大和シティーバレエ「Summer Concert 2020」

標記公演を見た(8月14日 大和市文化創造拠点 シリウス芸術文化ホール)。コンサートの表題は「想像×創造」。佐々木三夏プロデューサー指揮の下、今回もコンテンポラリーからバレエまで、意欲的な創作が並んだ。会場入口には消毒液が置かれ、スタッフはマスク・フェイスシールドを着用、市松模様の座席指定など、コロナ感染防止対策が採られている。

第1部幕開けは、中原麻里振付『NYX』より「ルナティック」。ショパンのピアノ演奏(大滝俊)に乗せて、五月女遥と渡邊峻郁がロマンティックな愛のパ・ド・ドゥを踊る。五月女の音楽性、渡邊の情熱的な持ち味が生きる振付だが、渡邊の問いかけに五月女が応えていない模様。音楽的で美しい動きを作りながら、感情表出を拒むのは何故だろう。渡邊は作品の雰囲気をよく体現している。

続く木下嘉人の『CONTACT』は、ミニマルな音楽(E. Bosso)を使用したコンテンポラリー作品。米沢唯と木下自身のデュエットを中心に、二組の男女(相原舞・林田翔平、古尾谷莉奈・森田維央)が、分身や影として加わる。木下は前作『ブリッツェン』(2016)でも米沢を採用し、バリバリのコンテを見せたが、今回は「触れる」「触れないことで触れる」をモチーフに、視線や体の向きなど、演技を加えたクリエーションを展開した。ただし、動きで関係性を見せる部分が減少したため、ダンサー木下と米沢の技量を堪能させるには至らず。米沢の考え抜かれた体が、作品のコンセプトを伝えている。

第2部は、夏の夜にふさわしい4つの怪談ばなし。小泉八雲の『耳なし芳一』(振付:熊谷拓明)、同じく『雪女』(振付:中原麻里)、三遊亭圓朝の『死神』(振付:福田紘也)、同じく『牡丹灯篭』(振付:池上直子)が、霊界の使者である蝶々を導き手に、連続して語られる。

熊谷の『耳なし芳一』は、琵琶(鎌田薫水)、和太鼓(小林太郎)の生演奏で、芳一の小出顕太郎、和尚の望月寛斗、細野生、牧村直紀を始めとする男女アンサンブル、さらに自身も語り手として登場する。芳一はサングラス、和尚は金髪と現代風だが、アンサンブルは犬神人のような頭被りで、床遣いの多いモダン・ストリート系の踊りを踊る。彼らは平家の怨霊ではなく、「得体の知れない者たち」とのこと。耳の書き忘れも、芳一が嫌がったことにするなど、熊谷の思惑に沿って改変が施された 私小説風の作品である。熊谷は和尚として語るが、実際に踊りに介入するため、虚構の層が混濁するのが難。最後に『平家物語』の生語りで踊りも見せる。見応えはあったものの、本来は小出の見せ場だったかもしれない。

中原の『雪女』は P. Glass の音楽で、美しくスタイリッシュに踊られる。雪女(お雪)には、2018年の本公演で関直人の『ゆきひめ』を踊った小野絢子。ポニーテールに透き通った白い衣装がよく似合う。巳之吉には福田圭吾。赤ん坊を抱いたお雪と巳之吉の幸せのパ・ド・ドゥでは、小野の繊細な踊りを、福田のドラマティックな音楽性、手厚いサポートが支える。小野が雪女となり、巳之吉を取り殺そうとするも、叶わず去っていく場面では、福田の嘆きが舞台一面に響き渡った。雪ん子のような白いチュチュのアンサンブルは、白い毬(雪玉)を手にし、可愛らしさを強調。小野の個性と合致する作品だった。

福田(紘)の『死神』も同じく P. Glass の音楽を使用するが、真逆の作風。昨春には古典落語『猫の皿』を舞踊化し、今年の新国立劇場カレンダー8月の頁に、その舞台写真が採用された(着物姿の小柴富久修に、福岡雄大、本島美和、福田〈圭〉が写る 前代未聞のダンス写真)。同じトンデモない手法で来るかと思ったが、今回は正攻法(?)のアプローチだった。

物語はグリム童話『死神の名付け親』を基にした圓朝の創作物。若い男が死神から死者の見極めを教わり、医者となって成功する。ある時、死神をだまして死すべき人を生き返らせたため、死神の逆鱗に触れ、蝋燭の立ち並んだ洞窟に連れ込まれて、息の根を止められる。福田(紘)は、本島美和を死神に据え、若い男に福岡雄大、コロスに五月女と自身を配した。死神の首飾りを男が盗み、裕福になるが、死神に取り返され、死に至るという筋書きに変えている。

死神の本島は、これまでマッジやカラボスを踊り、手の内に入った役どころと言える。が、自らの引き出しに頼ることなく、新たに役を追求する点に、ベテランの凄味があった。舞台に身を捧げる強さと瑞々しさが同居する、本島らしい好演である。対する福岡は、半ズボンにセーター姿のやんちゃぶりがぴったり。お金が入るにつれて、上着、ズボン、靴が加わり、スタイリッシュな青年へと変貌を遂げる。本島との丁々発止が小気味よく、切れの良い踊りに、福岡本来の場所と幸福の在り処を思った。コロス 五月女は、振付の上を行く切れ味。前述の愛のパ・ド・ドゥとは異なり、水を得た魚のごとき活きの良さがあった。

福田(紘)演出の視野の広さ、ダンサーを生かす力、動きの視覚的快楽(ずらしの快感)が素晴らしい。ぎりぎりまで思考を突き詰めた果てに、感覚に身を委ねる懐の深さがある。見る側にとって、振付家の思考と感覚を共に辿る喜びがあった。

最後は池上の『牡丹灯篭』。圓朝原作から「お露新三郎」「お札はがし」を、物語の順を追って舞踊化した。4枚の障子で部屋を作るなど、場面転換も明快。配役は、お露に米沢、新三郎に宝満直也、和尚(陰陽師 勇斎に近い)に渡邊拓朗、伴蔵に八幡顕光と、適材適所。お露の侍女 お米は、御女中達として8人の女性アンサンブルに拡大されたため、ひっそりと新三郎を訪れるというよりも、多勢で攻めるアマゾネス的な雰囲気に。アンサンブルの振付も、フォルムで見せるモダン風の要素があり、土俗的味わいが加わっている。

米沢は肉体の透明感が霊界の生き物であることを示すが、ことさらに死霊風を強調せず、ただひたすら新三郎を恋する女性に見えた。宝満との逢瀬も恋しさ、懐かしさにあふれ、涼風が吹き抜けるように清々しい。対する宝満も、取り憑かれる男の人の好さ、甘やかさがあり、適役。二人の久しぶりのパ・ド・ドゥから、米沢の体が、渡邊(峻)との『R&J』、ムンタギロフとの『マノン』を経過したことがはっきりと分かる。佇まいのみで空気を変える身体となった。

和尚の渡邊(拓)は大きく力強い。新三郎を救おうという気概にあふれ、作品に直球のエネルギーを与えた。ベテランとなった八幡の伴蔵も、滑稽味のある日本的所作を、楽しみながら演じている。

力のこもった4つの創作を連続して見る1時間40分の長丁場。佐々木プロデューサーのクリエーションに対する信念を、今年も感じることができた。