笠井叡『櫻の樹の下には―カルミナ・ブラーナを踊る―』2022

標記公演を見た(11月23日 吉祥寺シアター)。昨年2月に続き、笠井叡が5人の男性ダンサーに振り付ける一晩物である。大植真太郎、島地保武、辻本知彦、森山未來、柳本雅寛(五十音順、辻本のシンニョウは一つ点)は、全員が振付家、踊り盛りで男盛り。荒武者のような5人を束ね、それぞれの本質を炙り出す振付を施し、存在そのものを出し切るよう駆り立てられるのは、笠井をおいて他にいない。プログラム、チラシには彼らの本名はなく、笠井の付けた愛称が記載されている。すなわち、ユリアヌス大植、カリオストロ島地、ジニウス辻本、ド・モレー未來、ジャンヌ柳本。あくまで笠井ワールドで生きる仮構の肉体ということだろう。

前回は初めて会うダンサーたちに笠井が狂喜し、自ら混沌と渦巻くエネルギーを放射、ダンサーたちを死ぬほど踊らせていた記憶がある(コチラ)。今回はダンサーの性格も分かり、ダンサーたちも笠井スタイルを理解。オルフの『カルミナ・ブラーナ』に『白波五人男』をダブらせる相変わらずのアナーキーぶりだが、全体にすっきりとした感触が残った。統一された音楽構成もさることながら、場を撹乱する笠井の身体不在が要因と思われる。笠井が櫻の樹となり、その下で5人が乱舞するはずだったが、体調不良のため降板。辻本が代役を務めた。

冒頭、客電付き無音のなか、辻本がアイボリードレスを身に纏い一人佇む。大きく開いた背中には、ジニウス用に描かれた翼状濃紺刺青。背徳的ではあるが、笠井のような両性具有の妖しさはない。ドレスを身に付けることに何のためらいもなく、女性らしくすることもなく、自意識なく、笠井振付を真っ直ぐに遂行する。動きの迷いのなさ、手の美しさ、親指を回すシークエンスの魔術性。舞台奥ひな壇でしどけなく横たわり、ついヤンキー座りをするも、しっかりした品のある‟おばさん”のように、4人を慎ましく見守った。

残る4人は客席階段から登場。粋な黒スーツに赤いから傘を差し、高下駄で荒々しく降りてくる。柳本、島地、森山、大植の順に『白波』の口上を述べ、見得を切る。『カルミナ』が始まり、高下駄で踊るが難しそう。下駄でのツケ打ちあり(森山)。スーツの下は白褌に刺青、時に薄ピンクの長襦袢をはおり、清濁併せ飲む『カルミナ』の音楽世界を、ソロ、デュオ、トリオ、クインテットで描き出した。

最後は櫻ならぬ銀吹雪が降りしきるなか、辻本が宙吊りで死体となり、足下で4人が踊り狂う。傘を開くたび、長襦袢を振り放つたび、銀片が舞い上がり、逞しい裸身を彩る。美しいクライマックスに陶然させられて幕と思いきや、「もう一度やらせて下さいまし」と言いながら土下座する島地と森山、「おーろーせー」と言い続ける辻本、「まともな方はおられない」とつぶやく大植、「まだ暗くしないで」「以上です、終わります」とディレクションする柳本。笑いながら劇場を後にしたが、不意に笠井の不在に胸が締め付けられる。遺言のように笠井の痕跡のみが残され、身体がない。笠井のいない世界に慄然とさせられた。

「これからも時々ユリアヌスを名乗り、また自身の創作を続け、死に際に〈ああ、よかったな〉と思いたい」(プログラム)と語るユリアヌス大植は、アナキスト・ダンサー笠井の血を引いている。前回の坊主頭と打って変わり、柔らかく美しい長髪が踊りと共に揺れ動き、体にまとわりつく。超高音テノールの〈むかしは湖に住まっていた〉をソロ(本来は笠井とのデュオ)として与えられ、「かつて私は美しかった、私の白鳥だった頃は。あわれな私よ! 今は黒くはげしく焙られている」と踊る。〈愛神はどこもかしこも飛び廻る〉で床に横たわる姿はキリストのようだった。美しい体である。

カリオストロ島地はバリトンの〈万物を太陽は整えおさめる〉でソロ。パ・ド・ブレ、アン・オーで白鳥を踊る。美しい腕使いに、形式・ムーヴメントを追求してきた軌跡を思わせる。強面に見えるが、他の4人のハードな立ち方に比べると柔らか。4人を見る眼差し、作品の推移を見守る姿に、この場にいる喜びが滲む。振付家としての笠井に最も近く、優れた音楽性を共有する。

ジニウス辻本は、ヘリオガバルスとなったが、部分的に自身のパートも踊った。

ド・モレー未來はソプラノの〈天秤棒に心をかけて〉が与えられた。最も美しい天上の響き。未來の儚さ、虚無的な心性を掬い取っている。日舞風振付、表情の無い面差しと長襦袢がよく合った。恒例の大植肉体いじめ(島地と柳本が大植にプロレス技、裏返った大植を揺する、Y字倒立させる)の前後には、大植の腹と股をジャケットで鋭く叩く。サディズムと無垢な魂が無理なく両立した。

ジャンヌ柳本は「今夜は満月のようですか」と語りつつ「大雨だっつーの」と自答(当日は大雨)。「砂漠の話をして下さいと言われて。ゴビ砂漠は一面に満月が照らされると海面を下から見たようになる。旅人は海に深く沈んでいくような気持になるらしい(要約)」と語る。なぜ柳本のみに言葉が与えられたのか。世界を切り開く終盤の超高音ソプラノ〈とても、いとしい方〉でソロ。白褌に薄ピンクの長襦袢が、任侠の雰囲気を醸し出した。最後は照明に指示し、観客にも挨拶して公演を終わらせたが、キャプテンの位置づけだったのか。

5人が笠井の愛=振付を受け入れ、虚構の体で笠井ワールドを作り上げたのは、‟献身” と言うしかない。今年3月の笠井作品『牢獄天使城でカリオストロが見た夢』を見た翌朝は、目覚めがすっきりして、精神性の高い場に遭遇した心持だった。今回も同様にすっきりと目覚め、笠井の愛の照射を思わされた。身体は不在ながらも、笠井の霊性が作品に行き渡っていた証拠である。

 

福田一雄卒寿記念特別公演「バレエの情景」2022

標記公演を見た(11月20日 東京文化会館 大ホール)。70年にわたり日本バレエ界を牽引してきた指揮者福田一雄の、卒寿を記念するガラ公演である。福田と縁の深い国内5つのバレエ団が集結した(出演順に、東京シティ・バレエ団、牧阿佐美バレヱ団、東京バレエ団、K-BALLET COMPANY、谷桃子バレエ団)。主催は株式会社 K-BALLET 。指揮は福田自身と、愛弟子の井田勝大、演奏は自ら設立に携わったシアター オーケストラ トーキョーである。

2部構成の第1部幕開けは、グラズノフ『バレエの情景』より前奏曲(指揮:井田)。ファンファーレの鳴り響くスペイン風の明るい曲は、いかにも福田の記念ガラにふさわしい。

メンデルスゾーン真夏の夜の夢序曲(井田)に続いて、同名作第2幕より「星のパ・ド・ドゥ」(福田、東京シティ・バレエ団)。「夜想曲」を使用した中島伸欣・石井清子振付のクラシカルなパ・ド・ドゥを、ティターニアの飯塚絵莉、オーベロンの吉留諒が涼やかに踊った。星の精アンサンブルは、同団らしい柔らかな体捌きで、福田のゆったりと広がる音楽に身を任せている。

片岡良和『飛鳥 ASUKA』前奏曲(福田)に続き、「すがる乙女と竜神のパ・ド・ドゥ」(福田、牧阿佐美バレヱ団)を、青山季可と近藤悠歩が踊った。青山の繊細で美しいライン、近藤のドラマティックなサポートが、牧阿佐美振付の格調高いパ・ド・ドゥを作り上げる。日本人作曲家による貴重なオリジナルバレエ音楽である。

福田お気に入りの作曲家ミンクスドン・キホーテは、ワシーリエフ版第2幕第2場「結婚式」より(井田、東京バレエ団)。ファンダンゴ、グラン・パが、キトリ 秋山瑛、バジル 生方隆之介、メルセデス 伝田陽美、エスパーダ 安村圭太他によって踊られた。旋風を巻き起こす思い切りのよいキトリとバジル、伝法で粋なメルセデスエスパーダ、優美なアンサンブルが揃い、記念ガラ公演にふさわしい祝祭的な一幕が現出した。

第1部最後は「スペシャル・トーク」。プロコフィエフ『シンデレラ』よりイントロダクション(井田)が奏され、バックに思い出の写真が映し出される。福田少年、ご両親、指揮者姿、牧阿佐美、谷桃子黛敏郎との写真など。映像最後のプロフィールは「5歳よりピアノをヴィノグラードフに学ぶ」に始まり、稽古ピアニストから指揮者への道、「現在は谷桃子バレエ団音楽監督、シアターオーケストラトーキョー名誉音楽監督新国立劇場バレエ研修所講師、日本指揮者協会幹事長」で締めくくられた。

続いて福田と進行役の新井鷗子が登壇。まず「日本のバレエ受容史」として、貝谷バレエ団の『シンデレラ』、東京バレエ団白鳥の湖』『コッペリア』のこと、谷桃子を『白鳥の湖』で初めて見、その後、谷のクラスピアニストになったこと、東京バレエ学校の『まりも』では、メッセレルから「棒を振りなさい」と言われたことなどを語る。石井歓、黛敏郎、芥川他寸志、伊福部昭など、日本人作曲家のバレエ音楽がたくさんあったとも。

続く「バレエ音楽って何?」では、『白鳥の湖』2幕アダジオの最後は譜が出版されていないこと、コピーがない時代、貝谷や小牧で、手書きで楽譜を書いていたことなど。日ソ友好協会から貝谷バレエ団に送られてきた『シンデレラ』の劇場楽譜は、プロコフィエフが生きていた時代のもので、彼自身もバレエピアノを弾いていたことが語られた(バックにピアノ譜や楽譜、森下洋子谷桃子、斎藤友佳理との写真映像)。

「音楽は劇場から生まれた」では、ギリシア悲劇のオルケストラ(平土間)からオーケストラ、オペラ・バレエの前に奏されるシンフォニアからシンフォニーが生まれたこと、フルトヴェングラーリューベックの劇場から、ムラヴィンスキーは『ライモンダ』、ロジェストヴェンスキーは『シンデレラ』で指揮者デビューしたことを紹介。2005年のシアター オーケストラ トーキョー設立で、バレエ本業のオーケストラが誕生し、井田君が指揮者になったのは画期的だった、熊川(哲也)さんは恩人と語った。

「日本のバレエはどう発展していくとよいか」については、良いダンサーがその人に合った作品を踊ること、という回答だった。約15分のトークながら、日本バレエ史について多くの貴重な証言が、新井の巧みな進行により引き出された。

休憩を挟んで第2部は、ベンジャミン・ブリテン『シンプル・シンフォニー』で始まる(井田、K-BALLET COMPANY)。熊川哲也の音楽的で高難度の振付を、日髙世菜、山本雅也、成田紗弥、吉田周平、小林美奈、奥田祥智が、生き生きと踊る。日髙のリフト時の絶対的フォルム、脚線の美しさ、山本の腹の据わった存在感が、疾風のようなシンフォニック・バレエの強固な芯となった。

まだ先のことながら、福田が振り収めの作品と決めているプロコフィエフロミオとジュリエットよりイントロダクションは、福田の棒がゆったりと大きな時空を作り出す。続く「バルコニーのパ・ド・ドゥ」(福田、東京シティ・バレエ団)は、中島伸欣の音楽的で親密な振付。ジュリエットの清水愛恵、ロミオのキム・セジョンはどちらかと言うとクラシカルで、ティターニアとオーベロン風。むしろ飯塚・吉留組の方が、中島振付の可愛らしさに合っていたかもしれない。

最後はヴァシリー・カリンニコフ交響曲第2番を使用した『Fiorito』より第4楽章(井田、谷桃子バレエ団)。谷桃子のクラスピアノからバレエ人生が始まり、バレエ団創立から現在まで深く関わってきた福田の推薦曲に、伊藤範子が振付をした華やかなシンフォニック・バレエである。黒の三木雄馬、白の馳麻弥、赤の竹内菜那子、檜山和久、緑の山口緋奈子、田村幸弘が、色(=団のレパートリー)に即した振付を踊り、それぞれのアンサンブルがきびきびと周りを彩る。黒の男性陣が横一列に並び、白、赤女性陣を次々とサポートするシークエンスは、いつ見ても楽しい。伊藤の優れた音楽性、優美なクラシック技法が大きく開花した作品だった。

フィナーレはチャイコフスキー『エフゲニー・オネーギン』よりワルツで、出演者たちが次々に登場。福田は愛弟子の井田より大きな花束を贈呈され、舞台客席の全員が祝福するなか、卒寿記念特別ガラ公演は幕となった。

演目を振り返ると、日本人振付家の歴史と重なることに気が付く。日本の創作物を牽引し、歴代のダンサーたちに寄り添ってきたバレエ指揮者、福田一雄の人生が深く心に刻まれる公演だった。

 

日本バレエ協会「バレエクレアシオン」2022

標記公演を見た(11月15日 新宿文化センター)。文化庁「次代の文化を創造する新進芸術家育成支援事業」の一環である。プログラムは、髙原伸子振付『沈黙の中庭』、池上直子振付『牡丹灯篭』、下村由理恵振付『氷の精霊』によるトリプル・ビル。全員女性だが、クラシックダンサーである下村を除いて、作品から振付家の性別を意識することはなかった。

髙原と池上は共にコンテンポラリーダンスを基盤としながら、対照的な作風。髙原はムーヴメント創出を追求し、言葉を超えた何かを生み出そうとする。対する池上は、既存の物語を、コンテの語彙を使っていかに効果的に演出するかを考える。長年バレエ作品の主役を演じてきた下村は、女性アンサンブルのみに振り付ける、言わば日本バレエ文化に寄り添ったモダンバレエを再演した。

髙原作品『沈黙の庭』は「中庭で一人待つ女」という自身の幻視=ヴィジョンと、遠藤周作の『沈黙』をモチーフとする。中央に赤い小椅子、天井までそびえるざらついた焼き物状巨大奥壁、ダリアのような無数のドライフラワーが、空間を構成する(美術:小林峻也)。髙原とキミホ・ハルバートは赤いドレス、男たちは黒の上下、女性アンサンブルは白ドレスだった(衣裳:堂本教子)。レナード・コーエンのゴスペル風フォーク、金属的な機械音、再びコーエンの音楽で3場を構成。アンサンブルにはコンテの振付が施されたが、芝崎健太、佐藤洋介、OBA、ハルバート、上野天志、守屋隆生、戸田折のソリスト陣には、それぞれの個性を生かす在り方が演出されている。

芝崎は銀の花や花冠を持ち、それぞれのダンサーに関わる優しい狂言回し。生来のパートナリング巧者である佐藤は、次々と女たちを抱き留め、最後には女たちにのし掛かられ覆い尽くされる。ソリッドな存在感の OBA は、武術、ストリートダンス、ゾンビを合わせた痙攣的動きが特徴。佐藤との果たし合いには緊迫した空気が流れた。ハルバートは髙原の分身と思われるが、佐藤、天野と、なじみのダンサーがいるため、部分的にハルバート作品に。後ろの方で天野と夫婦リフトも。

天野は作品にユーモアの楔を打ち込む貴重な存在。大きな花束を抱えながら、クニクニと蠢き、花をバラバラ落とす。中盤には床で悶え、のたくりながら、花を手前三方に置いていく。その明るさとユーモア。人間の条件を丸ごと引き受ける果てしのない精神が、動きとなって現れる。クールな守屋、池上直子そっくりの青年戸田も、作品を繊細に彩った。

薄っすらとしたドラマ性はあるが、個々の肉体とその関係性が重要な面白い空間。クラシックバレエから Noism1 を経て、武道家 日野晃に至った髙原の軌跡を証しする作品である。コンテンポラリーでオリエンタルな作品追求に、独自の視界を感じさせた。

池上作品『牡丹灯篭』は20年に大和シティバレエで初演された。三遊亭圓朝の原作から「お露新三郎」「お札はがし」を舞踊化した作品である。初演は、お露に米沢唯、新三郎に宝満直也、和尚に渡邊拓朗、伴蔵に八幡顕光という配役。今回はそれぞれ、木村優里、厚地康雄、菊地研、八幡となった。4枚の障子をスピーディに移動、開閉させる空間作りは躍動感にあふれる。女中8人による牡丹灯篭の回転、揺らめきも、闇に映え、美しい残像を作り出した。モダン+コンテンポラリーの語彙と時代物が自然に融合している点に、池上の演出手腕がある。

お露の木村はダイナミックな踊りが持ち味。好きな男に取り付く妖しさ、死霊の透明感といった感触はあまり見られず、真っ直ぐに新三郎に向かっている。厚地も命を失っても会いたいという痛切な思いよりも、ノーブルなスタイルを保持。初演時の濃密な逢瀬の代わりに、クラシカルなパ・ド・ドゥを現出させた。和尚の菊地はこのところキャラクターダンサーとして円熟味を増している。新三郎を抱く終幕は、美しい絵姿の中に無念さを滲ませた。伴蔵の八幡は初演組。ベテランらしい旨味のある芝居、切れの良い踊りで、作品の要となった。女中アンサンブルは元気がよく、池上のキリッとした男前の振付を楽しそうに踊っている。

下村作品『氷の精霊』は、16年にも「バレエクレアシオン」で上演された。フィンランドの作曲家トゥオマス・カンテリネンの多彩な音楽を使用し、精霊=女性の様々な側面を描き出す。7人のソリストと2つのアンサンブルが、対立と融合を繰り返すなか、金子優が7人グループを抜け出そうとする。怯えながら逃げ惑う金子。この結末は回収されないまま、一人の幼女を出現させることで、明るい未来を示唆する大団円で幕となる。

振付はポアント無しのバレエ・ベースで、上体、腕のモダンなニュアンスを特徴とする。中腰など、精霊と言うよりもア・テールの振付が多く、人間味が優る。下村のパトスに満ちた肉体から、直に生み出されたからだろう。ダンサーたちが踊って楽しい振付、肉体を駆使する喜びにあふれた空間だった。

芯となった川島麻実子は、抜きん出て美しい体。下村語彙にまだ不慣れなため、テンポについていけない部分もあったが、振付に宿る感情やニュアンスを細かく掬い取り、あるべきフォルムを実現させた。主役歴任の蓄積を感じさせる。

 

新国立劇場バレエ団『ジゼル』新制作 2022 ②

標記公演を見た(10月21, 22日昼, 23, 28, 29日昼 新国立劇場 オペラパレス)。7日間9公演、主役キャストは5組。バレエ団の総力を挙げた新制作である(作品については )。

ジゼルは見た順に、小野絢子、柴山紗帆、米沢唯、木村優里、池田理沙子。それぞれの個性を十分に生かした舞台だった。初日の小野は「ジゼルはこうあるべき」という理想形が自分の内にあり、それに向かって邁進するタイプ。姿形のよさ、行き届いた振付遂行に、精緻なジゼル像が浮かび上がった。2幕での飛翔感が素晴らしい。柴山は内気で儚いジゼルらしいジゼル。クラシカルな美しさに加え、狂乱シーン、終幕の慈愛に真情が滲み出た。

米沢はひたむきに恋する少女。それゆえ裏切られた衝撃は大きい。2幕の踊りにはフランス風のエレガンスが。一方、倒れたアルブレヒトを起き上がらせようとする必死の腕使いには、米沢にしか表すことのできない真実があった。振付の意味を考え抜いた上で、人生の全てを舞台上に置いている(「人生の一部を舞台上に置く、それが我々アーティストの存在意義」バクラン)。

木村はマネージュの切れ、踊りのアスレティックな味わいが本領。村娘らしさ、ウィリらしさも体当たりで表現した。ミルタ・ダンサーでもある。池田は少女らしさ、ナチュラルな狂乱シーンに、細やかな役作りを感じさせた。少し幼過ぎる気もするが、パートナーが変われば違う表現になるかもしれない。

アルブレヒトも見た順に、奥村康祐、井澤駿、渡邊峻郁、福岡雄大、速水渉悟。全体にジゼルへの接触が多く、ノーブルな遊び人風の演技で統一されている。1幕ヴァリエーションの繰り返しでは、アントルシャ、ロン・ド・ジャンブ・アン・レール・ソテを披露。純粋な青年というよりも格好の良い二枚目である。

初日の奥村は、遊び人風演技から純粋な愛情が透けて見える。小野ジゼルを柔らかくサポート、終幕の別れの嘆きは深く激しかった。井澤は持ち前の鷹揚さでノーブルな王子を体現。控えめな柴山ジゼルと淡い恋の物語を描き出す。終幕はジゼルの慈愛に包まれて終わった。渡邊は絵に描いたような二枚目。ヴァリエーションも美しく、米沢ジゼルの恋の的となる。終幕は米沢の深い愛情を一身に受け、涙ながらに生き延びた。

福岡はこれまでの蓄積を生かした役作り。練り上げられた造形である。遊び人風ながらストイックな味わいは福岡らしさ。木村ジゼルをよく導いて、舞台の骨格を作り上げた。2幕登場の突き詰められた歩行は、オーボエの痛切な響きと合致。福岡と同期する指揮者バクランの息遣いが聞こえるようだった。速水は満を持しての王子役。よく考えられた演技、美しく力強い踊りで期待に応えている。今後は自分をさらけ出す舞台も見てみたい。

ヒラリオンは4キャスト。見た順に、初日の福田圭吾は激情に突き動かされるタイプ。やや演技が生々しすぎるが、ジゼルへの熱い思いが伝わってくる。中家正博はマイムを踏まえたメリハリある演技。森番らしい体躯と肚で、正統派ヒラリオンを描出した。中島駿野はややノーブル寄りだったが適役。もう少し胸襟を開いた演技が望まれる。木下嘉人は有能な狩場番人だろう。一挙手一投足に意味があり、作品世界が見る間に立ち上がる。何を演じても生きた役となる屈指の演技派である。

ミルタは3キャスト。見た順に、初日の寺田亜沙子はベテランらしい行き届いた演技。踊りは本来の調子とは言えないが、美しい立ち姿で場を支配した。根岸祐衣は風格があり、女王としての厳しさをよく身に付けている。今後は内側からの造形も期待したい。若手の吉田朱里は、伸びやかな踊りに瑞々しい透明感を漂わせた。まだ乙女らしさの残るウィリの女王である。

ウィルフリードはアルブレヒトの親友に変更されたが、演技自体はさほど変わりがなかった。清水裕三郎は持ち役ではまり役。優雅な物腰で主人に仕えている。小柴富久修は少し友人の趣きあり。序盤で立ち去る時の「こりゃだめだ」は小柴ならでは。ベルタはブドウ園の経営者という設定。楠元郁子はしっかり者で優しく、娘の異変にすぐ気付く。ベテランらしい滋味がある。中田実里はやり手経営者。娘にもテキパキと愛情を注ぐ。対照的なベルタだった。

クーランド公爵は夏山周久。ゲスト・コーチでもあり、吉田監督の信頼が厚い。豪奢な衣裳にも負けない堂々たる存在感で、1幕に華やぎを加えた。途中バチルドと喋る時は腹芸になっているが、何を話しているのか、もう少し分からせて欲しい気もする。バチルドは見た順に、益田裕子、関晶帆、渡辺与布。この版では富豪の娘という設定のため、通常とは異なる芝居になる。毛皮の縁取りをしたピンクの衣裳に、金銀宝石を山と付け、指輪を見せつけるバチルド。益田、関はおとなしく演出通りに演じていたが、渡辺は役を生きて、ジゼルとの対話では人の好ささえ醸し出した。芝居を変える余地が残された役に思われる。

ペザント・パ・ド・ドゥは4組。初日の池田=速水は主役でも組んでいる。続く女性陣は見た順に、ダイナミックな奥田花純、音楽的でまろやかな飯野萌子、音楽的で鋭い五月女遥。男性陣は、ノーブルで技術もある山田悠貴、爽やかで初々しい佐野和輝、ノーブルで大きさのある中島瑞生。山田は『シンデレラ』道化に配役されたが故障で降板。ようやく実力発揮の場を得た。

パ・ド・ドゥのバックには必ず、森本晃介と石山蓮の新人二人が立っている。何かの予告だろうか。森本の強烈な存在感はアンサンブルでも。村人の浜崎恵二朗は水際立った佇まい、村娘新加入の直塚美穂は伸びやかな踊り、廣川みくり(モイナ配役も)も同じく。廣川のウィルフリード追っかけ演技は、『アラジン』の大和雅美を想起させた(大和の方がとぼけているが)。

村人アンサンブルは元気よく、ウィリ・アンサンブルはパトスにあふれる。以前よりも揃っていないが、個々人が自分を発揮するということか。ウィリ交差はもう少し速い方が飛翔に見える気がする。

指揮のアレクセイ・バクランは昨シーズンの『くるみ割り人形』以来。ロシアのウクライナ侵攻が始まって以降、初めての新国立劇場公演となる。ダンサーに深く寄り添い、エネルギーを舞台に注ぎ続ける相変わらぬ姿に胸が熱くなった。カーテンコールで、腕を大きく広げて迎えにくる米沢を、嬉しそうに見つめるバクランの姿が忘れられない。2回を振った冨田実里は、柴山ジゼルにふさわしく濁りのない音作り。東京フィルハーモニー交響楽団の弦の響きが美しかった。全回を通して2幕ヴィオラ・ソロが舞台に大きく貢献している。

 

 

新国立劇場バレエ団『ジゼル』新制作 2022 ①

標記公演を見た(10月21, 22日昼, 23, 28, 29日昼 新国立劇場 オペラパレス)。同団は劇場開場翌年の98年にセルゲーエフ版『ジゼル』を導入。以降4回の再演を重ねてきた。今回は24年振りの新制作である。演出:吉田都、改訂振付:アラスター・マリオット、美術・衣裳:ディック・バード、照明:リック・フィッシャー、演出・改訂振付補佐:ジョナサン・ハウエルズ、技術アドヴァイザー:ダグラス・ニコルソン、コレオロジスト:堀田真由美と、英国系の布陣が敷かれた。

伝統を重視する新版最大の特徴は、演劇的な細やかさ。ペザント・パ・ド・ドゥをバチルドの首飾りプレゼントへのお礼とするなど、演者の出入りを含め、物語の流れを見極めた場面展開である。個々の演技も従来の古典マイムより自然になり、脇の芝居には新たな演出が加えられた。

冒頭、村人たちが楽しそうに収穫祭の準備をしている。納屋に花綱をつける者、葡萄籠を持って収穫に行く者。その中にバッカス神となる男の子がいる。バッカス神として収穫祭でジゼルを女王に選ぶのみならず、狂乱に陥ったジゼルに取りすがられ、その死に際して十字を切る重要な役割を担う。子役が一人しかいないのはリアリティに欠けるが、異界との接点という象徴的存在と考えられる。

新演出としては他に、アルブレヒトが最初から男女村人に紹介される点(通常は女性のみ)、貴族夫人の井戸端風お喋り、ウィルフリードの追っかけ3人娘、正体がばれそうになったアルブレヒトの逃げ道をふさぐ村の青年2人など。またクーランド公爵がジゼルの家に入る時、ジゼルの肩に手を置くが、これは好色を表すのか、ジゼルとの血縁を表すのか判然とせず(改訂者帰国後は省略)。狩り一行の先導は射手3人と鷹匠2人、2幕ウィリ飛翔装置はミルタの巨木内セリのみだった。

主要人物についてはほぼ伝統を踏襲しているなか、バチルドをクーランド公爵の娘ではなく、富豪の娘とし、クーランドが甥(という設定)のアルブレヒトとの間を取り持つ形にしたのは、大きな改訂である。さらにジゼルの母ベルタもブドウ園を営む地位に置かれ、農民対貴族という階級対立に経済的要素が加わった。演出の意図は、アルブレヒトの行動、ジゼルの特異性に合理的な説明を与えることにあると思われる(リーフレットに演出ノートの掲載が必要ではないか)。ただリアリズムに傾いた分、ロマンティックな牧歌性は薄れる。バチルドの気品に欠ける成金趣味も、原台本から遠くかけ離れてしまった。一方終幕のアルブレヒト演出は優れている。ジゼルの墓に横たわり、別れを惜しむ姿は、しみじみとした情感を後に残した。

改訂振付は、収穫祭のペザント・パ・ド・ドゥ主導、村人フォーメーションの複雑化など。素朴さよりもエネルギッシュな勢いが優る。ウィリ・フォーメーションには十字交差が加わった。ベルタのウィリ・マイムは短縮してあっさりと、狂乱のジゼルがバチルドを見て倒れる場面も。

ディック・バードによる美術は、団先行版のヴャチェスラフ・オークネフやピーター・ファーマー(国内3団体)に慣れた目には強烈だった。1幕はシモテに大きな農家、カミテに農具を収める納屋、背後には紅葉した白樺林が迫り、『ラ・バヤデール』のような2段坂が農家の庭に通じる(登場人物が坂の上段中央で立ち止まり、‟見得を切る” 演出は効果的)。ベルタの人物設定に沿い、ひっそりと奥まった場所というよりも、活発に活動する村の中心という印象を与える。

2幕は従来の森の空き地ではなく、リトアニアの「十字架の丘」にインスピレーションを得た墓地。両手には剝き出しの根を張った巨木が立ち並び、根元に無数の十字架が立ち並ぶ。十字架の足下にはこれも無数の小蝋燭の灯り。奥はやはり2段坂で、ヒラリオンが追い立てられる崖になる。上方には満月が輝いている。フィッシャーの奥行きのある照明が素晴しかった。

2幕を墓地としたことで、ウィリの性格がより死霊に近付いた印象がある。だが、ウィリには羽があり、飛翔することから、本来はシルフィードに近い存在だったのではないか。恋人に裏切られて結婚前に死んだ娘というよりも、結婚前に死んで踊り足りない娘が、通りすがりの男たちを相手に踊り、ほほ笑みながら取り殺す、妖精に近い存在だったのではないか(スキーピング版ではこの方)。森も睡蓮や野の花が咲き乱れ、神秘的な官能性を纏っていただろう。

原典版ではジゼルは墓に戻らず、花の寝床に横たえられ、地中に沈んでいく(この演出はアダンの提案による ― Ivor Guest, The Romantic Ballet in Paris, Dance Books, 2008, p. 349)。そこにウィルフリード、大公(公爵)、バチルドが、お供の者たちと駆けつける。ジゼルはバチルドを指さす。彼女に愛情と誠実さを、と言っているようにアルブレヒトには見える。ジゼルは徐々に花に覆われ、見えなくなる(ゲストによれば、バチルドの再登場は、1910年、ディアギレフがパリで上演した際カットされた p. 359)。

原典版については、ラトマンスキーが復元版を上演している(映像評はコチラ)。

新国立劇場バレエ団『ジゼル』新制作 2022 ② はコチラ

 

佐東利穂子『告白の森』2022

標記公演を見た(10月22日 KARAS APPARATUS)。『泉』(19年)、『ノクターン』(21年)に続く自作自演作。1作目は自分の感覚を試すような手探りの感触があり、ある種の瑞々しさを湛えていた(コチラ)。2作目は勅使川原三郎の音楽構成だったため、勅使川原作品に近い印象。今回は1作目同様、自らの音楽構成で、自作テクストの朗読も加わった。これまでよりも構築への意志を感じさせる。変幻自在の照明は記載はないが、勅使川原だろうか。

冒頭、佐東の密やかかつ張りのある声が流れる。「遠い緑の楽園に深い湖があり、その水面に映る森は…」。おとぎ話を思わせる情景が目に浮かぶ。轟音が響き渡り、チェンバロがかすかに聞こえると、闇の中からうっすらと白いドレスの人影。亡霊のように少し前進しては戻る。カウンターテナーが轟音に入り混じりループ。

白い人影は前方に進み出ると、クキクキとひくつきながら体を震わす。銀髪を振り乱し、自分から抜け出そうとする風。白いフワフワのドレスはウェディングドレスか。結婚前に死んだウィリのようにも。陶器の割れる音が鳴り響き、草笛の音がループする。緑ライトの下、奥壁のおぼろライトの前で、「アー」と叫び、「ハハハ」と笑い、「ハーハー」と喘ぐ。白い影は少女と死霊を行き来し、ハンガリー風の音楽で激しくパセティックな踊りを踊る。

後半はアイボリー・レースのスカートと袖なしブラウスに。シルエット時には美しい脚線が透けて見える。白いドレスを脱ぎ捨て、自分の殻を破ったのか。前半の舞踏のような表現主義的動きから、勅使川原メソッドに戻るが、佐東のパッションは続く。素早い勅使川原ステップ、美しいシルエットに、運動的熱量ではなく、内的エネルギーが迸る。最後は「遠い緑の楽園」に始まる言葉。ピアノの単旋律が流れ、「私の声は誰にも届かない、森の木々だけが聴いている、知っている」で終わる。

独自の身体技法探求、勅使川原メソッドのクリエイティブな応用、バロックと現代音楽手法の美的融合、さらに一連の西洋的美意識が自然に(自分の物として)提示される。ダンサーとしての成熟及び、クリエイターとしての可能性を強く感じさせる新作だった。イタリアのアテール・バレットに振り付けた作品は、どのようなものだったのか。他者への振付も見てみたい。

バレエシャンブルウエスト『眠れる森の美女』2022

標記公演を見た(10月9日 J:COM ホール八王子)。本作はすでに「清里フィールドバレエ」で上演されているが、劇場公演は初となる。今村博明総監督によると「見られる野外と見せる劇場」の違いがあり、「照明、舞台装置、ダンサーの立ち位置、体の方向性、表現の仕方にも、より深い芸術性を求める作業が繰り返される」とのことで、実質的な初演と考えられる。

演出・改訂振付は今村博明・川口ゆり子。両人が踊ってきた英国版(N・セルゲーエフ版系統)に、マリインスキー版(K・セルゲーエフ版)を取り入れ、正統を探った独自の版である。英国版に多い「目覚めのパ・ド・ドゥ」は採用せず、3幕宝石の精を男女4人で踊る演出は踏襲されている(サファイア・ソロなし)。2、3幕は続けて上演、間奏曲として3幕行進曲が使用された。際立つのは多くのマイムが残されていること。Wキャストの若手陣営を見たが、マイムの一つ一つに音楽性と演劇性が息づいている。舞踊における優れたクラシック・スタイルと共に、カンパニーの実力を証明する上演だった。華やかな衣裳(桜井久美)、繊細な映像(立石勇人)、さらに磯部省吾の指揮、大阪交響楽団の演奏が、劇場版初演に大きく貢献している。

主役のオーロラ姫は、初日が松村里沙、二日目が柴田実樹、デジレ王子はそれぞれ江本拓、芳賀望。その二日目を見た。柴田のオーロラはおっとりとした姫。伸びやかなラインを生かし、要所はきちんと決めつつ、ゆったりと踊る。ふわっと風が吹くような不思議な個性である。王子の芳賀は、端正なスタイルの中に熱い想いを滲ませる。2幕リラの精とのマイムの激しさ。物語を生きる虚構度の高い身体で、初々しい柴田を包み込んだ。

リラの精の石原朱莉は、確かな技術に加え、善の世界を行き渡らせる風格と包容力がある。対するカラボスは伊藤可南。黒のロングドレスで邪悪の美をまき散らす。共にマイムに優れ、音楽性はもちろん、芝居を見る喜びがあった。2幕では王子のフィアンセ 深沢祥子が磨き抜かれた演技を見せる。深沢は初日カラボスでもあり、古典の演劇性を象徴する存在と言える。

川口まりの音楽的なフロリナ王女、藤島光太の技巧的な青い鳥を始め、宝石の精(斉藤菜々美、窪田希菜、早川侑希、古郡士英生)、5人の妖精たち(神谷麻依、荒川紗玖良、石川怜奈、坂本菜々、村井鼓古蕗)の行き届いたクラシック・スタイルが目覚ましい。1幕村人のワルツ(女性のみ)、2幕のシルフ・アンサンブル(水の精から変更)はともに、カンパニーの美点である伸びやかで瑞々しい踊りを体現した。

リラのカバリエール 逸見智彦を始め、フロレスタン24世王の正木亮、ギャルソン 宮本祐宣、カンタラビュット 奥田慎也、貴族 吉本泰久のベテランが脇を固める。全体に演技は大仰ではなく自然。貴族 土方一生(初日は青い鳥)のナチュラルな芝居が目についた。