パリ・オペラ座バレエ団『ジゼル』『オネーギン』2020

標記公演を見た(2月28日、3月6日 東京文化会館 大ホール)。3年ぶりの来日公演。前回はミルピエ前芸術監督の決めたプログラムだったが、今回はオーレリー・デュポン現監督が、オペラ座伝統の『ジゼル』と、クランコの『オネーギン』を選択した。後者はマチュー・ガニオとユーゴ・マルシャンというオネーギン・ダンサーがいるためだろう。

『ジゼル』は1841年パリ・オペラ座で、ロッシーニのオペラ『モーゼとファラオ』第3幕の後に初演された(ボーモント)。コラリ=ペロー版は、その後9年間レパートリーに留まり、グリジのみが主役を踊った。1852年にゲリノー主役、53年にフォルリ主役で再演。1863年マリインスキー劇場のムラヴィヨーワ来仏で復活、その後68年まで上演された(この時書かれたアンリ・ジュスタマンの舞踊譜を基に、昨年11月ラトマンスキーがボリショイ劇場で新版を発表)。再びオペラ座のレパートリーに『ジゼル』が戻ったのは、1924年N・セルゲーエフによるプティパ版で、スペシフツェワの主演だった(薄井憲二、Susan Au)。その後、1991年にパトリス・バールとユージン・ボリャコフが改訂を行ない、現行版となる。

一度途絶え、改訂を経ているにもかかわらず、舞台には19世紀から続く伝統芸能の匂いが濃厚に漂っていた。デンマーク・ロイヤルバレエ団(ブルノンヴィル作品)を除くと、他のバレエ団には感じられない職人気質が残されている。主役のジゼル(レオノール・ボラック)、アルブレヒト(ジェルマン・ルーヴェ)、ヒラリオン(オドリック・ベザール)、ミルタ(オニール八菜)は、個性を主張するのではなく、連綿と受け継がれてきた伝統の型に、自分を寄り添わせている。「自分なりに」踊ることが許されない、古典芸能の世界と言える。

村人アンサンブルは揃えようとする意識はなく、児童期より仕込まれたスタイルによって統一されている。ウィリ・アンサンブルも、一見揃っていない。ロシア派は腕のポジションに至るまで揃っているが、フランス派では腕遣いへの意識そのものがないように見える。体全体の調和を重視しているのだろう。上体はバラつきがあるが、しかし脚は、初めの一歩から揃っている。

終幕、鐘が鳴り、ウィリたちが二手に分かれてパ・ド・ブレで袖に入る場面では、その四角い隊形の密度の高さに驚かされた。呼吸を共にしなければ、あのように接近してパ・ド・ブレを刻むことはできないだろう。コール・ド・バレエの一体感に、無意識のうちに形成された身体と、伝統の根強い継承を思わされた。

ペザント・パ・ド・ドゥ 女性ヴァリエーションの、グラン・プリエからピルエット、アントルシャが古風な味わい。続いて友人8人がのどかな曲で、のどかに踊るが、振付は誰なのか。ベルタによるウィリ・マイム、2幕のサイコロ遊びあり。ミルタのシーンは怖ろしく暗く、クールな美しさを誇るオニール八菜は亡霊のように見えた(亡霊なのだが)。全体にマイムは自然。英国系の作り込まれたマイムとは対照的だった。

『オネーギン』は1965年にシュツットガルト・バレエ団が初演、67年に改訂版、オペラ座初演は2009年とのこと(プログラム)。マルシャンのオネーギン、ドロテ・ジルベールのタチヤーナ、ポール・マルクのレンスキー、ナイス・デュボスクのオリガで見た。マルシャンは絵に描いたような美形。技術もあり、大柄だが神経の行き届いた身体の持ち主。凍るようなニヒリズムを出すにはまだ若さが優っているが、申し分のない主役だった。ジルベールは、少しモニク・ルディエール(3幕)を思わせる造形。内向的な少女から、成熟した大人の女性までを、これ見よがしなく演じている。デュボスクのオリガと共に、オペラ座の芝居の伝統を窺わせた。

本家シュツットガルトが、ロシア風の雰囲気を出そうとしているのに対し、オペラ座オペラ座風でよいと思っているようだ。1幕の民族舞踊もフランス風。ソヴィエト流アクロバティックなパ・ド・ドゥも、怖ろしく滑らかに踊り(とんでもなく技術がある)、劇的な効果をもたらさない。困難な技を簡単に見せることが、当然の職務だと思っているのだろう。スラブ風の哀愁、チャイコフスキーの悲劇性も身体化されず、このため、作品にやや隙間風が吹いている。本家では口伝で補われていると思われる。

バレエ・マスターがなぜかイレク・ムハメドフ。昨夏、吉田都の引退公演で、情熱的なパ・ド・ドゥを踊り、往時を偲ばせたばかり。なぜムハメドフ?