『わたしは幾つものナラティヴのバトルフィールド』2022

標記公演を見た(9月1日 彩の国さいたま芸術劇場 小ホール)。主催・企画・制作:彩の国さいたま芸術劇場、テキスト・演出:岡田利規、共同振付:岡田+湯浅永麻+太田信吾、出演:湯浅+太田による。岡田は公演プログラムのコメントで次のように語っている。

演劇の持つさまざまな働きのうちで、わたしが重要だと思っているものの一つが、観客にとっての鏡になり得ることです。鏡に映る自分の姿はあれやこれや、思考なり反省なりを自ずと促すものです・・・『わたしは幾つものナラティヴのバトルフィールド』をわたしは、ダンスからなる演劇としてつくりました。それは、この作品を、わたしたちの生きる社会のなかでさまざまに振り付けられながら生きているわたしたちの姿を映す鏡として機能するものにしようとしたからです。そのような鏡は、ダンスからなる鏡であるのがうってつけだろうと思ったのです。ダンスは踊ることですが、同時に、大抵の場合、振り付けられることでもありますから。

作品はまさに「わたしたちの生きる社会のなかでさまざまに振り付けられながら生きているわたしたちの姿を映す鏡」だった。上演時間1時間5分。3部構成の第1部は、湯浅の一人芝居、2部から太田が加わり、3部は映像の太田(3人)と湯浅の掛け合いとなる。

あらすじは、湯浅扮する若い女性(髪はてっぺんでお団子、黒い眼鏡、絵柄のタンクトップ、カーキズボン、黄緑靴下)が、30万のフォロワーを持つSNSインフルエンサーに影響される話。「体の声を聴きなさい」という身体関係ではいかにものフレーズを、女性は信じ、実践している。それを動きながら観客に解説する。暗転後、女性は湖畔のカフェにいる。注文取りのウエイター(太田)登場。女性はテーブルにもぐったり乗ったりしながら、体の声を聴くとき「目をつむる派」か「開ける派」かについての言説を語る。突然、ウエイターがマイクの前に陣取り、「体の声を聴くという罠にあなたははまっている」と語りかける。混乱する女性。湖畔の映像が消え、ウエイターが映像の中に出現。「体の声を聴くのをやめなさい。体の声を聴くことにかまけて現実を直視しないように、上層部が仕向けている。SNSの人(インフルエンサー)は利用されている」と動きながら語る。動揺する女性。すると同じウエイターがもう一人映像の中に。「体の声を聴くことは現実の声を聴くこと。あなたの体も現実の一部だから」。さらにもう一人が「自然体でよいのでは。差別化せず、カッコつけず」と語りかける。3人は「体の声は世界の声」、「あなたはもっと自由にして」と言いながら、ユニゾン太極拳風に動く。女性はそれぞれの言葉に影響され、どうしたらよいのか分からないまま終幕となる。

様々なナラティヴに翻弄され、惑いながら生きるのは、人間本来の姿と言える。岡田は「SNSインフルエンサーと受け手」という現代的フォーマットを設定し、観客にそのことを分かりやすく啓蒙する。本当に自分で考えることの難しさ。岡田はこの人間の弱さを、湯浅担当キャラクターを作ることで、愛情を持って描き出した。ダンスの絡む『未練の幽霊と怪物』、『瀕死の白鳥 その死の真相』同様、岡田のフォーマットを作る能力は今回も冴えわたっている。湯浅パートを男性が演じたら、役者が演じたらと、想像を膨らませた。

6回公演の初日を見たが、湯浅本人が「空回った」と言う通り、岡田のテキストの妙味が前半は伝わりにくかった(アフタートーク岡田の「早口で何を言っているのか分からなかった」は本番を指したものか)。中盤から湯浅の体が温まり、なめらかに動き始める。「つむる派」「開ける派」のくだりは本領発揮。また終盤の映像との掛け合いが自然なことに驚かされた。

アフタートークで湯浅は、「イメージがあって動きを作るが、言葉を発すると同時に動くと遅い。誤差がある(概要)」、「今回は言わばタスク・インプロヴィゼーション」と語っている。インプロということは、これまで見た岡田✕酒井はな(瀕死)、森山未來(未練)、石橋静河(未練)とは、全く次元の異なるパフォーマンスを意味する。しかも音楽の助けがない。岡田のテキストを味わうには動きが決まっていた方がよく、湯浅の踊りを味わうにはテキストあり・発話なしの方がよい。そのぎりぎりの難しいところを狙った実験作ということになる。テキストがあってそこから動きが生まれ、さらにテキストを発話するのは、2重の表現。太田のように決まった語彙で意味を持たない動きなら、テキストを真っ直ぐに受け取れるが。そこをあえてチャレンジしたのだろう。もちろんこの方が面白いし、ダンス・シーンにとって有意義な実験だと言える。初日以降の5回がどのように練り上げられたのか、練り上げられなかったのか(インプロなので)、初発からの行く末に興味が湧く。