山崎広太 @ Whenever Wherever Festival 2021

標記フェスを見た(12月23, 25, 26日 青山スパイラルホール)。今回の WWFesは、最初の二日間が「Mapping Aroundness ―〈らへん〉の地図」、残りの二日間が「Becoming an Invisible City Performance Project 青山編 ― 見えない都市」という表題。スパイラルホール、同ホワイエ、同控室、7days 巣鴨店を舞台に、多彩なプログラムが組まれた。造形・映像作品の展示、オンライン・プログラム、プレワークショップも加わり、ダンス・演劇・映像・美術を跨ぐ一大イヴェントに発展している(キュレーター:西村未奈、Aokid、福留麻里、村社祐太朗、七里圭、岩中可南子、沢辺啓太朗、いんまきまさこ、山崎広太、木内俊克、山川陸)。

ホールのプログラムは全て続けて上演される。いわば美術館のような鑑賞法である。初日は13時から20時、3日目は13時から15時、4日目は12時から13時と16時50分から18時のプログラムを見た。初日の「Mapping Aroundness」は、ホールとホワイエで同時刻の上演があったため、出たり入ったりしながら。3日目と4日目の「Becoming an Invisible City Performance Project 青山編 」は、山崎が全振付・演出を担当。本来13時間続けて見るべきプログラムだった。そんなことは思いもよらず、タイムラインが出たのが直前の19日ということもあり、他公演との兼ね合いからぶつ切り状態で見ることになった。返す返すも残念である。結果として、初日の即興公演と併せ、山崎振付の群舞ばかりを見た印象で終わった。

初日の最終演目、2時間の完全即興『ダサカッコワルイ・ダンス』は、Aokid、山崎広太(島地保武の故障降板で代役)、小暮香帆、後藤ゆう、鶴家一仁、宮脇有紀、モテギミユ、山口静の出演。表題は、郡司ペギオ幸夫著『やってくる』(2020年 医学書院)中の概念「ダサカッコワルイ」から採られている。

ダサカッコワルイは、「ダサイ」かつ「カッコワルイ」ものではなく、「ダサイ」と「カッコワルイ」があたかも共鳴したかのように、新たな「スゴクカッコイイ=アメイジング」なものを実現するのです。もちろんそれは常に実現されるわけではない。外部から呼び込むのですから、ある意味で賭けです。しかし、まったくの偶然に任せ、水たまりに釣り糸を垂らして待つように、外部が飛び込む(魚がかかる)のを待っているわけでもない。漁師が仕掛けや潮流、天気に気を配るように、来るべくして来るものを待ち、賭けに出る。それが罠を仕掛けるということです。だから「ダサカッコワルイ」は、不安定で不徹底で未完成なものではなく、逆に「アメイジング」なものとして存在し得るのです。(pp. 164-5)  参考イラスト:西村未奈

ダンサーたちはこのような身体で即興に臨んだのだろう。最初は円陣を作り、山崎主導のウォーミングアップ、声出し、体動かし。それから無音で動き始める。鶴家が「ハハハハ」と奇声を上げると、山崎がポカンと眺める。個々の音楽指定があるらしく、小暮が急に踊り始めると、山崎が「言わないと掛けてくれないよ」、小暮「そーなんですか」とのやり取りも。山崎はチャイコフスキーくるみ割り人形』の花のワルツを得意げに。周囲は3拍子に戸惑うも、山崎は悠然とワルツを自踊りに変換する。吹奏楽指揮、井上バレエ団出演経験は知識として知っていたが、改めて山崎の優れた音楽性を確信した。

宮脇、山口、後藤、モテギの成熟した美女軍団、よく動くパワフル男でリフトもできる鶴家、かつての島田衣子・森山開次を思わせるネオテニー・デュオの小暮とAokid。即興なので構成はないが、ダンサーの座組が構成の代わりになっている。山崎の頭の中には大まかな動きのイメージがあるのだろう。山崎は全体を見渡しながら、時に活を入れ(いきなり鶴家に飛び掛かり、横抱きさせたり)、まとめていく。終盤、自分の中で一旦終わったのか「お客さんは帰っていいですよ」と言い放った。が、もう一度確認するように動き始める。椅子の上にいた後藤をトントンと叩いて呼びよせ、ダンサー全員が大きな塊となって終わった。ダンサー自身が音楽のきっかけを出す完全即興2時間は予測不能。楽しかった。

3日目は冒頭の2時間を見た。『折口信夫著〈死者の書〉をモチーフに、青山の地下に眠る無意識の身体の表出』と『室伏鴻土方巽をつなぐものは芦川羊子なのか?』のプログラム。客席を取り払った体育館のようなスパイラルホールに、17人のダンサーたちが横たわっている。観客は三方をぐるりと取り囲む。轟音のなか、身じろぎ一つしない肉体の連なりを見るだけで何か荘厳な気分に。二上山ならぬ青山の地下深くに眠る死者たちなのだ。しばらくすると目の前の死体の筋肉がピクリと動く。動きの微細な萌芽。一人がむっくり起き上がり、思い出したように再び横たわる。山崎は時々傍に行って死体に指示を与えるが、すでに膨大な量の言葉がダンサーたちに注ぎ込まれているのが分かる。

正面スクリーンには男女6人の寝顔。耳にイヤホンを突っ込み、互いの寝息を聞きながら眠っている(映像:ミルク倉庫+ココナッツ)。そこにピスタチオやヒキガエルについての断片的な発話が被さり、呆けたような身体感覚を観客にもたらす。地中に響くギター(竹下勇馬)の音も加わり、ホール全体が巨大な棺桶に。死体たちは徐々に蘇り、他人の上に乗っかったり、突っ張っては跳ね返ったり(室伏風)。あちこちで無意識の動きが入り乱れるなか、トリックスターの八木光太郎が「アー」と叫びながら、テッポウ、四股風足踏みで場を撹乱した。観客は目の前の死体を注視し、そのエネルギーを浴びる。ホールは生者と死者の交感の場となった。

ペルトのようなピアノ、サックス(舩橋陽)、鳥の声、太棹のビーンという音で、舞踏モードに。芦川は山野邉明香、土方は木原浩太か(モダンダンス出自)。後藤ゆうと小暮香帆のデュオも。山崎のグニャグニャ動きを全員で踊る迫力あふれるユニゾンは、傑作『ショロン』を思い出させた。最後は宮脇有紀の正統派舞踏で締めくくられる。山崎の舞踏についての考察が、若いダンサーたちに余さず伝えられた印象だった。

最終日の始まりも前日と同じ。17(だと思う)の死体が床に横たわっている。筋肉の蠢きに始まる動きの萌芽が、徐々に立ち上がる。室伏風の「突っ張ってはね返る」は前日と同じ。いびきの映像も。だがプログラム名は『身体の70%は水分』。ダンサーたちは前日の13時から20時まで、入れ替わりもありつつだが踊り続けている。まるでダンスの「虎の穴」。山崎が「蜷川幸雄」に思われてくる。

最後は『Non Stop Moving』と『大谷能生の DJ による80年代歌謡曲オンパレード~クラブミュージックファイナル・ダンスパーティ』。『Non Stop Moving』は同じ隊列フォーメーションで、全員がずっと踊り続ける。時折一人にスポットライトが当たるが、脇目も振らず真っすぐに踊るダンサーたちのエネルギーが素晴らしい。山崎も端っこで飄々と自在な踊り。小暮の火花を散らすような激しいソロ、山中芽衣の伸びやかで自然な踊りが目を引く。『ファイナル・ダンスパーティ』はランダムに。時折消毒液を手にすりこませながら、体対体でお喋りする。西村未奈、渡辺好博も加わり、華やかな打ち上げとなった。西村の明るく透き通った存在感、渡辺の会う人全てを幸せにする無垢な魂は、山崎ワールドの一翼を担っている。