レッドトーチ・シアター『三人姉妹』2019

標記公演を見た(10月18日 東京芸術劇場 プレイハウス)。ノヴォシビルスク州立(国立?)アカデミードラマ劇場の別名。演出は主任演出家のティモフェイ・クリャービン(84年生まれ)による。

所属俳優がロシア手話を習得し、2名の例外(アンフィーサ、フェラポント)を除いて、全員が手話で会話する実験的演出。発話のない会話のため、効果音としての机をたたく音や、ヴァイオリン演奏などをかぶせることができる。観客は当然ながら、ロシア手話は分からないので、字幕(日英)で意味を取りつつ、俳優の身体を見ることになる。観劇後の体感は、外国語による演劇(字幕付き)を見た時と、さほど変わらなかった。現代性の加味、聾者のための装置使用もあったが、こうした実験性の背後にある、俳優の肉体に宿る歴史的蓄積、チェーホフと正面から向き合う正統的演出に、むしろ感動があった。

バレエダンサーのマイムと、(聾者でない)俳優による手話は全く異なる。ダンサーの体が最初から言葉を禁じられているのに対し、俳優の体は言葉を放つことが前提。言葉を手話に置き換えているだけで、発話時の俳優の身体表現と、あまり違いは感じられなかった(ただし、手話の場合は必ず対面しなければならず、他所を見ながら会話することはできない、また抱き合いながら会話することもできない)。マイムは音楽に振り付けられた、半ばダンスに近い表現。手話は意味の伝達を目的とするということだろうか(聾者の演劇は未見)。

ロシアでも字幕は付いたとのこと。もし付いていなかったら、身体のみに集中する過激な演出になっただろう。手話を解するロシアの聾者にとって、この演出はどのように受け入れられたのか。背中を向けて手話をする場面は分かりにくく、同時に喋る場面では、目が分散することになったかもしれない。手話が役作りや身体に及ぼす作用について、俳優たち自身の言葉を聞いてみたい。

クリャービンはノヴォシビルスク・オペラ劇場やモスクワ・ボリショイ劇場で、オペラ演出も手掛けているとのこと。我が新国立劇場では新シーズン開幕公演『エフゲニー・オネーギン』に、同じロシア人演出家 ドミトリー・ベルトマン(90年に23歳でヘリコン・オペラ創立)を迎えた。オリガ、ラーリナの戯画的造形や、合唱アンサンブルの合体フォーメイションに特徴がある。前者については、日本人歌手との混合座組だったせいもあり、分かりにくさが残った。

全体的には、スタニスラフスキーの演出を下敷きにしたという。4人のロシア人歌手たちの、役からはみ出さない歌唱が素晴らしい。声量で押す、いわゆるロシア人歌手のイメージからは程遠い、役が要請する対話のような歌。豊かで深みのある声が役に奉仕する、理想的な歌唱だった。タチヤーナのエフゲニア・ムラヴェーワ、オネーギンのワシリー・ラデューク、グレーミンのアレクセイ・ティホミーロフ、中でも、レンスキー役パーヴェル・コルガーティンのテノールは貴重。ロッシーニの『スタバト・マーテル』で聴きたいと思った(既にロッシーニ・オペラ・フェスに出演とのこと)。