新国立劇場バレエ団 『シンデレラ』 2019

標記公演を見た(4月27, 28, 29日, 5月4, 5日 新国立劇場オペラパレス)。99年団初演、1年半ぶり12回目のアシュトン版『シンデレラ』である。何度見ても尽きない面白さ、発見がある。クリスタル・カットを施された切れの良い主役・ソリスト振付、星の精群舞の幾何学的振付、宮廷群舞の込み入ったキャラクターダンス、さらに同時多発的な演技。アシュトンの古典バレエへの批評が詰まった傑作である。

今回は動きのメリハリを重視する演出に加え、冨田実里指揮、東京フィルによる音楽が、歯切れよくエネルギッシュなため、明るく元気な舞台となった。マーティン・イエーツがメロディに深く分け入り、テンポも緩やかであるのに対し、冨田はダイナミズムを保ちつつ、構造や適正テンポを重視する。舞台と呼応するパトスの表出も陽性だった。

主役キャストは4組。初日の米沢唯と渡邊峻郁は『不思議の国のアリス』と同じ顔合わせ。その時の駆け抜けるような瑞々しさとは打って変わり、今回は落ち着いた大人の雰囲気である。米沢の静かに包み込む座長的な懐の深さに対し、渡邊は真摯で誠実な演技で応えた。来季の『R&J』も同じ組み合わせだが、どのような恋人たちになるだろうか。

二日目の小野絢子と福岡雄大は、長年にわたるパートナーシップが安定した舞台を形作る。小野はアシュトン振付の機微をピンポイントで実現。炉辺での踊りに繊細な音楽性を滲ませた。一方、福岡は絵に描いたような王子だった。自分の個性とノーブルスタイルを見事にすり合わせ、ベテランらしい落ち着きと格調の高さを備えている。時々「ピルエットをしすぎて、頭のネジが2、3本飛んでる」という、小柴富久修(福田紘也?)の福岡評(「Dance to the Future 2019」)が頭に浮かんで困ったが。

三日目は木村優里と井澤駿。来季『R&J』でも組むダイナミックな持ち味の二人だが、パートナーシップを徐々に築いているところか。木村は伸び伸びとした演技で、不遇を感じさせず。2幕アダージョは風格があるが、もう少し王子との対話を聞かせてほしい。一方、井澤は階段に蹴躓くなど立ち上がりが遅く、3幕でようやく本来の姿が顕現した。虚構度の高さという点で、団先輩の山本隆之と似たところがある。「王子がそこにいる」のである。

四日目の池田理沙子と奥村康祐は、確かなパートナーシップを築いている。池田の役にはまり込む真っ直ぐな姿勢と、奥村の優しさ、作品への理解が噛み合い、胸を打つ2幕アダージョを作り上げた。心のこもった舞台。唯一、役に沿った感情の流れを感じさせた。二人の芝居心と個性は、『R&J』よりも『マノン』を思わせる。

もう一方の主役、義理の姉妹たちは、姉が持ち役の古川和則が帰還。細かい反応をそこここに差し挟んで、舞台を牽引する。妹想い。加えて自らをも俯瞰する眼差しが、ユーモアともつかぬ妙なおかしみを生む。音楽的な妹 小野寺雄が古川の愛情によく応えた。また奥村が、王子配役日を挟んで、姉娘の初役。華があり、王子同様ビロビロと広がるオーラをまき散らした。妹はすでにベテラン臭のある髙橋一輝。かつての姉 古川同様、芝居が細かく、また悲しげな無表情が愛らしい。

仙女は盤石の配役。本島美和は体の質を変え、仙女そのものと化している。一挙手一投足から滲み出る慈愛。幽玄だった。細田千晶は踊りも滑らかになり、柔らかい包容力が一段と増している。木村は大きくダイナミックな踊りで妖精たちを導いた。

道化も同じ。福田圭吾は暖かく王子に寄り添う献身派、木下嘉人はエスプリを利かせた爽やかタイプだった。共に脚技を駆使した鮮やかな踊りで、観客を楽しませた。父親の菅野英男は奥行きある深い愛情、貝川鐡夫は人情味あふれる優しさで、娘たちを見守った。

四季の精、王子の友人ともレヴェルが高い。中でも五月女遥(春)、奥田花純(秋)、寺田亜沙子(冬)、友人の中家正博、速水渉悟が印象的。速水はアシュトン振付を面白がる余裕がある。1幕職人たち、2幕ウェリントン=ナポレオンは各自に任されている模様。ナポレオン初役の渡部義紀も馴染んでいた。カツラの向きはどれが正しいのか。

 

佐東利穂子『泉』 2019

標記公演を見た(4月13日 KARAS APPARATUS)。佐東初めての振付作品。計8回のアップデイトダンスのうち、2回目の公演である。カミテ奥には、滝のような、泉が盛り上がったようなインスタレーション。薄暗い照明のなか、佐東がゆっくりと動き始める。

現代的なバイオリン協奏曲(プロコフィエフとのこと)、女声の宗教曲、チャイコフスキーの「感傷的なワルツ」、バッハのバイオリン協奏曲という音楽構成。照明は微妙に変化し、途中、黒い床が水面のように見える。両腕を広げてのぞき込む佐東の姿が、逆さ富士のようなシンメトリーを形成した。概ね、勅使川原三郎の美意識と重なっているが、重なっているからこそ、佐東の個性が浮き彫りになる。

音楽との関係、インスタレーションとの関係が親密で、触覚に基づいている点が、佐東の大きな特徴。一方、勅使川原は視覚的。構成への意志が厳然とあり、コミュニケーションの有無よりも、美的であることを優先させる。佐東はその場で音楽と呼応し、インスタレーションと対話しているように見えた。

振付は勅使川原メソッドを使用。ただし床面を多く使い、肚への意識を感じさせる。バッハの荘厳な曲で踊る高速ダンスは、全身の呼吸を伴い、空間に気を充満させた。勅使川原作品で見せる聖性を保ちながら、一人の人間としての思考、それに由来する強度を感じさせた初振付作だった。

終演後の挨拶では、初めて作品を作る戸惑いと喜びを語る。勅使川原三郎さんや周囲の方にずっと勧められていたが、これまで作らなかったのは、踊りの追求が面白かったから。作り始めて、石ころと思っていたものが、何かになることに驚きを感じた、など。終始、「勅使川原三郎さん」とフルネームで呼んだことに、佐東の来し方を思わされた。

大竹みか先生を追悼する 2019

コデマリバレエスタジオ主宰の大竹みか先生が、3月27日に亡くなられた(享年85歳)。スタジオでは毎年4月に「コデマリコンサート」を開催する。今年は4月7日、貝谷バレエ団80周年記念を兼ねての特別公演である。その直前の訃報に、胸が詰まる思いだった。闘病されていたことも知らず、昨年4月のお元気に踊られる姿のみが脳裏に焼き付いている。

大竹先生(師匠ではないが、こうお呼びする)は、1934年3月5日東京・大森生まれ。以下『バレリーナへの道』48号の連載「日本のバレリーナ」から、プロフィールを引用する(コデマリスタジオ提供)。「3歳から母、雅子にピアノ、声楽を習い、16歳で貝谷八百子バレエ団入団、19歳で団員。67年コデマリスタジオを開設。貝谷八百子バレエ団福知山、舞鶴、小浜研究所主任講師。レニングラードで短期研修。振付作品『舞姫イース』『陽はまた昇る』ほか多数。主演『眠れる森の美女』『コッペリア』ほか。01年京都府舞鶴市福知山市より文化功労賞贈られる。」

大竹先生と初めてお目にかかったのは、福田一雄先生ご自宅での談話会だった。福田先生の汲めども尽きせぬバレエ音楽のお話を伺い、バレエへの認識を新たにしていたが、ある日大竹先生が、「貝谷(八百子)先生の『くるみ割り人形』の最後に、ミツバチの巣が出てくるの」とおっしゃられた。近くにいたため、プティパの台本のこと、また貝谷版『白鳥の湖』のことなどを、お話しすることができた。それ以来、日本バレエ協会や世田谷クラシックバレエ連盟の公演等でお目にかかると、ご挨拶するようになった。

先生はゆったりとした佇まいで、常に相手を見守るような笑みを浮かべていらした。声はアルト。お話はいつも「ウフフフ」というくぐもった笑いのような発話に彩られる。貝谷先生のことと、教え子のことを話される時だけ、声高く情熱的になられた。

最初にバレエ協会の「バレエフェスティバル」評を担当した時、隣席になったが、今思えば、セコンドの役回りをされていたような気がする。他公演でお目にかかった時に場違いな質問をしても、咎めることなく、誠実に答えてくださった。

ダンサーとしての先生は、華やかで気品にあふれる。舞台に登場するだけで、劇場全体を一瞬のうちに掌握された。貝谷時代からの盟友 吉田隆俊氏(女装)と並んで歩くと、女友達のような華やかな香気が立ち昇った。一方、童女のような純粋さ、洗礼名であるマリアのような慈愛も。かなり高齢になられてからも、そしてつい昨年も、献身的なパートナーで振付家の安藤雅孝氏による大胆なリフトを、楽しそうに受けていらした。「バレリーナへの道」本文によると、「高所恐怖症なのに、飛び込みのリフトがうまく、八百子はみかの振付にはリフトを多く採り入れた。」とある。

コデマリコンサート」の大きな楽しみは、先生の新作を拝見することだった。「私は新作しかないのよ」とおっしゃって、いつも新たに振付をされる。その音楽性の深さ、常に音楽と共に生活されていることが分かる。自然で品のある音楽性だった。フォーメイションは明快。いわゆる成人クラスの場合でも、シンプルなパのみで薫り高い作品を作り上げる。「文体」のある振付家だった。

今年の「コデマリコンサート」は貝谷バレエ団80周年記念と銘打たれ、貝谷版『白鳥の湖」第二幕が上演された。同団アカデミー生の大西聖奈によるオデットを、福田圭吾(新国立劇場バレエ団)の王子、白鳥たちに加わった壁谷まりえ(コデマリスタジオ)が見守る。共に貝谷八百子の孫弟子にあたる。

大竹ほか振付の『シンデレラの夢』では、吉田隆俊の継母、同じく『仮面舞踏会』では、吉田の「男」、さらに大竹の代役を務めた山本教子の「女」に、華やかな存在感、優雅で華麗なマイムという、貝谷の遺産が受け継がれている。

長年、ダンサー大竹の魅力を引き出してきた安藤雅孝は、今年もスタイリッシュな振付で男女の機微を描いた。大竹は白いドレスとなって、そこにいた。公演フィナーレでは、華やかな赤いドレスに変わり、感謝の花が捧げられた。そしていつものようにあっさりと幕。舞台人 大竹みかに準じた、粋な幕引きだった。

 

 

 

新国立劇場バレエ団「DANCE to the Future 2019」①

標記公演を見た(3月29, 30夜, 31日 新国立劇場 小劇場)。前芸術監督 D・ビントレーが2012年に始めた振付家育成企画。団員の振付を団員が踊ることで、両者にクリエイティブな相互関係が生まれる。前監督時代は、振付家の卵たちが思うがままに作品を発表する、言わば孵卵器として機能していた。今では、そこから育った振付家たちだけで、自前のコンテンポラリー・ダンス公演が成立する。ビントレーが見たら喜ぶだろう。

6回目となる今回は、4人の振付家による新作4作、再演2作、さらに前回に続いて生演奏での即興というプログラム。アドヴァイザーも同じく、中村恩恵が担当した。3部構成の1部は、中堅2人の新作である。

髙橋一輝『コルトベルク変奏曲』は、バッハの同名曲を抜粋。薄暗い照明のなか、バックドロップに2つの赤い太陽が明滅し、心臓の鼓動のような生命感を作り出す。4人のダンサーが椅子と関わりながら、ソロ、ユニゾン、シンメトリーを踊るが、関係性は繊細で緻密。振付家の息を詰めた思考が感じられる。

芯となるべき渡邊拓朗は、プティの『若者と死』のような神話への道筋を示したが、肉体に詰まったパトスをまだ完全には放出し切れていない。宇賀大将の躍動感、奥田花純の情熱、益田裕子の抒情性と、それぞれの個性を生かした振付。特に宇賀の、振付の機微を完全に捉えた踊りに目を見張った。

福田紘也は『猫の皿』と『Format』を続けて(入れ子で?)上演した。福田が登場し、マイクと座布団の前に座る。座布団の中から鏡と粘着テープを取り出して、口に貼る。暗転後、カミテにポニーテールの本島美和が忍者座り。少し動いて、シモテに忍者走りで去る。さらに暗転後、カミテから小柴富久修が金色の着物で登場。タンデュの小手調べをしてから膝を折って座る。観客に来場の礼を言い、「見ての通り、バレエダンサーです」で観客をつかむ。4回公演のうち3回を見たが、つかみは全て違っていた。そして全て面白かった。小柴の経験・感想を基にしているので、小柴のつかみなのだろう。

本題の『猫の皿』は柳家三三流。言葉の意味ではなく、言葉の音とリズムに合わせて、本島、福岡雄大、福田圭吾がコンテを踊る。なぜか忍者風の任務(振付)遂行。噺の区切りと動きが同期する、セッションに似た快感があった。噺が終わって暗転。福田(紘)が、拍子木の音から始まるパーカッション(音楽:福田紘也)で、『Format』を踊る。踊りにはニュアンスがなく、フォーマットそのもの。動きの基本を見せるミニマルな面白さがあった。

今回は小柴遣いが圧巻だった。なぜボーリングのピン(宝満作品)にさせられたのか、よく分かった。落語が初めてというのは嘘だろう。茶を飲む所作、着物の立ち居振る舞いが板についている。だが、バレエと落研は両立できるのか。もし初めてなら、振付を覚えるように覚えたのだろうか。謎である(普段の小柴は、ノーブルなラインの持ち主で、優れたパートナー)。②はこちら

新国立劇場バレエ団「DANCE to the Future 2019」②

2部はベテラン2人の新旧作。貝川鐡夫の新作『Danae』(音楽:J・S・バッハ)は、ギリシャ神話からインスピレーションを得たパ・ド・ドゥ。ゼウスが見守るダナエのソロ、ゼウスの欲情するソロ、ゼウスとダナエのエロティックなアダージョ、最後はゼウスが金の雨となってダナエに降り注ぐ。貝川の特質である音楽との一体化は、特に「シチリアーノ(ケンプ編)」を使ったアダージョで発揮された。いわゆる名曲をこれほど新鮮に響かせるのは、貝川が自分の手で音楽を解釈しているからである。『カンパネラ』同様、メロディが今でも耳について離れない。

振付はキリアン・ドゥアト系だが、そこに貝川独自の生々しい動きが加わる。男性ソロの両腕を下になびかせる動き、人差し指をぐるっと回して口に入れる、おでこをくっつけたアラベスクなど。流れるようなパートナリング、渦を巻くリフトが美しかった。木村優里と渡邊峻郁はみずみずしく清冽。特に木村は殻が取れ、素を生かした造形だった。貝川作品には配役への想像力を促す古典の格がある。本島美和と井澤駿が踊ったら、ダナエからは外れるが『椿姫』になるかもしれない。

福田圭吾作『beyond the limits of ...』は16年初演。トミー・フォー・セブンのメカニカルな音楽に乗せて、音楽的で強度の高い振付を男女4組が踊る。ポアント使用、バレエのパを高速で行うフォーサイス系だが、脱力なし。音楽をピンポイントで掬い取る熱い連続技が続く。ダンサーの出入りと照明の高速切り替えが、スタイリッシュな空間を作り出した。

奥村康祐の献身的なサポートを受けて、米沢唯がギエム張りの鮮烈な脚技を見せる。特に逆立ちリフトで両脚を横に折る動きが印象的。茫洋とした存在感の原健太と組む寺田亜沙子は、細やかな振付実践指導を行なう。クールな美しさだった。奥田花純と木下嘉人は求心的で切れの良い動き。ダイナミックな玉井るいと組んだ宇賀大将は、振付のイデアを現前させた。その自在さは、無意識レベルの振付解釈を思わせる。

貝川作品『カンパネラ』も16年初演(音楽:リスト)。福岡雄大と貝川によるWキャストが、作品の可能性を拡げている。福岡は、師匠の矢上恵子(3月30日逝去)、金森譲、中村恩恵、ニジンスカ作品で見せてきた、コンテンポラリー魂を炸裂させた。冒頭、円(照明)の中に佇む福岡。土俵に見える。上半身裸で、幅の広いスカートは袴。貝川の振付をフレーズとしてとらえ、自分の呼吸で踊る。押し引きの切れ味、重心の低さが、東洋武術を思わせる。座位で印を結ぶ最後の決めから、貝川の東洋的動きへの志向は明らかだが、それに輪をかけての武士。重厚なダイナミズムに、ダンサーとしての円熟期を窺わせた。

一方、貝川の場合は円が魔法陣に見える。正気からそれていく妖しさ、動きは腰高のせいで西洋的。3年前の振付ながら、肉体は変わっている。初演時の音楽との合体はなく、自らの理想に向かって己を駆り立てていく凄まじさがある。後半部はいつ倒れてもおかしくないほど、持てる力を出し切った。『Danae』同様、配役への想像力を掻き立てる。米沢唯が踊ったらどうなるか。ベジャールの『ボレロ』のように、ダンサーが憧れる作品になった。

3部は20分の即興。笠松泰洋監修(演奏も)で、8人のミュージシャンが各回トリオを組んで生演奏する。ダンサーは、貝川・福田(圭)・池田理沙子・髙橋一輝と、米沢・渡邊(峻)・福田(紘)・中島瑞生の2組。前回同様、初日はダンサブル、二日目夜は音を聞かせる、最終日はフォークロアと、音楽が異なり、ダンサーはそれに呼応した動きを見せる。ただし前回の6人が4人になったことで、混沌とした空間が少なくなった。やや予定調和にも見える。そうしたなか、面白かったのは中島の体。渡邊とも、米沢とも、普通に関わっている(福田紘也は「静かにして貰っていいですか」とコンテクスト共有を拒絶)。中島の不定形な動きがそのまま不定形な関係を作り、即興の醍醐味である時空の旅を示唆した。①はこちら

3月に見た振付家・ダンサー2019

熊川哲也 @ Kバレエカンパニー『カルメン(3月8日 オーチャードホール

2014年初演、3度目の上演。初演時のやや生硬な印象とは異なる、豊かでふくよかな演出だった。登場人物にふさわしい振付が、細やかに上書きされ、それぞれの人物が自立して見える。熊川印を刻みつつ、創作することで増やしてきた多彩なボキャブラリーに、改めて驚かされた。音楽と感情が完全に一致した動き、見るオペラである。

物語の流れを常に見守る道化のような娼婦は、いかにも熊川らしい演出。そのペーソスあふれる優しさが、観客と舞台を橋渡しする。終幕は、ホセがカルメンをピストルで撃ち、その亡骸を抱いて歩き出す。その姿を物陰から見るスニガと部下。外部の視線が加わることで、悲劇が一つの物語へと収斂する。音楽も愛のテーマ(間奏曲)が流れた後、序曲のにぎやかな出だしで締めくくられた。

スニガのスチュアート・キャシディが出色の演技。その佇まい、一挙手一投足が、物語を明確に指し示す(敬礼の素晴らしさ!)。終幕、ホセを見張る立ち姿のみで、悲劇が一気に俯瞰され、ホセの人生が浮かび上がる。日本にいながら、英国バレエ正統の演技を見られるのは僥倖。キャシディの熊川への友愛、バレエ団への愛情のおかげである。

 

オルガ・スミルノワ @ マニュエル・ルグリ「スターズ・イン・ブルー」(3月8日 東京芸術劇場 コンサートホール)

ルグリの、音楽とダンス・クラシックの規範への愛が結実した企画。中でもスミルノワはダンス・クラシックの化身だった。演目は『瀕死の白鳥』(フォーキン)、『タイスの瞑想曲』(プティ)、『OCHIBA~When leaves are falling』(パトリック・ド・バナ)。クラシカル、モダン、コンテンポラリー系、それぞれの語彙で踊ったが、フォーキン、ド・バナで個性を発揮した。

『瀕死』は美しいと言うよりも、古風。白鳥を描写するような冷静さがあるが、冷たさはない。伝えられた振付を、何も足さず、何も落とさず踊り、作品の命脈を保つことに自らの体を捧げている。バランスのよい美しいフォルム、緻密なポアント遣いに、息をのんだ。以前ボリショイ来日公演で踊ったオデットを思い出す(参照)。一方、ド・バナ作品では、薄衣をまとってパ・ド・ブレ、正座して横たわるシークエンスをミニマルに繰り返す。フィリップ・グラス音楽の体現者。「抒情的ではない」透明感は、ダンス・クラシックの伝統をそのまま生きているから。だが形式主義ではなく、その場で動きを生み出す生成感が強い。謎である。

 

島地保武 @「エトワールへの道程2019」(3月16日 新国立劇場中劇場)

新国立劇場バレエ研修所の修了公演。島地振付の『彩雲-Iridescent clouds-』は、14期修了生4人と、15期生4人に振り付けられた。バクラン指揮、東京フィルが奏でるヘンデルに乗せて、女性6人、男性2人が踊る。急に音が止まるところは、島地らしい(バクランも協力)。ひびのこづえデザインによる、蛍光黄緑色のフード付きオールタイツが可愛い。後半はバックドロップが上がり、裏舞台から堂々たるパーキンンソン赤城 季亜楽が、風船の入った宙に浮く長いガウンを引いて登場する(ひびの作)。このガウンは宙に浮いたまま、ポップなインスタレーションとして機能した。

振付はポアント使用で、バレエのパを用いる。そこにお尻をブリブリさせたり(誰だったか)、クニクニ動きを細かく入れる。そのくずしの品の良さ。ダンサーに自由を与えつつ、ポジティヴな共同体を作っている。カーテンコールでは島地を中心に手をつないで挨拶。カーテンが下りるとともに、全員がしゃがみ込んで最後まで顔を見せた。バクランも楽しんでいたようだ(バクランは、年末からずっと日本の指揮者になっている)。

 

 

 

新国立劇場バレエ団『ラ・バヤデール』2019

標記公演を見た(3月2, 3, 9昼夜, 10日 新国立劇場オペラパレス)。牧阿佐美版(2000年)、6回目の上演である。『ラ・バヤデール』の魅力は、人間の業を描いたドラマティックな展開、プティパのシンプルで豪華な群舞振付、ワルツと行進曲に彩られたミンクスのロマンティックなメロディにある。またバレエを構成する重要な要素、マイムシーンが残されており、音楽と演劇の絶妙なあわいを味わえる。今回は特に中家正博のラジャに、マイムを見る喜びがあった。音楽、役の感情と完全に一致した鮮やかな腕使いは、一振りするだけで空間を変えることができる。美しいと同時に、常に相手に応えるマイムでもあった。

牧版では、アリステア・リヴィングストンの美術・衣装・照明が加わり、作品のグレードを上げている。序曲・間奏曲と共に上下する鬱蒼とした森、絹を思わせるインド模様の幡や美しい衣裳は、バレエ団の貴重な財産である(リヴィングストンの記載がプログラムにないが)。

3幕7場の編曲はランチベリー。ヌレエフ版の音楽も参考にしたとのことだが、寺院崩壊の場があるため、マカロワ版との関係が深い。異なるのは、婚約式を伝統版に近づけ、終幕の結婚式をコンパクトにした点。アポテオーズでニキヤとソロルが結ばれないのは、牧版の大きな特徴である。今回、ニキヤの花籠の踊り後半部を、初演時の編曲・振付に戻している。自然な感情の流れを重視したのだろう。また「影の王国」の山下りは当初アラベスク・パンシェだったが、アロンジェに変わっている。

主役キャストは3組。初日のニキヤには小野絢子、二日目は米沢唯、三日目は柴山紗帆が配された。小野は輝くような美しさに加え、上体を大きく使うロシア風の踊りを掌中に収めている。踊りのニュアンスも隈なく実現。研究・精進の成果を十二分に示した見事な舞台だった。ただ一方で、米沢唯振付『ジゼル』で見せた、生まれたての小鹿のような独特の魅力も捨てがたい。規範に沿うことと、剝き出しになることは両立しうるのではないか。

その米沢は、初回よりも最終日に本領を発揮した。2回とも前日にガムザッティを踊るハードなスケジュール。最終日は得意のバランスも少しふらつくなど、体調は万全とは言えなかったが、舞台で魂を燃やす米沢本来の姿を見ることができた。2幕ソロは、登場から異次元。すでに現世から切り離され、ソロルとガムザッティを彼岸から見ている。その嘆きと悲しみの深さに、二人は為す術もない。唯一ラジャの中家が(役回りではあるが)事態を収拾。狂ったバヤデールを死に追いやった。ハイ・ブラーミンの貝川鐵夫を狂気の愛に駆り立てたのも、米沢が感情のるつぼと化していたから。以前とは異なりクラシカルな美しさを帯びてはいるが、久しぶりに見る磁場としての米沢だった。

三日目の柴山は初役とは思えない落ち着いた仕上がり。正確なポジションから繰り出される美しいライン、優れた音楽性、詩情が、ニキヤの哀しみを増幅させる。マイム及び3幕のクラシック・スタイルも素晴しく、ロシア・バレエの香気が漂った。

ソロルはそれぞれ福岡雄大、井澤駿、渡邊峻郁。3度目の福岡は、はまり役。本来の覇気あふれる佇まいにノーブルな色合いが加わった。ダブル・アッサンブレの切れも素晴らしく、全身全霊を傾けた信頼感あふれる舞台だった。

井澤は配役初日に地力を発揮した。恵まれた体躯を生かしたダイナミックな跳躍、戦士らしい力強いマイム、婚約式でのニキヤとガムザッティに挟まれたロマンティックな苦悩など、全てに大きさがある。最終日は、やや上の空に見えたがなぜだろう。

渡邊はモダンなスタイルのせいか、現代的優男風は拭えなかったものの、勇壮な踊りを心掛け、戦士ソロルに迫った。柴山のよきパートナーであり、その献身性は大きな美点である。

ガムザッティはそれぞれ米沢、木村優里、渡辺与布。米沢は父のラジャ(貝川)が人が良く、くだけている分、しっかりと家を護る気位の高さがある。婚約式でも毅然とした態度。福岡ソロルと同質の切れのよい踊りで、輝かしいパ・ダクションを作り上げた。一方、木村は肚の据わった父(中家)の庇護の下、箱入り娘の造形。婚約式ではニキヤの死に心底驚いていた。井澤ソロルをよく気遣っている。渡辺はもう少しマイム・踊りに細やかさが望まれるが、大らかな父(貝川)の下、伸び伸びと明るく育った姫だった。

菅野英男のノーブルなハイ・ブラーミン、福田圭吾の音楽的で役を心得たマグダヴェヤ、今村美由紀の行き届いたアイヤ、奥村康祐のノーブルな黄金の神像、また同役抜擢の新人 速水渉悟が美しく明確な踊りで観客を驚かせた。影のヴァリエーションでは、ベテラン寺田亜沙子と細田千晶が、お手本となるスタイルを実践している。

「影の王国」山下りは糸を引くような美しさ。音楽的にもスタイルの上でも統一された、有機的なコール・ド・バレエだった。先頭を踊った関晶帆のガラス細工のように美しいアラベスク。関は1幕バヤデールたち、2幕ワルツでも磨き抜かれた身体美を披露した。男性アンサンブルでは一人臨戦態勢の渡邊拓朗が目を惹く。ノーブルな大きさがあった。

指揮は熱血ぶりが蘇ったアレクセイ・バクラン。重厚な東京交響楽団を率いて、ミンクスとバレエへの愛を力強く歌い上げた。