2月に見た振付家 2020

スー・ヒーリー@『ON VIEW : Panorama』(2月2日 横浜赤レンガ倉庫1号館 3F ホール)

「横浜ダンスコレクション2020」開幕公演で世界初演。振付・演出・映像はヒーリー、出演は、日本の浅井信好、湯浅永麻、香港のジョゼフ・リー、ムイ・チャック–イン、オーストラリアのナリーナ・ウェイト、ベンジャミン・ハンコック。同館 2F ではヒーリーのビデオ・インスタレーション ON VIEW『ダンス・アーティストのポートレート』上映が同時開催された。

上演前に、ヒーリーがフォワイエで作品説明。聞いている背後から、ハンコックが黒ラメの総タイツ、羽飾り、ハイヒールのドラグクイーン姿で登場し、人々を驚かせる。ぞろぞろとホールに入り、半透明の布に映された映像とその前に佇むダンサーを眺めながら移動。着席後、本編が始まる。

繊細なビデオ・インスタレーションを背景に、個々のダンサーのソロ、全員の関わるパートが交互に繰り返される。全員のパートは、「見る」「肩に手を置く」「歩いて交差する」「一人が踊って5人が床に寝転ぶ」など、日常的仕草を基本にした振付(ヒーリー)。個々のソロに比べると、動きの強度が低く、振付家というよりも、映像作家、演出家に思われる。終盤のスペクトラム光線、ダンサーが無数に映し出される無限映像、浄土を思わせる白い揺らぎ光線に、ヒーリーの本領が発揮された。

ダンサーでは、浅野のニュートラルな舞踏の体が印象深い。舞踏に付きまとう形而上的な匂いを排し、一技術として舞踏を用いている。白の着流し姿に漂う清潔な色気。僧侶のようにも、刺客のようにも。美しい体が、終幕の涅槃シーンの核となった。一方、昨年も開幕作品に登場した湯浅は、相変わらず湿度の高い粘り気のある体。バックのアメーバ映像に、蛍光色タイツの湯浅がしっくりと馴染んでいる。水に入る映像では、オンディーヌ、ではなく、日本的な妖怪風の妖しさがあった。リーのソロで、ベンジャミンと踊ったバックダンスが、怖ろしく巧い。他者の振付に肉薄する気合が並外れている。

 

宝満直也 @ NBAバレエ団『狼男』(2月15日昼 新国立劇場中劇場)

「HORROR NIGHT」と題されたダブル・ビルの一作。もう一作はマイケル・ピンク作『ドラキュラ」の第一幕である。後者は今夏全幕上演の予定だが、一幕のみでも、英国系物語バレエの伝統が明らかだった。英国ロイヤル・バレエの平野亮一(ドラキュラ)を始め、宮内浩之(ハーカー)、峰岸千晶(ミーナ)、三船元維(ヘルシンク)、3人の女バンパイアなど、細かい役作りに全幕への期待が高まる。野久保奈央を中心とする村人たちの踊りも、大地と直結したエネルギーにあふれていた。

宝満新作『狼男』は、得意とされる動物ものだが、これまでよりも抽象的な造形。人間の共同体が、異質にどう対するかという、普遍的な問題を扱っている。冒頭のシルエット・シーンでは、男(森田維央)が四つん這いの男に咬まれ、終幕の同シーンでは、少女(竹田仁美)が別の男を咬んで、血だらけの首を晒して終わる。疑心暗鬼の指差しシーン、男性アンサンブルによるコミック・リリーフも効果的。途中、紫色の神官服に身を包んだ刑部星矢が、狼男の首領として現れる。圧倒的な存在感、虚構度の高さは、物語に歪みを与えるほど強烈だった。狼女となる竹田とのパ・ド・ドゥもドラマティック。ベテランの竹田は、深い作品解釈、緻密な役作り、磨き抜かれた踊りで物語を牽引、振付家の優れた伝達者となった。中盤は人間関係が分かりにくく、整理は必要に思われるが、骨太のコンテンポラリー・バレエ作品。再演を期待したい(音楽の表記も)。

 

矢内原美邦 @ 全国共同制作オペラ『椿姫』GP(2月21日 東京芸術劇場コンサートホール)

矢内原初のオペラ演出は、音楽性よりも意味性を追求するアプローチだった。オペラの文法を壊そうとするニブロール風と、ドラマに沿ったオーソドックスな演出が同居する。冒頭の宴の場面では、5人のダンサーが道化のようにヴィオレッタを取り囲んで踊る。2幕1場ジェルモンとヴィオレッタの掛け合いでは、黒衣を着たダンサーたちが肩を落として歩き、壁を叩いてヴィオレッタの悲痛な胸の思いを代弁する(1幕では足音あり、音を立てる演出)。同2場のジプシーと闘牛士の踊りは、なぜかネイティヴ・アメリカンのようなニュアンス。合唱団も踊りに加わり、上着を放り上げるシークエンスを繰り返した。

スマホを取り入れた演出や、ジェルモンとヴィオレッタが、箱の上に立って歌う、降りて歌う、を交互に行う演出(建前と本音の別)など、意味が突出する場面もあったが、3幕は演出と音楽が一致した。赤いドレスを脱いで黒のスリップ姿になったヴィオレッタは、終始横座りで歌う。奥から砂時計をもった黒衣の男たちが、縦一列となって静かに前へ歩き、戻っていく。アルフレードとジェルモンは残り、椅子に座る。顔は見えず、影になったまま。ヴィオレッタの死の前の幻想という解釈だが、死にゆくヴィオレッタを静かに見守る効果があった。

一方、音楽的だったのが、ニブロール高橋啓祐による映像。場内はコンサートホールのため、客席を取り除いてオケピットを作る。幕がなく、常時、指揮者もオケも見える開放的な空間のなか、舞台奥、両袖上方まで広がる映像の力は大きかった。「第一幕への前奏曲」での彼岸花、ジェルモンの最後通牒での、カビ(不安)のように増える夜桜は、『椿姫』が日本で上演される意味を補完する。音楽の襞を掬い取る映像の、繊細かつスピーディな移り変わりが素晴らしかった。山羊(スケープゴート)の映像は、ヴィオレッタと肌が合わない気がする。