KAAT『未練の幽霊と怪物』2021

標記公演を見た(6月9日 KAAT 神奈川芸術劇場 大スタジオ)。作・演出:岡田利規音楽監督:内橋和久、出演:森山未來(シテ)、片桐はいり(アイ)、栗原類(ワキ)、石橋静河(シテ)、太田信吾(ワキ)、七尾旅人(歌手)、演奏:内橋和久、筒井響子、吉本裕美子。俳優とダンサーを等しく扱う KAAT らしい座組だった。翌日の感想ツイートは以下の通り。

KAAT『未練の幽霊と怪物』(作・演出:岡田利規)4日目を見た。能の形式と即興性を完璧に生かした、本質的な意味での「現代能」。チェルフィッチュ様式と能がこんなに近いとは。ダンス公演としても破格。シテの石橋静河森山未來が、それぞれ「敦賀」と「挫波」で20分のソロを踊る。囃子方地謡(もちろん現代の)とインプロを交えながら。あと20回公演。ダンスではせいぜい4公演のところ。二人の入魂の踊りを見て、大丈夫かと思う。アイは片桐はいり。高低緩急自在な喋りと破天荒な全身運動が一致。ずーっと「はははは」と笑ってしまった。空前絶後の才能。ワキの栗原類「片桐さんが怖い」。

作品は「敦賀」と「挫波」の2演目から構成され、それぞれが夢幻能の形式を採る。外から来るワキがシテと出会い、物語を聞く。シテが去った後、アイがその背景をワキに詳しく語る。アイが去ると、後シテが現れ、謡いながら舞を舞う。ワキはそれを傍らで見届ける。後は何事もなかったかのように、三々五々去っていく。

敦賀」の後シテは、高速増殖炉もんじゅを中心とする核燃料サイクル政策の亡霊、「挫波」の後シテは、新国立競技場の設計コンペで1位となるもキャンセルされ、その後 急逝したザハ・ハディドである。岡田は政府に対する彼らの怨念を前景に出さず、同調した我々国民の無意識をアイ(近所の人)に語らせる。結果として、彼らへの鎮魂を永遠に行える循環が形成された。岡田の詞章がよく分かるのは、ワキの導入とアイの語りのみ。シテの語り、謡い、地謡は、単語は聞こえるものの、意味は宙に浮き、音となって響く(能と同じ)。ただ何かが切実に語られ、それをワキと共に体で受け止めた感触のみが後に残される。能の演者たちがその場で初めて(真に)出会い、鎮魂を行なって去るのと同じ清々しさがあった。

美術(中山英之)も 橋掛かりのある能舞台をミニマルに転換。松の代わりに黄色の三角灯3個を地面に置き、鋭い三角模様が舞台床に亀裂を入れる。囃子方地謡も能と同じ位置。囃子方は「ダクソフォン」を使用し、鼓、笛、笙、オンドマルトノの音色を醸す。間狂言ではエレキギターの即興演奏。メロディはなく、能と同じく音の響きで舞台に介入する。地謡は一人。マイクを駆使して、シテと即興で掛け合う。衣裳はミュンヘン・カンマーシュピーレで岡田と組む Tutia Schaad。 石橋静河の纏う紙垂(しで)を思わせる白ブラウスが印象的。シテとアイはスニーカー、ワキはサンダル、後シテは裸足だった。客電は付いたまま。終幕に点滅する非常灯から、岡田の幽霊物が思い出された(コチラ)。

敦賀』シテの石橋は、バレエで鍛えた引き締まった体から涼やかな気を放つ。薄ピンクのシースルー・ワンピース、黒レオタード、膝サポーター姿の後シテ(もんじゅ)となってからは可愛らしさも。後シテの舞はコンテンポラリーダンスの系統だが、全て自分の踊りになっている。七尾旅人との掛け合いでは言葉に導かれるように動き、囃子方はそれを支える形だった。言葉と音楽への鋭い感性に加え、20分ソロの一瞬たりとも自分の体から離れることのない誠実さがある。見る側の集中も途切れなかった。

同ワキの栗原類は浮世離れした存在感が特徴。オレンジ色のカバンを引きずりながらセリフを語るが、言葉に感情を乗せないチェルフィッチュ様式を、手足を動かさずに実践できる。アイの片桐はいりと対峙する時、石橋の舞を直立して体に受ける時の究極の受動態。その痕跡が表に現れるには長い時間を必要とするのだろう。

『挫波』シテの森山未來は、モスグリーンの柔らかい上下を纏う今どきの建築家。後シテとなってからは、グレーのギリシア風長衣を身に着けて、舞楽や舞を意識した様式的な動きを見せる。ザハ・ハディドの流線形や丸まる体も。囃子方と呼応するダイナミックな音楽性、エロスを含む熱い謡いに、これまでの蓄積を窺わせる。七尾との掛け合いは、両者の声が混じり合う官能性を帯びていた(森山に対する七尾はやや控えめで、音重視の謡い方)。女性を男声で謡う両性具有は森山によく合っている。舞踊公演では慎ましく引き出しを見せないが、演劇公演はテリトリーということか。映像で見せる狂気の片鱗がちらつく舞だった。

同ワキの太田信吾は、手足を動かしながらセリフの意味を剝いでいくチェルフィッチュ様式を、唯一遵守する。ただ即興ベースの舞台ゆえ、身体的強度の面で、囃子方地謡、アイの片桐との呼応が見られなかった。身体能力というよりも、意識の持ち方の問題に思われる。

その片桐は2演目ともアイを務める。声の高低、緩急、音色を自在に操り、同時にうつ伏せを含む全身運動を実践しながら場を制す。橋掛かりで控えている時から、おかしみを漂わせ、舞台に上がってからは声と動きで空間を切り刻む。しかもシテの嘆きの背景を観客に的確に伝えるのである。このような離れ業は片桐にしかできない。シテ、ワキはキャスト変更可能だが、アイは片桐にしかできないと思わせるほど、作品と一体化している。片桐の語りを面と向かって聞く栗原の言。「僕はアイのはいりさんが怖いんです(笑)。というのは、すごく面白くて素晴らしいってことなんですけど。ダイナミックさを示しつつ、全然あざとくなくてナチュラル。大変ですけど、ちゃんとその芝居を受け止められるように頑張んないとなと思っています」(プログラム)。

 劇場のコンテンツではなく、「クリエーション」に立ち会えた貴重な時間だった。