7月に見た振付家・ダンサー 2019

マルコ・ゲッケ @ ネザーランド・ダンス・シアター『Woke up Blind』(7月6日 神奈川県民ホール 大ホール)

来日プログラム4作の中で圧倒的に面白かった。レオン=ライトフット作品は当然だが、カンパニーのためのコンテンツという意識が強く、パイト作品は英語のセリフと動きの連関が、ネイティヴのようには読み取れなかった。言葉の壁は厚い。

ゲッケの振付は誰の影響も受けず、誰にも影響を与え得ない単独性がある。バレエのパの高速運用、動きの増殖、空手のように指を揃えたつつき(連打)。鳥のようにも、アニメのようにも見えるクキクキ動き、ひくつきがある。脚もバレエと武術風の低重心が有機的に組み合わさって、自然。体の芯から動きが生まれている。ブルースのようなスキャットのようなジェフ・バックリーの音楽とは一心同体だった(一致しているのではない)。川村美紀子の歌を思い出す。

中心のセバスチャン・ハインズが素晴らしい。スター。カリスマがある。踊りの巧さのみならず、動きを一気に自分の人生に引き付けることができる。同パートを福岡雄大に踊らせたいと思った。

 

柳下規夫✖正田千鶴 @ 東京新聞「現代舞踊展」(7月13日 メルパルクホール

柳下は自らも出演の『白夜・逍遥とロマン』、正田は『Floating―揺れども沈まず』(上演順)。柳下作品は本人の出演がなければ成立しない固有の世界、正田作品はバレエ団がレパートリー化すべき、普遍的なアヴァン・ギャルドである。

今回の柳下は、白のスーツを着込んだお洒落なパートナー。ドレス姿の女性を小粋にサポートする。女性を自由に踊らせ、後ろ手を組んだ上に女性を立たせる面白いリフトを見せる。ラヴェル風のワルツと、もの悲しいサックス生演奏で、エレガントなデュエットを作り上げた。

いつもはふっくらと母性的な女性アンサンブルは、きれいで洒落ている。振付はアラベスク、ピルエットなどシンプル。そこに正面性が加わり、「見せる/踊る」のあわいから妙な存在感が生まれる。音楽的とか美的とかを超越した、一種浮世離れしたアナザーワールド。不死の世界? ダンサー柳下には異様な色気があり、彼岸の人に見える。

正田は岡本太郎。女性9人のオールタイツが白地に大きな丸模様だったということもある。幾何学的な四肢のポジション、アラベスクに、手足をバタバタさせる原始的な動きが加わる。クセナキスのパーカッションはあまりに複雑で、音取りが不可能に思われるが、ダンサーたちは整然と振付を遂行。なぜ手足をバタバタさせるのか。正田自身にも分からない意識以前の欲求、確信がある。道なき道を進み、後から来る者もいない。これ程の孤立(孤独)に長年耐えて、なおかつ先に進む強さ。前衛と言うしかない。

この日は加藤みや子の踊りを見ることができた。萩谷京子の『透過』である。加藤は周囲のダンサーを巻き込み、すぐさま配下に置く巫女、または魔女的な存在感を見せた。東洋武術のような切れ目のない動き、その全てに気が横溢し、四方にじわじわと放射する。萩谷の指示(振付)に対する思考の強さと深さ、実存と直結した動きに圧倒された。自作で見るよりも奔放。

 

山崎広太 @ 「都市縦断型パフォーマンス・プロジェクト~インフォーマル・ショーイング」(7月13日 渋谷ハチ公前)

 自身のワークショップのショーイング。当日は猛暑で少し熱中症気味だったが、日傘をさしてハチ公前に赴いた。山崎が数人のパフォーマーたちと円陣を組んでいる。物陰から覗いていたが、少し目を離したすきに、誰もいなくなった。帰ろうとした時、山崎と遭遇。「交番前がいいですよ」との言葉を残し、再びいなくなる。交番前に行くと、何やら立っている男が。少し変。時々体の位置を変える。道行く人に気づかれないようにダンスをしているのだ。あまりの暑さに帰ろうとすると、再び山崎が現れ「今からユニゾンが始まりますよ」。見ていると、あちこちで男女が素知らぬ顔で同じ動きをしている。雑踏は気付かず。時折、見ている我々に気づいて、パフォーマーを見る人も。面白かったが暑かった。この後、渋谷警察署前歩道橋、夜には森下スタジオでショーイングだったが、見られず。

 

勅使川原三郎 @ 『幻想交響曲(7月15日 カラス・アパラタスB2ホール)

佐東利穂子とのデュオ作品。勅使川原の自筆絵が飾られているギャラリーを下りて、薄暗いホールに入る。ベルリオーズの同名曲を勅使川原と佐東が交互に踊る(佐東の分担が多い)。1、2楽章はやや単調に思えたが、3楽章(野の風景)の勅使川原の牧歌的ソロ、4楽章(断頭台への行進)の佐東の爆発的ソロに続き、5楽章(魔女の夜宴の夢)では、勅使川原の奇形的ソロから、音楽と共に突き抜ける狂ったような壮絶デュオに至る。佐東は強靭、勅使川原の周りをグリグリと踊る。対等のデュオだった。 

 

熊川哲也 @ 「関直人先生お別れの会」(7月26日 渋谷エクセルホテル東急)

熊川は飛び入りで、熱い別れの言葉を述べた。オーチャードホールのリハーサルから駆け付けたとのこと。「まだ小学生だった頃、札幌の公演で関先生の作品を見た。素晴らしい振付。翌年には自分も出演し、ソロを振り付けて頂くようになった。 篠原聖一さんと一緒に踊ったことも感激だった。井上バレエ団には関先生の作品を受け継いでいって頂きたい」。自身の踊りと同じように、熱く、速く、率直で、嘘のない挨拶。嵐のようにやってきて、嵐のように去っていった。井上バレエ団理事長の岡本佳津子氏によるしみじみと振り返る追悼の言葉、関の『青のコンチェルト』で初共演した清水哲太郎・森下洋子夫妻の挨拶も。会場には、柊舎でチュチュを縫っていた山崎広太の顔もあった。

 

金森穣 @  Noism15周年記念公演(7月27日 めぐろパーシモンホール 大ホール)

金森は自作に出演した。再演の『Mirroring Memories』と新作『Fratres 1』。前者は自作アンソロジーを師ベジャールに捧げる形。後者はペルトの同名曲に振り付けた儀式性の高い作品(蹲踞あり)。ワーグナーで踊るソロよりも、ペルトのユニゾンで見せる踊りに、ダンサー金森の非凡な才能が確認できる。前者は、ワーグナーの全能感あふれる音楽と、金森のカンパニーでの立場があまりにクロスし、余計なものが入る。後者の、カンパニーと踊るユニゾンでは、振付の可能性を最大限視覚化した。自分が振り付けたから、ではなく、他者の振付でも解釈の深さは同じだろう。腕の雄弁、体が内包するパトス・物語性、フォルムの絶対性、動きの正確な速さ、そしてアポロン的な輝かしさ。他者の作品でも見てみたい。

 

柴山紗帆 @ 新国立劇場 こどものためのバレエ劇場『白鳥の湖(7月29日朝, 30日昼 新国立劇場オペラパレス)

今シーズンの柴山は、『不思議の国のアリス』のアンサンブル、『くるみ割り人形』のルイーズ(=蝶々)、雪の結晶ソリスト、スペインソリスト、『ペトルーシュカ』の街の踊り子、オペラ『タンホイザー』のバレエシーン・ソリスト、『ラ・バヤデール』のニキヤ、『シンデレラ』の春の精、『アラジン』のダイヤモンド、こどものためのバレエ劇場『白鳥の湖』のオデット=オディール を踊った。英国バレエとロシアバレエが混在するなか、プティパ作品のニキヤとオデット=オディールに、柴山の資質が花開いている。その抒情性、ターボエンジン(知人の言)を思わせる強靭なテクニック、音楽とドラマが分かちがたく結びついた振付遂行。演技ではなく、踊りそのもので物語を語ることができる。

前シーズンの印象は、正確なポジションが生み出す美しいライン、技術の確かさが前に出て、役作りは淡泊に思われたが、今シーズンの主役では、美点と役作りが渾然一体となり、吟醸酒のような味わいが醸し出された。ニキヤ初役の雑味のない音楽的抒情性、二回目の『白鳥』は、驚くべき進化を遂げていた。振付の一つ一つが意識化され、役の感情を指し示している。そのニュアンスの細やかさ。高度な技術もこれ見よがしではなく、役に奉仕している。フォルムを見る喜び、四肢の軌跡を見る喜び、音楽に浸る喜びがあった。今回感じられた身体の艶は、ダンス・クラシックの技法によってのみ付与される希少なクオリティである。