2、3月に見た振付家 2022

2、3月に見た振付家について、メモしておきたい。

 

関口啓 @ 舞踊作家協会ティアラこうとう連続公演 No.220「Exploring Creation」(2月1日 ティアラこうとう 小ホール)

作品名は『Strategy』。出演はスターダンサーズ・バレエ団の小澤倖造、西澤優希による。逆扇型のこぢんまりとした舞台。バックには〇-✕=、床にも同記号が映されている。グレー衣裳が〇、茶の衣裳が✕の動きを担当(どちらが小澤、西澤かメモがなく不明)。床をスケートのコンパルソリーのように使い、そこから動きを生み出していく。互いに組むことも。コンタクトインプロとフォーサイス風ポジションの組み合わせにも見えるが、オーガニックな味わいが関口の特徴と言える。ミニマルな音楽も人の声のような感触。タスクはあるが人間的。アンシェヌマンの面白さ、動きの音楽性、振付家の緻密な思考が詰まったクリエイティヴな作品だった。関口の頭の中を視覚化した小澤、西澤も素晴らしい。

 

笠井叡✕山崎広太 @ 天使館ポスト舞踏公演『牢獄天使城でカリオストロが見た夢』(3月3日 世田谷パブリックシアター

天使館(1971~)の同窓会のような公演。笠井叡が1979年に渡独するまでの天使館は即興中心の自由な創造の場、帰国後はオイリュトミーの教場となった。笠井によれば、「旧天使館はプロ養成の施設とはま逆の雰囲気、新天使館はダンスの技術性を学ぶ場」(プログラム)とのことだが、印象としては、旧天使館出身者は自分の踊りを追求するダンサー、新天使館出身者は修養に重きを置く修行者に見える。オイリュトミーの儀式性、正面性がそう思わせるのだろうか。

新旧14人のダンサーが即興、または笠井の振付で、ソロ、デュオ、トリオを踊る。マーラーで総踊り、クセナキスで個々のソロ、バッハで笠井禮示ソロ、ロックで笠井叡ソロ、マーラーで総踊りという構成(途中、笠井久子の朗読が入る)。「作品」というよりも、笠井が様々な言葉と音楽で枠組みを作り、精神レヴェルを統一した「場」の趣。オイリュトミーが含まれるせいか、批評の対象ではないような気がして、まだらな気持ちのまま帰宅したが、公演を見た翌朝は早く目覚め、頭がすっきりしていた。礼拝か何か、精神性の高い気持ちのよい場に遭遇し、その空気を浴びた後のようだった。

今回の公演について笠井は「ダンスのインプロヴィゼーション性とコレオグラフィー性の融合と離反と言う観点から、見ることができるかもしれません」と語る。その意味で最も興味深かったのは、山崎広太(旧)がマーラーのアダージェットで、浅見裕子(新)、上村なおか(新)と踊ったオイリュトミー・トリオ。前半部で激しい即興ソロを踊った山崎が、笠井兄弟(瑞丈はコロナ陽性で降板)のパートナーたちと、フェミニンな振付を踊る。新しいボキャブラリーをじっくり味わい、体の感覚を試すように楽しげに踊っていた。

山崎は笠井と唯一拮抗する、または背反するダンサー。笠井の滑らかで分節不可能な音楽的ソロ(年齢不詳になる)に対し、山崎は体の重さ、物質的な音取り、クキクキと分節された動きでソロを踊る(時計をはめていた?)。暴力的に場を撹乱する一方、周囲や全体を注視し、静かにフェイドしていく慎ましさも。笠井が椅子に乗って登場した時には、なぜか正座をしていた。学び舎に戻ったような嬉しさにあふれた体だった。

作品全体と他の出演者については、呉宮百合香評(『オン★ステージ新聞』2022.4.15号)を参照のこと。

 

山口茜 @ サファリ・P『透き間』(3月11日 東京芸術劇場シアターイースト)

演劇公演と銘打っていて(芸劇 dance とも)、実際言葉が大きな役割を果たしているが、同じくらい身体性が重視される。山口は劇作家・演出家。サファリ・Pとは京都を拠点とする、パフォーマー(俳優・ダンサー)、技術スタッフ(照明・音響)、演出部(演出家・ドラマトゥルク)からなる劇団とのこと。

舞台には黒い長方形の台が16個。その透き間から、手、脚が見えては沈んでいく。もちろん 3.11 を想起。そのリアリティに気持ちが悪くなったほど。台本にはアルバニアの作家イスマイル・カダレの小説『砕かれた四月』が反映されている。カヌンという掟の話で、血族が殺害された場合、その一族の男性が仇討ちをしなければならない。もしこの復讐のフェーズがなかったら、3.11 追悼の作品になっただろう。団員を含む5人の出演者は、俳優とダンサーの区別がつかないほど、演技・ダンス共に秀でている。特にブレイク・ダンス(達矢)がドラマの中で効果を発揮するのを初めて見た。

 

黒田育世 @ 再演譚 vol.1『病める舞姫』『春の祭典』(3月11日 KAAT神奈川芸術劇場 大スタジオ)

『病める舞姫』(18年)は、土方巽の同名散文集を基にした自演ソロ作品。今回は鈴木ユキオが全く同じ振付で踊る。『春の祭典』は『落ち合っている』(14年)の劇中ダンスとして創作された。共に再演ながら初見。『病める舞姫』は鈴木が踊ったのでよく分からなかったが、『春の祭典』は以前見ていた黒田作品の印象と全く変わらなかった。

春の祭典』は振付家にとって作品の大きさ、高難度の音楽に、ややもすると押しつぶされそうになるチャレンジングな作品だが、本作は作品上演史を忘れさせるくらい、全くの黒田作品だった。パトスの強さ、自傷行為に近い暴力的な動き、振付家の生の肉体感覚が、全編を通して炸裂する。主演の加賀谷香はバレエのライン、パの明確な美しい体に、狂気を漂わせた。母子の踊りとあるので、母役なのだろう。子供たちは「BATIK」のメンバー。ベテランの大江麻美子が、若手6人の女性ダンサーを駆り立てるように激しく踊る。大江は番頭役か軍曹役。さほどエキセントリックに見えない若手たちも、憑りかれたような陶酔感を踊りに滲ませる。加賀谷も加わった左右グランバットマンのユニゾンは迫力があった。女の血の結びつきだろうか。

『病める舞姫』は土方の言葉を随所に視覚化させた誠実な作品。音楽は伊福部昭を使用。四角い舞台の周りを、鈴木が枝を押し頂いて歩行する。鈴木によるバレエ歩きゆえに儀式性が際立った。ロン・ド・ジャンブ、アチチュードターンなどバレエ寄りの振付も、黒田が踊った時より異化効果があるだろう。胞衣(?)を股から引っ張り出す行為には、生々しさがなく、舞踏の両性具有を思わせる。鈴木は淡々とニュートラル。観客に感情移入を許さず、遮断する感じ。ミラーニューロン作動を禁じている。恐らく黒田とは真逆のソロだったのではないか。不思議な体だった。

 

馬場ひかり現代舞踊協会「時空をこえる旅 - 舞台 - へようこそ」Bプロ(3月21日 東京芸術劇場プレイハウス)

作品名は『COSMIC RHAPSODY - 宇宙狂詩曲 - 』。師匠 芙二三枝子のゆったり体を継承しつつ、コンセプトへのアプローチ、衣裳(岩戸洋一・本柳里美)、選曲に独自性を見せる。宇宙を題材とするが、その壮大さよりも、馬場の濃密な思考を辿るところに面白さがあった。14人のダンサーたちを振付の駒とはせず、喜びと共に自らのヴィジョンに引き寄せている。フォーメーションも緻密。美術、音楽、振付の揃った円熟の作品である。

「月の暈」と題された馬場のソロはゴージャスだった。青白ライトのなか、突起物のあるピンクのオールタイツを身に着けた馬場は、よく利く体に、ゆったり動きと、なぜか舞踏のニュアンスを加えている。震えながら突っ張る。回転してはよろける。またニジンスキーの牧神動きも。今現在の馬場の体と思考が横溢した、瑞々しく強度の高い踊りだった。照明(加藤学)も素晴らしい。