新国立劇場バレエ団『シンデレラ』2022

標記公演を見た(4月30日、5月1日、3日昼、5日 新国立劇場オペラパレス)。アシュトン版『シンデレラ』(48年/65年)は、1999年バレエ団に導入された。当時英国ロイヤル・バレエ プリンシパル吉田都現芸術監督もゲスト出演し、アシュトン振付の魅力を伝えている。プティパ研究に基づいた精緻でクリティカルな古典舞踊、英国パントマイムのエキセントリックな同時多発芝居、幾何学的で複雑なアンサンブルフォーメーション。74年を経た現在でも、新鮮さと強度を保った全幕物語バレエである(可愛らしい小姓たちは19世紀バレエへの賛歌)。今回は吉田監督就任後初、バレエ団としては13回目の上演となる。監修・演出はウェンディ・エリス・サムズ、マリン・ソアーズ。

前回との際立つ違いは、仙女と四季の精の踊り方にあった。腕使いと上体を連動させ、大きく柔らかく、切れ目のない動きが実践されている。結果、この世の者ではない透明感あふれる体が、デヴィッド・ウォ-カーの夢のような衣裳をまとって立ち現れた。吉田監督指導の賜物と言える。義姉(姉)と道化のタイプにも変化が見られた。これまでの主だった義姉(姉)は、マシモ・アクリ(7回)、古川和則(5回)、保坂アントン慶(3回)。いずれも乱暴だが華やかで妹思い。特に古川は自在な演技におかしみを滲ませる熟練舞台人の味わいがあった。

今回は奥村康祐(2回目)、清水裕三郎(初)、小柴富久修(初)。奥村は王子(5回目)、道化(1回)も踊り、芸域の広さを誇るが、清水、小柴共々、ノーブル寄りと言える。それもあってか、1幕の首飾り回しは重視されなかった(そもそも誰が始めたのか)。道化の木下嘉人(4回目)、佐野和輝(初 - 山田悠貴 故障降板で代役)も、いわゆる道化役と言うより、すっきりとした品格を持ち味とする。吉田監督の両役へのイメージを窺わせる配役と言える。義姉(妹)については変わらず。堀登(7回)の伝統を受け継ぎ、上演順に、小野寺雄(3回目)、福田圭吾(初)、髙橋一輝(6回目)が担当。小野寺の切れの良い動き、福田のエネルギッシュな造形、髙橋の自らをも俯瞰する懐の深い演技が、姉たちを支えている。

シンデレラと王子は4組。それぞれ組み慣れたパートナーのため、従来の安定した造形が踏襲された。初日の小野絢子と福岡雄大は、ベテランらしい落ち着いた舞台。小野はアシュトン振付の正確な実現、福岡は古典の精緻な踊り方に心を砕き、トップダンサーの気概を示した。阿吽のパートナーシップは言うまでもない。

二日目の米沢唯と井澤駿は、米沢の成熟が際立った舞台。役へのアプローチはこれまで通り、シンデレラを内側から生きる手法だが、古典の踊り方に新たな局面が見られた。特に2幕ソロのマネージュは、技術で圧倒するのではなく、パの細やかなニュアンスと絶妙なアクセントを組み合わせ、そこにある種の精神性を加えている。プリマとしてというよりも、アーティストとしての探求心を感じさせた。対する井澤はゆったりとした佇まいに王子らしさを漂わせた。今後は舞台への集中をさらに期待したい。

三日目の木村優里と渡邊峻郁は、これまでのパートナーシップをそのまま反映させた舞台。仙女を兼任する木村は、暖炉の傍よりも華やかな舞踏会で持ち味を発揮した。対する渡邊は優しく木村をサポートする。見た目もよく、舞台は滑らかに進んでいくが、観客を物語に引き込むという点では、まだ工夫の余地が残されている。

最終日の池田理沙子と奥村康祐は、徐々に築き上げたパートナーシップを基に丁寧な舞台を見せた。池田の緻密な役作り、感情を伴った踊りが、生き生きとしたシンデレラを造形する。直前に2回の義姉を踊った奥村は、ノーブルスタイルをよく意識した爽やかな王子だった。2幕パ・ド・ドゥではしみじみとした情感が醸し出される。奥村はこの幕で怪我を負い、3幕は井澤にバトンタッチしたが、池田と共に緊密な物語の流れを作り出した(次回公演『不思議の国のアリス』の白ウサギは残念ながら降板となった)。

*カーテンコールについてひとこと。米沢と池田は「カーテンコールも舞台のうち」を心得て、観客とのきめ細やかなコミュニケーションを実行しているが、小野と木村には物足りなさが残る。吉田監督現役時代のカーテンコールは、全身全霊が込められていた。舞台の余韻をさらに増幅させ、観客は幸福感に浸りながら家路についたものだ。画竜点睛を期待したい。

父親役には円熟の貝川鐵夫、指揮をしながらダンスを見るのが楽しみのようだ(1幕ダンス教師の場、2幕舞踏会)。地を生かした愛情深い父親だった。初役の中家正博は、3月の日本バレエ協会公演で米沢エスメラルダとフェビュスを踊ったばかりだが、今回は父親役。マイム・演技が明快で、心情がよく伝わってくる。ただし娘へのサポートがつい騎士風に。17年の王子役でアモローソの両腕伸ばしリフトを実行したとたん、空気が一変し、古典バレエの世界が広がったことを思い出した。

仙女は細田千晶と木村。はまり役だった本島美和は、深い作品理解と自らの人間性に基づく慈愛に満ちた仙女像を作り上げたが、細田もこうした域に達している。煌めくソロも素晴らしい。木村は華やかな存在感と力感あふれる踊りで、四季の精、星の精たちを率いている。一方、道化の木下は、道化に不可欠の知性と柔らかな踊り、佐野は素直な可愛らしさと柔らかな踊りで舞台を彩った。共にすっきりと控えめな演技が印象深い。

四季の精はWキャスト。いずれも吉田メソッドを遵守する柔らかでニュアンス深い踊りだったが、中でも飯野萌子(夏)は、優れた音楽性に、細部まで意識の行き届いた様式性豊かな踊りを見せた。踊りそのものを見る喜びがある。五月女遥(春)の粒だった踊り、柴山紗帆(秋)の正確で美しい踊りも、ピンポイントの音楽性を誇る。

ダンス教師の井澤諒、原健太、ナポレオンの髙橋、渡部義紀、ウェリントンの趙載範ははまっている。ウェ初役の渡邊拓朗は少しはみ出ている(それが持ち味だが)。職人たちは1回ポカもあったが面白い。福田紘也はまり役のエキセントリックな宝石屋には、今回 味のある上中佑樹が加入した。王子友人は速水渉悟が怪我から復帰、8人それぞれに見応えがある。古くなるが、昨秋の『ナット・キング・コール組曲』で渡部義紀のショーダンサーぶりに瞠目したことも付記しておきたい。

星の精アンサンブルの動きの繊細さと切れ味、体の美しさが素晴らしい。マズルカアンサンブルは生き生きと大きな動きで宮廷に活力を与えている。

指揮のマーティン・イェーツは東京フィルハーモニー交響楽団と共に、プロコフィエフの玄妙で美しいメロディを全身で紡ぎ出した。音楽への感動が直に伝わってくる。

2、3月に見た振付家 2022

2、3月に見た振付家について、メモしておきたい。

 

関口啓 @ 舞踊作家協会ティアラこうとう連続公演 No.220「Exploring Creation」(2月1日 ティアラこうとう 小ホール)

作品名は『Strategy』。出演はスターダンサーズ・バレエ団の小澤倖造、西澤優希による。逆扇型のこぢんまりとした舞台。バックには〇-✕=、床にも同記号が映されている。グレー衣裳が〇、茶の衣裳が✕の動きを担当(どちらが小澤、西澤かメモがなく不明)。床をスケートのコンパルソリーのように使い、そこから動きを生み出していく。互いに組むことも。コンタクトインプロとフォーサイス風ポジションの組み合わせにも見えるが、オーガニックな味わいが関口の特徴と言える。ミニマルな音楽も人の声のような感触。タスクはあるが人間的。アンシェヌマンの面白さ、動きの音楽性、振付家の緻密な思考が詰まったクリエイティヴな作品だった。関口の頭の中を視覚化した小澤、西澤も素晴らしい。

 

笠井叡✕山崎広太 @ 天使館ポスト舞踏公演『牢獄天使城でカリオストロが見た夢』(3月3日 世田谷パブリックシアター

天使館(1971~)の同窓会のような公演。笠井叡が1979年に渡独するまでの天使館は即興中心の自由な創造の場、帰国後はオイリュトミーの教場となった。笠井によれば、「旧天使館はプロ養成の施設とはま逆の雰囲気、新天使館はダンスの技術性を学ぶ場」(プログラム)とのことだが、印象としては、旧天使館出身者は自分の踊りを追求するダンサー、新天使館出身者は修養に重きを置く修行者に見える。オイリュトミーの儀式性、正面性がそう思わせるのだろうか。

新旧14人のダンサーが即興、または笠井の振付で、ソロ、デュオ、トリオを踊る。マーラーで総踊り、クセナキスで個々のソロ、バッハで笠井禮示ソロ、ロックで笠井叡ソロ、マーラーで総踊りという構成(途中、笠井久子の朗読が入る)。「作品」というよりも、笠井が様々な言葉と音楽で枠組みを作り、精神レヴェルを統一した「場」の趣。オイリュトミーが含まれるせいか、批評の対象ではないような気がして、まだらな気持ちのまま帰宅したが、公演を見た翌朝は早く目覚め、頭がすっきりしていた。礼拝か何か、精神性の高い気持ちのよい場に遭遇し、その空気を浴びた後のようだった。

今回の公演について笠井は「ダンスのインプロヴィゼーション性とコレオグラフィー性の融合と離反と言う観点から、見ることができるかもしれません」と語る。その意味で最も興味深かったのは、山崎広太(旧)がマーラーのアダージェットで、浅見裕子(新)、上村なおか(新)と踊ったオイリュトミー・トリオ。前半部で激しい即興ソロを踊った山崎が、笠井兄弟(瑞丈はコロナ陽性で降板)のパートナーたちと、フェミニンな振付を踊る。新しいボキャブラリーをじっくり味わい、体の感覚を試すように楽しげに踊っていた。

山崎は笠井と唯一拮抗する、または背反するダンサー。笠井の滑らかで分節不可能な音楽的ソロ(年齢不詳になる)に対し、山崎は体の重さ、物質的な音取り、クキクキと分節された動きでソロを踊る(時計をはめていた?)。暴力的に場を撹乱する一方、周囲や全体を注視し、静かにフェイドしていく慎ましさも。笠井が椅子に乗って登場した時には、なぜか正座をしていた。学び舎に戻ったような嬉しさにあふれた体だった。

作品全体と他の出演者については、呉宮百合香評(『オン★ステージ新聞』2022.4.15号)を参照のこと。

 

山口茜 @ サファリ・P『透き間』(3月11日 東京芸術劇場シアターイースト)

演劇公演と銘打っていて(芸劇 dance とも)、実際言葉が大きな役割を果たしているが、同じくらい身体性が重視される。山口は劇作家・演出家。サファリ・Pとは京都を拠点とする、パフォーマー(俳優・ダンサー)、技術スタッフ(照明・音響)、演出部(演出家・ドラマトゥルク)からなる劇団とのこと。

舞台には黒い長方形の台が16個。その透き間から、手、脚が見えては沈んでいく。もちろん 3.11 を想起。そのリアリティに気持ちが悪くなったほど。台本にはアルバニアの作家イスマイル・カダレの小説『砕かれた四月』が反映されている。カヌンという掟の話で、血族が殺害された場合、その一族の男性が仇討ちをしなければならない。もしこの復讐のフェーズがなかったら、3.11 追悼の作品になっただろう。団員を含む5人の出演者は、俳優とダンサーの区別がつかないほど、演技・ダンス共に秀でている。特にブレイク・ダンス(達矢)がドラマの中で効果を発揮するのを初めて見た。

 

黒田育世 @ 再演譚 vol.1『病める舞姫』『春の祭典』(3月11日 KAAT神奈川芸術劇場 大スタジオ)

『病める舞姫』(18年)は、土方巽の同名散文集を基にした自演ソロ作品。今回は鈴木ユキオが全く同じ振付で踊る。『春の祭典』は『落ち合っている』(14年)の劇中ダンスとして創作された。共に再演ながら初見。『病める舞姫』は鈴木が踊ったのでよく分からなかったが、『春の祭典』は以前見ていた黒田作品の印象と全く変わらなかった。

春の祭典』は振付家にとって作品の大きさ、高難度の音楽に、ややもすると押しつぶされそうになるチャレンジングな作品だが、本作は作品上演史を忘れさせるくらい、全くの黒田作品だった。パトスの強さ、自傷行為に近い暴力的な動き、振付家の生の肉体感覚が、全編を通して炸裂する。主演の加賀谷香はバレエのライン、パの明確な美しい体に、狂気を漂わせた。母子の踊りとあるので、母役なのだろう。子供たちは「BATIK」のメンバー。ベテランの大江麻美子が、若手6人の女性ダンサーを駆り立てるように激しく踊る。大江は番頭役か軍曹役。さほどエキセントリックに見えない若手たちも、憑りかれたような陶酔感を踊りに滲ませる。加賀谷も加わった左右グランバットマンのユニゾンは迫力があった。女の血の結びつきだろうか。

『病める舞姫』は土方の言葉を随所に視覚化させた誠実な作品。音楽は伊福部昭を使用。四角い舞台の周りを、鈴木が枝を押し頂いて歩行する。鈴木によるバレエ歩きゆえに儀式性が際立った。ロン・ド・ジャンブ、アチチュードターンなどバレエ寄りの振付も、黒田が踊った時より異化効果があるだろう。胞衣(?)を股から引っ張り出す行為には、生々しさがなく、舞踏の両性具有を思わせる。鈴木は淡々とニュートラル。観客に感情移入を許さず、遮断する感じ。ミラーニューロン作動を禁じている。恐らく黒田とは真逆のソロだったのではないか。不思議な体だった。

 

馬場ひかり現代舞踊協会「時空をこえる旅 - 舞台 - へようこそ」Bプロ(3月21日 東京芸術劇場プレイハウス)

作品名は『COSMIC RHAPSODY - 宇宙狂詩曲 - 』。師匠 芙二三枝子のゆったり体を継承しつつ、コンセプトへのアプローチ、衣裳(岩戸洋一・本柳里美)、選曲に独自性を見せる。宇宙を題材とするが、その壮大さよりも、馬場の濃密な思考を辿るところに面白さがあった。14人のダンサーたちを振付の駒とはせず、喜びと共に自らのヴィジョンに引き寄せている。フォーメーションも緻密。美術、音楽、振付の揃った円熟の作品である。

「月の暈」と題された馬場のソロはゴージャスだった。青白ライトのなか、突起物のあるピンクのオールタイツを身に着けた馬場は、よく利く体に、ゆったり動きと、なぜか舞踏のニュアンスを加えている。震えながら突っ張る。回転してはよろける。またニジンスキーの牧神動きも。今現在の馬場の体と思考が横溢した、瑞々しく強度の高い踊りだった。照明(加藤学)も素晴らしい。

スターダンサーズ・バレエ団「Dance Speaks 2022」

標記公演を見た(3月26日 東京芸術劇場 プレイハウス)。演目は、バランシン振付『セレナーデ』(35年/83年)、カイェターノ・ソト振付『マラサングレ』(2013年/22年)、クルト・ヨース台本・振付『緑のテーブル』(32年/77年)。1930年代のモダンバレエ作品の間に、今世紀のコンテンポラリーダンス作品が挟まれる 興味深いトリプル・ビルである。

幕開けの『セレナーデ』はバレエ団の重要なレパートリー、5年振りの上演である。初日は渡辺恭子、塩谷綾菜、喜入依里、西澤優希、林田翔平、二日目は塩谷、渡辺、杉山桃子、久野直哉、林田の配役。その初日を見た。指導は前回と同じくベン・ヒューズだが、出演者26人中、作品経験者は9名ということもあり、これまでとは全く異なる感触だった。メリッサ・ヘイドン由来(と思われる)の生々しい情感は後退し、親密で暖かい雰囲気が漂っている。劇的というよりも詩的。最終場面もパセティックではなく、薄明りに消えていくようなはかなさが漂った。渡辺の華やかさ、塩谷の規範に則った踊りと詩情、喜入の太っ腹な貫禄が三つ巴となる。林田と西澤はノーブルな味わい。ベテラン率いるアンサンブルの呼吸の一致は変わりなく、バレエ団の優れた音楽性を証明した。

二つ目はソト作品『マラサングレ』。ソトは75年バルセロナに生まれ、当地とハーグの舞踊学校で学ぶ。ミュンヘン・バレエ入団後、初の振付作品がレパートリーに。その後フリーの振付家として、欧米各地で作品を提供している。日本でも昨秋、新国立劇場バレエ研修所のコンサートで『Conrazoncorazon』の抜粋が上演された。指導は今回も担当した新井美紀子。ショーアップされたダンス、黒ハイソックスが共通する。

題名の『マラサングレ』は「悪い血」を意味する。キューバ出身の歌手ラ・ルーペことグアダルーペ・ビクトリア・ヨリ・レイモンドへのオマージュ作品。彼女のだみ声に近いエキセントリックな歌に合わせ、床一面に撒かれた黒い紙屑(に見える)を踏みちらしながら、10人の男女が激しく踊る。男性は上半身裸、白スカートに黒ソックス、女性は白シースルーTシャツに黒ブラジャー、黒ハイソックス。ソロ、デュオ、トリオ、総踊りが、切れの良い出入りで次々に展開された。

初日は小澤倖造、加地暢文、関口啓、飛永嘉尉、冨岡玲美、フルフォード佳林に、1週間前 神戸で本作を上演した貞松・浜田バレエ団の切通理夢、名村空、水城卓哉、宮本萌が加わった。ユーモアを交えながらも、マチズモ全開の喧嘩のような踊り。特に水城のたくましさ、フルフォードの鉄火肌が目につく。女性がドスを利かせて「ハイハイ」と言うと、男性一列が「クンクン」とカミテに引っ込む場面も(逆マチズモ)。ラテン風の細かいステップよりも、プリエを深く使い、上体を大きくくねらせる土俗的な味わいが印象深い。ペーソスなくカラッとした怒りを含む、腹から踊るダンスだった。顔を確認しようとオペラグラスを覗いていたら終わってしまった。15分は短い。

最後は『セレナーデ』と並ぶ重要なレパートリー『緑のテーブル』。2020年バランシン振付『ウェスタン・シンフォニー』と共に、14回目の上演が行われる予定だったが、コロナ禍のため中止に。今回ロビーで販売された2年前のプログラムには、『緑のテーブル』作品紹介、クルト・ヨースの小伝、ヨースの娘で振付指導者のアンナ・マーカードと小山久美総監督による対談(05年)、32年の「国際振付コンクール」で本作初演を見た江口隆哉のエッセイ、当団における本作上演の歴史が掲載され、貴重な資料となっている。特にマーカード=小山対談では、本作のエッセンス、スタイル、音楽、さらにヨースが影響を与えたチューダー、クルベリ、ピーター・ライト、ピナ・バウシュについての言及があり、当団レパートリーにおけるヨース、チューダー、ライトの必然的流れが浮き彫りとなった。

作品は「死の舞踏」をモチーフに、戦争の始まりから、戦争が引き起こす様々な悲劇、戦争の終結までを、モダンダンスとバレエを融合させた力強い振付で描く。現在の世界状況と合致する普遍的な力を、依然として持ち続けている。指導は前回同様、マーカードの跡を継いだジャネット・ヴォンデルサール。ヨースの息吹を感じさせる生き生きとした舞台を作り上げた。ピアノも同じく小池ちとせ、山内佑太。ハバネラ、ワルツ、葬送行進曲等、劇的かつ引き締まったピアニズムで舞台を大きく支えている。

ヨース自身が踊った「死」は池田武志。前回よりも実質的な存在感が増している。ソロは呼吸が深く、内側からの力が漲っていた。世界を統べる存在であることがよく伝わってくる。前任者の新村純一は、求心力のある体で悲劇的なドラマを作り出したが、池田は体の大きさを生かすボワッとした存在感で、死すべきことが常態であると示した。死が常に人に寄り添い、救いともなるような明るさがある。

騎手の林田、若い兵士の佐野朋太郎、若い娘の早乙女愛毬、(パルチザンの)女のフルフォード、老兵士の大野大輔、老母の喜入、戦争利得者の仲田直樹、兵士たちの加地、関口、渡辺大地はそれぞれ適役。特に大野のどっしりとした存在感、仲田の軽妙な動きが印象深い。老母の喜入は覇気があり、「死」と互角に見えた。黒服紳士アンサンブルの切れの良さ、避難民、娼婦の女性アンサンブルも気迫がこもり、動きが明快。ヨース振付の意図するところを的確に示している。

プログラムもよく、高レベルのパフォーマンスを堪能したトリプル・ビル。今後は鈴木稔(新作コンテ期待)を始めとする所属振付家作品との組み合わせも見てみたい。

東京シティ・バレエ団「トリプル・ビル 2022」

標記公演を見た(3月10日 東京文化会館 大ホール)。本来は1月、新国立劇場中劇場での公演だったが、関係者のコロナ陽性が確認されたため、場所を変えて3月の開催となった。プログラムは、山本康介振付『火の鳥』、ウヴェ・ショルツ振付『Octet』、パトリック・ド・バナ振付『WIND GAMES』。当初組まれたバランシン振付『Allegro Brillante』は、コロナ禍で指導者の来日が困難となり、ショルツ作品に変更。さらに、ド・バナ作品は2020年7月の上演予定が、緊急事態宣言の影響で延期されたものである。波乱含みの公演ながら、東京文化会館のピットでは、井田勝大指揮、東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団が、濃厚なストラヴィンスキー、瑞々しいメンデルスゾーン三浦文彰独奏による鮮烈なチャイコフスキー・ヴァイオリン協奏曲を奏で、音楽的充実を印象付けた。

幕開けの山本版『火の鳥』は、夜の森、月明かり、コンビナート爆発、監視塔といった不穏な映像(笹口悦民)から始まる。幕が上がると、中央にはきのこ雲のような林檎の木。民話の素朴な味わいよりも、ホラー系の雰囲気が漂う。衣裳(桜井久美)は、火の鳥の赤チュチュを除くとモダン路線。ただし最後は全員白い着物を羽織って終わる。王子が火の鳥に貰った日本刀でカッチェイを切り殺すという、和風の設定ゆえだろうか。暗雲の垂れ込めるような映像に対し、衣裳はキッチュなまでに華やか。視覚的統一よりも相互作用を求めたのだろう。

振付は、フォーキン原振付やマイムに、姫と王子のパ・ド・ドゥ、侍女や手下の躍動的なアンサンブルを加えたクラシック・スタイル。和風の動きは採用せず。物語バレエとシンフォニックバレエを合わせたような味わいだが、山本の小品に見られる抒情的で繊細な音楽性は後退している。物語の骨格を考えたせいだろうか。山本の長所は音楽を細かく腑分けし、そこからドラマを立ち上げる点にある。再演に向けてさらなる音楽的アプローチを期待したい。

火の鳥の中森理恵は硬質な踊り。野性味や奔放さはなく、美しいラインを誇る火の鳥だった。対するイワンの濱本泰然はノーブルな造形。カッチェイを刀で切るという単刀直入さとは相容れなかったが。カッチェイの内村和真、王女の清田カレンは適役、元気のよい手下と侍女をそれぞれ率いた。

2つ目は再演を重ねるショルツ作品『Octet』。東京シティ・フィルの瑞々しい弦楽八重奏に乗って、快調に滑り出した。繰り返しシークエンスの懐かしさ、いきなりアラベスク、いきなり膝抱え、いきなりルルヴェの楽しさ。動きの流れが気持ちよいのは、全て音楽から生み出されているから。木村規予香指導の下、新キャストも加わり、バレエ団は生き生きとしたパフォーマンスを繰り広げた。3楽章の福田建太は幼さが抜け、男性の色気が備わってきた。独自の音取りと動きに面白さがある。

最後のド・バナ作品『WIND GAMES』は、ド・バナがチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を聴き「平原を駆け抜け鷹を放って狩猟する遊牧民の姿が浮かんだ」ことから創作された。明確な物語はなく、植田穂乃香とキム・セジョンのデュオを中心に、吉留諒のソロ、4人の女性、2人の女性、4人の男性が様々な関係性を紡ぎ出す。植田は赤のロマンティック・チュチュ、女性4人は白のロマンティック・チュチュに細い2本の三つ編みが顔を跳ねる。男性陣は上半身裸で、黒ズボンという衣裳。振付はコンテンポラリーの語彙を基盤に、正座やフラダンス風動きなど、民族舞踊のニュアンスが加わる。動きが内面から生まれる点、ダンサーを巻き込むパトスの強さを含め、やはりベジャールを思い出させる。

ソリスト吉留の情熱的で鮮やかなコンテの動きに驚かされた(これまでクラシックしか見てこなかった)。ベジャールダンサー首藤康之の系統だったのか。キムは均整の取れた美しい肉体を駆使し、重厚な存在感を、植田は堂々とした立ち姿に風格を漂わせた。ダンサーたちはド・バナの熱い肉体を通したチャイコフスキーに、持てるエネルギーの全てを投入、全身全霊でド・バナの愛情に応えている。

国内外の振付家作品を踊る意欲的なトリプル・ビル。音楽的にも変化に富んだ組み合わせだったが、一方で、所属振付家作品を踊る機会が減っている。そのうちの一人、中島伸欣の作品評を以下に再掲する。昨年東京シティ・バレエ団「シティ・バレエ・サロン vol.10」で上演されたスタジオカンパニーによる『Movement In Bach』である。

中島曰く「創作する時は絵コンテを描くが、今回は音楽のみで創った」。20年はコロナ禍の人々を描く問題作、19年は今回と同じく音楽のみの作品だった。以下はその時の評

中島作品『セレナーデ』は、ドヴォルザークの「弦楽セレナーデホ長調」を使用。ネオクラシカルなスタイルで、中島らしい諧謔味があちこちに付される。特にフレックスの足技が可愛らしい。背中を丸める、膝を曲げるなど、体のアクセントも面白く、明るく晴れやかな音楽性が横溢する。バランシンの引用もあるが、オマージュと同時に、捻りを加えて楽しんでいる様子あり。愛のアダージョは例によって対話のごとく雄弁だった。音楽から汲み取ったものが余さず形になった、瑞々しく機嫌のよいシンフォニックバレエ。レパートリー保存を期待する。(19/12/20)

今回はバッハの「ヴァイオリン協奏曲第1番」「2台のヴァイオリンのための協奏曲」を使用。冒頭、黒いスポーツウェアに煉瓦色タイツ、黒サングラスの女性たちが無音で動き始める。音楽が入ると、楽器と呼応して三々五々、ステップはなく、両腕のみでクネクネと動く。なぜバッハでこの動き、と思うが、確信に満ちた振付。続いて奥から男女が出現。男は白シャツに白ズボン、女はピンクワンピースにピンクタイツ。極めて音楽的なパ・ド・ドゥである。見る側も、音楽、動きと共に体がほぐれ、暖かくプリミティヴな喜びが胸一杯に広がった。男の両耳を後ろからつまむ女、男の胸をツンと突く可愛らしさ。肉体から逸脱しない愛の形、美しく声高でない、中島にしか作れない愛のパ・ド・ドゥだった。続く「2台の」では水色と藤色のワンピースを着た4人の女性が、ポアントで左右に揺れる動きを見せる。音楽に合わせるのではなく、戯れる感じ。リズムよりも曲想が動きとなっている。中島の素晴らしい音楽性を改めて確認した。

スタジオカンパニーの育成公演ながら、中島の創作エネルギーがダンサー、観客に伝播、クリエイティブな喜びがホールを満たす。人間としての誠実さ、生活の根っこ、嘘の無さが、小声で可愛らしく伝わる新作だった。(11月6日 豊洲シビックセンタホール)

ぜひバレエ団員にも踊って欲しい。

長谷川六先生を偲ぶ2022

昨年3月30日に亡くなられた長谷川六先生を偲び、これまで書いたダンス評をまとめて掲載する。表題(緑太字)前の日付はブログ掲載日。

 

2012-01-15

長谷川六の踊り

実演者として、批評家として、プロデューサー(教育者)として、特異な歴史を刻んでいる長谷川六氏。氏の舞踊公演について昨年と一昨年のものをアップする。

「自由であれ」                            

 長谷川六の『櫻下隅田川』を見た。客電が落ちても、客席は落ち着かない。後方で紙をめくる大きな音、携帯音が鳴り、通路では遅れてきた親子連れの声、「あ、六さんだ!」。そうしたざわめきを物ともせず、長谷川は悠然と舞う。清濁あわせ呑む風でもなく、無関心でもなく、ただ一期一会を貫いている。

 舞台は空間的にも時間的にも厳密に構成されていた。助演の中西晶大にはおそらく細かな指示が出されているだろう。二人の動きの質的変化は徹底してコントロールされている。しかしその場で実際感じられるのは、セッション感覚、何も前提としない究極の自由である。来る局面ごとに長谷川の体が反応し、動いているように見える。しかもその反応は深部に生じて、肉体は力みなく静かに漂っている。これまで見せてきた地母神のようなパワー、気の漲り、エロスの横溢は消え、消えたこと自体も想起させない新たな境地だった。

 助演の中西はモノとして存在する能力を持つ。亡霊のように、あるいは精霊のように狂母の傍らに佇む。仄暗い照明を浴びて蹲る姿は、石仏かイコンのような聖性を帯びていた。長谷川の空間で生きることのできる、自立した踊り手である。

 能を基に身体を使った作品だが、受ける感触は音楽に近い。刻々と変わる微細な動きが、快楽を伴って感覚を刺激する。ただし動きの解釈は拒絶され、思考は麻痺したままだ。ベケットのような空間、または能のエッセンスを抽出したような舞台。メッセージは常に「自由であれ」である。(2011年7月7日 シアターX)

     * * *

「鎮魂の舞」

 長谷川六が『薄暮』の2010年版を上演した。87年の初演。能の形式を採り、前後二場を長谷川のソロ、間狂言はその都度変わる。今回は韓国現代ダンスの南貞鎬(ナム ジュンホ)が務めた。この作品は「天声人語」(朝日新聞)に書かれた沖縄の一人の老女から、インスピレーションを得ている。神山かめは夫をニューギニア、長男をスマトラ、次男を沖縄で失う。以来、膏薬を体に貼りながら反戦行進を続けてきた。長谷川はこの老女の慟哭を身体化し、能の形式を用いて老女に救いを与えている。

 作品は例によって長谷川の美意識の具現だった。カミ手にギターを持つマカオが登場する。生演奏と歌に同時録音のエコーをかぶせ、ブルースの感触とミニマルな現代性を行き来する。その傍らで長谷川は土色の長衣を身につけ、狂女のように髪を逆立てて佇む。音楽とは交感のようなセッション。音楽によって長谷川の体が劇的に変わることはないが、集中が増し、体の統一が促される。老女神山となった長谷川は、夫への想い、子への愛情を少ない動きで表現、ほの暗い照明の中で己の肉体との対話を続けた。

 長谷川の横の動きは美的。日本刀のような厳しさを帯びた右腕と、微細な手の動きが尋常ならざる美しさである。一方、前後の動きは危機を孕む。世界が瓦解するのではと思わせる危うい歩行。舞踏を経由した果ての現在のすり足なのだろう。かつては今よりもポジティヴな気のみなぎる神山かめだったかもしれない。現在は静か。しかしこれを衰えと思わせないのは、長谷川の肉体の探求が継続しているからである。

 間狂言を挿んでの後半は一面海の底だった。鬱金色の鉢巻きに水色の長衣、クリーム色の打ち掛けを着た長谷川は、鳥のように両手を広げてたゆたう。海の底で神山かめは長谷川によって救いを与えられる。膏薬を貼って歩き続けた神山への、まさに鎮魂の舞だった。

 間狂言の南は黒い袖無しTシャツ、クリーム色の柄物スカート、黒いベタ靴という日常的な装いに、赤い紅を両頬に丸く塗って滑稽味を添えた。相方はベースの斉藤徹。南が「斉藤さーん」と呼んで掛け合いが始まる。圧倒的な美意識を誇る長谷川の空間とは異なり、南の空間は日常性から発するコミュニケーションの場である。互いの即興に耳を傾け、動きを見守る。南の韓国舞踊に由来するエレガンスと暖かさ、内側からスパイラルに広がる肉体がすばらしい。斉藤の音もいつしか韓国太鼓のように響いた。どんなリズムでも三拍子を拾う南の軽やかな足踏み。踊りの愉楽と、無垢でユーモラスな対話が横溢した空間だった。

 南の間狂言を入れたことで改めて、長谷川の演劇と美術への傾斜が明らかになった。実演者として批評家として、日本ダンスシーンに多くの栄養を注ぎ込んできた歴史を思った。(2010年7月7日 シアターX)

 

2012-07-11

長谷川六最新ソロを見る

批評家、ダンサー、プロデューサー、教師として、日本ダンス界で独自の地位を築く長谷川六のソロを見た(7月10日 キッド・アイラック・ホール)

長谷川は、日本画家間島秀徳による巨大な円筒二基の間で、湯浅譲二の40年前の曲をバックに踊った、と言うか、居た。円筒が陰になってほとんど見えない位置(私)。時々長谷川の研ぎ澄まされた美しい手がぬっと出てくる。ガラス玉をばらばらと落とす音が、食べ物をこぼすようにユーモラスに聞こえる。円筒にしゃぶりついたり(ほんとはいけないこと、絵の具が落ちる)、左右の椅子を行ったり来たりして見た。左の女性はすごく迷惑そうにしていた。集中できないからか。でも見えないことに怒っている風も。

湯浅の音楽はノイズ風で、アフタートークの時、音量が足りないとの湯浅の苦言あり。長谷川が使用する音とは違って、生の荒々しさがある。そのため、いつもの美的に洗練された空間とは異なる破れ目、裂け目が生じた。踊り自体も音に立ち向かっているような、対話しているような切迫感があった。キュレーションの面白さだろう。

こういう事故的パフォーマンスだったが、と書いて思い出したのが、終盤の長谷川。若い男の子二人にガラス玉を拾うよう命令、また正座で見ていた女の子に立つように促した。しかしその子は足が痺れて立てない。生まれたばかりの子鹿のように、長谷川の手につかまり、ようやく立ち上がった、その初々しさ。長谷川の慈母のような肉体を招き寄せた。

帰り道はいつものように体がほぐれ、細胞が解放された。長谷川の気が空間に充満し、客の体を通り過ぎたからだ。このように、踊りを見て、自分が肯定(解放)されることはほとんどない。神事のような踊り、本来の踊りである。だからダンサーの才能を評価しようとするスケベ根性は出てこない。

 

2013-04-27

長谷川六パフォーマンス『透明を射る矢2ヒロシマ

長谷川六のパフォーマンス『透明を射る矢2ヒロシマ』を見た(4月26日 森下スタジオ)。

長谷川の主宰するPAS東京ダンス機構による新作公演シリーズ「ピタゴラス2」の一環。今回は上野憲治との共演。両手奥それぞれに書見台を置き、原民喜『夏の花』の一節を交互に読み、交互にソロを踊る。

長谷川は黒いプリーツのソフトジャケットに黒のロングスカートで登場。「大の字」に立つと、黒子役の女性(後に衣装デザイナーと分かる)が、置いてあった赤い衣装と冠を長谷川に着せる。衣装は細かく切れ目が入り、体全体を覆う筒状のもの。同じ赤い布で作られた冠は、四角い底辺に山型の屋根を持ち、紐で固定する。シルエットは能衣装、赤いビラビラは原爆の業火を身に纏っているように見える。

上野が原民喜の言葉を読んでいる間、長谷川は研ぎ澄まされたフォルムで、空間を作る。「立つ」、それだけでスタジオを異化する。身体のあり方は能に近く、背後に無数のフォルムを感じさせる。両足で立つと左脚の曲りが深い。長谷川の表徴。手足は苦行僧のように極限の様相を帯びて、節があるのに優雅で美しい。このような能、または神事に関わる身体に加え、今回初めて太極拳の型と、気の放出を見せた。

赤い衣装を脱いだ後、『夏の花』の朗読へ。上野は美丈夫だが、まだ拮抗できる体ではない。長谷川は朗読を終えると、メガネを付けたまま奥の立ち位置へ行く。どうするのかと見ていると、何事もなかったようにメガネを置きに書見台へ戻った。以前シアターXの公演で、時計を付けたまま舞台に出たことがあるが、そんなことはどうでもよいのだ。

徹底したモダニズム美意識と、能、神事、武術の体の融合、そこに何でもありの精神が加わった踊り手。そして自分にとっては舞踊批評の唯一の師匠である。

 

2013-09-13

長谷川六『曼荼羅

標記公演を見た(9月12日 ストライプスペースM&B)。

今井紀彰の曼荼羅のようなコラージュ作品と、柳田郁子の赤と生成りの布造形作品が置かれた空間でのダンス公演。前半は坂本知子の構成で、坂本と加藤健廣、上野憲治が、走り回り、ぶつかり合い、ころげ回り、踊る。坂本の緻密な肉体の輝き、一秒たりとも躊躇を見せない集中した動きが素晴らしい。加藤は肉体の虚ろな部分が他者との接点になっている。上野は感じはよいが、まだ見られる体とは言えない。

後半は長谷川のソロ。黒いジャージ地のロングドレスで、ギャラリー前方部分中央に位置をとる。たちまち長谷川の気が空間に満ちて、見る側の身体が自由になる。両足を踏ん張り、やや前傾、掌を上に両腕を前方下に差し伸ばし、少しづつ動く長谷川。ロマン派をくすませたような不思議なピアノ曲の高まりと共に、右回りに空間に入り込んだ。曲はグルジェフアルメニア生まれの思想家、精神指導者で、グルジェフ・ムーヴメントと呼ばれる舞踏を残す)の弾く瞑想のための音楽とのこと。メロディに身を委ねるロマン派的な熱さは、これまで感じたことがなかった。終盤、柳田郁子自らが長谷川の体に、生成りのビラビラした布を付けていく。微動し続ける長谷川、布の形を直し続ける柳田。最後にビラビラで完全に顔を隠した。ケイタケイが服をめでたく重ね着するのとは違って、得体のしれない豪華な異人(貴人)が突っ立っている。柳田の愛、柳田に肉体を差し出す長谷川の愛の一致だった。

 

2013-10-11

長谷川六@ヒグマ春夫

長谷川六がヒグマ春夫の空間に存在するのを見た(10月9日 キッド・アイラック・アートホール5階ギャラリー)。「連鎖する日常あるいは非日常の21日間・展」の一環である。

開演30分前にすでに長谷川は、白い布でぐるぐる巻きにされて椅子に座っていた。道路に向かって開放された大きな窓に、ほぼ正方形の部屋。中央に立方体の木枠が組まれ、半透明の白レースが上と窓方向に張られている。さらに窓にも揺れる白レースのカーテンが。木枠のレースと窓のカーテンにヒグマの映像がノイズ音と共に映し出される。焦点の合っていないシミだらけの車窓風景が飛ぶように過ぎて、時折深海魚の燻製が風景にかぶさる。カーテンに映される二重の映像は、風に揺らめいて外界へと消えていく。骨だけの傘が浮かぶ天井には、波飛沫の映像。隅にはミイラのような長谷川の体。三々五々人が集まるなか、30分間、長谷川と共にその空間に身を浸した。

開演時間になると、長谷川がぬーっと立ち上がり、布を内側から広げて体を現した。左腕には腕時計。木綿の紐を持って水平に伸ばし、肩幅に繰り、弓のように引き絞る。木枠と窓の間で動くので、途中からレース布で遮られ見えなくなった。昨年のパフォーマンスでもインスタレーションで、ほとんど体が見えなかった。キッド・アイラックでは見えないことになっているのか。

布を取った長谷川は、ツナギの上だけみたいな赤い作業着を身に着けている。これが着たかったとのこと。高橋悠治とヒグマ春夫のサインが背中に入っている。いつものような気の漲りがなかったのは、30分間布に入っていたせいだろうか。終演後の挨拶で「呼吸ができないし、暑いし」と言っていた。布の中ではどういう体だったのだろうか。瞑想状態? 人の声だけが聞こえる。音で人を判別していたのだろうか。長谷川ミイラの並びに座ってヒグマのぼんやりした映像を見るという、夢に近い体験だった。

 

2014-07-19

長谷川六パフォーマンス『素数に向かうM』『透明を射る矢M』

六本木ストライプハウスでの「TOKYO SCENE 2014」の一環。米人報道写真家トーリン・ボイドの日本風景をバックに飾ったパフォーマンス企画である(企画・制作:PAS東京ダンス機構、後援:ストライプハウス、助成:PAS基金)。『素数に向かうM』(7月16日昼)は、深谷正子の構成・振付で長谷川がソロを踊る。『透明を射る矢M』(7月18日)はヒロシマをテーマにした連作で、上野憲治とのダブル・ソロ。両作ともストライプハウスの中地下ギャラリーで行われた。芋洗坂に面した幅広い窓から、昼間は陽光が、夜は街灯が降り注ぐ。道行く人の顔も。(もう一作『そこからなにか』というソロ作品もあったが、見ることができなかった。)

素数』は深谷の構成が入ったかっちりした作品。外光が入るので弛緩するかと思ったが、もちろん長谷川の身体は外部条件とは無関係にそこに存在する。4つの背の高いティーテーブルの上に、折り畳み式鏡が横向きに置かれている。長谷川も鏡を持って登場。両手で鏡をまさぐりながら佇む。左手首にはいつものように時計。両脇に袋状のポケットが着いた黒い麻のワンピース。脹脛と足が見える。その足に惹きつけられた。右足には土踏まずあり。左足は外反母趾で土踏まずが中にめり込んでいる。その不具合は個性を突き抜けて、絶対的フォルムにまで昇華している。左右の足が生み出す密やかなステップ―太極拳の弓歩のような柔らかさ―を凝視してしまった。

途中、両脚を肩幅に立ち、両手で胸を押さえ、次に頭を押さえ、顔の前で両肘下腕をくっつけ、そうして両肘を脇に引きつけてから、思い切り息(気)を飛ばすシークエンスが繰り返された。「ハッ」。その度に長谷川の気がギャラリーに充満し、愉快な気分に。深谷の振付とのことだが、長谷川の武術に馴染んだ体が生かされていた。最後はエラ・フィッツジェラルドの弾力のある歌に合わせて、体を揺らす。観客席のみやたいちたろう君(1歳)に手を振りながら、機嫌よく終わった。剣道(?)、モダンダンス、能、舞踏、オイリュトミー、太極拳、バレエ他が混淆された肉体。その運用を見るだけで喜びを感じる。

『透明』の方は、今回『夏の花』(原民喜)を読む場面がなかった。バッハ、忌野清志郎、ビリー・ホリディを長谷川がCDで流す。上野とは絡まず、それぞれがヒロシマを思いながら動きを見出していく(泳ぐ動きは共通していた)。上野は分節化された肉体ではないが、生の、豪華な存在感がある。少し長谷川を見過ぎていたのが残念。長谷川があまり既製のダンサーと組まないのは、生の味が欲しいからだろうか。

長谷川の演出は、作品と言うよりも「場」を作ったという印象。そのため、地下で行われる次の公演の観客が、窓を覗きながら建物に入ってくるのが、よく見えた。全体に小ぎれいな女性が多い。うなじの美しい女性が窓の向こうで人待ちしているのと、直下で行われているパフォーマンスを同時に見ることになる。舞踊評論家山野博大氏も通行人の中に。外に開かれたギャラリー公演ならではの面白さだった。

 

2015-07-12

長谷川六『闇米伝承』2015(追記あり

標記公演を見た(7月10日 ストライプハウスM)。東京ダンス機構主催「TOKYO SCENE 2015」の一環である。作・演出・装置・出演は長谷川六。衣装(装置としての衣服)製作は奥野政江。照明はカフンタ。と書いて、照明に気付かなかったことに気付いた。照明効果は無意識に刷り込まれている。あるべき照明の姿。

昨年は、道路に面した半円を描く大ガラス窓を背景にし、行き交う人々が見える舞台設定だったが、今回はギャラリー中央にある階段がバック。壁には高島史於による70年代の写真が並ぶ。花柳寿々紫、藤井友子、三浦一壮、矢野英征、畑中稔の霊に囲まれて踊る形。

カミテ通路から長谷川が登場。留袖をリフォームした長い衣装、右手には杖、ではなく竹刀、左手には紫の花束。盲目のオイディプスか、能役者の佇まい。竹刀がよく似合っている。ついさっきまで受付でにこやかに微笑んでいたのが、一瞬で本来の体に統一される。つまりどこでも集中できるということ。足袋のような白い靴下をはき、地面を選びながら静かに動く。床の中央には三枚の畳んだ着物。その前で、長谷川は体と対話しつつ、フォルムを変えていく。竹刀を斜めにしたり、両の手で捧げ持ったり。その腕の美しさ(左前腕裏には丸い痣がある)。様々な身体技法を経てきた果てに獲得された美しさである。一瞬一瞬フォルムを切り取り、体の位相を変える手法は、能に由来するのだろうか。気の漲りは穏やかだが、見る者の中に確実に堆積して、ふと気が付くと涙が流れていた。

『闇米伝承』という題の下に、「母親の箪笥から着物が一枚、また一枚消え、四人の子供のいのちを繋いだ」とある(ちらし)。母の着物を思い、父の竹刀を使った舞。そこにバッハの無伴奏チェロ組曲を流すところが、モダニスト長谷川。一方、張りつめた神事のような瞬間ののち、それを破壊するかのごとく、母の着物を両腕に巻きつけてぶん回すのが、ポストモダニスト長谷川。最後は『ケ・サラ』を「70年代を思って歌い」、終わりとなった。

「昨日膝を痛めて歩きづらいので、父と祖父の使った竹刀(剣道の師範だった)を杖に使いました」と挨拶。花束も「今朝頂いたもの」だった。完全な自由を垣間見られる時間。人間は自由なのだと思い出させるパフォーマー

*長谷川六氏より「着物を振り回すのは、乱拍子、唄を歌ったのは、シテは謡うので」とのご指摘を頂いた。全て能にある要素で創られていたということ。

 

以上がこれまで書いたダンサー長谷川六評。以下は、今年3月6日にシアターX で行われた山野博大・長谷川六追悼公演「舞踊と批評の60年」のプログラムに寄せた追悼文である。

 

六先生のこと

長谷川六先生とは、教師と生徒、編集者と書き手、ダンサーと批評家、という三重の関係だった。初めてお会いしたのが98年の森下スタジオ。先生の「舞踊学」の講座を受講し、現代ダンスの歴史や公演評の実践的な書き方を教わった。記憶に残っている言葉は「批評を書く者はプログラムに書いてはいけない」。ご自身も能藤玲子の評伝以外、プログラムに書かれていない。

最初に公演評を書くよう依頼して下さったのも先生だった。『ダンスワーク』での公演評や年間総括、「山崎広太論」、さらにインタビュー集『舞台の謎』の出版まで面倒を見て頂いた(当時はその有難さが分からなかった)。

ダンサーとしては、武道、能、舞踏、バレエ、オイリュトミーを経過した、誰とも似ていない体で、一気に異次元を現出させた。先程まで受付で観客の応対をされていたのに。ダンスにおいても日常においても人を魅了する、その繊細で知的な手の動きは、ダンサー長谷川の表徴である。それはまた、酔った山崎広太の吐しゃ物を掬う愛の手でもあった。

 

六先生、ありがとうございました。

 

 

日本バレエ協会『ラ・エスメラルダ』2022【追記あり】

標記公演を見た(3月5日, 6日夜 東京文化会館 大ホール)。都民芸術フェスティバル参加公演である。ペロー原振付(1844年)、プティパ改訂振付(1866~99年)、ユーリ・ブルラーカ復元振付・演出の『ラ・エスメラルダ』は、2009年ボリショイ・バレエで初演された。4幕構成・3時間半に及ぶ大作(アンナ・ゴルディーワ、訳・宇都宮亜紀、『ダンスマガジン』新書館、2010年4月号)だが、今回は3幕構成・3時間10分にまとめられている。その中身は、ロマンティックバレエと古典バレエのせめぎ合いに、ソ連時代の追加振付、さらに男性群舞(1、3幕)の新振付を加えた、言わば「見るバレエ史」である。ゴルディーワによると「作者たち(ブルラーカ、メドヴェジェフ他)はこの新しい作品を、1844年から1935年までのバレエ『エスメラルダ』の変遷に対する演出チームの見解と捉えてほしいと考えている」(同上)。

1幕「奇跡の広場」「エスメラルダの家」、3幕「エスメラルダの家」「グレーブ広場」はロマンティックバレエ寄り。物語に沿った踊りが繰り広げられ、マイムも多く残されている(全員での縛り首マイムの楽しさ)。壺割り、ロマの占いなど、ユーゴ―原作由来の風俗も味わい深い。闊達な男女乞食・民衆アンサンブルは『ドン・キホーテ』やブルノンヴィル作品を、エスメラルダがフェビュスのスカーフを貰って喜ぶ場面は『ラ・シルフィード』、カジモドに水を飲ませる場面やフロロとの対峙は『ラ・バヤデール』、3幕の虚脱状態、尼僧アンサンブル(聖歌隊)をパ・ド・ブレで回る姿は『ジゼル』を想起させる。3幕「悲しみの行進」途中、判事が縛り首マイムをして、エスメラルダに紫のベールをかける場面は印象的だった。

一方、2幕「アロイーザの館」におけるフルール・ド・リとフェビュスの結婚を控えた宴は、古典様式で始まる。『ラ・バヤデール』の「婚約式」(現行)のようなクラシック・チュチュでのグラン・パ。フェビュスとフルール、友人男女2組、花籠アンサンブル(『海賊』の「活ける花園」を想起)が、ソロ、デュオを交えて古典舞踊を踊る。エスメラルダの感情豊かな踊りに対し、フルールの古典様式が際立つ場面である。

続いて貴族たちの歴史舞踊、さらにワガノワが本作を改訂した際、宴の余興として取り入れた「ダイアナとアクテオン」(1935年)も加えられた。プティパの『カンダウル王』の「パ・ド・ダイアナ」(ダイアナ、エンディミオン、サチュロスのトロワ)を、ダイアナとアクテオンのパ・ド・ドゥに変更したもので(The Marius Petipa Society)、悲劇的結末を感じさせない牧歌的なパ・ド・ドゥである。古風なニンフ・アンサンブルも、清涼な神話の雰囲気を高めている。

2幕最後は二人の結婚を祝うため、ロマの踊り子たちが迎え入れられる。エスメラルダ、別室夫婦となったグランゴワール、エスメラルダの友人4人(パ・ド・シス)。エスメラルダは型通りの手相見でフルール・ド・リを祝福し、グランゴワールとのブリゼ・ユニゾンを含む華やかなアントレを踊る。直後、フルールの相手がフェビュスと分かり、絶望の淵に。グランゴワールに促され、支えられて、脱力のアダージョを踊り始める(現行「パ・ド・シス」はワガノワ改訂振付で、グランゴワール・ソロはアクテオン同様、チャブキアーニ振付とのこと)。踊りが終わり、エスメラルダがフェビュスに貰ったスカーフを身に着けると、フルールが見咎める。彼女の贈り物だったのだ。婚約は破棄、フェビュスはエスメラルダの後を追い、フルールは指輪を投げつける。

2幕では、古典の薫り高いグラン・パ、パダクションに近いパ・ド・シス、『ラ・バヤデール』『ラ・シルフィード』を想起させる芝居が並列され、19世紀バレエの様式の変遷を思わされた。作品の結末はペローの台本通り、フェビュスが刑場に走り込んできて、真犯人のフロロを告発。エスメラルダとフェビュスが結ばれるハッピーエンドである。フロロの最期は、養い子のカジモドにセーヌ川へ突き落される演出となっている。

主役のエスメラルダは、1幕の足技、回転技多用の踊り、2幕の抒情的な踊り、3幕のダイナミックなアダージョを踊る技術と、雄弁なマイム・芝居の技量が要求される。今回は新国立劇場バレエ団の米沢唯、元東京バレエ団の川島麻実子、元Kバレエカンパニーの白石あゆ美が配された。そのうち初日と二日目ソワレを見た。

米沢のエスメラルダは登場した瞬間から、旋風を巻き起こす。動きは俊敏、誰の手も届かない悪戯っぽい妖精の雰囲気。目にも止まらない足技の数々を、息をするように踊り、瞬く間に消えてしまう。鮮やかな踊りもさることながら、役作りの深さに驚かされた。グランゴワールへの同情とからかい、フェビュスへの恋心と恥じらい、カジモドへの情け深さが、手に取るように伝わってくる。ペロー版初演者のカルロッタ・グリジは、ユーゴ―原作を読み込んでいると評されたが(Ivor Guest, The Romantic Ballet in England, Pitman, 1972, p.105)、米沢も同様だろう。2幕の虚脱状態、3幕の白衣での狂乱は、米沢の本領と言える。

フェビュスは中家正博。美しいラインにノーブルな佇まい、ゆったりとしたサポートで、ワガノワの正統派ノーブルスタイルを体現した。2幕ソロも気品のあるマズルカ。終幕は米沢を大きく支えて、晴れやかなアダージョを演出した。

グランゴワールは木下嘉人、究極のはまり役だった。詩人の知性、乞食集団の仲間に入る自由さ、ロマンティックで清潔な踊りが揃う。『マノン』のレスコー役で証明した作品解釈、役理解の深さ、それを実行に移す芝居の巧さと技術を、惜しみなくグランゴワールに注いでいる。エスメラルダへの言い寄り方、宴での愛情深いサポート、エスメラルダのフェビュスへの愛を理解し祝福する心の広さなど、複雑な詩人像をこれほど的確に表現できるダンサーは他にいないだろう。

最終回のエスメラルダを踊った白石も、米沢同様、高度な技術の持ち主だった。これ見よがしのない踊りに、ジゼルのような佇まいで、身寄りのない美少女を造形する。初幕から終幕まで一貫してリリカルなアプローチだった。2幕脱力のアダージョも密やかである。3幕フロロへの拒絶は、悲しそうにフロロの十字架に触れるため、フロロの怒りが空回りに見えるほど。白石のロマンティック・バレエ解釈が底辺にあるのだろう。原作本来の悲劇的結末の方が似合うタイプかもしれない。

フェビュスは橋本直樹。ボリショイ系のりりしいダンス―ル・ノーブルである。2幕ソロも美しく勇壮。だが本領は人柄を反映した誠実なマナーにある。終幕のアダージョでは、白石を包み込む暖かい踊りを見ることができた。グランゴワールは清水健太。本来はフェビュス・タイプながら、軽めのコミカルな演技で芸域を広げている。パ・ド・ドゥでの厚みのある存在感は健在。ソロも重厚で、主役を歴任してきた蓄積を感じさせた。

フロロ初日の遅沢佑介ははまり役。暗い情念を立ち姿のみで表現、登場するとたちまち不穏な空気が漂う。カジモドの扱いも腹に入っていた。丹田に意識のある佇まいが、熊川哲也版『蝶々夫人』のボンゾウを思い出させる。最終回の小林貫太は、小林恭版『ノートル・ダム・ド・パリ』でも父の当たり役フロロを演じている。聖職者であることと欲望との葛藤をリアルに表現。本来はグランゴワール・タイプだろうか。所々人の好さが垣間見えるフロロだった。

カジモドは全日ベテランの奥田慎也。背中に瘤のある脚の不自由な男を、終始蹲るようにして演じた。鐘番のため耳が聞こえなくなったが、エスメラルダのタンバリンは聞こえるようだ。彼女への憧れ、フロロへの複雑な愛情を体全体で表す。終幕、エスメラルダを殺そうとしたフロロを、セーヌ河へと追い込み突き落す後ろ姿に、養い親を殺す悲痛な思いが滲み出た。

フルール・ド・リ初日の玉井るいは、伸びやかでややモダンな趣、最終回の渡久地真理子は、古典のスタイル、踊りの技術、感情のこもったマイムの三拍子が揃い、グラン・パを華やかにまとめ上げた。母親アロイーザは気品と風格のあるテーラー麻衣、貧民窟の頭目クロパンは、共に切れ味鋭い荒井英之、小山憲、ロマの女将メゲーラは包容力のある金田あゆ子、判事は味のある大ベテラン 岡田幸治が務めている。

コンサート・ピースでもある「ダイアナとアクテオン」は、初日が飯塚絵莉と牧村直紀、最終回は古尾谷莉奈と藤島光太。共に伸びやかで大きな踊りを見せた飯塚と古尾谷は、アクセントや体の角度がほぼ同じ。指導者の薫陶を感じさせた。一方男性二人は対照的。牧村は大らかな踊りに献身的なサポートで、温かみのあるアクテオン、藤島は所属団体のノーブルスタイルを遵守しつつ、アメリカ仕込みの華やかな技巧を駆使して、覇気あふれるアクテオンを造形した。

エスメラルダ、フルール、フェビュスのそれぞれ友人たち、道化たちを始め、広場の男女アンサンブル、花かごアンサンブル、ニンフアンサンブル、貴族や聖歌隊の立ち役に至るまで、血の通った舞台。特に広場のアンサンブルは躍動感にあふれる。コロナ禍等の諸般の事情で、ブルラーカ、振付補佐のフョードル・ムラショフはリモート指導とのこと。バレエ・ミストレス 佐藤真左美、角山明日香の渾身の指導が、質の高い生きた舞台を作り上げたと言える。

録音音源での上演ながら、プーニ(ドリゴを含む)の音楽の素晴らしさが伝わってきた。次回はオーケストラによる生演奏を期待したい。

追記】オペラ史研究家の岸純信氏によると、ユゴー自身が台本を書いたオペラ『ラ・エスメラルダ』(作曲:ルイーズ・ベルタン)の終幕は、フェビュスが現れてエスメラルダの無実を証言し、その後絶命するとのこと(『オン★ステージ新聞』2022.5.1号)。二人が結ばれるのはバレエ仕様ということか。

 

2月に見た公演 2022 【訂正あり】

2月に見た公演について、メモしておきたい。

 

関かおり PUNCTUMUN『こもこも けなもと』(2月6日 吉祥寺シアター

振付・演出は関かおり。出演は、内海正孝、大迫健司、北村思綺、後藤ゆう(振付助手も)、佐々木実紀、清水俊、髙宮梢、真壁遥。以下は公演当日に書いた感想メモ。

面白い。埋め草がなかった。構成を考えてというよりも、自然発生的に作り上がっている感じ。音は無音がほとんどだが、時折、鳥の声、人の声、機械音、風の音、波の音が入る。中盤『瀕死の白鳥』がチェロから次第に人声で歌われる。この時の振付は、両腕を横に伸ばしてぐるぐる回す。クラリネットオーボエも概ね自然音に近い。ダンサーが立って客席を見る時は、客電が付く。客も見られている。ダンサーは薄ら笑い。

以前見たときは、四つん這いが多かったが、今回は様々な体を見ることができた。膝曲げひょこひょこ歩き(爺さん歩き)、前屈して片足を前に振って踏む前進など。ダンサーは自分をモノ化することができる。同時に個性も発揮できる(← 不思議)。ずっと見ていられるのは、全てに関の思考が行き渡っているから。ユーモアもある。自然な環境での動きの追求は、自分にとってはエンタテイニング。原始的な物語はある。

関は誰とも似ていない。誰の影響も受けていない。独力。明るい実験工房。前衛風の退廃はなく、これ見よがしなく、気持ちよく見た。

内海は長身で原始的な大きさ。大迫は滋味、受容力あり。北村はドラマを含んだ顔、体も美しく、よく磨かれている。後藤は風が吹くような体、意識化されている。終盤のソロは目が離せなかった。佐々木はオカッパで三転倒立。清水は人の好さ。髙宮はショートで小野絢子似。すっきりしている。真壁はボソッとした個性。

 

水越朋✕力石咲『エコトーン ECHO-TONE』(2月12日 吉祥寺シアター

吉祥寺ダンス LAB. vol.4 。vol.1 は、北尾亘✕ASA-CHANG『シノシサム』、vol.2 は、岩淵貞太✕額田大志『サーチ』、vol.3 は、かえるP『PAP PA-LA PARK/ぱっぱらぱーく』と、異ジャンルと絡む実験色の強い企画である。今回はダンサーの水越朋、ニットで創作する美術家の力石咲の組み合わせだった。劇場入口からニット玉のインスタレーションが観客を出迎える。舞台では、シモテ前上方に赤いニット玉が吊られ、そこから一本のロープ状毛糸が丸い穴へと垂れ下がっている。カミテには、奥に向かって高くなる巨大な釘の列が整然と並ぶ。編み機のようだ。

上演時間は1時間20分。その前半部はニット玉がほぐれる時間だった(奥壁で生中継映像あり)。むくりむくりとロープ状の毛糸がほどける映像を見ていると、何とも言えぬ快感がある。実物の方は、ほどける度にぶるっと震える。まるで生き物を見るようだった。こうした空間の中、水越はつま先立ちでスロー歩行した後、毛糸玉と共にほどける体となった。くねりくねりと動く体とむくりむくりほどける毛糸玉の呼応、面白かった。

後半は毛糸を編む時間。力石が一人黙々と巨大編み機でジグザグ模様を編んでいく。その間、中空では二つのニット玉モビールが流動する。互いに追いつきそうで追いつけない絶妙な間合い。空間をゆっくりと撹拌し、観客の体を催眠術のようにほぐしていく。音楽は、音階、動物の鳴き声、鐘の音、鼓動など。ダンス LAB にふさわしい空間体験だった。水越のダンスは後半やや強度を落としたが、意図したものだろうか。

 

谷桃子バレエ団「Love Stories in Ballet」(2月23日 玉川区民会館・ホール)

バレエ団の主役級が6つの愛を踊り継ぐバレエコンサート。客席には親子連れが多く、童話の世界から濃厚な愛の情景までを、近距離で楽しんでいた。演出・振付は伊藤範子。これまでチャコット主催の普及公演でも、細やかな美意識に則ったバレエコンサートを演出している。今回も衣裳の選択に始まり、的確な選曲、適材適所の配役、音楽的で難度の高い振付を見ることができた。ダンサーへの要求もいつもながら厳しく、作品に応じた演技と舞踊スタイルが徹底されている。

プロローグはヴェネツィアの星空の下、仮面を付けた黒い衣裳の女性クラウンたちが、マンドリン曲をバックに、6人の女性主人公を次々と導いていく。クラウンたちは言わば狂言回しで、大きな白い木枠を動かしては場面転換させ、時にアンサンブルとして踊りに参加した(最初はクラウンと思わず、愛のキューピッドなのに黒い服?と思ったりも)。

1つ目の愛は『白雪姫』― 慈しみの愛。可憐な白井成奈が、7人の小人と可愛らしく交流する。2つ目の愛は『くるみ割り人形』― 憧れの愛。樅の森で、前原愛里佳の瑞々しいクララと、行儀のよい王子 土井翔也人が、初々しいパ・ド・ドゥを披露した。

3つ目の愛は『シンデレラ』― 切ない愛。舞踏会での出会いと別れを、木枠を駆使して演出。ラピスラズリのドレスを身に着けたシンデレラ 山口緋奈子は、演技派。王子 市橋万樹との出会いを情感豊かに演じた。市橋は踊りも凛々しく、礼儀正しく山口をサポートする。踊りもさることながら、二人の演技の細やかさに目を奪われた。

4つ目は『ロメオとジュリエット』― 燃えるような愛。グラン・リフトのあるドラマティックなバルコニー・パ・ド・ドゥを、齊藤耀と牧村直紀が踊る。齊藤の可愛らしさ、豊かな音楽性と、牧村の暖かい包容力が響き合い、生き生きとした喜び、瑞々しい愛に満ちたパ・ド・ドゥとなった。終盤、二人が同じ振付をカノンで踊るシークエンスは、まるで対話のよう。微笑ましかった。

5つ目の愛は『千夜一夜物語』― 魅惑的な愛。【以下訂正文】シェヘラザードとシャフリヤール王を、馳麻弥と三木雄馬が踊る。紫のハーレムパンツを身に着けた馳は、濃厚で強い存在感。持ち前の強靭な動きに繊細さが加わり、王を誘う姿に煌めくような艶やかさを漂わせた。対する三木は考え抜かれた演技と踊り。しなやかで分厚い肉体、ベールを含めたサポートも万全。馳を自由に踊らせた。艶めかしくエロティックなパ・ド・ドゥに、客席の子供たちがどう思ったかという心配も。

6つ目の愛は『ドン・キホーテ』― ハッピーエンドの愛。ソリスト、アンサンブルを加えたグラン・パを、技巧派の竹内菜那子と田村幸弘が踊る。竹内の決めが鋭くメリハリある 江戸っ子のような踊りが素晴らしい。正確な技術はもちろんのこと、全てに神経を行き届かせた目の覚めるようなキトリだった。テクニシャン田村も、少し気圧され気味ながら、高い技術と覇気で応戦した。高谷麗美、奥山あかりのヴァリエーションも見応えがある。

フィナーレはレハールの『メリーウイドウ』(舞踏会の妖精たち)で全員が登場、6組が同じアラベスクを見せるシーンは壮観だった。童話に始まり、若い愛から成熟した愛、さらに古典の頂点に至る、バレエへの愛に満ちた公演だった。