熊川哲也のこと2020

前々回ブログに続く。上京後、パフォーミング・アーツを見られる環境になったものの、文学と映画という複製技術による芸術の周辺をぐるぐる回っていた(+美術)。経済的なことに加え、プロテスタント的な禁欲が、劇場に行くことを阻んでいたのだ(今でも映画館の方がしっくりくる)。だが1989年、「ローザンヌ国際バレエ・コンクール」のテレビ中継で熊川哲也を見てから、状況が変わった。経済的にも少し余裕ができ、恐る恐る劇場に足を踏み入れるようになった。

この年は順決戦、決選が青山劇場で行われた。ヨーロッパ地区予選から出場した熊川は、日本人初の金賞と高円宮賞を受賞した。後に熊川が「本物の貴族(皇族)」と評することになるバレエの精神的守護者 高円宮殿下が、若き熊川に賞を授ける場面を(写真で)記憶している。

熊川は当時ロイヤル・バレエ学校所属。奨学金を貰えるほどの成績を収めたが、「コンクールかオーディションを受け、ニューヨークの ABT にでも入団したいと思っていた。ABT にはいろいろな人種がいるし、僕は、当時ABT の花形ダンサーだったミハイル・バリシニコフにも憧れていたからだ。日本のバレエ団に入団するという選択も漠然と考えていた。いずれにしろ、ロイヤル・バレエ団に進む気はまったくなかった。というのも、僕はロイヤル・バレエ学校で人種差別的な扱いを受けたことは一度もなかったが、当時はまだ東洋人のダンサーが入団した例が過去に一つもなく、西洋人だけでメンバーを構成するのがロイヤルの伝統だった。だから、ロイヤルの団員になれるなどとは考えもしなかったのだ。」(『メイド・イン・ロンドン』文藝春秋 , 1998年)

だがローザンヌに行く直前、当時のロイヤル・バレエ団芸術監督アンソニー・ダウエルから、団員契約の提案がもたらされる。熊川の並外れた才能が、ロイヤル多人種化の先鞭をつけたのだ。ローザンヌ翌月の2月にアーティストとして正式契約、労働許可証の関係で、カンパニー・デビューは6月の『オンディーヌ』(ブリストル)、2週間後に『R&J』(コヴェントガーデン)のマンドリン・ソロを踊る。同年7月ソリストに昇格決定。その際のダウエルとのエピソードが、熊川の本質を露わにする。

ダウエルのオフィスに呼ばれた熊川は、昇格のことに違いないと思い、「ソリストソリスト」とつぶやきながら嬉々として乗り込んだ。2月の入団契約時に、ダウエルから言われた言葉が頭の中にあったからだ。「おそらくソロで踊ることが多いと思うが、初めての契約だし、テディはまだ若い。それに、他のダンサーの手前も。だから、今回はアーチスト契約だよ。でも、すぐにソリストに昇格させるからね」(同上)。実際デビュー公演以外はソロばかりを踊っていたので、当然ソリストとしての契約を信じていた。だがダウエルはコルフェ(ファースト・アーティスト)昇格を告げる。

「〈コルフェ〉という言葉を聞いた瞬間、僕は急に悲しくなった。ダウエルに嘘をつかれたと思い、悔しさもこみあげてきた。知らぬ間に目に涙もたまっていた。ダウエルには、‟ここでトントン拍子に昇格させてしまうと、将来にマイナスかもしれない” という親心があったのだと思う。だが、若い僕はそのことを理解できなかった。コルフェなんか絶対に嫌だと思い、僕はたどたどしい英語で訴えた。〈ソロを踊るんだから、ソリストにしてください。〉僕の気持ちの強さに押されたのだろうか、一瞬の沈黙の後、ダウエルは机をポンと叩いて、こう言った。〈・・・わかった。ソリストにしよう〉」(同上)。

ダウエルが何者かを知らなかったスクール時代から、廊下ですれ違うたびに「ハロー」と挨拶をし、入団してからは、椅子に腰かけたダウエルの足の間にちょこんと座り込み、冗談を飛ばしていたという破格のエピソードと共に、熊川の純真無垢、天真爛漫な若き日の姿を窺わせる。

ローザンヌ以後、熊川の所属する英国ロイヤル・バレエ団の来日公演を、欠かさず見るようになった。2年に1度の贅沢である。舞踊専門誌『ダンスマガジン』を読んだり、他の来日公演にも行ったりしたが、まだ映画に愛着があった。ある日『ダンスマガジン』に掲載された「日本ダンス評論賞」受賞作を読み、次回の募集テーマを知る。ロイヤル・バレエ団もその一つだったので、書いてみようと思った。

1997年6月23日の「ロイヤル・ガラ」。演目はサープの『プッシュ・カムズ・トゥ・ショヴ』、フォーサイスの『ステップテクスト』、プティパ=グーゼフの『タリスマン』パ・ド・ドゥ、バランシンの『シンフォニー・イン・C』という、今考えると画期的なプログラムである。だが、その時は構成の意味が分からず、『ステップテクスト』と『タリスマン』のみを取り上げた。主役は前者がシルヴィ・ギエム、後者は吉田都とイレク・ムハメドフである。『プッシュ』の主役は熊川、『イン・C』の3楽章には熊川が出演していたにもかかわらず。「二つのバレエ」と題した文章は、思いがけずその年の第7回「日本ダンス評論賞」第一席となり、1998年2月号『ダンスマガジン』に掲載された。

当時は『白鳥の湖』全幕さえ見たことがなく、五里霧中の荒野を彷徨うように、舞踊史、バレエ文化を勉強した。そこで出会ったのが、長谷川六の「舞踊学」である。森下スタジオで行われた講義は、長谷川批評のエッセンスを伝えるもので、舞踊批評を一から教わることになった。文章で記録することの意義、批評の平等性(プロもアマも同じ地平)は、特に印象深い(長谷川は優れたダンサーでもあった、本ブログにもその記録あり)。

長谷川に受賞作を見せたところ、自ら編集長を務める『ダンスワーク』に公演評を書くように言われた。「2003年ダンスの総括」(『ダンスワーク』55 ダンスワーク舎, 2004年)から、Kバレエカンパニー『白鳥の湖』評を一部転載する。

熊川哲也は物語(虚構)に対してアンビヴァレントな男である。技巧への執念がダンサー熊川の中心軸であり、キャラクター系やシンフォニック・バレエなどには奏功する。だが物語バレエとなると二律背反がはなはだしい。熊川がバレエを好きなのは間違いないとして、物語はどうだろうか。熊川がなぜいつまでも少年でいられるのか(踊り自体は当然成熟するが)と言えば、嘘が嫌いだからである。最初の教師 久富淑子の言葉「熊川くんには嘘が言えませんでした、全部本気にしてしまうから」。またロイヤル時代、当時の芸術監督アンソニー・ダウエルにソリストではなくコルフェ昇格を言い渡されたときに、「ダウエルに嘘をつかれたと思い」涙を流したというエピソード。世界と真正面から対峙する熊川の潔癖さがよく表れている

デュランテと組むときにのみ、熊川は物語に入り込める。嘘ではないからである。今回も「湖畔」でデュランテと踊るときには物語が生じた。だがオディールのペレーゴと踊るときには、悪魔の支配下にあるかのごとき超絶技巧が繰り出される。まるで別人である。白鳥と黒鳥を別々のバレリーナに踊らせたのは、熊川の引き裂かれた自我の反映と言えるかもしれない。富良野で土に触れているときの熊川と、舞台という虚構の世界で生きなければならない熊川が、混ざることなく共存しているところに、熊川のアーティストとしての可能性がある。

熊川が踊ることから演出・振付に軸足を移して以降、熊川作品はスピーディでエネルギッシュな舞台から、物語の流れを重視した落ち着きのある舞台へと変貌を遂げた。その演出家としての急激な成熟に、作品を見るたび驚かされた。熊川は近著『完璧という領域』(講談社, 2019年)で、「僕は振付よりも作品の構成・演出に力を発揮するタイプだと思う。だからアイデンティティとしては振付家ではなく、構成作家に近い」と自己分析する。意外なことに、「四十代になった僕の演出は、そうした(ロイヤル風の)アプローチから距離を取り、物語よりもむしろ踊りを重視するようになっている。舞踊性を重視するロシアのバレエ、優美でゆったりとしたバレエに近寄っていると表現できるかもしれない。志向しているのは、舞台の空気感やスピリチュアルな感覚を大事にして、空気をまとうように踊るバレエだ」と語っている。

本書には「幼いころに喘息を患っていたため、けがや病気に対しては人一倍、神経質だったように思う」など、いわゆる熊川像を覆す、しかし腑に落ちる言葉が並ぶ。故郷 北海道の自然に触れ、「ふと、〈なぜバレエなのか〉と思う。バレエはもちろん、芸術とは無縁の家庭で育った。巡り合わせによっては、僕は中富良野で農業を営んでいても不思議ではなかった。自分は生来のアーティストではない、という感覚がいつもどこかにある。バレエをしていなければ、アーティスティックな感性が発揮されたかどうかもわからない」と語る熊川の、相変わらぬ嘘のなさ、潔癖さに胸打たれる。