10月、11月に見た振付家・ダンサー2020

松崎えり @ 松本大樹監修ダンスブリッジ「ダンスは時代とともに」(10月24日 セッションハウス+配信)

標題は『その空のあおさに友は目を潤す』。同時上演は柿崎麻莉子作・出演、中村蓉演出『drug』。観客の作品理解を深めるため、公演配信前に、平田友子による「ダンス歴史講座」(10/12)、同じく平田の司会で、松崎、柿崎、松本が、自らのダンスメソッド遍歴を実演を交えながら語り合う「デモンストレーション」(10/13)が無料配信された。

公演当日、配信現場に居合わせる機会を得る。ダンサーの息遣い、体の状態は皮膚感覚で迫るが、カメラ中心の完全な映像作品のため、モニターと実演を交互に見ることになった(作品の全体像はアーカイヴ配信で確認)。

松崎作品は前作と同じ標題で、出演も松本、松崎、キム・セジョン、坂田尚也、と同じだが、ほとんど新作である。終演後トークでの松崎の弁、「今日来たら、振付が変わっていた、ダンサーたちも振付している」。松崎の大きく切り取られた空間構成、音楽と無音を駆使する緻密な時間構成、呼吸と脱力を含む自然派振付という大枠の中で、ダンサーたちが自由に泳いでいる印象である。ダンサーの内側から生み出される新鮮な動き、観客も深く呼吸できる自由な空間は、松崎の懐の深さに起因するのだろう。

松崎のみが女性だが、全員人間同士という感じ。松崎とキムのデュオも互角の対決である(同時上演の柿崎も、本来はこのタイプなのでは?)。キムは所属団体(東京シティ・バレエ団)でのノーブルスタイルをかなぐり捨てて、荒々しいパトスを爆発させた。途中、母語でのしみじみとした述懐も。バレエ技法からくる体の大きさ、空間掌握が、作品の熱い核となった。坂田はキムの通訳係を心を寄り添わせて演じる。踊りにも周囲と体で対話する楽しさが滲み出た。長年 松崎と踊ってきた松本は、変幻自在の動き。深い呼吸を伴うしなやかな動きには、ベテランの滋味も。体でその場を俯瞰し、座をまとめ上げる。終演後に見せた赤い眼には驚かされた。コロナ禍の下、監修者として、ダンサーとしての思いがあふれたのだろうか。

 

中島伸欣 @「シティ・バレエ・サロン vol.9~ TOKYO CITY BALLET LIVE 2020 』(11月17日 豊洲シビックセンターホール)

標題は『檻の中で』。冒頭 薄闇のなか、手前から白いガスが噴霧される。よく見ると防護服にマスクのダンサーたちが、あちこちに佇んでいる。親子3人、男女4人、恋人同士、黒い防護服にゴーグルの男2人と女性が、コロナ禍の、あるいは放射能禍の現在を踊る。演技ではなく動きのみで、それぞれの関係と苦悩を描き出す中島の円熟の振付。バッハの「無伴奏チェロ組曲第1番」に呼応して、両腕を振り子のように上下させる動きが通奏低音となった。

中島の愛のパ・ド・ドゥは、防護服でも変わりはなかった。向かい合う男の左腰に女が右足を置く官能性、女の床での錐もみ回転を足首をもってサポートする男、肩乗せリフトを通り越して前転する女。意想外の動きを駆使し、現代的な男女の関係を防護服の中から浮かび上がらせる。直後の黒い男たちに責められる女性ソロも、苦しみや叫びが動きを通して伝わってきた。全員が揃う終幕では、死者が生前を振り返るように 冒頭と同じ振付が繰り返されて、それぞれの人生が濃厚に立ち現れた。両袖から消毒ガスが噴霧されて幕となる。中島の振付細胞が全開した新作。バッハと登場人物の感情を緊密に結びつける音楽解釈が素晴らしい。コロナ禍と向き合う創作を初めて見た。

同時上演はジョン・ヒョンイル振付『Two feathers』、草間華奈振付『Life is . . .』、石井清子振付『ノスタルジー』。ジョン作品はリモートで振り移された。昨年同様、バーを使った二者の対立、ポアント無しながらフォーサイスを思わせる強烈なバレエ・ポジション、音取りの早さと、パ数の多さ、動きの力強さが特徴である。白鳥と黒鳥が片手を繋いでユニゾンする表裏一体の振付も。場面が重なるにつれてダンサーのアドレナリンが放出する、踊り応えのある作品だった。

草間作品は、石黒善大の踊る苦悩のソロが核。もう少し明確なコンセプト、フォーメイションの工夫が望まれるが、クラシカルなソロやジャズダンス風のショーアップに自らの引き出しをのぞかせた。石井作品は、東京シティ・バレエ団が踊り継ぐ財産。音楽に導かれた女性らしい情感を、若い世代(スタジオ・カンパニー)が踊りこなしている点に、創作をレパートリーに持つバレエ団の強みが感じられた。公演監督はキム・ボヨン。

 

島地保武 @『星の王子さまサン=テグジュペリからの手紙ー』(11月13日 KATT神奈川芸術劇 ホール)

演出・振付・出演:森山開次、美術:日比野克彦、衣裳:ひびのこづえ、音楽:阿部海太郎、演奏:佐藤公哉、中村大史、歌唱:坂本美雨、出演:森山、アオイヤマダ、小㞍健太、酒井はな、島地保武、坂本、池田美佳、碓井菜央、大宮大奨、梶田留以、引間文佳、水島晃太郎、宮川愛一郎(チラシ掲載順)。

星の王子さま』とサン=テグジュペリの人生をだぶらせて描く森山の意欲作。阿部のエスニックな音楽を、その場で熟練の奏者が演奏、坂本が声でダンスと呼応する贅沢な座組である。楽器は、ヴァイオリン、ギター、鉄琴、口琴、ホーミー声、ハープ、ブズーキ、アコーディオン。日比野夫妻の美術・衣裳も遊び心にあふれ、目を楽しませる(女性衣装が少しエロティックだが)。

第1部(45分)は、サン=テグジュペリ(小㞍)の夜間飛行、王子(アオイ)との出会い、ヒツジたち、王子とバラ(酒井)のエピソード、王子の出発まで。第2部(55分)は王子の星めぐり、地球到着、蛇(森山)、バラたち、キツネ(島地)との出会い、王子の帰還(死)まで。前半登場する酒井のポアント遣い、華やかな衣裳は、少し我儘で可愛げのあるバラのキャラクターによく合っている。生演奏との掛け合い、バルーンを使った衣裳など、盛沢山の演出も楽しめる。一方で、物語の流れに乗りづらい感触が残った。飛行士サン=テグジュペリの人生、王子と出会う「現在」、王子の語る「過去」が、地続きに展開されたからかもしれない。

後半は時系列で進み、物語がよく分かった。様々な星の住人、蛇、キツネの振付も的確で、王子への感情移入が可能になる。ただ、終幕にバラ(酒井)を再登場させ、飛行士(小㞍)が物思いにふける情景で終わったため、サン=テグジュペリ夫妻の物語に収斂した印象を受ける(バラはサン=テグジュペリの奔放な妻コンスエロを指す)。作品自体のふくらみは増したが、原作の 死と孤独とかすかな希望をめぐる余情は残らなかった。

練達のダンサーが揃う中で、キツネの島地が原作通りに作品の要となった。黄色い大きな尻尾を掲げた誇り高いキツネが、「仲よくなる」ことの意味、「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」(内藤濯訳)の真理を、体で王子に伝える。アオイ王子への働きかけは、存在と存在がぶつかり合う強度の高いパ・ド・ドゥとなった。島地にとっては『犬人』に続く動物ものだが、犬、キツネ、それぞれの実存を感じさせる深い役作りが共通する。踊りの美しさ、体の強さ、生きる上での信念が揃い、ダンサーとしての成熟度を増している。

 

伊藤キム×森下真樹 @『マキム!』(11月14日 東京芸術劇場プレイハウス)

メンターと教え子が、それぞれのカンパニーを率いて集う合同公演。第1部では、伊藤と森下のデュオ作品が上演された。無音のまま、シモテから伊藤、カミテから森下が、赤い綱をもって後ろ向きに出てくる。中央でぶつかり、綱を結んで舞台の境界に。それぞれが左右の定位置につくと、パガニーニの『24のカプリース』が流れる。交互に音楽を踊り、終わるとそれぞれ袖に入る。少しして奥から口三味線の同曲が聞こえる。伊藤が「パーパパラパラ」とか言いながら出てきて(森下も)、さっきと同じ振付を踊る。伊藤の軽妙繊細な内向きの踊り、森下の筋骨たくましいガブル踊り(以前は娘ムスメしていたが)、そして二人の的確な口三味線が面白い。メソッドが体に入っているので、体で音楽を奏でることができる。それぞれ固有の音楽性を、目と耳で楽しむことができた。と言うか、口三味線がツボにはまり、ずっと「はははは」と笑ってしまった。その後 色々あって、最後は、伊藤が森下に赤い綱をぐるぐる巻きつける。森下は「お姫様抱っこしてハケテください。」と師匠に告げる。伊藤は中途半端に森下を抱え、引きずるようにシモテへ。森下は「腰が、腰が、まだ明日もある」とか言いつつ幕。

第2部は、伊藤主宰のカンパニー「GERO」(6名)と、森下主宰のカンパニー「森下スタンド」(5名)の合同公演。どちらがどちらか判別できないが、男女の大小様々な肉体が誂えたように揃った。前半は伊藤の「生きたまま死んでいるのか、死んだまま生きているのか」分からない体の実践。森下も経験した振付を直弟子、孫弟子が踊る。後半は『BE MY BABY』に合わせて、森下振付ユニゾン踊り。マオリのハカのように、地に足の着いた力強いエネルギーが発散された。懐かしさを喚起させると同時に、たすき掛けの新たな化学反応も見られた不思議な公演だった。

 

岩渕貞太 @『Gold Experience』(11月20日 吉祥寺シアター

「岩渕貞太 身体地図」の新作公演。振付・演出:岩渕貞太、音楽・生演奏:額田大志、美術:杉山至、出演:入手杏奈、北川結、涌田悠、岩渕(チラシ掲載順)。

美術の杉山は、シモテ奥の床に直径1mほどの穴を切り、その上部に5本の金属製ポールを上下ずらして吊るした。穴の危険性と、天井まで支配する金属ポールの強い存在感が、強度の高い舞台空間を生み出す。正面奥にはドラム等楽器を設置、額田がレコードをかけたり、演奏をしたりする。途中で分かったが、ドラムの前に長方形の浅いプールがあり、足首まで水が張られていた。遠近法の消失点に額田が存在し、世界に介入する第5の演者となった。

ソロ、トリオ、デュオを的確に配し、ダンサーに踊りどころを十分に与えた緻密な構成が素晴らしい。これを基盤に、ダンスの誘い水となった額田の音(石を積む音が印象的)、金属ポールを次々に叩く音(一度のみ)がダンスと切り結び、思いがけない時空が出現する。ダンスを面白がる額田がいることで、作品に風通しのよさが加わった。岩渕の振付は、室伏鴻の流れをくむ舞踏(脳天背面落ちはないが)、ニジンスキーの『牧神の午後』、ヨガや東洋武術が「網状」に組み合わされている。終始 体を見る喜びがあった。

岩渕の高貴な踊りは、なぜか見られることに慣れない気恥ずかしさを纏っている。美貌、細かく分割された修行僧のような肉体は、当然野蛮なエロスを立ち上げるはずだが、慎ましく留まっている。見られるよりも、見る人、修行する人、なのか。3人の女性は南アジアの神像のように立ち並び、牧神のニンフのように2次元動きを見せる。振付を遂行するのではなく、自分の体に動きを落とし込み、新たに生成していることに驚かされた。北川は序盤の舞踏ソロから穴落ちまでを緊密な踊りで、入手は LED 棒を二本、剣のように持ち、パトスを内に秘めたまま中国武術風に動く。無意識が大きく、終幕の咆哮は体が裏返るようだった。少女性を帯びる涌田は、棒で金属ポール、バルコニー手摺を叩く。空を切る棒の音も楽しむように。岩渕に棒を叩きつけ、岩渕がガッと受け止め、棒で繋がるデュオを踊り始める。動物が戯れるような無垢なデュオだった。終盤の全員水遊びは、やはり牧神とニンフのごとく。舞踏にありがちな生々しいエロスの立ち上げはなく、あくまで禁欲的な進化系の舞踏だった。

 

 

新国立劇場バレエ団『ドン・キホーテ』2020

標記公演を見た(10月23日、24日昼、25日、31日昼夜、11月1日 新国立劇場オペラパレス)。今季より就任した吉田都芸術監督初のシーズン開幕公演である。当初はピーター・ライト版『白鳥の湖』を予定していたが、コロナ禍により、前季ラインナップの『ドン・キホーテ』(5月に公演中止)に変更された。主要キャストは大原永子前監督の配役を引き継ぐ。英国バレエを規範とする演劇性重視の指導方針も継続され、吉田監督によってさらに強化される模様だ。

アレクセイ・ファジェーチェフ(当時ボリショイ劇場バレエ芸術監督)による版は、1999年新国立劇場に導入された(今回で9回目)。ボリショイ・バレエ伝統版を基に、後世の挿入部を一部削除したシンプルな名版である。オークネフの晴れやかな美術に加え、舞踊を生かす梶孝三の明快な照明が、遺産として残されている。今回は「密」を避けるため、アンサンブルの数を減らし、子役の出番も省略された。

初演時には、当時英国ロイヤル・バレエ プリンシパルの吉田監督が初日を飾り、現バレエミストレスの遠藤睦子、湯川麻美子がキトリ友人、バレエ教師の西川貴子が街の踊り子、同じくイルギス・ガリムーリンがエスパーダを踊った。湯川、西川はメルセデスも。また、今回標題役の貝川鐡夫、公爵・役人の内藤博がセギディーリャに名を連ねて、一世代回ったバレエ団の歴史に思いを至らせる(因みに現バレエマスターの陳秀介はトレアドール、バレエ教師の吉本泰久はジプシーとサンチョ・パンサを演じてきた。3幕小キューピッドの落とした矢を拾う吉本の機転は、後輩サンチョにも受け継がれている)。

キトリとバジルは6組。初日の米沢唯と井澤駿は、艶やかな写真でリーフレットとチラシを飾り、バレエ団の新たなフェーズ突入を予感させた。何よりも米沢の踊りが一変したことが、吉田監督の方向性を物語る。一つの振りに幾つもの手を加え、上体を大きく使いながらも、体を立体的かつ求心的にまとめている。結果、パ一つに複雑なニュアンスが宿り、踊りそのものが画然と屹立する。ロシア派(現行)というよりも、英国の古典解釈を見るようだった。

米沢は磨き抜かれた体、艶っぽい美しさで、プリマとしての成熟に拍車をかけている。速くて数えられないグラン・フェッテは、もちろん技巧を見せるためではなく、バレエ、舞台への捧げもの、観客への祝福である。対する井澤はゆったりと大きく構え、米沢を包む。踊りも同じくゆったり。片手リフトを含むサポートも万全だった。互いに無意識下でコンタクトを取りあっているのか、不思議なカップルである。

二日目昼は木村優里と渡邊峻郁。木村はおきゃんな娘を伸び伸びと演じている。アダージョではパートナーとの対話をもう少し期待したいところだが、雄弁な脚線で空間を掌握した。対する渡邊は匂い立つような二枚目。決めのアクセントを細かく付けて、スタイリッシュなバルセロナの若者となった。

二日目夜と最終日は小野絢子と福岡雄大(最終日所見)。ファジェーチェフ版のニュアンスを最もよく伝える。長年組んだパートナーシップは揺ぎ無く、阿吽の呼吸。1幕の細やかな演技では滋味さえ感じさせた。小野は持ち前の音楽性を発揮、何とも品のよい可愛いキトリである。対する福岡は、はまり役。隅々まで血が通い、詰めに詰めた造形で、しかも気張りがない。万全の踊りに鮮やかなポーズで、ベテランの落ち着き、懐の深さを垣間見せた。今後は別々のパートナーと新たな展開が期待される(『くるみ割り人形』は同じ)。

三日目は柴山紗帆と中家正博。共に正確なポジションが描き出す正統派ラインが美しく、バレエの醍醐味を感じさせる。柴山はやや控えめな演技だが、その真髄は音楽と一体化するドラマティックな踊りにある。特に短調に親和性があり、1幕セレナーデでは、メロディに深く分け入る濃い情感が醸し出された。対する中家は美しいサポート、大きな踊りに、これまで敵役で発揮してきた演劇性が喜劇に転換、茶目っ気のある芝居を見せる。音楽性豊かな、息の合うコンビだった。

四日目昼は池田理沙子と奥村康祐。池田は作品を俯瞰的に理解し、それを舞台での自然な演技に還元できる。バジル、ドン・キホーテ、ガマーシュへの誠実な反応が、観客をドラマの没入へと導いている。1幕メヌエットで、ガマーシュを(ついでに)誘う際の表情と手つきが忘れられない。踊り方も米沢に続いて様変わりし、上体を使う大きな踊りに変わった。対する奥村は、明るくやんちゃなバジル。池田キトリを見守る風もあり、二人揃ってポジティブなメッセージを観客に伝えている。

四日目夜は、再び米沢と、主役デビューの速水渉悟。米沢は初日よりも自然で初々しい。特に2幕夢の場の匂やかな踊りが素晴らしかった。存在そのもので空気を和らげ、体の透明感も際立っている。居酒屋の踊り見物は、テーブルの上に腰かけて、バジルと語らいながら。速水とのアイコンタクトは体と体のぶつかり合いに等しく、濃厚だった。

対する速水は主役デビューとは思えない落ち着き。肩乗せリフトで米沢が上がり切れないアクシデントに見舞われたものの、盤石のサポートで米沢を支え続けた。入団当時から瞠目させられた踊りの技術と質の高さは、全幕主役という場を得て全開に。ただし、アクロバティックな振付を選択しながら、なぜかこれ見よがしにならない。バレエの技法・見せ方を日々追究しているからだろう。持ち前の分析的批評精神が、作品解釈、同僚理解、舞台の状況把握に生きて、着実な主役の道が予想される。質を保ちつつ限界に挑戦する跳躍、回転は、米沢のグラン・フェッテと共に、観客への祝福となった。

6組の主役は、ビントレー時代のダンサーを含みつつ、そのほとんどが大原前監督が一から育てたダンサーである。才能と個性を見抜き、適役に配し、叱咤激励しながら主役へと育て上げた。その成果を直に見て確かめることができなかったのは、心残りだろう。吉田新監督の「最後の味付け」に期待する。

バレエ団はベテラン勢と若手抜擢組が共に活躍した。立ち役初日組、貝川鐡夫のドン・キホーテ、福田圭吾のサンチョ・パンサ、福田紘也のロレンツォ、奥村康祐のガマーシュは、たがが外れた破天荒な組み合わせ、二日目の趙載範、髙橋一輝、中島駿野、小柴富久修は、様式性があり、趙、小柴(美脚)は、あちらの世界の住人である。宿屋テーブルでそれぞれが好きな方向に向いているのがおかしかった。狂気の貝川キホーテと活きの良い福田サンチョ(空中2回横転!)、真っ直ぐ突き進む趙キホーテと献身的な髙橋サンチョは、ともに好一対。初日組サンチョとロレンツォの苛烈な兄弟喧嘩も見ものだった。

公爵・役人の内藤博は、役を心得た風格ある演じ分け、公爵夫人の本島美和も、優雅な佇まいにわずかな手の振りで情景を立ち上げ、舞台に厚みを加えている。ジプシーの王 菅野英男の気怠い演技も秀逸だった。

キトリ友人は2キャスト。上体を使った美しい踊りの奥田花純、芝居心のある飯野萌子は持ち役を楽し気に、初役の廣田奈々と横山柊子は、それぞれ繊細な踊りと、豪快な踊りで持ち味を発揮した。エスパーダは切れ味鋭い渋めの木下嘉人、荒々しく女関係に事欠かない井澤、と対照的。対する街の踊り子には、婀娜っぽい寺田亜沙子、体の美しい柴山、ダイナミックな木村、メルセデスには気の漲る渡辺与布、鋭く気迫のこもった益田裕子、カスタネットの踊りには、ラインの美しい細田千晶、情感豊かな朝枝尚子が揃った。特に朝枝は音楽と一体化した踊りで、新境地を拓いている。

森の女王は伸びやかな木村と繊細な細田。アンサンブルとの関係では細田に一日の長がある。キューピッド五月女遥と広瀬碧も、それぞれ音楽性、柔和な佇まいと個性を発揮した。ボレロはスレンダーな益田と川口藍に対し、バジル役ダンサーをぶつける。渡邊の情熱的なパートナー振り、中家の美しいライン、速水の巧さと、それぞれに華があった。また3幕ヴァリエーションでは、奥田、五月女、池田に並んで、廣川みくりが香りのある踊りで抜擢に応えている。

アンサンブルは揃えることよりも生き生きとした体の表情を重視、広場、居酒屋での小芝居も、これまで通り各自が考え、工夫を凝らしている。夢の場の妖精アンサンブルでは、柔らかい質感が強調されていた。

充実の東京フィルハーモニー交響楽団を率いるのは、冨田実里。『ドン・キホーテ』(日本バレエ協会関東支部神奈川ブロック)で指揮者デビューした冨田は、新国立ではアレクセイ・バクランとマーティン・イエーツの同作副指揮者を務めた。そのどちらとも似ていない、ずっしりと構えた骨格の明確な指揮で、東京フィルの弦と管を十全に使い切った。ビントレー時代に確立された副指揮者の制度、指導者育成の「キャリア・ディヴェロップメント」(『SPICE』2020.10.29)、振付家育成の「DANCE to the Future」が、現在花開き、実を付けつつある。

 

 

 

バレエシャンブルウエスト『コッペリア』2020

標記公演を見た(10月10日 オリンパスホール八王子)。本来は6月7日に公演予定だったが、新型コロナウイルス感染症拡大のため延期となり、仕切り直しての上演である。観客の体温検査、手の消毒、来場者カード、市松模様の座席配置など、念入りなコロナ対策が採られた。

振付・演出は今村博明と川口ゆり子。マイムを重視し、音楽性、演劇性がバランスよく組み合わさった正統派のヴァージョンである。マズルカ、チャルダシュは肩を組み、共同体の祝祭性を表現する。八王子という地元に密着したバレエ団の在り方と、二重写しになった。

主役スワニルダには、1幕の演劇性、2幕の人形振り・民族舞踊、3幕の古典舞踊と、プリマの技量が要求される。今回は若手の川口まりが挑戦、恋人のフランツには、海外経験を基に、着実にバレエ団での地歩を固める藤島光太が配された。

川口を見たのは14年の『フェアリー・テイルズ』が初めて。画家の孫役で行儀のよい踊りを披露する。同年『くるみ割り人形』の音楽的な葦笛、2年後には『くるみ』のフリッツを踊り、美しい脚捌きでトラヴェスティの魅力を発散させた。17年には田中祐子作品で瑞々しい踊りを、同年『くるみ』では金平糖の女王を踊り、主役の器を印象付ける。翌年『新おやゆび姫』標題役では、繊細な腕遣い、清潔なパ・ド・ドゥに、古典の香気が立ち上った(清里フィールドバレエは、17年『シンデレラ』標題役、19年『ドン・キホーテ』キトリ、20年『白鳥の湖』オディールを踊る〈共に未見〉)。

今回の『コッペリア』でも古典舞踊に美点がある。1幕はやや芝居が硬く、表情も作りすぎに思われたが、キトリ(清里)ではどうだったのだろうか。フランツとの生きた対話で、観客を楽しませるには至らなかった。だが2幕になると、溌溂とした民族舞踊に踊りのエネルギーが現れ始める。3幕では、繊細な音取り、伸びやかで大きな踊り、美しい脚線で、香り高いパ・ド・ドゥを作り上げた。古典へのストイックな姿勢に、主役の器・責任感を感じさせる。

師匠の川口ゆり子は、2幕のコッペリア(実はスワニルダ)に血が通い始める瞬間、演技ではなく、体の質(意識)を変えて、奇跡的時空を現出させた。その技、または古典解釈を継承して欲しい。

対するフランツの藤島光太は、エネルギーにあふれる。主役経験も豊富で、優れた技術、確かなサポート、舞台での自然な佇まいがそれを物語る。演技相手との呼吸もさらりとコントロール、「いい加減」を演じることができる。2幕コッペリウスとのやりとりが物凄く面白かった(酔っぱらって、普通はうつ伏せだが、仰向けに座っていたのはなぜ?)。やんちゃだがノーブルな味を失わない、貴重な主役ダンサー。3幕ソロも素晴らしかった。

コッペリウスには正木亮。ローラン・プティを思わせる粋でダンディな造形である。演技は隅々まで解釈が行き渡っていながら、あっさりと。マイムは音楽的で気品にあふれる(今村を彷彿)。そこに正木の真っ直ぐな愛情が加味されて、3幕の市長と共に踊りを観覧する姿からは、暖かいエネルギーが舞台に放出された。その市長には、逸見智彦。女性に引きずられても鷹揚に対し、3幕では正木コッペリウスと並んで、後輩の踊りを嬉しそうに見守っていた。

今回は中堅・若手中心のキャスティング。「時のワルツ」ソリストでは、新進 柴田実樹の伸びやかな踊りを、クラシック教師 江本拓が手厚くサポート。「夜明け」石原朱莉の確かな技術、「祈り」伊藤可南の美しいライン、キューピッド 近藤かえでの切れの良い踊りが印象深い。また「戦い」では、押し出しの良い土田明日香、パトスあふれる村井鼓古蕗、エネルギッシュな染谷野委、音楽性豊かな土方一生の踊りを見ることができた。

同じスクールから生まれたアンサンブルの美点は、「時のワルツ」で発揮された。長い手足、伸びやかな踊り、ゆったりとした音取りが見事に揃っている。バレエ団の伝統をよく伝えていた。

今回はダイワハウス特別協賛により、磯部省吾指揮、大阪交響楽団が、堺市から駆け付けた。フルオーケストラの地響きのする重厚な音が、ホールを貫き、生演奏の醍醐味を観客にアピールする。ドリーブ・ファンとしては、もう少し軽やかな色彩を期待するところだが、オーケストラの個性と情熱の伝わる熱演だった。

 

 

 

 

牧阿佐美バレヱ団『眠れる森の美女』2020

標記公演を見た(10月3日 文京シビックホール 大ホール)。同団では1982年にウェストモーランド版を導入。以来、再演を重ねる重要なレパートリーの一つとなった(今回は12回目)。振付のテリー・ウェストモーランドは、1958年に英国ロイヤル・バレエに入団し、10年間 主役、ソリストとして活躍している。セルゲイエフの舞踊譜に端を発し、様々な英国らしい振付が加味された当時のロイヤル版『眠れる森の美女』を、移植された牧阿佐美バレヱ団が保存しているのである。

今回は新型コロナウイルス感染拡大予防のため、時間を短縮しての上演となった(1幕編み物女性たち、2幕ファランドール、パノラマ、目覚めのパ・ド・ドゥ等を省略)。また2幕と3幕を続けて上演し、3幕行進曲を間奏曲としている。

主役はWキャスト。オーロラ姫初日は青山季可、二日目は中川郁、フロリモンド王子にはそれぞれ、清瀧千晴、水井駿介(共に初役)が配された。その初日を見た。

青山は07年、10年、15年と踊り、今回が4回目のオーロラである。若手時代は、体全体が微笑んでいるような暖かい舞台が特徴だった。リーズ、シルフィード、キトリを見ては、幸福を感じていたが、15年のジゼルでは、実存と絡んだ深い造形に衝撃を受けた。その後『飛鳥』金竜の力強いソロ、『ア ビアント』パ・ド・ドゥで見せた音楽と劇的感情の一致に、青山の別の側面を見る思いがした。因みに15年のオーロラ評は以下の通り。

青山は物語性を重視。古典バレエの演劇的側面を読み込み、一挙手一投足に心を込める。常に相手との、さらには観客とのコミュニケーションを目指すので、観客は青山と共に旅をし、その身体から微笑まれたような心持ちになる。

今回のオーロラ姫は打って変わり、青山の古典解釈が花開いている。最も演劇的な1幕も、音楽とともにすっきりと踊り、品格を重視。2幕ヴァリエーションは、本来の資質であるロマンティックな幻想性が遺憾なく発揮された。空気と交わり溶け込むような密やかさがある。水色チュチュがよく似合っていた。3幕は気品そのもの。踊りというよりも所作に見える。周囲、観客を祝福する澄み切ったオーラが拡がり、劇場を静かにまとめ上げた。体感としては、バレエのいわゆる温泉効果はなく、日本舞踊の佳いものを見た時のような、浄化される感触に近い。水のような踊りだった。

これは牧の伝統なのだろうか。それとも青山の解釈と資質の混淆なのか。少し川口ゆり子を思わせる日本的ニュアンスもあるが、踊り方は全く異なる。青山の『ア ビアント』や『飛鳥』全幕を見てみたい。

王子の清瀧は、ノーブルな雰囲気をよく身につけていた。3幕ヴァリエーションの品格ある美しさは、ダウエルを手本としたバレエマスター 森田健太郎の伝授によるものだろうか。コーダのグランド・ピルエットはやや王子から逸脱したが、清瀧らしさが横溢した。

リラの精 茂田絵美子は、伸びやかなライン、確かな技術に、包容力が加わり、善の象徴たり得ている。対するカラボスは、はまり役の保坂アントン慶。女装の妖しさに一層磨きがかかり、悪を楽し気に演じている。フロレスタン24世王の逸見智彦、王妃の坂西麻美、カタラブット 依田俊之のベテラン勢が、的確な演技で脇を固めた。

フロリン王女 米澤真弓の匂やかさ、ブルーバード 山本達史の高い跳躍、また宝石の精(織山万梨子、上中穂香、細野生、濱田雄冴)が、溌溂とした踊りで同版の美点を体現した。古典全幕ゆえ、残念ながらコロナ自粛期間の影響は拭えない印象だったが、ベテラン主要キャストが相変わらぬ実力を見せて、舞台を大きく牽引した。

指揮は当初デヴィッド・ガーフォースが予定されていたが、コロナ禍で来日が不可能となり、代わって冨田実里が東京オーケストラ MIRAI を率いた。当然ながら大ベテラン ガーフォースのようなとろみはないが、明快でエネルギッシュな指揮により、躍動感あふれる引き締まった舞台を作り上げた。

島地保武 @ Open Lab「ダンサー言葉で踊る」vol.3 2020

標記イベントを見た(9月12日 Dance Base Yokohama)。表題は「W. フォーサイスと出会う~Before & After~」。

当日、DaBY 最寄り駅「馬車道」の改札を出ると、巨大な構造物が地下広場に。Bank ART Studio NYK の内外を簀子(?)で覆った、あの川俣正の作品だった。銀色のフェンスパネルをツリー上に立てかけ、縦長の竪穴式住居を作っている。中に入ると、金属なのになぜか懐かしく、子供時代の「囲まれて安心」感が蘇る。近くの Bank ART Temporary と「新高島」駅地下の Bank ART Station で、『都市への挿入』と題した展覧会を開催中とのこと(9/11~10/11 未見)。

本題に戻って、島地保武の踊りを初めて見たのは、山崎広太の作品だった。長身で体の柔らかい若者が、山崎の変幻自在なスタイルを慎ましく踊りこなしている。作品の核となりうる器の大きさが、すでにあった。師匠の加藤みや子作品では、砂の上を白塗りで舞踏風に歩く。粉にまみれた体が黄粉餅のように柔らかく、瑞々しかった。加藤が足を怪我した際には、ロビーで師をおんぶする姿も。また同じモダンの井上恵美子作品では、昆野まり子と濃厚なデュオを踊って、優れたパートナーとなる予感を、バレエの鈴木稔作品では、フォーサイス風の振付を華やかに踊って、海外渡航の予感を抱かせた。

渡航前に入った Noismでも、立ち上げたばかりのカンパニーを支える主軸ダンサーに(2004-06)。ザ・フォーサイス・カンパニー入団後は、あまり見る機会はなかったが(2006-15)、在籍中にも帰国して、パートナー酒井はなとのユニット「アルトノイ」で現状を報告した(1)。退団後は、谷桃子バレエ団(2)、環 ROYとの共作(3) 、KAAT 神奈川芸術劇場4)、新国立劇場バレエ研修所(5)などで、振付作品を発表している。また、森山開次作品(KAAT)では深いバリトン発話を披露(6)。直近では長塚圭史作・演出『イヌビト』に出演し、女形と犬化の演技で圧倒的な存在感を示した。顎髭を残したまま、体から女性になり、しかも自分であり続ける。犬化する際の剃刀のような切れ味。グーの手で皿をつかみ、四つん這いで伸びをする力感が素晴らしかった。

トークは、中央に島地、カミテにナビゲーターの唐津絵理(DaBY アーティスティック・ディレクター)、シモテにホストの小㞍健太(DaBY ダンスエバンジェリスト)という配置。島地のダンス前半生を映像と共に辿った。以下はその概要。

 

● 1978年生まれ。中2のとき「ダンス甲子園」にはまる。ビデオを見てノートをとり、友人と二人、給食の配膳室で踊っていた。

● 高校では空手部。ダンスは休止し、型を新たに作っていた。

日本大学芸術学部演劇学科演技コースに入学。面接で「踊りたい」と言ったが、合格した。常に洋舞コース生と一緒にいて、単位と関係なく様々なクラスを受けた。モダンダンス 旗野恵美先生のコントラクション&リリースのクラスは、面白かった。授業の最後に、テーマを与えられて作品を創った。小㞍「最初から踊りと創るが一つになってるんだ。」

● ストリートダンスも再開し、ボキャブラリーを増やすために、クラスを取っていた。

● 初めての師匠 加藤みや子先生の授業で、ベジャールの『ボレロ』を見て感想を書いた。バレエは男性ダンサーのタイツが気持ち悪かったが、すぐに始める(理解できないことをやりたい性格)。フォーサイスの映像を見て、ヒップホップだと思った。

● 4年生の時、東京バレエ団に入団(シャッセも分からないのに)。単位がたまっていたので、公演には出なかった。

●( 山崎)広太さんのカンパニーは在学中から始めて、卒業後はツアーを回った。「面白いよ」と人に言われたのがきっかけ。クラスでは無意識のところを「違う、違う」と指摘された。広太さんを踊っていたから、フォーサイスに行ったと思う。

● この人と働きたいと思ったら、必ず働ける(『イヌビト』長塚さんにも直接出たいと言った)。

● Noism はワークショップを受けて、オーディションで合格した。(金森)穣さんの踊りを見てびっくりした。楽しく踊れると思った。

● ヨーロッパでオーディションを受ける時、(小㞍)健太の家に泊まった。最初からザ・フォーサイス・カンパニーに入れるとは思っていなかった。あちこち受けて、ここではだいたいこうなると予想がついたが、フォーサイスのところは「怖いな」と思っていた。(安藤)洋子さんから「背の高い中国人が抜けたよ」と連絡がきて、行くと合格した。

● 入団してすぐに『クインテット』のソロを踊った。フォーサイスに行って、「やっていいんだ、息ができる、生きれる」と思った。フォーサイスは固まろうとしたら、壊すのを喜ぶ。自分でも出来上がった振付を捨てる。本番中に新たな指示があることも。公演は昔は1日4回だったが、自分が言った頃は2回になっていた。

● 小㞍「島ちゃんとフォーサイスは、動きの作り方が似ている。島ちゃんは思考回路を理解する。自分は振付として覚える。NDT にいた同僚がフォーサイスのところに行って、すごい悩んでた。」

島地「自分もレパートリーの振付を覚えるのは苦労したけど。フォーサイスに〈君は僕を理解している〉と言われたことはある。」

● インプロは初めからやっていたが、フォーサイス以後は、よりレイヤーが複雑になり、他人と共有することが加わった。相手を感じ取ろうとするようになった。

 

トークの前に、島地と小㞍による20分のデュオ・パフォーマンスがあった。無音でコンタクトのような絡みを続ける。時に手を消毒したり。チェルフィッチュ岡田利規が、酒井はなの『瀕死の白鳥』について言ったように、(映像ではない)生の肉体は情報量が多い。二つの肉体は、違うタイプであると言い続けていた。小㞍はホストという役目もあるのか、やや控えめ。島地を生かそうとしていたのか。いずれにしても、両者の美点を発揮するには至らず。

島地の現状を覆そうとするインプロ精神、小㞍の動きと音楽の両方にまたがる緻密な振付解釈は、そもそも噛み合わない。むしろ同じ音源で、ダブル・ソロを踊った方が、個性を発揮できたかもしれない。振付家としても、島地はコミュニティを作ろうとするアプローチ、小㞍の可能性は、その優れた音楽性から、ネオクラシカルなバレエ作品にあると思う。

山崎広太+久保田舞 @「ダンステレポーテーション」展 インスタレーションパフォーマンス 2020

標記パフォーマンスを見た(8月 28日 KITANAKA BRICK&WHITE BRICK South 1F)。山崎広太の新プロジェクト「ダンステレポーテーション」展(コチラ)から派生した企画で、同展に参加したダンサーのうち4名が出演した。小暮香帆、久保田舞、栗朱音、望月寛斗(HP掲載順)である。クリエーションをバックアップする育成色の強い公演ゆえ、個々の評は避けるが、山崎の志を継いだ久保田舞のパフォーマンスについて、書いておきたい。

上演場所は Dance Base Yokohama のある KITANAKA BRICK&WHITE BRICK North の南側にある建物の1階。「ダンステレポーテーション」展の一部展示場でもある。8つの窓のある壁を背景に、横長の木の舞台が広がる。観客は一段下がった土間の椅子に、互い違いに座った。冷房なしとの告知があったが、さほど暑くない(冷水ボトルの配給あり)。導入部は、窓にもたれた4人がこちらを振り向いて、それぞれの動きで前進するシークエンス。続いて栗、望月のソロ。3番目の久保田は、カメラとパソコンを設置し、同時撮影映像と絡みながら踊った。メディアの可能性を探る本展への応答だろう。

導入部でも顕著だったが、久保田はどのメソッド、スタイルにも回収されない独自の動きを見せる。初めから終わりまで、体と動きを注視することができた。山崎インタビューによると、クラシックバレエで踊りを始め、キミホ・ハルバートのコンテ・クラスを小4で受け、大学ではモダンダンス部に入ったという。だがどの動きにもその痕跡はない。途中アラベスクをする場面があったが、美しさを求めてではなく、筋肉の動きを確認する分析的な感触が残った。

動きが体から離れる瞬間が一度もない点、「体で考える」「体と対話する」「場所・音楽と交感する」プロセスを、観客が共有できる点は、山崎の踊りと通じるところがある。久保田にとって、体で思考する機会の確保が重要なのであって、観客にどう見られるかはあまり関係ないのだろう。表情に雑念なし。短パンを巻き上げたブルマのような恰好がよく似合っていた。

パフォーマンス前に、改めて本展を覗いてみた。11のインスタレーションの傍には、ダンサー各自へのインタビューに触発された山崎の詩文。体を通した言葉が一見無秩序に、しかし光速の思考によって結び合わされ、踊りと化している。印象的だったのは岩渕貞太への言葉。岩渕に向けると同時に、岩渕の師である室伏鴻(1947-2015)への悼詞でもあった。土方巽、室伏、山崎、岩渕と繋がる舞踏の血縁が濃厚に浮かび上がる。岩渕の返答は、薄暗い森の中で、ぬるぬるの液体を自らの裸身に塗り、銀粉をまぶしていく映像だった。

室伏の文章を集めた『室伏鴻集成』(河出書房新社、2018年)には、山崎が室伏に行なったインタビューの抜粋が収録されている(2009年高田馬場、全文は Body Arts Laboratory の HP上)。一回り年上 同じ亥年の親戚に喋るように、信頼と愛情をこめた質問が山崎から繰り出される。時には「年金はあるんですか」といった直球も。室伏も同じ血筋の弟分に、リラックスして舞踏との関係を語っている。土方への尊敬を共有しながら。

今回の山崎インタビューで最も心に残った言葉は、木原萌花との対話から生まれた。木原の「広太さんは子どもの頃から踊ってらっしゃるのですか?」という質問に、山崎は「中学高校と吹奏楽の指揮者をやっていました。その頃に、指揮者によって指揮する動きが異なるので、自分にも独自の動きができるのかもしれないと考えました。そうして徐々にダンスに近づいていきました。」と答え、さらに「僕は人と話すのが苦手だったんです。言葉の論理が嫌いだったんですね。ダンスも音楽も論理を通過せずに、すぐに表現できるでしょう。また、僕の地元では方言と標準語が混じっていて、自分がどちらの言葉で話せばよいのかと戸惑っていたことも関係しています。人と話そうとして、戸惑っている間に、相手の人そのものを観察してしまう。すると、だんだん相手の表情や仕草から、考えや思いが読み取れるようになりました。」と語る。山崎の自画像のような言葉だった。

大和シティーバレエ「Summer Concert 2020」

標記公演を見た(8月14日 大和市文化創造拠点 シリウス芸術文化ホール)。コンサートの表題は「想像×創造」。佐々木三夏プロデューサー指揮の下、今回もコンテンポラリーからバレエまで、意欲的な創作が並んだ。会場入口には消毒液が置かれ、スタッフはマスク・フェイスシールドを着用、市松模様の座席指定など、コロナ感染防止対策が採られている。

第1部幕開けは、中原麻里振付『NYX』より「ルナティック」。ショパンのピアノ演奏(大滝俊)に乗せて、五月女遥と渡邊峻郁がロマンティックな愛のパ・ド・ドゥを踊る。五月女の音楽性、渡邊の情熱的な持ち味が生きる振付だが、渡邊の問いかけに五月女が応えていない模様。音楽的で美しい動きを作りながら、感情表出を拒むのは何故だろう。渡邊は作品の雰囲気をよく体現している。

続く木下嘉人の『CONTACT』は、ミニマルな音楽(E. Bosso)を使用したコンテンポラリー作品。米沢唯と木下自身のデュエットを中心に、二組の男女(相原舞・林田翔平、古尾谷莉奈・森田維央)が、分身や影として加わる。木下は前作『ブリッツェン』(2016)でも米沢を採用し、バリバリのコンテを見せたが、今回は「触れる」「触れないことで触れる」をモチーフに、視線や体の向きなど、演技を加えたクリエーションを展開した。ただし、動きで関係性を見せる部分が減少したため、ダンサー木下と米沢の技量を堪能させるには至らず。米沢の考え抜かれた体が、作品のコンセプトを伝えている。

第2部は、夏の夜にふさわしい4つの怪談ばなし。小泉八雲の『耳なし芳一』(振付:熊谷拓明)、同じく『雪女』(振付:中原麻里)、三遊亭圓朝の『死神』(振付:福田紘也)、同じく『牡丹灯篭』(振付:池上直子)が、霊界の使者である蝶々を導き手に、連続して語られる。

熊谷の『耳なし芳一』は、琵琶(鎌田薫水)、和太鼓(小林太郎)の生演奏で、芳一の小出顕太郎、和尚の望月寛斗、細野生、牧村直紀を始めとする男女アンサンブル、さらに自身も語り手として登場する。芳一はサングラス、和尚は金髪と現代風だが、アンサンブルは犬神人のような頭被りで、床遣いの多いモダン・ストリート系の踊りを踊る。彼らは平家の怨霊ではなく、「得体の知れない者たち」とのこと。耳の書き忘れも、芳一が嫌がったことにするなど、熊谷の思惑に沿って改変が施された 私小説風の作品である。熊谷は和尚として語るが、実際に踊りに介入するため、虚構の層が混濁するのが難。最後に『平家物語』の生語りで踊りも見せる。見応えはあったものの、本来は小出の見せ場だったかもしれない。

中原の『雪女』は P. Glass の音楽で、美しくスタイリッシュに踊られる。雪女(お雪)には、2018年の本公演で関直人の『ゆきひめ』を踊った小野絢子。ポニーテールに透き通った白い衣装がよく似合う。巳之吉には福田圭吾。赤ん坊を抱いたお雪と巳之吉の幸せのパ・ド・ドゥでは、小野の繊細な踊りを、福田のドラマティックな音楽性、手厚いサポートが支える。小野が雪女となり、巳之吉を取り殺そうとするも、叶わず去っていく場面では、福田の嘆きが舞台一面に響き渡った。雪ん子のような白いチュチュのアンサンブルは、白い毬(雪玉)を手にし、可愛らしさを強調。小野の個性と合致する作品だった。

福田(紘)の『死神』も同じく P. Glass の音楽を使用するが、真逆の作風。昨春には古典落語『猫の皿』を舞踊化し、今年の新国立劇場カレンダー8月の頁に、その舞台写真が採用された(着物姿の小柴富久修に、福岡雄大、本島美和、福田〈圭〉が写る 前代未聞のダンス写真)。同じトンデモない手法で来るかと思ったが、今回は正攻法(?)のアプローチだった。

物語はグリム童話『死神の名付け親』を基にした圓朝の創作物。若い男が死神から死者の見極めを教わり、医者となって成功する。ある時、死神をだまして死すべき人を生き返らせたため、死神の逆鱗に触れ、蝋燭の立ち並んだ洞窟に連れ込まれて、息の根を止められる。福田(紘)は、本島美和を死神に据え、若い男に福岡雄大、コロスに五月女と自身を配した。死神の首飾りを男が盗み、裕福になるが、死神に取り返され、死に至るという筋書きに変えている。

死神の本島は、これまでマッジやカラボスを踊り、手の内に入った役どころと言える。が、自らの引き出しに頼ることなく、新たに役を追求する点に、ベテランの凄味があった。舞台に身を捧げる強さと瑞々しさが同居する、本島らしい好演である。対する福岡は、半ズボンにセーター姿のやんちゃぶりがぴったり。お金が入るにつれて、上着、ズボン、靴が加わり、スタイリッシュな青年へと変貌を遂げる。本島との丁々発止が小気味よく、切れの良い踊りに、福岡本来の場所と幸福の在り処を思った。コロス 五月女は、振付の上を行く切れ味。前述の愛のパ・ド・ドゥとは異なり、水を得た魚のごとき活きの良さがあった。

福田(紘)演出の視野の広さ、ダンサーを生かす力、動きの視覚的快楽(ずらしの快感)が素晴らしい。ぎりぎりまで思考を突き詰めた果てに、感覚に身を委ねる懐の深さがある。見る側にとって、振付家の思考と感覚を共に辿る喜びがあった。

最後は池上の『牡丹灯篭』。圓朝原作から「お露新三郎」「お札はがし」を、物語の順を追って舞踊化した。4枚の障子で部屋を作るなど、場面転換も明快。配役は、お露に米沢、新三郎に宝満直也、和尚(陰陽師 勇斎に近い)に渡邊拓朗、伴蔵に八幡顕光と、適材適所。お露の侍女 お米は、御女中達として8人の女性アンサンブルに拡大されたため、ひっそりと新三郎を訪れるというよりも、多勢で攻めるアマゾネス的な雰囲気に。アンサンブルの振付も、フォルムで見せるモダン風の要素があり、土俗的味わいが加わっている。

米沢は肉体の透明感が霊界の生き物であることを示すが、ことさらに死霊風を強調せず、ただひたすら新三郎を恋する女性に見えた。宝満との逢瀬も恋しさ、懐かしさにあふれ、涼風が吹き抜けるように清々しい。対する宝満も、取り憑かれる男の人の好さ、甘やかさがあり、適役。二人の久しぶりのパ・ド・ドゥから、米沢の体が、渡邊(峻)との『R&J』、ムンタギロフとの『マノン』を経過したことがはっきりと分かる。佇まいのみで空気を変える身体となった。

和尚の渡邊(拓)は大きく力強い。新三郎を救おうという気概にあふれ、作品に直球のエネルギーを与えた。ベテランとなった八幡の伴蔵も、滑稽味のある日本的所作を、楽しみながら演じている。

力のこもった4つの創作を連続して見る1時間40分の長丁場。佐々木プロデューサーのクリエーションに対する信念を、今年も感じることができた。