2月27日以後2020(番外編)

舞踊の公演評を書くこと、記録を残すことが自分の務めだと思っている(勝手に)。「記録を残す」とは師匠 長谷川六の言葉。メモを取る、数を数える、時間を計るなど、評を書く基本を教わった。さらに「批評をする者は、プログラムに書いてはいけない」との名言も。もう一人の師匠 阪田勝三(キーツ研究、フォークナー翻訳)からは「論文は遺言のつもりで書きなさい」。文章を書く時の指針となった。

公演評しか書いてこなかったので、公演がないと書くことがない。舞踊の記録映像を見たり、舞踊史をかじるのも、公演評を書くためだった。現在、様々な映像が氾濫しているが、生の舞台と、その記録映像から受ける感触の違いに驚かされる。映像がパフォーマンスの何を取りこぼしているのか。裏返せば、パフォーミング・アーツの肝とは何か。

それで思い出したのが、青年団の芝居が、生で見たのか、記録映像(DVD)で見たのか、記憶で判別できないこと。平田オリザは、役者にミリ単位の動きを演出し(小津安二郎に倣い)、毎回同じことができる役者をよしとする。平田は2月の『東京ノート』のアフタートークでも、「明日も明後日も同じことをやっていますので、足をお運びください」と言っていた。平田作品は知的意匠に富み、問題意識も高く、なおかつ深い文学的教養に裏打ちされている。見れば必ず脳を刺激し、胸打たれるのだが、体に来ることはない(例外は、平田の ICU 先輩 山内健司松田弘子、生の手応えあり)。舞台の一回性を禁じる高度に批評的な演出・振付は、日本のみならず世界の演劇史に残る手法だろう。ただし、役者にとっては虐待に近い側面もあるのではないか。

観客は芝居が越境してくることがないので、身体的に緊張せず、映像を見るような、暗箱を覗くような安心感に包まれた観劇となる。質の高い戯曲と演出、それに呼応する優れた役者を、この値段で見られるのは贅沢。ただ「駒場東大前」に向かう道すがら、なぜか故郷の親に顔向けできないような複雑な気持ちになる。インテリの退嬰といったニュアンスが、後味として感じられるのだ。

公演がほとんど自粛要請で中止となり、週に3、4回公演を見る生活が、2月27日を境に突然終わった。パフォーミング・アーツを見る前の生活に、もっと遡れば、田舎の生活に戻ったのだ。瀬戸内の島育ちのため、小説を読む、映画館で映画を見るのが、文化的な楽しみだった(77年に島を出る頃は、中心部の町にまだ一軒映画館があった―テレビ普及以前は、わが町にも「聚楽館」という映画館があったらしい)。パフォーミング・アーツに接するのは、学校巡回公演の狂言、演劇、地元県オケの学校公演、高校の友人のバレエ発表会くらい。他には神社の巫女舞、自分も踊る盆踊り(口説きと太鼓でゆるゆる踊る←廃れた)。子供時代はテレビで落語や松竹新喜劇、思春期以降は、ミュージカルや「世界バレエフェスティバル」の映像を見て、都会の文化への憧れを募らせた。

因みに、小説の方で自分の血肉になったのは、吉行淳之介島尾敏雄、富岡多惠子、金井美恵子(後の二人は舞踏と関係あり)。吉行、島尾、金井は文章で読ませたが、詩人から出発した富岡は、批評家に近い。言葉、芸能、芸術についての言説が多く、武智鉄二との対談集『伝統芸術とは何なのか』(學藝書林)、外山滋比古との対談〈『虚構への道行き』(思潮社)所収〉、文楽、歌舞伎、落語、漫才などの大阪芸談義に、知らず知らずのうちに影響を受けた。

上京後も、パフォーミング・アーツには至らず、相変わらず文学と映画を彷徨っていたが、熊川哲也の出現で自分の中の舞踊熱が再燃した。(続く)