新国立劇場バレエ団『マノン』2020

標記公演を見た(2月22, 23, 26日 新国立劇場オペラパレス)。マクミランの最高傑作『マノン』は、74年英国ロイヤル・バレエにより初演。その後、世界各地で上演されるモダン・バレエの古典となった。新国立では03年初演、12年の再演を経て、今回が8年ぶり3回目の上演である。

今季が最後のシーズンとなる大原永子芸術監督の悲願は、ドラマティック・バレエの定着だった。残す演目は『ドン・キホーテ』と『不思議の国のアリス』のため、『マノン』が大原監督の集大成と言える。5公演のうち2公演が「新型コロナウイルス感染症拡大のリスクを低減する観点から」中止、という残念な事態となったが、初日からの3公演、主役から脇役に至るまで、全員が役の人生を生きて、監督の薫陶を明らかにした。

『マノン』が物語バレエの中で抜きん出た強度を誇るのは、デ・グリュー2幕ソロや、流刑者群舞などの表現主義的振付、キャラクターを表す演劇的振付、アクセントを付加したダンス・クラシックが、高度に織り合わされているからである。さらに、バランシン、プティと共通する合理を超えたムーヴメント、同時多発の芝居が、観客の無意識に強く作用し、感覚の拡大を強要する。アシュトン版『シンデレラ』の同時多発とは異なり、脇役の生も細かく描かれているため、ドラマが重層的に展開。何度見ても見切ることができない、「体験」に近い舞台受容となる。

レイトン・ルーカスとヒルダ・ゴーントによるマスネ―選曲(リーフレットに表記なし)も、『マノン』を傑作にした要因の一つ。出会いのパ・ド・ドゥの「エレジー」、沼地のパ・ド・ドゥの「聖処女の法悦」を始め、マノンの妖しいソロ、ルイジアナの女たち、流刑者の群舞など、耳に残る曲が多い。2011年にマーティン・イェーツが新編曲を施し、繊細で滑らかな音楽に変わった。イェーツの加えた3幕間奏曲は、ドラマの流れを却って断ち切る印象もあるが、編曲自体は作品の普遍化を促している。前回に続くピーター・ファーマーによる清潔な美術・衣裳にも、同じ効果を見ることができる(提供:オーストラリア・バレエ)。

マノンとデ・グリューは3組。初日と二日目は米沢唯とワディム・ムンタギロフ(英国ロイヤル・バレエ プリンシパル)、三日目と最終日(中止)は小野絢子と福岡雄大、四日目(中止)は米沢と井澤駿、という組み合わせだった。二日連続でマノンを踊るだけでなく、週替わりとは言え、2人のデ・グリューと組む米沢のタフネスと、そのように育てた大原監督の情熱を思わされる。初役 井澤のロマンティックなデ・グリュー、それに応える米沢の、もう一人のマノンを見たかった。

米沢とムンタギロフは、14年の『眠れる森の美女』から17年の『くるみ割り人形』まで6回パートナーを組み(ガムザッティを入れると7回)、マクミラン版『R&J』も踊っている。当時は感情の遣り取りが二人だけで完結していたのが、今回は地に足を付けて自立する、個と個の対話に変わっていた。共に肉体が充実し、ベテランの域に入っている。

米沢のマノン像は、アベ・プレヴォ原作から多くを負っているように見える。マクミランはアイコンのようなマノンを造形したが、米沢はマノンの内面を探り、自分の理解を手放さないまま、デ・グリューと対峙した。意志のあるマノンである。寝室のパ・ド・ドゥの直後に、G.M. になびくのは、大きな壁だったのではないか。2幕の娼館で、デ・グリューに裏切りを責められる場面では、デ・グリューへの愛情が迸り、アルマンを突き放すマルグリットに似た 慈母のような佇まいを見せた。2幕ソロはオディールの味わい、沼地のパ・ド・ドゥでは、ジゼルの狂乱が拡張されて(出会いも『ジゼル』を引用)、マクミランの下敷きが初めて感じられた。出会い、寝室のパ・ド・ドゥは、まだ振付が見える部分もあったが、井澤デ・グリューとならどうだったか。

対するムンタギロフは、これまでの線の細さが消え、成熟した男性の魅力を湛えている。傑出した技術の持ち主だが、踊りの全てに感情が宿り、神学生としての慎ましい佇まいから、殺人を犯す激情まで、美徳と悪徳を往還する苦悩を生き抜いている。米沢とは言葉が聞こえるようなパートナーシップを感じさせた。

マノン二回目となる小野は、初演の無邪気な華やかさは薄らぎ、慎ましやかになった。その場その場での貞淑なマノン、といった風情。『ラ・バヤデール』に始まった福岡との、10年に亘るパートナーシップの総決算でもある(今季、来季も関係は続くが)。当初から兄妹のような印象。古典を極める同志でもあり、共に同じ方向を向いて進む親密なパートナーである。『マノン』4つのパ・ド・ドゥの複雑なパートナリングもスムーズで、二人の長年の歴史を思わされる。相手の呼吸を常に測る芝居も加わり、その緻密な共同作業に、観客も声援で応えた。その一方で、小野の個性である無邪気な愛らしさは、体の奥底で眠っているように見える。環境が変わる来季、新たな展開が期待される。

福岡のデ・グリューは、原作の冒険活劇的要素を汲み取って、それを拡大した造形。マクミランはデ・グリューの神学生としての側面を随所に描いているが(挨拶のソロ、パッキング・パ・ド・ドゥ)、本来の清らかさよりもハードな味わいが勝る。特にパッキングは、レスコーと見紛うほどだった。傷つき痩せ衰えたマノンを支える3幕では、福岡の踊りを通しての激情が炸裂する。劇的な沼地の終幕まで、一気に駆け抜けた。福岡らしいデ・グリュー像を示したと言えるが、肝心のマノンを恋する情熱が、身体化されていない。マチズモ的な恥の感覚が、それを妨げているのだろうか。

レスコーは、木下嘉人と渡邊峻郁。初日の木下は、技術の切れ、知的な役作り、俯瞰的な視野(酔っ払いのソロ、愛人とのコミカルなパ・ド・ドゥにおいても)が揃い、狂言廻しの役どころを楽しそうに演じた。米沢妹との阿吽の呼吸、ムンタギロフを抑え込む気合にも力みがない。はまり役だった。一方、渡邊は、本来デ・グリューのタイプ。近衛兵よりも神学生が似つかわしい。愛人の殴り方も、柔らかだった。

レスコーの愛人は、木村優里と寺田亜沙子が組まれたが、寺田は残念ながら負傷降板。急遽 木村が代役を務めた。木村の愛人は、パワフルで意志が強く、自ら人生を切り開いていくタイプ。高級娼婦を生業にしながら、レスコーを一途に愛する、のではなく、レスコーをしょうがないと思いつつ、大きく見守っている。将来は娼館のマダムになると思われる。渡邊レスコーとは当日の合わせだったが、それを微塵も感じさせなかった。

舞台の要となるムッシュー G.M. には、中家正博。人を金で操る厭らしさ、女性を値踏みするねっとりとした視線、マノンへのやや滑稽な溺れ方など、堂に入っている。1幕1場退場の際、ステッキで円を描くのではなく、マノンの体に沿わせ人型を描いたのは、中家の工夫だろうか。裏切られた後の、冷徹な男への変貌ぶりも鮮やかだった。

一方、3幕でマノンに腕輪を見せて悪夢を思い出させる看守には、貝川鐡夫。看守と言うよりも、所長といった趣で、陰惨な場面にもノーブルな雰囲気を漂わせた。また、キャスト表記はないが、1幕でマノンに付きまとう老人 内藤博の老練な芝居は、舞台に深みと奥行きを与える。劇場はリーフレット及び、キャスト表を充実させ、ダンサーに報いるべきだろう。

舞台のもう一人の要は、通常そこまでの役割とも思われない娼館のマダム、本島美和だった。登場するすべてのシーンで、自らの人生が生きられている。1幕でのマノンを値踏みする鋭い視線、家に来ない?と誘う姿の妖しい美しさ。2幕でマノンのソロを見る眼差しには、かつての自分を見るような懐かしさと、酸いも甘いも嚙み分けた遣り手の塩辛さが入り混じった。娼婦たちの統括、客あしらいに品があり、テーブルに乗って踊る姿やレスコーとのおふざけにも、矩を踰えないプロ意識が滲み出る。究極のはまり役だった。

物乞いのリーダー初日は、福田圭吾。役の踊りが素晴らしく、レスコーとの和気藹々、仲間を率いる統率力に、舞台が一気に熱を帯びた。三日目で最終日の速水渉悟は、なぜか集中を欠いた印象。中止発表、急遽代役による開幕遅れ(20分)が影響したのだろうか。むしろ初日、二日目の踊る紳士で見せた、怖ろしくシメトリカルな踊りに惹き込まれた(ムンタギロフも食い入るように見ていた)。井澤諒 配役の四日目は、残念ながら中止。美しい踊りとよく考えられた演技を見ることはできなかった。

高級娼婦、女優、娼婦、とバレエ団の若手からベテランまで勢ぞろい。特に池田理沙子と渡辺与布の喧嘩デュオは、思い切りの良さと芝居心に見る喜びがあった。娼婦アンサンブルの健康的な可愛らしさも。娼館の客では、浜崎恵二朗のエレガンス、趙載範の分厚い存在感が印象的だった。2幕マノンの空中遊泳で、趙がサポートするたびに安堵。カードのテーブルでの重量感も抜きん出ている。

指揮は編曲者のイェーツ、管弦楽は東京交響楽団。たくさんのマノンを見守ってきたイェーツが、米沢と小野を厚みのある劇的な音で支えている。