声楽を習い、16歳で貝谷八百子バレエ団入団、19歳で団員。67年コデマリスタジオを開設。貝谷八百子バレエ団福知山、舞鶴、小浜研究所主任講師。レニングラードで短期研修。振付作品『舞姫イース』『陽はまた昇る』ほか多数。主演『眠れる森の美女』『コッペリア』ほか。01年京都府舞鶴市福知山市より文化功労賞贈られる。」

大竹先生と初めてお目にかかったのは、福田一雄先生ご自宅での談話会だった。福田先生の汲めども尽きせぬバレエ音楽のお話を伺い、バレエへの認識を新たにしていたが、ある日大竹先生が、「貝谷(八百子)先生の『くるみ割り人形』の最後に、ミツバチの巣が出てくるの」とおっしゃられた。近くにいたため、プティパの台本のこと、また貝谷版『白鳥の湖』のことなどを、お話しすることができた。それ以来、日本バレエ協会や世田谷クラシックバレエ連盟の公演等でお目にかかると、ご挨拶するようになった。

先生はゆったりとした佇まいで、常に相手を見守るような笑みを浮かべていらした。声はアルト。お話はいつも「ウフフフ」というくぐもった笑いのような発話に彩られる。貝谷先生のことと、教え子のことを話される時だけ、声高く情熱的になられた。

最初にバレエ協会の「バレエフェスティバル」評を担当した時、隣席になったが、今思えば、セコンドの役回りをされていたような気がする。他公演でお目にかかった時に場違いな質問をしても、咎めることなく、誠実に答えてくださった。

ダンサーとしての先生は、華やかで気品にあふれる。舞台に登場するだけで、劇場全体を一瞬のうちに掌握された。貝谷時代からの盟友 吉田隆俊氏(女装)と並んで歩くと、女友達のような華やかな香気が立ち昇った。一方、童女のような純粋さ、洗礼名であるマリアのような慈愛も。かなり高齢になられてからも、そしてつい昨年も、献身的なパートナーで振付家の安藤雅孝氏による大胆なリフトを、楽しそうに受けていらした。「バレリーナへの道」本文によると、「高所恐怖症なのに、飛び込みのリフトがうまく、八百子はみかの振付にはリフトを多く採り入れた。」とある。

コデマリコンサート」の大きな楽しみは、先生の新作を拝見することだった。「私は新作しかないのよ」とおっしゃって、いつも新たに振付をされる。その音楽性の深さ、常に音楽と共に生活されていることが分かる。自然で品のある音楽性だった。フォーメイションは明快。いわゆる成人クラスの場合でも、シンプルなパのみで薫り高い作品を作り上げる。「文体」のある振付家だった。

今年の「コデマリコンサート」は貝谷バレエ団80周年記念と銘打たれ、貝谷版『白鳥の湖」第二幕が上演された。同団アカデミー生の大西聖奈によるオデットを、福田圭吾(新国立劇場バレエ団)の王子、白鳥たちに加わった壁谷まりえ(コデマリスタジオ)が見守る。共に貝谷八百子の孫弟子にあたる。

大竹ほか振付の『シンデレラの夢』では、吉田隆俊の継母、同じく『仮面舞踏会』では、吉田の「男」、さらに大竹の代役を務めた山本教子の「女」に、華やかな存在感、優雅で華麗なマイムという、貝谷の遺産が受け継がれている。

長年、ダンサー大竹の魅力を引き出してきた安藤雅孝は、今年もスタイリッシュな振付で男女の機微を描いた。大竹は白いドレスとなって、そこにいた。公演フィナーレでは、華やかな赤いドレスに変わり、感謝の花が捧げられた。そしていつものようにあっさりと幕。舞台人 大竹みかに準じた、粋な幕引きだった。