1月に見た公演2022

1月に見た公演について、メモしておきたい。

 

島地保武『藪の中』(1月13日 セルリアンタワー能楽堂

本作は「伝統と創造シリーズ」として、2012年に同能楽堂で初演された。演出・振付の島地保武は、当時ザ・フォーサイス・カンパニーに所属しており、全体にフォーサイスの影響が濃厚だった印象がある。今回は初演と同じダンサーを起用しながらも、完全に島地の作品だった。フォーサイスの影響と折り合いをつけつつ、自分の体で考えてきた結果と言える。配役は、多襄丸:島地、真砂:酒井はな、金沢武弘:小㞍健太、木樵:東海林靖、検非違使・巫女:津村禮次郎。

芥川龍之介の原作に沿い、個々の体験を描いていく構成・演出。時系列の巻き戻しが説明的にはならず、重層的に重なっていく。島地と酒井によるフラダンス風脱力ユニゾンや、小㞍と東海林による切戸口と貴人口を使ったぐるぐる回り(長過ぎる)など、島地らしさを見せるものの、緻密な構成が前面に出る正攻法の作品である。振付はコンテンポラリーダンスをベースに、能の摺り足、床踏み、切るような直線的腕使い、空手の型、伸びやかなバレエライン、膝を緩めた中腰、よろけ、突っつき、耳つまみ(松つまみ)を組み合わせている。空手は予想外だった。

音楽には熊地勇太を起用。酒井のソロに使われた唯一の既成曲、バッハ『ゴールドベルク変奏曲』の弱音から通常音に至る微妙なあわいが素晴らしかった。全体的には、笙、琴、太鼓、おりん、虫の音、かじかの声、鶯、燕の鳴き声を組み合わせ、音の強弱、切り替えにより、装置のない能舞台に次々と日本の自然を感じさせる空間を生み出した。

真砂役 酒井の妖艶さ、華やかさ、「いる」ことの強さ。これまで培ってきた身体技法が全て生かされている。酒井に充てられた奇妙で可愛い振付は、島地の愛である。対するダンサー島地は野性的な大きさを発揮、酒井を手籠めにする説得力を示した。終盤で聞かせたバリトンの台詞回しは、演劇との親和性を感じさせる。岡田利規とソロが作れそうな気がする。小㞍の品の良いすっきりとした踊り(小心者のソロでさえスタイリッシュな美しさがある)、東海林の軽妙さ、野性的勘のよさが、的確な座組を物語る。さらに謡と舞を担当する津村にも、コンテの語彙、‟喃語”の謡を振り付けて、能とコンテンポラリーの真に有機的な結合を実現させた。島地のメルクマールとなる作品である。

 

新国立劇場バレエ団「New Year Ballet」(1月14, 15日 新国立劇場 オペラパレス)

本来はアシュトン版『夏の夜の夢』(新制作)とバランシン振付『テーマとヴァリエーション』だった。コロナ禍で指導者招聘が叶わず、『テーマとヴァリエーション』はそのままに、昨年オンライン配信(コロナ陽性者のため)されたビントレー振付『ペンギン・カフェ』が上演された。『夏の夜の夢』は吉田監督にとって特別な作品で、初演者のアンソニー・ダウエル、アントワネット・シブリーに直々に教わったとのこと。上演が待たれる。

『テーマとヴァリエーション』(47年)は、米沢唯と奥村康祐(速水渉悟の故障降板で代役)、柴山紗帆と渡邊峻郁のWキャスト。初日の米沢と奥村は晴れやかな組み合わせだった。米沢の柔らかい輝くようなオーラ、丁寧なパの連続と、奥村のノーブルかつ思い切りのよい踊りで、観客を祝福する気持ちのよい舞台を作り上げた。一方、柴山と渡邊はすっきりとした組み合わせ。柴山のポール・ド・ブラ、エポールマンの端正、脚技(パ・ド・シャ、ガルグイヤード)の美しさは、団内でも抜きん出ている。音楽との一体化を含め、理想的なバランシンダンサーと言えるだろう。ただし、直前のミスをアダージョまで引きずったのは残念。対する渡邊は献身的なサポート、覇気あふれるソロで、美しい王子役を体現した。男性二人の騎士然とした佇まいは、高岸直樹効果か。男女ソリストは技術あり、アンサンブルもライン美ではなく動きの質を重視している。

ペンギン・カフェ』はビントレー初期の傑作(88年)。絶滅危惧種の動物たちが人間と共に、様々な民族風音楽で楽し気に踊る。背後にある人間の環境破壊、気候変動への痛烈な批判は、直截にではなく詩的に提示される。いかにもビントレーらしい。

昨年と同じペンギンの広瀬碧が役作りを深め、終幕の無邪気な立ち姿に哀感を忍ばせた。奥村の高貴なシマウマ、福岡雄大のはじけるサンバモンキー、福田圭吾の可愛らしい脱力ネズミは はまり役。例によって熱帯雨林の本島美和と貝川鐡夫が、無意識で結ばれる夫婦を現出させた。今回 米沢(オオツノヒツジ)と本島の作品理解が、ビントレー本来の世界を立ち上げることに大きく寄与。二人の真摯な姿勢に、誠実さを旨とするビントレーの芸術観が浮かび上がった。

東京交響楽団率いる指揮の冨田実里は、珍しく踊りとの齟齬を感じさせた。最終日には調整されたと思うが、ダンサーへの強いシンパシーが原因か。

 

谷桃子バレエ団『ジゼル』(1月16日 東京文化会館 大ホール)

創立者 谷桃子の代名詞と言われた作品。57年団初演以降の演出の変遷、今回の演出意図が、髙部尚子芸術監督によってプログラムに記されている。現行版はボリショイ版を基に、谷、望月則彦の手が加わっているとのこと。7年ぶりの今回、髙部監督は特に「ジゼルの身体のラインと感情面の連動」を重視したと述べている。

ジゼルは初日が馳麻弥、二日目が佐藤麻利香。今回で全幕が最後という佐藤を見た。7年前のジゼルからは大きく成長、円熟の域に達している。前公演の『オセロ』でも、鮮やかな技術、的確かつ細やかな演技で、磨き抜かれたデズデモーナを造形したが、ジゼルも同様だった。高い技術はもちろんのこと、感情を豊かに出しながら、日本的な控えめ、慎ましさを体現する。一つ一つのパに心が宿る、谷桃子バレエ団のプリマらしいジゼルだった。全てがコントロールされた緊密な体、心のこもった的確な演技が揃うベテランの境地にある。

対するアルブレヒトは、前回『ジゼル』と同じ組み合わせの檜山和久。少しニヒルな味わいのノーブルダンサーで、『オセロ』での華やかなキャシオー像が記憶に新しい。今回も地を生かしたアプローチ。感情表出もよく考えられているが、古典ならではのマイムの音楽性、様式性が弱く、立ち姿も少しカジュアルに見える。バレエ団には齊藤拓というお手本がいるので、伝統を継承して欲しい。アルブレヒトのみならず、1幕のヒラリオン(田村幸弘)、ベルタ(尾本安代)、バチルド姫(日原永美子)、ウィルフリード(吉田邑那)も優れたダンサーながら、マイムが弱く、バレエ団伝統の演劇性を立ち上げるには至らなかった。クーランド大公のベテラン内藤博のみが、かつての雰囲気を護っている。マイムよりも生の演技を優先する演出なのだろうか。

打って変わって、舞踊で物語る2幕はドラマティックだった。ミルタの竹内菜那子は激しい気性。クイッとした動きは動物的でさえある。躍動感にあふれ、霊的というよりも人間的な肚を感じさせる鮮やかなミルタだった。永井裕美、北浦児依の美しいドゥ・ウィリ、娘らしいウィリ・アンサンブル共々、バレエ団の伝統がよく生かされている。

指揮の渡邊一正は、シアター オーケストラ トーキョーから、メロディのよく聞こえる実質的な音を引き出している。ジゼル佐藤とは阿吽の呼吸。ジゼルの心情に寄り添う暖かな音楽は、佐藤の全幕花道を飾る大きな支えとなった。

 

Kバレエカンパニー『クラリモンド~死霊の恋~』全編他(1月29日 Bunkamura オーチャードホール)【追記あり

標記公演を中心としたトリプル・ビルの幕開けは、芸術監督 熊川哲也振付の『Simple Symphony』(13年)。ブリテンの同名曲に振り付けたシンフォニックバレエである。幾何学模様の美術、チョーカー付きのシックな黒チュチュが美しい。振付はアシュトンの影響下にあるが、熊川にしか出せないステップの切り替え、無垢な喜びにあふれる。鋭い足技、超絶回転技、変則トゥール・アン・レール、リフト時の急なアラベスクなど、火花を散らすバレエ技法の連続に、息つく暇もなかった。英国らしい感触を残しつつ、自らの音楽性を突き詰めたクリティカルな作品である。成田紗弥の繊細で切れのよい体捌き、髙橋裕哉の優美なスタイル、小林美奈の暖かさ、山田夏生の鮮やかさ、杉野慧、吉田周平の控えめなパートナーぶりが印象深い。

続く『FLOW ROUTE』(18年)は、舞踊監督 渡辺レイ振付のコンテンポラリー作品。ベートーヴェンの3つの音楽を使用し、オーケストラ演奏で踊られる。コンテ色満載の1、3景は、ダンサーにとってチャレンジングな振付だが、振付家の個性は、むしろ2景のアダージョで発揮された。熊川の『Simple Symphony』と呼応する妙味がある。熊川作は3組の男女で出入りなし、渡辺作は4組で出入りありと異なるが、続けて上演されることで、似たような質感(影響関係)を感じさせた。飯島望未の柔らかいコケティッシュな体、山本雅也のデモーニッシュな色気が、作品を突き抜けた世界を作り上げる。よい組み合わせだった。

最後の『クラリモンド~死霊の恋~』は、2018年初演作(コチラ)を2幕に拡大した全編版。ゴーティエの原作に沿い、ショパンのピアノ協奏曲1、2番、同ピアノ曲オーケストレーションを組み合わせて、一つの流れを作っている(音楽監修:井田勝大、編曲:横山和也)。今回は衣裳デザインにセリーヌ・ブアジズが加わり、19世紀ドゥミ・モンドを華やかに描き出した。1幕は修道院、夜の街、娼館、2幕はロミュオーの部屋(初演版の場)という構成。それぞれ古風な紗幕で区切られる。

1幕の修道院、娼館での音楽的で多彩な踊りもさることながら、クラリモンドとロミュオーの2つのアダージョが、熊川の円熟を示している。1幕では協奏曲2番で、高級娼婦と若い神学生の『椿姫』を思わせる愛のパ・ド・ドゥ(その後クラリモンドは結核で亡くなる)、2幕では協奏曲1番で、ヴァンパイアと背徳の神父による愛のパ・ド・ドゥが踊られる。愛の形は異なるが、いずれもきめ細かい音楽性、豊かな語彙、精緻な振付が揃う優れたパ・ド・ドゥだった。

演出面では、死霊のクラリモンドが夢うつつでロミュオーの首に嚙みついた後、ロミュオーが彼女の形をなぞると、人間味を帯びてくる場面、ロミュオーが自らの手首を切って、クラリモンドに血を吸わせる歓喜の場面、クラリモンドがロミュオーの愛に打たれて、十字架に身をさらし、銀色の破片となって飛び散る場面に、熊川らしい愛の考察が感じられる。【追記】映像で確認したところ、今回は銀色の破片はなし、ドレスのみが残されていた。

主役のクラリモンドには日髙世菜。1幕のゴージャスな高級娼婦はやはりマルグリットを思わせる。結核を患いながらも闊達な踊りで場をさらい、若いロミュオーの純愛に鷹揚に応える。この時はまだヴァンパイアの血筋であることを知らず、ロミュオーを連れ戻しに来た修道院長を、自らの力で退散させたことに驚く場面も。マダム・バーバラの腕の中で息絶えるはかなさは、マルグリットそのものだった。死霊となってからはミルタのような趣。ロミュオーの首筋に噛みつき、血をなめて生き生きと蘇る場面から、彼の愛に打たれ自死するまでの怒涛のような感情の流れを、全身で表現した。脚の雄弁さもこれ見よがしでなく、役に収まっている。1、2幕の繊細な演じ分けに加え、出てくるだけで濃厚なドラマを立ち上げる存在感の素晴らしさ。まさしくプリマの舞台だった。

対するロミュオーは初演者の堀内將平。神学生らしい純粋さ、美しく清潔な踊りで、自己犠牲の愛に説得力を与えている。友人のセラピオンには同じく初演者の石橋奨也。初演時よりも役作りが深まり、真面目さの上に成熟した包容力が加わった。今回新たに作られたバーバラには、初演時のクラリモンド浅川紫織が配された。娼館のマダムらしく酸いも甘いも嚙み分けた風情。そこに人の好さの滲み出る点が浅川らしい。2幕を日髙に指導したこともあり、二人の交流には暖かさがあった。ロートレックの関野海斗、修道院長のグレゴワール・ランシエも適役。両者とも切れのよい鮮やかなソロを披露した。

井田勝大指揮、シアター オーケストラ トーキョー、さらにピアノ独奏の塚越恭平は、カンパニーらしい舞台との一体感を実現。塚越の美しい音も忘れ難い。