東京シティ・バレエ団『ロミオとジュリエット』2019

標記公演を見た(7月14日 ティアラこうとう 大ホール)。本作はバレエ団と江東区との芸術提携15周年を記念して、2009年に初演された。12年、14年の再演を経て、今回は25周年記念、5年ぶりの上演となる。構成・演出・振付は中島伸欣、振付は石井清子、編曲 福田一雄、美術 江頭良年、照明 足立恒、衣裳 小栗菜代子による。

全2幕の構成。バルコニーシーンが間奏曲を挟んで、そのまま街の広場に続き、ロミオとジュリエットの奔流のような恋が、原作に近い時間感覚で描かれる。また女性4人による「運命の人々」が、悲劇に至る道筋、行き違いをヴィジュアルに演出する。鈍色の衝立移動による場面転換、終幕 二人を慰撫するように広がる銀色の布も、中島版の大きな特徴である。

振付はキャラクター・ダンスが石井、ストーリーテリングが中島(騎士の踊りはどちらだろうか)。石井の、ロマの踊り子、旅芸人、街の人々に付けられた音楽的で色彩豊かな振付、中島の宙を飛ぶようなバルコニーシーン、床をころがる悲しみに満ちた夜明けのパ・ド・ドゥ、さらに自らを傷つけるロミオ、およびジュリエットのソロ。それぞれの個性が花開いている。バルコニーでジュリエットにキスをされ、でんぐり返るロミオ、両腕リフトしたジュリエットを下ろしながらのキス(力技)も、中島版でしか見られない。

主役は初日がキム・セジョンと清水愛恵、二日目が吉留諒と庄田絢香。初役同士の二日目を見た。吉留ははまり役。ロミオの真っ直ぐに育った純粋さ、素直さが体現されている。踊りの端正なスタイル、役に入る没入の深さ、パートナリングの親密さ、さらに初々しさが、稀にみる涼やかなロミオを造形した。マキューシオの仇を討つ若々しい憤り、その後の悔恨の瑞々しさは、吉留のドラマティックな資質を示している。

庄田のジュリエットはしっかり者。活発で腹が決まっている。ロミオに先にキスをするのも納得できる。確かな技術は、バルコニーでのロミオとの踊り合い、弾むような跳躍から明らかである。まだ表現主義的なソロの解釈が追い付いていないが、全てが自分の踊りになれば、さらに激しいジュリエットになるだろう。

ティボルトの濱本泰然は、ダークなノーブルスタイル。吉留ロミオとの闘いは阿吽の呼吸で、見応えがあった。マキューシオの内村和真は踊りの切れも素晴らしく、愛される人柄。ロミオを庇う死の場面には説得力がある。ベンヴォーリオの福田健太は少しやんちゃ系。将来のロミオに見えた。

物語の筋道や感情の流れに沿った細やかな演出が、バレエ団の演技力を発揮させる。ヴェローナ大公 李悦、キャピュレット夫妻 春野雅彦・平田沙織、乳母 草間華奈、パリス 石黒善大、ロレンス修道士 堤淳、その助手 佐世義寛が、団の伝統を受け継いでいる。また、目の覚めるような踊りを見せた玉浦誠、岡田晃明率いる旅芸人、濃厚なロマの踊り子たちも、舞台を鮮やかに彩った。

指揮は井田勝大、演奏は同じ江東区芸術提携団体の東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団。福田編曲版をダイナミックに歌い上げた。ただしダンサーが音楽を待つ瞬間が前半部に散見される。演出との摺り合わせを期待したい。

6月に見たダンサー・振付家 2019

佐辺良和 @ 青山実験工房「能と琉球舞踊」(6月24日 銕仙会能楽研修所)

標記公演は、能と琉球舞踊を並列させ、組踊における能の影響を見ようというもの。組踊の始祖 玉城朝薫は、大和芸能に造詣が深く、1706年薩摩で仕舞『軒端の梅(東北)』を舞った(プログラム)。第一部は、和泉式部の霊を舞う舞囃子『東北』と、和泉式部の化身 梅の精を踊る創作舞踊『軒端の梅』、第二部は舞囃子『芦刈』と、その翻案と言われる組踊『花売りの縁』が上演された。

能は思い出したように見るが、琉球舞踊は生では初めて。共に摺り足ながら、前者は直線歩行、後者は足の動きが左右にほころぶ柔らかさがある。構えを含む能の緩急に対し、琉球舞踊は常に体が揺蕩うように平行に推移する。その立ち方は、男性は直立で足は逆ハの字、女性は右足重心で左つま先を少し浮かせる。また女性は立膝座りだった。耳を澄まして意識を集中させなければならない能から、琉球舞踊に移って、体がフッと楽になる。詞章の問題、演者の資質によるのかもしれないが。

佐辺良和は『軒端の梅』を自作自演、『花売りの縁』では森川の子を演じた。薄紫の衣をまとった梅の精は、女踊り。初めてなので、女踊りという意識なく見たが、慎ましく、ふっくらとした艶があり、自然。動きが滑らかで、佇まいのみが目に見える。陶然とした。組踊では男役。すっぱりとした男らしい演技で、若い男の色香を放つ。菊之助の両性具有を連想させるも、舞踊家らしいストイシズムが芯にあった。

 

ナターリヤ・オシポワ @ 英国ロイヤル・バレエ団日本公演(6月26, 29日 東京文化会館大ホール/神奈川県民ホール

前回来日に続き、今回もやはりオシポワが面白かった。ワディム・ムンタギロフと組んでの『ドン・キホーテ』、セザール・コラレスと組んでの『ロミオとジュリエット』バルコニーシーン。登場しただけで笑顔になる。全身に気が漲り、一直線に役を生きることが予感されるから。バルコニーにジュリエットとして現れた時には、思わず声が出た。これから起こる逢引きの激しさが、立ち姿に表れていた。

ボリショイ・バレエ時代には、ふくらはぎの筋肉が目につき、男性並みの脚力、技術の高さのみが印象に残ったが、ロイヤル・バレエに来てからは、脚が歌うようになった。活きた脚の美しさ。プティが生きていたら、オシポワを使っただろう。

キトリはロイヤルの指導に沿いながらも、役の計算や思惑を超える楽しさがあった。思わず体が動いている。脚の切れと自在さ、マネージュの驚くべき早さ、正確さ。高さと飛距離のある跳躍には見る喜びがあり、陽性の資質を共有する菅井円加を思い出させた。扇子をあちこちに投げられて、恐らく体もあちこちされるせいか、パートナーのムンタギロフはやや疲れ気味。一方、四方に飛び散るようなジュリエットを、コラレスは動じず受け止め、丁々発止に踊る(全幕ではどうなるか)。可愛い子ぶるオシポワが可愛かった。

他には、ガラで『オンディーヌ』のパ・ド・ドゥを踊ったフランチェスカ・ヘイワードが素晴らしい。フォンテイン生誕100年を記念したプログラムの一つで、唯一彼女のオーラと香気を偲ばせる。妖しい妖精そのものだった。日本人ダンサーでは、平野亮一のデ・グリュー。武士のように力強く、真っ直ぐな個性を発揮した。東京シティ・フィルを率いたのは、新国立劇場でもおなじみのマーティン・イエーツ。自作(ピアノ譜から編曲)の『ドン・キホーテ』を嬉しそうに振っていた。

 

ディミトリス・パパイオアヌー @ 『THE GREAT TAMER』(6月28日 彩の国さいたま芸術劇場 大ホール)

題名の「偉大なる調教師」は神を連想させるが、パパイオアヌー自身のことかもしれない。時空間が怖ろしくコントロールされている。ワンショット、ワンショットがすべて絵になり、舞台の呼吸の乱れがない。そのため観客の呼吸も乱れない。全て演出家の美意識下に置かれ、何のためかも問われない。ダンサーたちは皆美しく、植物系のほどよい筋肉を纏っていた。このため裸が頻出しても、厭らしさがない。丹念に作り上げた美的世界が、厳然と存在している。

舞台は一畳の薄板を全面に敷き詰めた丘。男が向こう側から登ってきて、仰向けの裸の男に布をかける。すぐに布をあおる別の男。このシークエンスが何度も繰り返される。また、裸で仰向けになった女性の鳩尾を、片手で突きながら押し進める男。女は板の下の穴に滑り込む。明らかにピナ・バウシュを思わせる演出だが、ピナのようなダンサーの傷口を抉る残酷さ、退廃はない。また繰り返しの強迫性もなく、一定のリズムで絵柄を見せる面白さに重点がある。美的画面という点では、ロベール・ルパージュを思わせるが、演劇性はなく、意味を成す一歩手前。もう一つの世界を創りたいという欲望の結果として、作品は存在する。死生観は明るく、ユーモアあり。

ダンサーたちはよく訓練され、美的に統一されている。ダンスのムーブメントを作ってはいないので、振付家というよりも演出家だと思うが、ダンサーへの指示は振付と同じ精度に見える。

因みにムーブメントを「てにをは」の組み合わせでなく作った振付家は、マッツ・エック、ウィリアム・フォーサイス、マルコ・ゲッケ、山崎広太。

 

 

 

新国立劇場バレエ団『アラジン』2019

標記公演を見た(6月15, 16, 22昼夜, 23日 新国立劇場オペラパレス)。ビントレー版『アラジン』は2008年、牧阿佐美芸術監督時代に同団が初演したオリジナル作品である。2010/11シーズンから、ビントレー自身がBRBとの兼任芸術監督として就任。2011年の再演は、東日本大震災から一か月半後だった。当時劇場で配られたビントレー監督のメッセージを、以下に抜粋する。

Those who have lost homes and loved one's must feel many years away from the solace and healing that only time can bring, but the prayers and thoughts of all of us, safely delivered from the earthquakes worst, are with them....The dancers and I have been longing to get back on stage and dance for you and we hope that the charming and humorous story of Aladdin and his Princess, and their triumph over dark and sinister forces, has brought a much needed revival of your spirits after the recent tragedy.

大原永子監督下では、2016年に続いての再演となる。ビントレーの息吹が残る前回とは異なり、一レパートリーとして相まみえた印象。改めてビントレー作品の振付密度の高さ、運動量の多さに驚かされた。

壮大なテーマと舞曲・行進曲が有機的に絡み合う、カール・ディヴィスの音楽が素晴らしい。「宝石組曲」の様々な西洋舞曲、原作の舞台 中国を反映する五音音階、さらに踊りの求心力を高めるラーガ旋法が、次から次へと繰り出される。先行オペラ・バレエからのウイットに富んだ援用を含む、瑞々しく栄養豊かなバレエ音楽である。スコティッシュ・バレエ(2000)のために作られたが、ビントレー版初演に合わせて新たに曲が加えられた。

ディック・バード、スー・ブレインによるお伽話風美術と衣裳、マーク・ジョナサンのダイナミックな照明が、ビントレーの水際立った演出を支える。場面転換の鮮やかさ、ローテクを駆使した劇場マジック、緻密に計算されたダンサー出し入れ。これ程ストーリーテリングに長けた振付家がいるだろうか。意味のない動きは一瞬たりともない。振付自体はダンス・クラシックを基盤とするが、アダージョでの床面の使用など、モダンに振れている。生足ポアント(砂漠の風、プリンセスのお付き)のエロティシズムも、他のレパートリーにはない特徴の一つである。

主役のアラジンは、福岡雄大、奥村康祐、福田圭吾の大阪出身者で占められた。福岡は、舞台をまとめる懐の深さ、はじける演技、重厚な踊りが揃い、プリンシパルのトップにふさわしい舞台だった。踊る喜び、演じる楽しさが、動きの鮮やかさを増している。またジーン(井澤駿)への敬意に、福岡独自の役作りの深さが見えた。

奥村は前回よりも格段にたくましくなり、悪戯っ子の勢いにあふれる。千秋楽では小道具が手に付かなかったものの、舞台俯瞰の範囲が広がり、持ち味の女性との親和性も遺憾なく発揮した。砂漠の風たちとの阿吽の呼吸、母親との情愛に満ちた再会シーンに独特の味わいがある。

全幕主演初となった福田は、はまり役。動きの切れ、規範に則った踊り、何より体で音楽を生きる生来の音楽性がある。パートナーへの献身、周囲との細やかなコミュニケーションはいつも通り。持ち前の開放的な精神が、暖かな空間を生み出した。周りのダンサーたちにも、「福田のため」という気持ちが見え隠れする。

プリンセスにはそれぞれ、小野絢子、米沢唯、池田理沙子。小野は初日こそ、厳密な振付遂行が前面に出たが、2回目には、あの懐かしい ‟小野絢子” が蘇った(もちろんヴァージョンアップして)。舞台に薫風を運ぶ清潔な佇まい、瑞々しい音楽性、そして天性のユーモア。毒入り杯をぐるりと回して笑いを取れるのは、小野を措いて他にはない。本来の姿に戻った小野は幸福そうだった。また我々観客も幸福だった。

米沢は穏やかに相手を受け止めるプリンセス。奥村に対しては、幼馴染を見守るような、少し面白がる眼差しを向ける。出会い、結婚式、愛のパ・ド・ドゥ全てに、心をじんわりと温める澄み切ったオーラが拡がった。唯一米沢の裏面が出たのは、マグリブ人(菅野英男)への抵抗シーン。菅野の柔軟なサポートと無意識の包容力に、米沢の体が反応し、劇的なデュエットを作り上げた。

池田は、初演者のニュアンスを重視する丁寧なアプローチだった。初役とあって、まだ完全には自分の踊りになっていないが、マグリブ人誘惑の溌溂とした踊り、パ・ド・ドゥでの真っ直ぐなパートナー対峙に、池田らしさが出た。

第三の主役 ジーンは、井澤駿、渡邊峻郁、速水渉悟のそろい踏み。井澤は初日こそ立ち上がりが遅れたが、その後は重厚な肉体を駆使し、重量感のあるダイナミックな踊りで魔人の大きさをアピールした。斜めに腕組みするポーズが、歌舞伎の見得を思わせる。床に這いつくばるご主人様への挨拶は、魔人そのもの。福岡アラジンとの合掌挨拶には、熱い交感が見えた。

初役の渡邊は、踊りの鋭さ、真摯な演技に持ち味を発揮した。米沢プリンセスとの合掌挨拶は『R&J』の予告。真面目に愛を育む姿が目に浮かぶ。同じく初役で新人抜擢の速水は、まだ側近を率いる余裕がない。期待通りの鮮やかな踊りだが、役の踊りではなく、今後はドラマへの眼差しが望まれる。

マグリブ人には、悪の厳しさが出た菅野、妖しい魔術師そのものだった貝川鐡夫。菅野は酔っ払いの演技に秀でる。両者はサルタンにもたすき掛けで配され、愛情深い父を演じた。特に貝川は情の深さに加え、コミカルな演技に新境地を拓いている。

アラジン母には、さっぱり派の中田実里と、遠藤睦子=丸尾孝子の系譜に連なるさばけた派の菊地飛和。パイプ煙草のあしらいはまだ研究の余地ありだが、アラジンの頭をパッカーンと叩く小気味よさは、両人とも見事(いつから叩くようになったのか)。アラジン友人の木下嘉人=原健太、宇賀大将=小野寺雄の両組も、踊りの切れと機嫌の良い演技で、アラジンへの友情を示した。

宝石ディヴェルティスマンは適材適所。中でも、サファイア 本島美和、細田千晶の嫋やかな美しさ、エメラルド 寺田亜沙子のマジカルな腕遣い、ルビー 木村優里のダイナミズム(もう少し‟捧げる”気持ちを期待したいが)、ゴールド 中家正博の正統派クラシック、エメラルド 小柴富久修の妖しさ、同じく速水の踊りの巧さが目立つ。中家はサルタン守衛でも、音楽的で相手に呼応する演技を見せた。寺田はジーン側近も牽引。オニキスとパールと共に仮面付きだが、両陣とも溌溂とした献身的アンサンブルだった。

今回は初日、二日目キャストをポール・マーフィ、三日目キャストを冨田実里が指揮した。マーフィーは音の広がり、流れるようなメロディに円熟味を、冨田は明確な構造と強度の高い音作りで若々しさを発揮した。演奏は東京フィル。トランペットの生きの良さが印象に残る。

牧阿佐美バレヱ団『リーズの結婚』2019

標記公演を見た(6月8, 9日 文京シビックホール 大ホール)。アシュトン版『ラ・フィーユ・マル・ガルデ』(=『リーズの結婚』)は、1960年英国ロイヤル・バレエ初演。牧阿佐美バレヱ団では1991年に導入し、再演を重ねてきた。今年4月、新国立劇場バレエ団がアシュトン版『シンデレラ』(48年)を上演したため(牧阿佐美元芸術監督が99年に導入)、アシュトンの全幕代表作を続けて見る機会を得た。

両作とも、優れた音楽性、振付のクリスピーなアクセント、細かい足技が際立っている。英国風ウイット、パントマイム様式のトラヴェスティも共通。英国初の全幕バレエ『シンデレラ』では、上体の鋭い切り替えを伴う精緻なヴァリエーション、切れの良い幾何学的フォーメイションに、古典バレエに対するアシュトン独自の探求、実験性を見ることができる。

一方12年後の『ラ・フィーユ・マル・ガルデ』は、英国フォークダンス(モリスダンス、ランカシャー木靴ダンス、メイポール)、リボンダンス、ボリショイ風のグラン・リフト、ダイナミックな男性ヴァリエーション、ブルノンヴィル風の足技と、振付語彙は多岐にわたり、カルサヴィナ指導によるマリインスキー版のマイムも加わる。これら全てを牧歌的な音楽(ランチベリー編曲、エロールに基づく)と、アシュトンの力みのない円熟の振付手腕が、一つの世界にまとめ上げた(参照: Julie Kavanagh, Secret Muses, faber and faber, 1996 / La Fille mal gardée ed. Ivor Guest , Dance Books, 2010 )。アシュトンの孫世代を代表する振付家 クリストファー・ウィールドンは、本作を「もっとも完璧に作り上げられた物語バレエ」と語っている(『ダンスマガジン』2019年1月号)。

4年ぶりの今回は、振付指導にウィーン国立歌劇場バレエ団バレエマスターのジャン・クリストフ・ルサージュが招かれた。シモーヌを中心とするパントマイムシーンが明快になり、雄鶏の動きが野性的になった(人間を攻撃する)。カーテンコールでは鶏5羽が激しく羽ばたいて、牧歌的喜劇の後味を濃厚にした。

主役はWキャスト。初日のリーズはベテランとなった青山季可。様式を重んじる古典的なアプローチで、鋭い音取り、アシュトン・アクセントの切れ味に、振付への深い理解が見える。カルサヴィナ・マイムも慎ましやか。パ・ド・ドゥでは透明感あふれる詩情に、格調の高さを滲ませた。対するコーラスは清瀧千晴。明るい好青年そのままに、跳躍の高さ、回転の大きさなど、ダイナミックなヴァリエーションで個性を発揮した。

二日目リーズはバレエ団の中核を担う中川郁。確かな技術に裏打ちされた温かみのある踊り、コメディ・センスに彩られた真実味のある演技で、明るく伸びやかなリーズを造形した。舞台に自らの全てをさらけ出せる、自然体のプリマである。

対するコーラスは、菊地研の怪我降板で急遽代役となった元吉優哉。2015年ドミニク・ウォルシュ振付『牧神の午後』(09年)で、ラグワスレン・オトゴンニャムの牧神仲間として、東洋的エロティシズムの体現者となった。今回は持ち前の美しい踊りを存分に発揮。対話のようなサポート、役を心得た演技も揃い、ノーブル寄りの二枚目青年を、中川リーズと同じく自然体で演じ切った。今後の活躍が期待される。

第三の主役、リーズの母シモーヌには、当たり役となった保坂アントン慶。アシュトン版『シンデレラ』で見せた義姉同様、愛情深い母親である。喜劇のツボを押さえた演技、女装役特有の懐の深さと愛嬌に、優れた音楽性が加わり、舞台を牽引する強力な要となった。

演技的にシモーヌの相棒となるアランはWキャスト。初日の細野生は、ピュアで美しい踊りにアランの心根が見える。踊りと演技につなぎ目のない純粋な造形は、長年にわたる経験の確かな裏打ちを感じさせた。保坂シモーヌとの阿吽の呼吸、不思議な交感は、見る者全てを幸福にさせる。二日目は初役の山本達史。まだ照れのようなものが見え隠れするが、ノーブルな踊りを軸に、金持ちの息子というキャラクターを浮かび上がらせた。

アラン父のトーマスには京當侑一籠。恰幅のよい、大らかな愛情を持つ父親で、二人のアランの股くぐりを鷹揚に受け止める。持ち前の明るく暖かいオーラが舞台を温めた。公証人の塚田渉、書記の鈴木直敏も、熟練の演技で脇を固めている。

アンサンブルは牧歌的というよりもやや洗練に傾いているが、音楽的によく揃い、バレエ団の特色を伝える。その中で、リーズ友人 日髙有梨のリーズを祝福する自然な笑顔、農夫 坂爪智来の溌溂とした演技が、アンサンブルをまとめ上げた。

指揮はウォルフガング・ハインツ。東京オーケストラMIRAIから、くっきりとした厚みのある音楽を引き出している。

 

 

 

 

 

5月に見たダンサー・公演 2019

森下洋子 @ 清水哲太郎振付『眠れる森の美女』(5月3日 オーチャードホール)。

清水版『眠れる森の美女』は、清水独自のモダンな振付に混じって、ヌレエフの構成・振付が遺跡のように残り、バレエ団の歴史の一端を垣間見せる。森下(48年生まれ)のオーロラ姫は何度か見ているが、当然その時々の身体に応じた変化がある。今回はローズ・アダージョのアティチュードを、ドゥヴァンに変えて踊った。デリエールに比べると華やかさは減るが、気品や優雅さは増している。本来はこうだったのでは、とまで思わせる。二幕幻影の場でのソロ、及び、三幕グラン・パ・ド・ドゥでのソロの上体は、依然として国内(海外でも?)最高峰である。

森下ほどダンス・クラシックを追究したダンサーはいない。筋肉の極限までの意識化・細分化、フォルムの絶対性。現在も維持している上体の素晴らしさに加え、かつては脚の動きそれだけで、劇場空間を異化することができた。フランス派の脚が見せる機敏な運動性とは異なる、日本古典芸能に近づいた脚の感触だった。本来はバレエ団の垣根を超えて、現役バレリーナたちへのマスタークラスが開かれてしかるべきである。森下の貴重な財産を、少しでも残す方法はないものだろうか。

先ごろ現役引退を表明した吉田都は、松山バレエ学校出身だった。ローザンヌ・コンクール出場時の映像に見られる、明晰なテクニック、抜きん出た音楽性、鮮やかな脚の軌跡は、吉田が森下の後継者であったことを告げる。加えて吉田の個性、晴れやかな詩情が、すでに芽吹いていることにも驚かされた。英国系の慎ましやかな踊りに変わる以前の、ヴィルトゥオーゾ風の踊り(映像)に、吉田が辿ったかもしれないもう一つの道筋を思った。

 

Jason Respilieux @ ローザス『至上の愛』(5月9日 東京芸術劇場 プレイハウス)

『至上の愛』(17年)は、サルヴァ・サンチスとアンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケルが、ジョン・コルトレーンの同名曲(65年)に振り付けた作品。全編45分中、冒頭の15分は無音で踊られる。「承認」、「決意」、「追求」、「賛美」の4部からなり、4人のダンサーはコルトレーン(テナーサックス、ヴォーカル)、マッコイ・タイナー(ピアノ)、ジミー・ギャリソン(ベース)、エルヴィン・ジョーンズ(ドラムス、銅鑼、ティンパニ)とほぼ対応したパートを踊る。ソロから一斉ユニゾンになる瞬間と、ソロ演奏から全員演奏になる瞬間とが(当然だが)一致して、外から家に戻ってきたような暖かい快感をもたらす。

振付の分担は分からないが、アン・ドゥダン回転、腕を起点とする動き、後ろ走り、ナンバでの振り子動きは、ローザス的。そこに角ばった腕の動きや、フォルムを見せる動き、武術的なニュアンスが加わる。原曲の持つスピリチュアルな物語性の反映は、サンチスによるものだろう。

コルトレーンの Thomas Vantuycom は骨太でダイナミック。最終部の「賛美」ではキリストのように十字架リフトをされる。タイナーの Jason Respilieux は、動きがミニマルで、高度にコントロールされた踊り。ギャリソンの Robin Haghi はリハーサル・ディレクターだったが、急遽代役に転じた。癖のない温かみのある踊りが特徴。ジョーンズの Jose Paulo dos Santos はバネがあり、弾むような踊りだった。音楽(家)の個性に合わせた配役に思われる。

全員が PARTS の出身者でローザス所属とのことだが、唯一 Respilieux のみ、ダンスの質が異なっている。と言うか、ケースマイケルに近い。中盤、本来のピアノ・パートから離れて、ベースによる瞑想的なソロを踊った。内向きのコンパクトな動きで、体で考えているようにも、自分の体と対話しているようにも見える。ケースマイケルの色気や自意識はなく、淡々と枯れた踊り。ローザスの良心のようなダンサーだった。

 

中国国立バレエ団『赤いランタン』(5月10日 東京文化会館大ホール)

映画監督の張芸謀が、自作『紅夢』(91年)を基に演出したバレエ作品(2001年)。夥しい赤いランタン、床一面に広がる赤い布、壁に叩きつけられ血の跡を残す巨大な棒など、張の美学が息づいている。劇中劇の京劇や1920年代の風俗も興味深く、京劇役者とその観客が互いに抱挙礼をしたことに驚かされた。

振付(王新鵬、王媛媛)は個性を出すことよりも、物語に即した明快さを重視する。主役の感情表出はモダン寄りの振付、群舞は男女それぞれに、中国の身のこなしや武術を取り入れている。高水準のダンサーを含め、全体に「中国のバレエ」として過不足のない仕上がりだが、オケ・ピットが見える席だったせいか、音楽が最も印象に残った。

指揮は張藝、管弦楽東京フィルハーモニー交響楽団。ピットの中は指揮台を囲むように、中国民族音楽奏者が陣取り、舞台袖花道には打楽器奏者が配置されている(京劇の場面は、京劇の奏者が舞台上で演奏)。作曲は陳其鋼。中国民族音楽と20世紀初頭のフランス風音楽が違和感なく混じりあい、躍動感あふれるパーカッションに牽引される。篳篥チャルメラ)や胡弓の痛切な音が耳に残った。また麻雀の場面では、ピット全員が大きなソロバンを持ち、ジャラジャラと効果音を出す。見た目も音も楽しかった。東フィルメンバーは初体験ではないか。

現在の日本では、同時代作曲家にバレエ音楽を委嘱することはほとんどない。新国立劇場の『梵鐘の聲』を蘇らせることは難しいだろうか。細川俊夫委嘱の新たな「日本のバレエ」も見てみたい。

                      

 

蘆原英了『舞踊と身体』✖ 井口淳子『亡命者たちの上海楽壇』2019

前者は音楽・舞踊評論家の蘆原英了が、1920年代から70年代にかけて書いた舞踊エッセイを集めたもの(1986年 新宿書房)。クルト・ヨースの『緑のテーブル』予習のため、手に取った。ヨースの箇所は朧気、覚えているのはパブロワの遺骨をめぐる旅と、ゴンチャロワ夫妻訪問記のみだったので、再読することにした。

「思い出の舞踊家たち」、「舞踊の周辺」、「スペイン舞踊の世界」、「日本舞踊の身体」という章立て。記録としての価値もさることながら、蘆原の批評家としての立ち位置が面白く(ヴィグマンを認めない、バランシンは嫌い、プティが好き)、どんどん読み進めた。舞踊そのものについての見識も、当然ながら深い。日本舞踊と西洋舞踊の比較は、今読んでも新鮮だった。

戦前の『思想』に掲載された「菊五郎の眼」「三津五郎の足」「猿之助の口」、同じく『中央公論』掲載の「ナンバン」では、居所と能の関係、摺り足の起源、ナンバンの舞踊における意味など、多くを知ることができた。また、蘆原の行きつ戻りつする思考も格別の楽しさだった。

バレエ関係で一つ付け加えておくと、蘆原は「ボーモントを偲ぶ」において、あまりにも貴重なため誰にも教えたくない本を、ボーモントが自分にだけメモしてくれたエピソードを書いている。ブルノンヴィルの『エチュード・コレグラフィック』だった。

  『亡命者たちの上海楽壇』では音楽学者の井口淳子が、1920~40年代租界における上海楽壇の実態を、当時の新聞等から明らかにしている(2019年 音楽之友社)。概要は、

●(上海バレエ・リュスの本拠地だった)ライセアム劇場の歴史、客層の変遷

●上海楽壇における主役交代―英国人、フランス人から、革命を逃れたロシア人音楽家、亡命ユダヤ人へ

●当時演奏されたモダニズムからコンテンポラリーに至る音楽作品

●上海バレエ・リュス結成の経緯と上演作品一覧表

●極東のインプレサリオ、アウセイ・ストロークの生涯と、アジア・ツアーで招聘した音楽家舞踊家の一覧表

ストロークの右腕と言われた原善一郎の活躍

まず、ライセアム劇場の実態が、新聞記事やプログラム、様々な統計によって、立体的に分かったことが大きい。付属の上海工部局オーケストラ、また上海バレエ・リュスの上演作品一覧も、アーカイヴとして貴重である。バレエ・リュス旗揚げ公演では、ディアギレフ以降のモダン・バレエも上演されたとのことで、当時の上海の同時代性(西洋との)を改めて認識することができた。

標記2冊は、上海を本拠とする興行主 ストロークで繋がっている。蘆原が取り上げた来日舞踊家のうち、デニショウン舞踊団、アルヘンチーナ、サカロフ夫妻、グラナドス、クロイツベルクとページ、マヌエラ・デル・リオ(蘆原表記)が、ストロークのアジア・ツアー上海公演・日本公演一覧(井口)に載っている。それによると、デニショウン舞踊団は、国内では東京、名古屋、大阪、宝塚、サカロフ夫妻は、東京、大阪、京都、神戸を巡演した。

ストロークは、渡米途上にあったプロコフィエフの帝国劇場演奏会もプロデュースしたという(以下も井口による)。ストロークが最初に手掛けた大掛かりなアジア・ツアーは、1919年のロシア・グランド・オペラである。帝政ロシアの一流歌手25名、オーケストラ38名、合唱20名という大所帯で、東京(帝国劇場)、横浜(ゲーテ座)、大阪(中央公会堂)、京都(岡崎公会堂)、神戸(聚楽館、東遊園地劇場)、上海(オリンピック劇場、ライセアム劇場)、マニラ、インド(都市名なし)を巡業した。

日本では、『カルメン』、『アイーダ』、『椿姫』、『ファウスト』、『ボリス・ゴドゥノフ』、『ラクメ』、『トスカ』、『カヴァレリア・ルスティカーナ』、『道化師』、『リゴレット』、上海ではロシア語で(日本でも?)、『カルメン』、『リゴレット』、『ミニョン』、『スペードの女王』、『蝶々夫人』、『タイス』、『ユグノー教徒』、『デーモン』、『皇帝の花嫁』、『ジプシー男爵』、『ラ・ジョコンダ』、『ロミオとジュリエット』、『ラ・ボエーム』、『トロヴァトーレ』が上演された。現在のオペラハウス・レパートリーと全く変わらない作品群を、大正7年の人々が(ロシア語で?)聴いたかと思うと痛快で、ストロークの情熱と剛腕がありがたく思える。

ストローク1920年代以降、帝国劇場と朝日新聞社の財政的バックアップを得て、上海から日本に拠点を移そうとしていた。1937年英国出発直前の談話として「日本に国立オペラをつくるつもり、英国最高のオペラ団を極東に招聘することになるだろう」と述べたが、上海事変が起こり、活動停止を余儀なくされた。もしこの時、国立オペラができていたら...

戦後米国へ移住したストロークは、空路のアジア・ツアーを再開(戦前は大型客船)、メニューヒン等を招聘したが、日本で客死する。本書に詳述されたストロークの生涯から、彼がディアギレフと文化的に地続きだったことが分かった。日本がアジア・ツアーの一寄港地であったことも、インターナショナルな俯瞰から知ることができた。

新国立劇場バレエ団 『シンデレラ』 2019

標記公演を見た(4月27, 28, 29日, 5月4, 5日 新国立劇場オペラパレス)。99年団初演、1年半ぶり12回目のアシュトン版『シンデレラ』である。何度見ても尽きない面白さ、発見がある。クリスタル・カットを施された切れの良い主役・ソリスト振付、星の精群舞の幾何学的振付、宮廷群舞の込み入ったキャラクターダンス、さらに同時多発的な演技。アシュトンの古典バレエへの批評が詰まった傑作である。

今回は動きのメリハリを重視する演出に加え、冨田実里指揮、東京フィルによる音楽が、歯切れよくエネルギッシュなため、明るく元気な舞台となった。マーティン・イエーツがメロディに深く分け入り、テンポも緩やかであるのに対し、冨田はダイナミズムを保ちつつ、構造や適正テンポを重視する。舞台と呼応するパトスの表出も陽性だった。

主役キャストは4組。初日の米沢唯と渡邊峻郁は『不思議の国のアリス』と同じ顔合わせ。その時の駆け抜けるような瑞々しさとは打って変わり、今回は落ち着いた大人の雰囲気である。米沢の静かに包み込む座長的な懐の深さに対し、渡邊は真摯で誠実な演技で応えた。来季の『R&J』も同じ組み合わせだが、どのような恋人たちになるだろうか。

二日目の小野絢子と福岡雄大は、長年にわたるパートナーシップが安定した舞台を形作る。小野はアシュトン振付の機微をピンポイントで実現。炉辺での踊りに繊細な音楽性を滲ませた。一方、福岡は絵に描いたような王子だった。自分の個性とノーブルスタイルを見事にすり合わせ、ベテランらしい落ち着きと格調の高さを備えている。時々「ピルエットをしすぎて、頭のネジが2、3本飛んでる」という、小柴富久修(福田紘也?)の福岡評(「Dance to the Future 2019」)が頭に浮かんで困ったが。

三日目は木村優里と井澤駿。来季『R&J』でも組むダイナミックな持ち味の二人だが、パートナーシップを徐々に築いているところか。木村は伸び伸びとした演技で、不遇を感じさせず。2幕アダージョは風格があるが、もう少し王子との対話を聞かせてほしい。一方、井澤は階段に蹴躓くなど立ち上がりが遅く、3幕でようやく本来の姿が顕現した。虚構度の高さという点で、団先輩の山本隆之と似たところがある。「王子がそこにいる」のである。

四日目の池田理沙子と奥村康祐は、確かなパートナーシップを築いている。池田の役にはまり込む真っ直ぐな姿勢と、奥村の優しさ、作品への理解が噛み合い、胸を打つ2幕アダージョを作り上げた。心のこもった舞台。唯一、役に沿った感情の流れを感じさせた。二人の芝居心と個性は、『R&J』よりも『マノン』を思わせる。

もう一方の主役、義理の姉妹たちは、姉が持ち役の古川和則が帰還。細かい反応をそこここに差し挟んで、舞台を牽引する。妹想い。加えて自らをも俯瞰する眼差しが、ユーモアともつかぬ妙なおかしみを生む。音楽的な妹 小野寺雄が古川の愛情によく応えた。また奥村が、王子配役日を挟んで、姉娘の初役。華があり、王子同様ビロビロと広がるオーラをまき散らした。妹はすでにベテラン臭のある髙橋一輝。かつての姉 古川同様、芝居が細かく、また悲しげな無表情が愛らしい。

仙女は盤石の配役。本島美和は体の質を変え、仙女そのものと化している。一挙手一投足から滲み出る慈愛。幽玄だった。細田千晶は踊りも滑らかになり、柔らかい包容力が一段と増している。木村は大きくダイナミックな踊りで妖精たちを導いた。

道化も同じ。福田圭吾は暖かく王子に寄り添う献身派、木下嘉人はエスプリを利かせた爽やかタイプだった。共に脚技を駆使した鮮やかな踊りで、観客を楽しませた。父親の菅野英男は奥行きある深い愛情、貝川鐡夫は人情味あふれる優しさで、娘たちを見守った。

四季の精、王子の友人ともレヴェルが高い。中でも五月女遥(春)、奥田花純(秋)、寺田亜沙子(冬)、友人の中家正博、速水渉悟が印象的。速水はアシュトン振付を面白がる余裕がある。1幕職人たち、2幕ウェリントン=ナポレオンは各自に任されている模様。ナポレオン初役の渡部義紀も馴染んでいた。カツラの向きはどれが正しいのか。