蘆原英了『舞踊と身体』✖ 井口淳子『亡命者たちの上海楽壇』2019

前者は音楽・舞踊評論家の蘆原英了が、1920年代から70年代にかけて書いた舞踊エッセイを集めたもの(1986年 新宿書房)。クルト・ヨースの『緑のテーブル』予習のため、手に取った。ヨースの箇所は朧気、覚えているのはパブロワの遺骨をめぐる旅と、ゴンチャロワ夫妻訪問記のみだったので、再読することにした。

「思い出の舞踊家たち」、「舞踊の周辺」、「スペイン舞踊の世界」、「日本舞踊の身体」という章立て。記録としての価値もさることながら、蘆原の批評家としての立ち位置が面白く(ヴィグマンを認めない、バランシンは嫌い、プティが好き)、どんどん読み進めた。舞踊そのものについての見識も、当然ながら深い。日本舞踊と西洋舞踊の比較は、今読んでも新鮮だった。

戦前の『思想』に掲載された「菊五郎の眼」「三津五郎の足」「猿之助の口」、同じく『中央公論』掲載の「ナンバン」では、居所と能の関係、摺り足の起源、ナンバンの舞踊における意味など、多くを知ることができた。また、蘆原の行きつ戻りつする思考も格別の楽しさだった。

バレエ関係で一つ付け加えておくと、蘆原は「ボーモントを偲ぶ」において、あまりにも貴重なため誰にも教えたくない本を、ボーモントが自分にだけメモしてくれたエピソードを書いている。ブルノンヴィルの『エチュード・コレグラフィック』だった。

  『亡命者たちの上海楽壇』では音楽学者の井口淳子が、1920~40年代租界における上海楽壇の実態を、当時の新聞等から明らかにしている(2019年 音楽之友社)。概要は、

●(上海バレエ・リュスの本拠地だった)ライセアム劇場の歴史、客層の変遷

●上海楽壇における主役交代―英国人、フランス人から、革命を逃れたロシア人音楽家、亡命ユダヤ人へ

●当時演奏されたモダニズムからコンテンポラリーに至る音楽作品

●上海バレエ・リュス結成の経緯と上演作品一覧表

●極東のインプレサリオ、アウセイ・ストロークの生涯と、アジア・ツアーで招聘した音楽家舞踊家の一覧表

ストロークの右腕と言われた原善一郎の活躍

まず、ライセアム劇場の実態が、新聞記事やプログラム、様々な統計によって、立体的に分かったことが大きい。付属の上海工部局オーケストラ、また上海バレエ・リュスの上演作品一覧も、アーカイヴとして貴重である。バレエ・リュス旗揚げ公演では、ディアギレフ以降のモダン・バレエも上演されたとのことで、当時の上海の同時代性(西洋との)を改めて認識することができた。

標記2冊は、上海を本拠とする興行主 ストロークで繋がっている。蘆原が取り上げた来日舞踊家のうち、デニショウン舞踊団、アルヘンチーナ、サカロフ夫妻、グラナドス、クロイツベルクとページ、マヌエラ・デル・リオ(蘆原表記)が、ストロークのアジア・ツアー上海公演・日本公演一覧(井口)に載っている。それによると、デニショウン舞踊団は、国内では東京、名古屋、大阪、宝塚、サカロフ夫妻は、東京、大阪、京都、神戸を巡演した。

ストロークは、渡米途上にあったプロコフィエフの帝国劇場演奏会もプロデュースしたという(以下も井口による)。ストロークが最初に手掛けた大掛かりなアジア・ツアーは、1919年のロシア・グランド・オペラである。帝政ロシアの一流歌手25名、オーケストラ38名、合唱20名という大所帯で、東京(帝国劇場)、横浜(ゲーテ座)、大阪(中央公会堂)、京都(岡崎公会堂)、神戸(聚楽館、東遊園地劇場)、上海(オリンピック劇場、ライセアム劇場)、マニラ、インド(都市名なし)を巡業した。

日本では、『カルメン』、『アイーダ』、『椿姫』、『ファウスト』、『ボリス・ゴドゥノフ』、『ラクメ』、『トスカ』、『カヴァレリア・ルスティカーナ』、『道化師』、『リゴレット』、上海ではロシア語で(日本でも?)、『カルメン』、『リゴレット』、『ミニョン』、『スペードの女王』、『蝶々夫人』、『タイス』、『ユグノー教徒』、『デーモン』、『皇帝の花嫁』、『ジプシー男爵』、『ラ・ジョコンダ』、『ロミオとジュリエット』、『ラ・ボエーム』、『トロヴァトーレ』が上演された。現在のオペラハウス・レパートリーと全く変わらない作品群を、大正7年の人々が(ロシア語で?)聴いたかと思うと痛快で、ストロークの情熱と剛腕がありがたく思える。

ストローク1920年代以降、帝国劇場と朝日新聞社の財政的バックアップを得て、上海から日本に拠点を移そうとしていた。1937年英国出発直前の談話として「日本に国立オペラをつくるつもり、英国最高のオペラ団を極東に招聘することになるだろう」と述べたが、上海事変が起こり、活動停止を余儀なくされた。もしこの時、国立オペラができていたら...

戦後米国へ移住したストロークは、空路のアジア・ツアーを再開(戦前は大型客船)、メニューヒン等を招聘したが、日本で客死する。本書に詳述されたストロークの生涯から、彼がディアギレフと文化的に地続きだったことが分かった。日本がアジア・ツアーの一寄港地であったことも、インターナショナルな俯瞰から知ることができた。