4月に見た公演・イベント 2021

代地 第七十一回「紫紅会」(4月17日午後 国立劇場 大劇場)

現当主である藤間蘭黄の祖母 藤間藤子の二十三回忌、母 蘭景の七回忌追善公演。詞章を不勉強のため、ダンスを見るように見て、浄瑠璃、唄も、音楽を聴くように聴いた。演目は、長唄「八島官女」、常磐「粟餅」、「倣三枡四季俳優」、義太夫「櫓のお七」、清元「女こよみ」、「阿吽秋晴狐狸競」、常磐「閏茲姿八景」、「積戀雪関扉」(下)舞踊家を生かす選曲で、特に「櫓のお七」を踊った蘭翔の華やかなスター性、「閏茲姿八景」を踊った勘次の、すっきりと大きな踊りが印象深い。

最終演目「積戀雪関扉」は、藤間流勘右衞門派家元 藤間勘右衞門(特別出演)と蘭黄が、それぞれ関守関兵衛と傾城墨染を演じた。歌舞伎で上演される際は、藤子、蘭景、蘭黄が、代々振り移しを行なってきたという。斧を持つ勘右衞門(四代目 尾上松緑が登場、重心低く動き始めると、一気にこちらの体がほぐれる。巧さ、器用さを目指すことなく、真っ直ぐに役を務める役者の日々が浮かび上がる。役柄とは別に、観客を浄める神事に近い動きだった。「仲蔵振り」と関係するのだろうか。対する蘭黄の墨染の出は妖しい。緊密な体が「舞踏」のような感触で日舞が先なので倒錯しているが)女形の意味まで考えさせる。安貞の片袖を見た瞬間の驚きは鋭く、小町桜の精への変容に肉体のリアリティがあった。三味線との呼応には、現代的な音楽性も。狂気に振れる時の蘭黄には独特の生々しさがあり、なぜか成瀬巳喜男浮雲』の森雅之が思い出された。

作品自体が面白かったのは「櫓のお七」。人形振りだが、人形の真似ではなく、文楽の技法を取り入れている。後見の黒衣が3人、2人は人形遣い、1人はシモテで足拍子を踏む。人形遣いがお七を振り上げ、横抱きにし、膝に乗せるアクロバティックな技術は、バレエのリフト並み。人形状態のお七との呼吸に見応えがある。古井戸秀夫によると、「人形振りは、三代目中村歌右衛門ら大坂の役者が江戸に持ち込んだ。大坂には、チンコ芝居といって、子供が浄瑠璃に合わせて身振りだけをする首振り芝居があった。歌右衛門もその出身で、成長して大立者になったのちにその演出を取り入れた。最初は立役だけのものだったが、歌右衛門門下の富十郎がやるようになってむしろ立役よりも激しく恋に燃える女心を表現するのにふさわしい演出だとわかって、以来女形のものとなった」(『新版 舞踊手帖』,  新書館,  2000年)。人間の振りを人形に移した人形浄瑠璃、そこに感情の凝縮が生まれ、それを再び人間に振り移す。しかも立役が踊っていたとは、どのような味わいだったのか。今回は女形ですらなく、女性のお七。蘭翔の無意識の体、顔が素晴らしかった。人形遣いは坂東五郎、向井信、澤村紀ノ介。

 

バレエチャンネル「踊れ、その身体がドラマになるまで ― 振付家・矢上恵子と弟子たちと」(4月24日 ブックハウスカフェ2F + 配信)

2019年に亡くなった矢上恵子の作品上映会とメモリアルトークが行われた。出席者は、K ★バレエスタジオ出身の山本隆之、福岡雄大、福田圭吾、福田紘也、ゲスト出演の多かった佐々木大(ビデオ出演)、客席から姉の矢上久留美、解説に舞踊評論家の桜井多佳子を迎え、司会をバレエチャンネル編集長 阿部さや子が務めた。矢上作品の上映は7作品、映像編集は福田(紘)による。

東京で上演された矢上作品を見て、スタイリッシュでハードな振付、鋭い音楽性、ドラマティックな感情表現に加え、出演ダンサーの共有する共同体的な不文律が強く印象に残った。一種伝統芸能のような呼吸の一致がある。その裏には、ダンサーたちが追い込まれ方を知っていて それを甘受する、振付家との愛の交換があるのではないか。通常のコンテンポラリー作品には感じられない 運命共同体のような熱さを、矢上作品は帯びていた。矢上と弟子たちとは どのような関係だったのか、振付家としての福田兄弟は どのような影響を受けたのか、興味が湧く。

山本はKスタ出身者の中では年齢も離れていて、矢上とは従弟の間柄。山本の気質もあるのか、共同体から外れた所にいる模様で、トーク中も後輩たちのお喋りを微笑みながら聞いていた。『ノートルダム・ド・パリ(11年)のフロロを踊った時には、出演時間を分刻みで契約したとのこと。だが、恵子先生がいなかったら、ダンサーになっていないし、新国立劇場バレエ団でドゥアトを踊った際は、矢上作品の経験が大きかったと語る。

福岡は血縁関係にはないが、矢上と最も強い絆で結ばれているようだ。最後に上映された『Toi Toi』(03年)で、矢上と福岡の師弟デュオを見ることができた。自ら育てた弟子とユニゾンを踊る矢上の嬉しそうな表情。当時はまだ矢上の方が踊りの切れがよく、福岡は力強く踊る印象。共にアスレティックな味わいがあり、福岡のスポーティな資質はこのように育まれたのだと分かる。福岡のために作られた『Bourbier』(08年)は、矢上久留美によると、「『カヴァレリア・ルスティカーナ』の間奏曲で作品を作って、と恵子に頼んだことがある、一番の傑作だと思う」とのこと。映像上映されたが、実演も見たことがあり、福岡にとって魂のような作品 と思った記憶がある。実母が嫉妬するほど一緒にいたとのことで、チューリヒ・バレエ在籍当時は、月に一回 矢上に電話報告していた。「背骨の歪みは心の歪み」との矢上の箴言、「生徒は教師の鏡」という指導者としての戒めも、心に刻まれている。

福田(圭)は矢上の甥にあたり、総領としての責任感が言葉の端々から感じられる。矢上振付の本質を見抜き、それに自らの全てを捧げるダンサーである。矢上のアシスタントに入った時には、アイコンタクトで指示を理解していたとのこと。矢上をストイックと語るが、自らも同じ。ダンサーとしては矢上の「ドラマ系」を実践し、振付家としては「斬新系」を引き継いでいるようだ。できない子を見捨てない矢上の愛情、いついかなる場でも全体を見る在り方も。

福田(紘)も甥だが、兄や福岡とは異なり、矢上の要求に「自分は無理です」と言ってしまったという。「こいつちょっとおかしい」と師匠は思ったと思うが、正直に言ってから本音が言えるようになった。矢上から音の作り方、作品の作り方を聞くようになる。今回の予告編や、上映作品の編集も担当。福田(紘)のクリティカルな作品作りが机上の空論にならず、地に足の着いたオリジナリティを持つのも、強烈な矢上作品が目の前にあるからだろう。

佐々木は誰かの代役で、初めて矢上作品を踊ったという。自分への指導も厳しかったが、Kスタダンサーの話を聞くと、言葉を選ばれていたのかなぁとも思う。あちこちのスタジオに呼ばれたとき、休憩中に恵子先生の振付を練習して、そのすごさをアピールした。恵子先生は最後のリハで仕上がり切れなくても、手直ししなかった。「本番で本気出したらできる」と言い、ダンサーと心中する覚悟だった。自分の作品を壊すかもしれないのに。佐々木が田中ルリと踊った『accordance』(99年)の映像を見て、改めて狂気と接するダンサーだと思った。巧拙を超えて、そこまで踊ってしまうという意味で。『accordance』は「斬新系」とのことだが、振付家 矢上の可能性が詰まっている。