10月、11月に見た振付家・ダンサー2020

松崎えり @ 松本大樹監修ダンスブリッジ「ダンスは時代とともに」(10月24日 セッションハウス+配信)

標題は『その空のあおさに友は目を潤す』。同時上演は柿崎麻莉子作・出演、中村蓉演出『drug』。観客の作品理解を深めるため、公演配信前に、平田友子による「ダンス歴史講座」(10/12)、同じく平田の司会で、松崎、柿崎、松本が、自らのダンスメソッド遍歴を実演を交えながら語り合う「デモンストレーション」(10/13)が無料配信された。

公演当日、配信現場に居合わせる機会を得る。ダンサーの息遣い、体の状態は皮膚感覚で迫るが、カメラ中心の完全な映像作品のため、モニターと実演を交互に見ることになった(作品の全体像はアーカイヴ配信で確認)。

松崎作品は前作と同じ標題で、出演も松本、松崎、キム・セジョン、坂田尚也、と同じだが、ほとんど新作である。終演後トークでの松崎の弁、「今日来たら、振付が変わっていた、ダンサーたちも振付している」。松崎の大きく切り取られた空間構成、音楽と無音を駆使する緻密な時間構成、呼吸と脱力を含む自然派振付という大枠の中で、ダンサーたちが自由に泳いでいる印象である。ダンサーの内側から生み出される新鮮な動き、観客も深く呼吸できる自由な空間は、松崎の懐の深さに起因するのだろう。

松崎のみが女性だが、全員人間同士という感じ。松崎とキムのデュオも互角の対決である(同時上演の柿崎も、本来はこのタイプなのでは?)。キムは所属団体(東京シティ・バレエ団)でのノーブルスタイルをかなぐり捨てて、荒々しいパトスを爆発させた。途中、母語でのしみじみとした述懐も。バレエ技法からくる体の大きさ、空間掌握が、作品の熱い核となった。坂田はキムの通訳係を心を寄り添わせて演じる。踊りにも周囲と体で対話する楽しさが滲み出た。長年 松崎と踊ってきた松本は、変幻自在の動き。深い呼吸を伴うしなやかな動きには、ベテランの滋味も。体でその場を俯瞰し、座をまとめ上げる。終演後に見せた赤い眼には驚かされた。コロナ禍の下、監修者として、ダンサーとしての思いがあふれたのだろうか。

 

中島伸欣 @「シティ・バレエ・サロン vol.9~ TOKYO CITY BALLET LIVE 2020 』(11月17日 豊洲シビックセンターホール)

標題は『檻の中で』。冒頭 薄闇のなか、手前から白いガスが噴霧される。よく見ると防護服にマスクのダンサーたちが、あちこちに佇んでいる。親子3人、男女4人、恋人同士、黒い防護服にゴーグルの男2人と女性が、コロナ禍の、あるいは放射能禍の現在を踊る。演技ではなく動きのみで、それぞれの関係と苦悩を描き出す中島の円熟の振付。バッハの「無伴奏チェロ組曲第1番」に呼応して、両腕を振り子のように上下させる動きが通奏低音となった。

中島の愛のパ・ド・ドゥは、防護服でも変わりはなかった。向かい合う男の左腰に女が右足を置く官能性、女の床での錐もみ回転を足首をもってサポートする男、肩乗せリフトを通り越して前転する女。意想外の動きを駆使し、現代的な男女の関係を防護服の中から浮かび上がらせる。直後の黒い男たちに責められる女性ソロも、苦しみや叫びが動きを通して伝わってきた。全員が揃う終幕では、死者が生前を振り返るように 冒頭と同じ振付が繰り返されて、それぞれの人生が濃厚に立ち現れた。両袖から消毒ガスが噴霧されて幕となる。中島の振付細胞が全開した新作。バッハと登場人物の感情を緊密に結びつける音楽解釈が素晴らしい。コロナ禍と向き合う創作を初めて見た。

同時上演はジョン・ヒョンイル振付『Two feathers』、草間華奈振付『Life is . . .』、石井清子振付『ノスタルジー』。ジョン作品はリモートで振り移された。昨年同様、バーを使った二者の対立、ポアント無しながらフォーサイスを思わせる強烈なバレエ・ポジション、音取りの早さと、パ数の多さ、動きの力強さが特徴である。白鳥と黒鳥が片手を繋いでユニゾンする表裏一体の振付も。場面が重なるにつれてダンサーのアドレナリンが放出する、踊り応えのある作品だった。

草間作品は、石黒善大の踊る苦悩のソロが核。もう少し明確なコンセプト、フォーメイションの工夫が望まれるが、クラシカルなソロやジャズダンス風のショーアップに自らの引き出しをのぞかせた。石井作品は、東京シティ・バレエ団が踊り継ぐ財産。音楽に導かれた女性らしい情感を、若い世代(スタジオ・カンパニー)が踊りこなしている点に、創作をレパートリーに持つバレエ団の強みが感じられた。公演監督はキム・ボヨン。

 

島地保武 @『星の王子さまサン=テグジュペリからの手紙ー』(11月13日 KATT神奈川芸術劇 ホール)

演出・振付・出演:森山開次、美術:日比野克彦、衣裳:ひびのこづえ、音楽:阿部海太郎、演奏:佐藤公哉、中村大史、歌唱:坂本美雨、出演:森山、アオイヤマダ、小㞍健太、酒井はな、島地保武、坂本、池田美佳、碓井菜央、大宮大奨、梶田留以、引間文佳、水島晃太郎、宮川愛一郎(チラシ掲載順)。

星の王子さま』とサン=テグジュペリの人生をだぶらせて描く森山の意欲作。阿部のエスニックな音楽を、その場で熟練の奏者が演奏、坂本が声でダンスと呼応する贅沢な座組である。楽器は、ヴァイオリン、ギター、鉄琴、口琴、ホーミー声、ハープ、ブズーキ、アコーディオン。日比野夫妻の美術・衣裳も遊び心にあふれ、目を楽しませる(女性衣装が少しエロティックだが)。

第1部(45分)は、サン=テグジュペリ(小㞍)の夜間飛行、王子(アオイ)との出会い、ヒツジたち、王子とバラ(酒井)のエピソード、王子の出発まで。第2部(55分)は王子の星めぐり、地球到着、蛇(森山)、バラたち、キツネ(島地)との出会い、王子の帰還(死)まで。前半登場する酒井のポアント遣い、華やかな衣裳は、少し我儘で可愛げのあるバラのキャラクターによく合っている。生演奏との掛け合い、バルーンを使った衣裳など、盛沢山の演出も楽しめる。一方で、物語の流れに乗りづらい感触が残った。飛行士サン=テグジュペリの人生、王子と出会う「現在」、王子の語る「過去」が、地続きに展開されたからかもしれない。

後半は時系列で進み、物語がよく分かった。様々な星の住人、蛇、キツネの振付も的確で、王子への感情移入が可能になる。ただ、終幕にバラ(酒井)を再登場させ、飛行士(小㞍)が物思いにふける情景で終わったため、サン=テグジュペリ夫妻の物語に収斂した印象を受ける(バラはサン=テグジュペリの奔放な妻コンスエロを指す)。作品自体のふくらみは増したが、原作の 死と孤独とかすかな希望をめぐる余情は残らなかった。

練達のダンサーが揃う中で、キツネの島地が原作通りに作品の要となった。黄色い大きな尻尾を掲げた誇り高いキツネが、「仲よくなる」ことの意味、「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」(内藤濯訳)の真理を、体で王子に伝える。アオイ王子への働きかけは、存在と存在がぶつかり合う強度の高いパ・ド・ドゥとなった。島地にとっては『犬人』に続く動物ものだが、犬、キツネ、それぞれの実存を感じさせる深い役作りが共通する。踊りの美しさ、体の強さ、生きる上での信念が揃い、ダンサーとしての成熟度を増している。

 

伊藤キム×森下真樹 @『マキム!』(11月14日 東京芸術劇場プレイハウス)

メンターと教え子が、それぞれのカンパニーを率いて集う合同公演。第1部では、伊藤と森下のデュオ作品が上演された。無音のまま、シモテから伊藤、カミテから森下が、赤い綱をもって後ろ向きに出てくる。中央でぶつかり、綱を結んで舞台の境界に。それぞれが左右の定位置につくと、パガニーニの『24のカプリース』が流れる。交互に音楽を踊り、終わるとそれぞれ袖に入る。少しして奥から口三味線の同曲が聞こえる。伊藤が「パーパパラパラ」とか言いながら出てきて(森下も)、さっきと同じ振付を踊る。伊藤の軽妙繊細な内向きの踊り、森下の筋骨たくましいガブル踊り(以前は娘ムスメしていたが)、そして二人の的確な口三味線が面白い。メソッドが体に入っているので、体で音楽を奏でることができる。それぞれ固有の音楽性を、目と耳で楽しむことができた。と言うか、口三味線がツボにはまり、ずっと「はははは」と笑ってしまった。その後 色々あって、最後は、伊藤が森下に赤い綱をぐるぐる巻きつける。森下は「お姫様抱っこしてハケテください。」と師匠に告げる。伊藤は中途半端に森下を抱え、引きずるようにシモテへ。森下は「腰が、腰が、まだ明日もある」とか言いつつ幕。

第2部は、伊藤主宰のカンパニー「GERO」(6名)と、森下主宰のカンパニー「森下スタンド」(5名)の合同公演。どちらがどちらか判別できないが、男女の大小様々な肉体が誂えたように揃った。前半は伊藤の「生きたまま死んでいるのか、死んだまま生きているのか」分からない体の実践。森下も経験した振付を直弟子、孫弟子が踊る。後半は『BE MY BABY』に合わせて、森下振付ユニゾン踊り。マオリのハカのように、地に足の着いた力強いエネルギーが発散された。懐かしさを喚起させると同時に、たすき掛けの新たな化学反応も見られた不思議な公演だった。

 

岩渕貞太 @『Gold Experience』(11月20日 吉祥寺シアター

「岩渕貞太 身体地図」の新作公演。振付・演出:岩渕貞太、音楽・生演奏:額田大志、美術:杉山至、出演:入手杏奈、北川結、涌田悠、岩渕(チラシ掲載順)。

美術の杉山は、シモテ奥の床に直径1mほどの穴を切り、その上部に5本の金属製ポールを上下ずらして吊るした。穴の危険性と、天井まで支配する金属ポールの強い存在感が、強度の高い舞台空間を生み出す。正面奥にはドラム等楽器を設置、額田がレコードをかけたり、演奏をしたりする。途中で分かったが、ドラムの前に長方形の浅いプールがあり、足首まで水が張られていた。遠近法の消失点に額田が存在し、世界に介入する第5の演者となった。

ソロ、トリオ、デュオを的確に配し、ダンサーに踊りどころを十分に与えた緻密な構成が素晴らしい。これを基盤に、ダンスの誘い水となった額田の音(石を積む音が印象的)、金属ポールを次々に叩く音(一度のみ)がダンスと切り結び、思いがけない時空が出現する。ダンスを面白がる額田がいることで、作品に風通しのよさが加わった。岩渕の振付は、室伏鴻の流れをくむ舞踏(脳天背面落ちはないが)、ニジンスキーの『牧神の午後』、ヨガや東洋武術が「網状」に組み合わされている。終始 体を見る喜びがあった。

岩渕の高貴な踊りは、なぜか見られることに慣れない気恥ずかしさを纏っている。美貌、細かく分割された修行僧のような肉体は、当然野蛮なエロスを立ち上げるはずだが、慎ましく留まっている。見られるよりも、見る人、修行する人、なのか。3人の女性は南アジアの神像のように立ち並び、牧神のニンフのように2次元動きを見せる。振付を遂行するのではなく、自分の体に動きを落とし込み、新たに生成していることに驚かされた。北川は序盤の舞踏ソロから穴落ちまでを緊密な踊りで、入手は LED 棒を二本、剣のように持ち、パトスを内に秘めたまま中国武術風に動く。無意識が大きく、終幕の咆哮は体が裏返るようだった。少女性を帯びる涌田は、棒で金属ポール、バルコニー手摺を叩く。空を切る棒の音も楽しむように。岩渕に棒を叩きつけ、岩渕がガッと受け止め、棒で繋がるデュオを踊り始める。動物が戯れるような無垢なデュオだった。終盤の全員水遊びは、やはり牧神とニンフのごとく。舞踏にありがちな生々しいエロスの立ち上げはなく、あくまで禁欲的な進化系の舞踏だった。