井上バレエ団「バレエの潮流Ⅱ~ロマンティックからコンテンポラリーまで」2022

標記公演を見た(6月19日昼夕 東京芸術劇場プレイハウス)。「バレエの潮流」の第2弾。前回は2017年「ブルノンヴィルからプティパまで」という副題で、『ラ・シルフィード』第2幕より、『ジェンツァーノの花祭り』よりパ・ド・ドゥ、『ラ・ヴェンタナ』より第2(現3)景、『眠りの森の美女』第3幕が上演された。今回は、ブルノンヴィル振付『ラ・ヴェンタナ』全3景、島地保武振付『The Attachments』、石井竜一振付『グラン・パ・マジャル』という、バレエ団の特徴を生かしたプログラムである。

幕開けの『ラ・ヴェンタナ』は1856年、デンマーク王立劇場で初演された。54年プライス姉妹のために振り付けられた「鏡の踊り」*に、第2(現3)景の屋外シーンを加えて拡大させた作品である。第2(現3)景にはパ・ド・トロワ、セギディリヤが含まれ、後者はマジリエのバレエ『悪魔と4人』のセギディリヤ(P・タリオーニ振付、55年ウィーン)に部分的に基づいている**。

*「鏡の踊り」はロマンティック・バレエの人気モチーフだった。

** Knud Arne Jurgensen, The Bournonville Ballets - A Photographic Record 1844-1933, Dance Books, 1987, pp.90-93. 本書では「2景のディヴェルティスマン」とジャンル書きにある。公演プログラムは「全3景」。第3回「ブルノンヴィル・フェスティバル」プログラムには3景(tableau)とあるので、それに準拠した模様。1景は短く、プロローグとも考えられる。

ヴェンタナとは「窓」のこと。セニョリータとセニョールの恋の駆け引きが、街の人々の踊りと共に綴られる。第1景では、白ドレス、赤バラを髪に飾り、赤リボンを胸に付けたセニョリータが登場。入れ違いに、紫マントに紫上下服、黒い縁あり帽にギターを下げたセニョール、黄緑上下服に縦笛を持った従者が現れる。今からセニョリータへの音楽を奏でようというところ。第2景はセニョリータの居室。鏡のカーテンを開け、軽いステップで「鏡の踊り」を踊る。続いて窓から聞こえるギターと笛(実際はチェンバロとフルート)の愛の曲で、アントルシャ、プティ・バットリー多用の踊りを踊る。赤バラが投げ入れられ、赤リボンを投げ返すセニョリータ。

第3景は街の広場。カスタネットの音で始まる。セニョールの華やかなブルノンヴィル・ソロの後、黒ベールを被ったセニョリータがハープと共に登場。哀調を帯びた情感あふれる曲でセニョールと踊る。続いて従者と女性二人によるトロワ(アダージョ、女性ソロ、男性ソロ、女性ソロ、コーダ)。アチチュード・ターン、アラベスク・パンシェ、細かい足技、切り詰めた跳躍、最後はアン・ドゥダン・ピルエットのユニゾンで締める。明確なエポールマンと、クッと動きを止めるアクセントが特徴。続くセニョリータのソロは、セニョールや街の人々のパルマと共に。セニョールも加わり、さらにアンコール。最後はタンバリンを持ったセニョリータ、セニョール、8組の男女がセギディリヤを踊る。男女が向かい合う民族舞踊らしさ、全員でアントルシャするブルノンヴィルらしさ。全体に細かいステップや跳躍が多く、見ているうちに心がウキウキと湧き立つ。あっさりした構成、難技を易しく見せる これ見よがしのない振付遂行に、19世紀職人技の心意気が感じられた。

パ・ド・トロワは、アカデミックなスペイン・スタイルと前掲書にあるが、ブルノンヴィル・スタイルにしか見えない。振付の変遷があったのか。19世紀半ばヨーロッパを席巻したスペイン舞踊家達は、コペンハーゲンにも登場し、ブルノンヴィルは彼らと共にスペイン舞踊を踊っている(1840年)。直後にスペイン物『The Toreador』全2幕も制作(音楽:ヘルステッド)。16年後の本作はホルムがスペイン風音楽を担当した(ワルツはロンビュー)。ミンクスの『ドン・キホーテ』(1869年)に似た部分があり、インターナショナルなスペイン熱を思わせる。

主役はWキャスト。セニョリータとセニョールは、宮嵜万央里と浅田良和、阿部碧と檜山和久、鏡像セニョリータは、井上愛、井手口沙矢。トロワは3キャストで当日昼は、井手口・松井菫・川合十夢、夕は西沢真衣・根岸莉那・荒井成也だった。宮嵜、井上、井手口、西沢、松井、荒井は、長年に及ぶブルノンヴィル研鑽の跡を窺わせる。阿部は怪我で降板した源小織の代役とのことだが、ラインの見せ方などロシア系のニュアンス。若手の根岸は安定した技術の持ち主ながら、エポールマンの習得が望まれる。

ゲストの浅田は高い技術、献身的なサポートで、檜山はニヒルな色男振りで、川合は明確なエポールマンと折り目正しい踊りで、ブルノンヴィル本邦初演作に貢献した。振付指導は、38年の長きにわたりバレエ団との関係を深めてきた、エヴァ・クロボーグ、フランク・アンダーソン。額縁をモチーフとした美術は、デンマーク王立劇場版(2005年)を参考に大沢佐智子がデザインした。

2つ目の島地作品『The Attachments』は、バレエベースのコンテンポラリー・ダンス。ジャンル横断作品を数多くプロデュースしたバレエ団創立者、故井上博文が見たらどう思っただろうか。井上バレエ団に付設された舞台衣裳製作会社「柊舎」では、かつて山崎広太がチュチュを縫いながら身体模索を続けていた。島地はザ・フォーサイス・カンパニー、Noism 以前は、山崎作品の中心的存在だったこともあり、縁の深い起用と言える。

冒頭は、ラヴェルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』を使用した酒井はなと島地によるデュオ(3月初演)。老いをテーマに3度同じフレーズを繰り返す。パキパキとエネルギッシュなデュオから、落ち着いたデュオ、さらにゆったりとしたデュオへと変化する。振付はアクロバティックなパートナリングを軸に、クネクネした動き、空手の突きなどを採用。全てが音楽から生み出されている。マッツ・エックを思わせるのは、島地の実存が濃厚に反映されているからだろう。年齢を重ねていく男女二人のしみじみとしたデュオだった。

音楽を繋いで、バレエ団に振り付けたパートが始まる。ハイドン鍵盤楽器のための協奏曲(チェンバロ使用)の中間に、ブルージーなジャズの女声歌唱を挟み、3場を構成する。ハイドン部分はまるでモーツァルトのオペラのような軽快さ。音楽的な振付である。赤スーツにベージュの肌着を着た8人の女性ダンサー、2人の男性ダンサーが、バレエのポジションとくねる動きを混淆させた振付を果敢に遂行。酔っ払い動きや、不自然に長い停止状態など、これまで一度もやったことのない動きを生き生きと踊っている。宮嵜にはなぜかロン・ド・ジャンブ・アン・レール・ソテも。

中間部のジャズは、島地が照明係。シモテに現れて、ミラーボール、客席、ダンサーに光を当てる。まさに島地空間。白の上下を身に着けた男女が、接着する発泡スチロール製の三角、お椀二つ、ボールとバットなどを体に付けて歩く。藤井ゆりえの的確な振付理解に基づく音楽的踊りに続き、石田稀朋が摺り足で登場。ブルージーな歌の根っこを肚に入れた、気だるく濃厚なソロを踊った。最も衝撃的だったのは、荒井のほぼヌード・ソロ。肌色の肌着に赤いビラビラの紐状首飾りを付けて、ショーダンス仕様で踊る。張りのある臀部と脚を見せたあと、ライトを腹部に当てられながらカミテへと退場した。荒井の妙な味を見抜いた島地渾身の振付、荒井渾身の踊りだった。

石井の新作『グラン・パ・マジャル』は、グラズノフの『ライモンダ』を使用。「ロマネスク」に始まり、男女ソロ曲、3幕「パ・クラシック・オングルワ」、「ギャロップ」で構成される。ハンガリー色はなく、純粋なクラシック・スタイルのシンフォニック・バレエ。振付は全て音楽から生み出されている。音取りに当然違いはあるが、芸術監督だった故関直人の系譜を継いだと言える。明るく奇をてらわぬ作風で、ユニゾンの迫力などシンフォニック・バレエの醍醐味にあふれる作品だった。主役2人、ソリスト男女2組、アンサンブル男女6組、女性群舞というピラミッド構成だが、フォーメーションがやや詰まって見える。動きの躍動感を見るためには大劇場での再演が期待される。

主役は阿部と浅田、根岸と荒井の二組。阿部の伸びやかなライン、浅田のノーブルなスタイル、根岸の闊達さ、荒井の献身的サポートと、それぞれが個性を発揮した。ソリスト田辺淳、川合を始め、男性ゲストダンサーもクラシカルな味わい。石井はロシア派で育ったため、バレエ団のデンマーク=フランス・スタイルとの兼ね合いが今後の課題と思われるが、ノーブル・スタイル、技術強化の点でバレエ団に新風をもたらしている。大沢による背景画は、水色を基調に赤と黄色が上方を彩る印象派風。水色のチュチュとよく合っていた。

指揮の井田勝大はロイヤルチェンバーオーケストラを率いて、ハイドンからブルノンヴィル作曲家、グラズノフラヴェルまで、それぞれの時代に即した色鮮やかな音楽を紡ぎ出した。中劇場の親密な空間で、音楽が直に体を直撃する喜びがある。

5月に見た公演 2022

谷桃子バレエ団『眠れる森の美女』(5月4日昼夜 彩の国さいたま芸術劇場 大ホール)

2016年バレエ団初演のエルダ-・アリエフ版。監修のイリーナ・コルパコワはアリエフと綿密に話し合い、「この作品と、古いロマンティック・バレエのスタイルや雰囲気の特色を結び合わせること」を目標にしたと語っている。初演時には、プティパ時代の優美で調和のとれたスタイル、自然体のマイム・芝居が実現。舞踊が突出することなく、まるで水が流れるように物語が進行した。主な改訂は、1幕ワルツ、2幕パ・ダクション、3幕シンデレラとフォルチュネ王子の新振付。特にシンデレラと王子のパ・ド・ドゥは、アリエフの優れた振付手腕を明らかにしている。

今回は埼玉の子供たちがオーディションで参加する短縮版。ロシア現況のためアリエフ指導は難しく、初演時の優美なスタイルはやや影を潜めたが、バレエ団の地力は発揮された。主役は3組。初日マチネは馳麻弥と今井智也、同ソワレは山口緋奈子と三木雄馬、二日目は竹内菜那子と田村幸弘という組み合わせだった(二日目は見られず)。

初日マチネの馳は、2月公演「Love Stories in Ballet」で(ゾベイダならぬ)シェヘラザードを妖艶に踊り、個性を全開させた。どちらかと言うと強いキャラクターのタイプだが、『眠り』の1幕では繊細な可愛らしさを、3幕では品格を意識して、明るめのオーロラを造形した。ローズアダージョの長いバランスなど、高い技術は証明済み。主役としてはもう少し周囲との細やかなコミュニケーションを期待したい。対する王子の今井は、バレエ団のノーブルスタイルを体現していた。献身的なサポート、神経の行き届いたソロに、ベテランらしい成熟した味わいがある。

初日ソワレの山口は『オセロ』のエミリアで強烈な印象を残した演技派。今回も『眠り』が物語バレエであったことを再確認させられた。登場した瞬間から周囲と対話を交わし、舞台が生き生きと息づき始める。全ての振りから言葉が聞こえるのは、物語の全体像が体に入っているからだろう。繊細な腕使い、美しいライン、気品の揃ったオーロラだった。幻影の場の透明感あふれる体も素晴らしい。一方、陰影あるイアーゴー、慎ましやかなシャフリヤール王が印象的だった三木は、今回は規範に則った古典的な王子。品格あるノーブルスタイルを貫いた。もう少し笑顔を望みたいところだが、山口との呼吸は万全だった。2月公演で切れの良い『ドン・キホーテ』pdd を踊った竹内・田村組も見てみたかった。

カラボスには高岸直樹がゲスト出演。遠藤康行振付『Little Briar Rose』(21年 日本バレエ協会)での重心の低いカラボス、フリードマン版『R&J』(3月 NBAバレエ団)での激しく力強いキャピュレット公など、バレエ界全体のキャラクターダンサーになりつつある。今回はこれまでの蓄積が花開いた模様。大きく鮮やかな存在感に、美しい女性の香りまで漂う(既に白雪姫の義母を経験)。マイムと演技が融合する独特のアプローチは、初演時カラボスがバレエダンサーでなかったことと関係があるだろうか。直接アリエフに指導を受けていたら、もっとマイム寄りになった可能性も考えられる。これからどのような役が待ち受けているのか、非常に楽しみである。

フロレスタン国王は、初日マチネの内藤博がなぜか少しコミカルな演技、ソワレの小林貫太はリラの精と共に世界を善で満たす国王だった。行き届いた芝居を見せる王妃の尾本安代は、小林と呼吸が合っている。リラの精は初日マチネが森本悠香、ソワレが中川桃花。森本の風格あるリラ、中川の善の体現者としてのリラは、それぞれの主役に見合った配役と言える。

5人の妖精たちはWキャスト。前原愛里佳の呑気、星加梨那の勇気を始め、気持ちの良い古典スタイルを遵守している。フロリナ姫・青い鳥は、齊藤耀・池澤嘉政の繊細さ、加藤未希・市橋万樹のすっきりした技巧と対照的。シンデレラ・フォルチュネ王子は、永井裕美・昂師吏功、北浦児依・土井翔也人による瑞々しい愛のパ・ド・ドゥ競演だった。ベテラン菅沼寿一の練り上げられた狼、若手 松尾力滝の力強い長靴猫など、見応えのある童話ディヴェルティスマンだった。

 

スターダンサーズ・バレエ団『ジゼル』(5月15日 テアトロ・ジーリオ・ショウワ)

1989年バレエ団初演のピーター・ライト版。デニス・ボナーを振付指導に迎え、主役からアンサンブルまで、細やかな演技を身につけている。主役はWキャスト。初日のジゼルは渡辺恭子、二日目が喜入依里、アルブレヒトはそれぞれ林田翔平、池田武志、その二日目を見た。

喜入はこれまでドラマティックで強い役柄を踊ってきたため、ミルタ配役かと思われたが、今回はジゼル。1幕では村娘らしい可愛らしさをよく工夫して演じている。初役ゆえ、まだ自然な感情の発露には至っていないが、2幕では母性的で一本気な「喜入らしさ」を垣間見せて、今後の役作りへの端緒を開いている。対する池田はノーブルスタイルをよく意識したアプローチ。2幕では所々、立ち居振る舞いが素になることもあったが、初めての役を真っ直ぐに演じている。次回はもう少し感情を込めた造形を期待したい。ヒラリオンの久野直哉は無骨さがよく出た明確な演技。ミルタの杉山桃子は美しく艶やかな踊りで、夜の森にかぐわしい香りを漂わせた。4人とも身長が高いので、主役二人にドラマが生じた場合は迫力が増すだろう。

ウィルフリードの友杉洋之、ベルタの周防サユルの行き届いた演技もさることながら、最も驚かされたのがバチルドのフルフォード佳林。新国立劇場でのキトリ母で、生まれながらの役者と思っていたが、想像を上回る演技だった。登場した途端に、どういう人物で何をしようとしているのか分かる。好きに育って人は好いが、さほど周囲に興味はなく、思うがままに振る舞う。かと言って我儘ではなく、意地悪でもなく、もちろん世間知らずだが、貴族らしい品格を見せる。これまで見たバチルドの誰とも似ていない絶妙なあわいを、針に糸を通すように演じていた。父親クールランド公の鈴木稔も「仕様がないなぁ」と思いながら可愛がっている様子。鈴木父は洒落者で洒脱。熟練の狩猟長 鴻巣明史との阿吽の遣り取りが楽しかった。

パ・ド・シスのトップ西原友衣菜、西澤優希、また塩谷綾菜、佐野朋太郎(初日トップ)が牧歌的な踊りで村人アンサンブルを、ドゥ・ウィリの石山沙央理、東真帆が伸びやかな踊りでウィリ・アンサンブルを牽引した。また貴族アンサンブルの生きた芝居が1幕の悲劇を濃厚に彩っている。

テアトロ・ジーリオ・ショウワ・オーケストラ率いる指揮の田中良和は、装飾の多い編曲版をすっきりと演奏し、舞台と音楽を繋ぐ要となった。

 

ケダゴロ『세월』(5月27日昼 神奈川芸術劇場 大スタジオ)

表題の読みは「せうぉる」で、2014年に起きた韓国最大の海難事故「セウォル号」転覆・沈没を題材としている。乗客447人のうち325人は修学旅行の高校生だった。振付・構成・演出は下島礼紗。出演は、下島を含む5人のケダゴロ団員(女4、男1)、劇団東京乾電池団員(男1)、7人の無所属ダンサー(女5、男2)である。

舞台は0場(30分)から始まる。救命具のオレンジ色に塗られた平台をアーチ状に組み、その上にTシャツ・トレパンの生徒たちが立っている(一部座り)。無表情に、何かを耐えるでもなく、時おりトイレの我慢でモジモジしながら。上演前の注意アナウンスに続き、中央の4つのスピーカーから男性の声で同じアナウンス。さらに女性の声が何か言う。突然男性の声で「まもなく出航致します」。汽笛の音。生徒たちが驚いてアーチを離れると、平台が崩れた。生徒たちが重しとなってアーチを作っていたのだ。

舞台が船そのものとなって、ダンサー(と観客)が事故を体感していく1時間。シモテに全員が寄りかかり、スピーカーが斜めになる衝撃的場面。逆立ちになり「水くれー」と叫ぶ声、薄闇の中「暑いー、ヒュー」と呻く声。息を詰めて平台を運び、「ハー」と息を吐く生徒たち。階段状に組まれた平台をゴロゴロと横転する生徒たち、横転できない女生徒。斜めになった平台に乗りかかり、滑り落ちる生徒たち。平台を背負い、次々と倒れていく生徒たち。時折聞こえる女声アナウンス「カマニッソ(そこで待っていろ)」は、避難誘導が行われなかったことを示している。

もちろん見る側の体は鉛のように重くなり、事故を追体験したような心持になる。だが、そこに差し挟まれる朴訥な男声アナウンス、阿波踊りステップ、大股プリエ、ジムナスティック動き(倒立、倒立前転、仰向け跳び起き、前跳び回転)、人体の救命胴衣化といった振付が、下島のストイックな自己省察、抜群の運動神経と結びついた身体思考、巧まざるユーモアを示して、事故に対する安直な共感を禁じる。下島は次のように語っている(プログラム)。

企画が立ち上がった当初、ある舞台装置を使用することが計画されていました。今、思い出すと言いようのない激しい怒りが込み上げてきますが、それは「巨大な水槽」を使用するというものでした。色々な言い訳はあるにせよ、この事件のスペクタクルに無意識の高揚を感じていたことは否定できません。そんな演出を考えていたおぞましい自分への憎悪を震源地として、きょうまで創作を続けてきました。しかし、この題材は”表現されること”をことごとく拒絶し、作品を創ることでこの題材を選んだ責任を取ろうとする私を跳ね除け続けました。

1時間という区切りの中で、ダンサーたちの苦しい呼吸に見る側の呼吸も同期し、船内の状況を体感させられるが、同時に虚構の限界(当事者への理解不可能性)も共有させられる。見た後の胸苦しさ、体の強張りは、安全地帯にいるがゆえなのだ。

下島のユーモアは救命胴衣の場面で炸裂した。下島明(礼紗祖父)の「救命胴衣を、を、を、に、なってください」のアナウンス。直後、男性4人が「シュッシュッシュッシュ」と言いながら腕立て伏せをし(空気入れ)、立っている女性たちが体を膨らませる(救命胴衣化)。限界になると「ハーッ」と言ってぶっ倒れる。何回か繰り返すなか、男性が自分のTシャツの袖を食いちぎり、体を膨らませる女性の鼻に近づける。女性はたまらずぶっ倒れる。隣にいた下島は笑ったと思う。下島祖父は「上演時間はあと〇〇分です」、「この作品は状況が分からないので、乗客は早く離れる(べき)か、船長は判断してください」、「係員がご案内しますので着席のままお待ちください」といった、船と劇場を掛け合わせたアナウンスも。下島房子(礼紗祖母)による鋭い「カニマッソ」とともに、周到に演出されたアナウンスだった。

振付の面白さ、題材を自分の無意識の奥底に落とし込む思考の強さ、ダンサーを100%出し切らせる演出力(振付家の権力を自覚しつつ)がぎっしり詰まった濃密な1時間だった。

 

バレエシャンブルウエスト『タチヤーナ』(5月28日 J:COM ホール八王子)

演出・振付は今村博明・川口ゆり子。2002年に初演され、国内はもとよりキーウ、サンクトペテルブルク、モスクワでも上演された重要なレパートリーである。今回は、04年のキーウ公演、05年、06年の国内公演で指揮をしたアレクセイ・バクランを、避難先のポーランドから招聘した。バクランはプログラムで次のように述べている。

ウクライナ国立歌劇場で初めて『タチヤーナ』を指揮した時の鮮烈な感動は今でも忘れられません。チャイコフスキーの楽曲からの絶妙な選曲、オペラ『オネーギン』の世界を巧みにバレエ化した今村さんとゆり子さんの演出・振付、お二人のロマンチックで息の合った踊り、迫真の演技、深い洞察に裏打ちされた役作り、バレエシャンブルウエストの高いレベルのアンサンブル、どれも秀逸でした・・・今回がゆり子さんにとって最後のタチヤーナとうかがい、残念な気持ちで一杯です。ゆり子さんと今村さんはまさに日本のバレエ史に燦然と輝く至宝です。その輝きをいつまでも保ち続けてくださるようお祈りいたします。

バクランの言葉通り、マイムと舞踊の継ぎ目がないドラマティックで音楽性豊かな振付、紗幕使いの場面転換、登場人物の出入りが隅々まで計算された緻密な演出を誇る。江藤勝己選曲、福田一雄編曲によるチャイコフスキー音楽は物語と渾然一体となり、完全に使い切られている。またマイムがダンサーの体に入ったことで、物語の流れがより自然になった。生え抜きダンサーの年輪、アンサンブルの呼吸の一致は、付属スクールを持つバレエ団の長所と言える。

川口ゆり子のタチヤーナは円熟の極みにある。1幕の読書好きで人見知りの少女、その裏に秘めたロマンティックな情熱、2幕の憂いに沈む少女、3幕の気品あふれる社交界の華、貞節と情熱に引き裂かれる成熟した女性を、一挙手一投足に至る緻密な役作り、細やかな振付ニュアンスで描き出す。役を生きると同時に、全体を俯瞰する眼差しを忘れないのは、長年の主役経験によるものだろう。体の繊細な切り替え、リフト時に見せる絶対的フォルムの相変わらぬ素晴らしさ。体の隅々まで意識化されている。アクロバティックなリフトには1ミリの迷いもなく、舞台に体を投げ出す苛烈さに、精神そのものを見る思いだった。

対するオネーギンには逸見智彦。序盤のニヒルな佇まいにはやや硬さが見られたが、夢のパ・ド・ドゥ、終幕のパ・ド・ドゥの荒々しい情熱で本領を発揮した。クールな外見とは裏腹に、タガが外れた時に個性が光る。アクロバティックなサポートも切れがよく、川口を思い切り踊らせた。師匠の今村博明は絵に描いたようなスタイリッシュなオネーギンだったが、逸見は狂気に近い生な感情を川口にぶつけている。二人の呼吸もよかった。

吉本真由美の明るく邪気のないオリガ、山本帆介のノーブルで人の好いレンスキー、深沢祥子の美しく華やかなラーリナ、延本裕子の温かく懐の深い乳母、鈴木愛澄、土方一生、井上良太の庭師等が1幕を彩る。2幕パーティでは、芸人たちを率いる藤島光太の鮮やかな踊りが高揚をもたらし、決闘シーンではベテラン宮本祐宜のザレツキー、同じく奥田慎也のギリオが悲劇的な場を引き締めた。3幕では正木亮の大らかで温かみのあるグレーミンが、白いショールをタチヤーナに与えて、夫婦の絆を深めている。いつもながら、伸びやかな女性アンサンブル、ノーブルな男性アンサンブルが、全編を通して踊る喜びを体現した。

指揮のバクランは、大阪交響楽団から豊かで厚みのある音を引き出し、幕開けから終わりまで舞台を強力に牽引した。最後は川口と一体化する指揮ぶり。川口への深い敬意と愛情を感じさせる。今回は副指揮者(福田夏絵)を迎えることで、伝統を次代に伝える貴重な機会ともなった。

新国立劇場バレエ団『シンデレラ』2022

標記公演を見た(4月30日、5月1日、3日昼、5日 新国立劇場オペラパレス)。アシュトン版『シンデレラ』(48年/65年)は、1999年バレエ団に導入された。当時英国ロイヤル・バレエ プリンシパル吉田都現芸術監督もゲスト出演し、アシュトン振付の魅力を伝えている。プティパ研究に基づいた精緻でクリティカルな古典舞踊、英国パントマイムのエキセントリックな同時多発芝居、幾何学的で複雑なアンサンブルフォーメーション。74年を経た現在でも、新鮮さと強度を保った全幕物語バレエである(可愛らしい小姓たちは19世紀バレエへの賛歌)。今回は吉田監督就任後初、バレエ団としては13回目の上演となる。監修・演出はウェンディ・エリス・サムズ、マリン・ソアーズ。

前回との際立つ違いは、仙女と四季の精の踊り方にあった。腕使いと上体を連動させ、大きく柔らかく、切れ目のない動きが実践されている。結果、この世の者ではない透明感あふれる体が、デヴィッド・ウォ-カーの夢のような衣裳をまとって立ち現れた。吉田監督指導の賜物と言える。義姉(姉)と道化のタイプにも変化が見られた。これまでの主だった義姉(姉)は、マシモ・アクリ(7回)、古川和則(5回)、保坂アントン慶(3回)。いずれも乱暴だが華やかで妹思い。特に古川は自在な演技におかしみを滲ませる熟練舞台人の味わいがあった。

今回は奥村康祐(2回目)、清水裕三郎(初)、小柴富久修(初)。奥村は王子(5回目)、道化(1回)も踊り、芸域の広さを誇るが、清水、小柴共々、ノーブル寄りと言える。それもあってか、1幕の首飾り回しは重視されなかった(そもそも誰が始めたのか)。道化の木下嘉人(4回目)、佐野和輝(初 - 山田悠貴 故障降板で代役)も、いわゆる道化役と言うより、すっきりとした品格を持ち味とする。吉田監督の両役へのイメージを窺わせる配役と言える。義姉(妹)については変わらず。堀登(7回)の伝統を受け継ぎ、上演順に、小野寺雄(3回目)、福田圭吾(初)、髙橋一輝(6回目)が担当。小野寺の切れの良い動き、福田のエネルギッシュな造形、髙橋の自らをも俯瞰する懐の深い演技が、姉たちを支えている。

シンデレラと王子は4組。それぞれ組み慣れたパートナーのため、従来の安定した造形が踏襲された。初日の小野絢子と福岡雄大は、ベテランらしい落ち着いた舞台。小野はアシュトン振付の正確な実現、福岡は古典の精緻な踊り方に心を砕き、トップダンサーの気概を示した。阿吽のパートナーシップは言うまでもない。

二日目の米沢唯と井澤駿は、米沢の成熟が際立った舞台。役へのアプローチはこれまで通り、シンデレラを内側から生きる手法だが、古典の踊り方に新たな局面が見られた。特に2幕ソロのマネージュは、技術で圧倒するのではなく、パの細やかなニュアンスと絶妙なアクセントを組み合わせ、そこにある種の精神性を加えている。プリマとしてというよりも、アーティストとしての探求心を感じさせた。対する井澤はゆったりとした佇まいに王子らしさを漂わせた。今後は舞台への集中をさらに期待したい。

三日目の木村優里と渡邊峻郁は、これまでのパートナーシップをそのまま反映させた舞台。仙女を兼任する木村は、暖炉の傍よりも華やかな舞踏会で持ち味を発揮した。対する渡邊は優しく木村をサポートする。見た目もよく、舞台は滑らかに進んでいくが、観客を物語に引き込むという点では、まだ工夫の余地が残されている。

最終日の池田理沙子と奥村康祐は、徐々に築き上げたパートナーシップを基に丁寧な舞台を見せた。池田の緻密な役作り、感情を伴った踊りが、生き生きとしたシンデレラを造形する。直前に2回の義姉を踊った奥村は、ノーブルスタイルをよく意識した爽やかな王子だった。2幕パ・ド・ドゥではしみじみとした情感が醸し出される。奥村はこの幕で怪我を負い、3幕は井澤にバトンタッチしたが、池田と共に緊密な物語の流れを作り出した(次回公演『不思議の国のアリス』の白ウサギは残念ながら降板となった)。

*カーテンコールについてひとこと。米沢と池田は「カーテンコールも舞台のうち」を心得て、観客とのきめ細やかなコミュニケーションを実行しているが、小野と木村には物足りなさが残る。吉田監督現役時代のカーテンコールは、全身全霊が込められていた。舞台の余韻をさらに増幅させ、観客は幸福感に浸りながら家路についたものだ。画竜点睛を期待したい。

父親役には円熟の貝川鐵夫、指揮をしながらダンスを見るのが楽しみのようだ(1幕ダンス教師の場、2幕舞踏会)。地を生かした愛情深い父親だった。初役の中家正博は、3月の日本バレエ協会公演で米沢エスメラルダとフェビュスを踊ったばかりだが、今回は父親役。マイム・演技が明快で、心情がよく伝わってくる。ただし娘へのサポートがつい騎士風に。17年の王子役でアモローソの両腕伸ばしリフトを実行したとたん、空気が一変し、古典バレエの世界が広がったことを思い出した。

仙女は細田千晶と木村。はまり役だった本島美和は、深い作品理解と自らの人間性に基づく慈愛に満ちた仙女像を作り上げたが、細田もこうした域に達している。煌めくソロも素晴らしい。木村は華やかな存在感と力感あふれる踊りで、四季の精、星の精たちを率いている。一方、道化の木下は、道化に不可欠の知性と柔らかな踊り、佐野は素直な可愛らしさと柔らかな踊りで舞台を彩った。共にすっきりと控えめな演技が印象深い。

四季の精はWキャスト。いずれも吉田メソッドを遵守する柔らかでニュアンス深い踊りだったが、中でも飯野萌子(夏)は、優れた音楽性に、細部まで意識の行き届いた様式性豊かな踊りを見せた。踊りそのものを見る喜びがある。五月女遥(春)の粒だった踊り、柴山紗帆(秋)の正確で美しい踊りも、ピンポイントの音楽性を誇る。

ダンス教師の井澤諒、原健太、ナポレオンの髙橋、渡部義紀、ウェリントンの趙載範ははまっている。ウェ初役の渡邊拓朗は少しはみ出ている(それが持ち味だが)。職人たちは1回ポカもあったが面白い。福田紘也はまり役のエキセントリックな宝石屋には、今回 味のある上中佑樹が加入した。王子友人は速水渉悟が怪我から復帰、8人それぞれに見応えがある。古くなるが、昨秋の『ナット・キング・コール組曲』で渡部義紀のショーダンサーぶりに瞠目したことも付記しておきたい。

星の精アンサンブルの動きの繊細さと切れ味、体の美しさが素晴らしい。マズルカアンサンブルは生き生きと大きな動きで宮廷に活力を与えている。

指揮のマーティン・イェーツは東京フィルハーモニー交響楽団と共に、プロコフィエフの玄妙で美しいメロディを全身で紡ぎ出した。音楽への感動が直に伝わってくる。

2、3月に見た振付家 2022

2、3月に見た振付家について、メモしておきたい。

 

関口啓 @ 舞踊作家協会ティアラこうとう連続公演 No.220「Exploring Creation」(2月1日 ティアラこうとう 小ホール)

作品名は『Strategy』。出演はスターダンサーズ・バレエ団の小澤倖造、西澤優希による。逆扇型のこぢんまりとした舞台。バックには〇-✕=、床にも同記号が映されている。グレー衣裳が〇、茶の衣裳が✕の動きを担当(どちらが小澤、西澤かメモがなく不明)。床をスケートのコンパルソリーのように使い、そこから動きを生み出していく。互いに組むことも。コンタクトインプロとフォーサイス風ポジションの組み合わせにも見えるが、オーガニックな味わいが関口の特徴と言える。ミニマルな音楽も人の声のような感触。タスクはあるが人間的。アンシェヌマンの面白さ、動きの音楽性、振付家の緻密な思考が詰まったクリエイティヴな作品だった。関口の頭の中を視覚化した小澤、西澤も素晴らしい。

 

笠井叡✕山崎広太 @ 天使館ポスト舞踏公演『牢獄天使城でカリオストロが見た夢』(3月3日 世田谷パブリックシアター

天使館(1971~)の同窓会のような公演。笠井叡が1979年に渡独するまでの天使館は即興中心の自由な創造の場、帰国後はオイリュトミーの教場となった。笠井によれば、「旧天使館はプロ養成の施設とはま逆の雰囲気、新天使館はダンスの技術性を学ぶ場」(プログラム)とのことだが、印象としては、旧天使館出身者は自分の踊りを追求するダンサー、新天使館出身者は修養に重きを置く修行者に見える。オイリュトミーの儀式性、正面性がそう思わせるのだろうか。

新旧14人のダンサーが即興、または笠井の振付で、ソロ、デュオ、トリオを踊る。マーラーで総踊り、クセナキスで個々のソロ、バッハで笠井禮示ソロ、ロックで笠井叡ソロ、マーラーで総踊りという構成(途中、笠井久子の朗読が入る)。「作品」というよりも、笠井が様々な言葉と音楽で枠組みを作り、精神レヴェルを統一した「場」の趣。オイリュトミーが含まれるせいか、批評の対象ではないような気がして、まだらな気持ちのまま帰宅したが、公演を見た翌朝は早く目覚め、頭がすっきりしていた。礼拝か何か、精神性の高い気持ちのよい場に遭遇し、その空気を浴びた後のようだった。

今回の公演について笠井は「ダンスのインプロヴィゼーション性とコレオグラフィー性の融合と離反と言う観点から、見ることができるかもしれません」と語る。その意味で最も興味深かったのは、山崎広太(旧)がマーラーのアダージェットで、浅見裕子(新)、上村なおか(新)と踊ったオイリュトミー・トリオ。前半部で激しい即興ソロを踊った山崎が、笠井兄弟(瑞丈はコロナ陽性で降板)のパートナーたちと、フェミニンな振付を踊る。新しいボキャブラリーをじっくり味わい、体の感覚を試すように楽しげに踊っていた。

山崎は笠井と唯一拮抗する、または背反するダンサー。笠井の滑らかで分節不可能な音楽的ソロ(年齢不詳になる)に対し、山崎は体の重さ、物質的な音取り、クキクキと分節された動きでソロを踊る(時計をはめていた?)。暴力的に場を撹乱する一方、周囲や全体を注視し、静かにフェイドしていく慎ましさも。笠井が椅子に乗って登場した時には、なぜか正座をしていた。学び舎に戻ったような嬉しさにあふれた体だった。

作品全体と他の出演者については、呉宮百合香評(『オン★ステージ新聞』2022.4.15号)を参照のこと。

 

山口茜 @ サファリ・P『透き間』(3月11日 東京芸術劇場シアターイースト)

演劇公演と銘打っていて(芸劇 dance とも)、実際言葉が大きな役割を果たしているが、同じくらい身体性が重視される。山口は劇作家・演出家。サファリ・Pとは京都を拠点とする、パフォーマー(俳優・ダンサー)、技術スタッフ(照明・音響)、演出部(演出家・ドラマトゥルク)からなる劇団とのこと。

舞台には黒い長方形の台が16個。その透き間から、手、脚が見えては沈んでいく。もちろん 3.11 を想起。そのリアリティに気持ちが悪くなったほど。台本にはアルバニアの作家イスマイル・カダレの小説『砕かれた四月』が反映されている。カヌンという掟の話で、血族が殺害された場合、その一族の男性が仇討ちをしなければならない。もしこの復讐のフェーズがなかったら、3.11 追悼の作品になっただろう。団員を含む5人の出演者は、俳優とダンサーの区別がつかないほど、演技・ダンス共に秀でている。特にブレイク・ダンス(達矢)がドラマの中で効果を発揮するのを初めて見た。

 

黒田育世 @ 再演譚 vol.1『病める舞姫』『春の祭典』(3月11日 KAAT神奈川芸術劇場 大スタジオ)

『病める舞姫』(18年)は、土方巽の同名散文集を基にした自演ソロ作品。今回は鈴木ユキオが全く同じ振付で踊る。『春の祭典』は『落ち合っている』(14年)の劇中ダンスとして創作された。共に再演ながら初見。『病める舞姫』は鈴木が踊ったのでよく分からなかったが、『春の祭典』は以前見ていた黒田作品の印象と全く変わらなかった。

春の祭典』は振付家にとって作品の大きさ、高難度の音楽に、ややもすると押しつぶされそうになるチャレンジングな作品だが、本作は作品上演史を忘れさせるくらい、全くの黒田作品だった。パトスの強さ、自傷行為に近い暴力的な動き、振付家の生の肉体感覚が、全編を通して炸裂する。主演の加賀谷香はバレエのライン、パの明確な美しい体に、狂気を漂わせた。母子の踊りとあるので、母役なのだろう。子供たちは「BATIK」のメンバー。ベテランの大江麻美子が、若手6人の女性ダンサーを駆り立てるように激しく踊る。大江は番頭役か軍曹役。さほどエキセントリックに見えない若手たちも、憑りかれたような陶酔感を踊りに滲ませる。加賀谷も加わった左右グランバットマンのユニゾンは迫力があった。女の血の結びつきだろうか。

『病める舞姫』は土方の言葉を随所に視覚化させた誠実な作品。音楽は伊福部昭を使用。四角い舞台の周りを、鈴木が枝を押し頂いて歩行する。鈴木によるバレエ歩きゆえに儀式性が際立った。ロン・ド・ジャンブ、アチチュードターンなどバレエ寄りの振付も、黒田が踊った時より異化効果があるだろう。胞衣(?)を股から引っ張り出す行為には、生々しさがなく、舞踏の両性具有を思わせる。鈴木は淡々とニュートラル。観客に感情移入を許さず、遮断する感じ。ミラーニューロン作動を禁じている。恐らく黒田とは真逆のソロだったのではないか。不思議な体だった。

 

馬場ひかり現代舞踊協会「時空をこえる旅 - 舞台 - へようこそ」Bプロ(3月21日 東京芸術劇場プレイハウス)

作品名は『COSMIC RHAPSODY - 宇宙狂詩曲 - 』。師匠 芙二三枝子のゆったり体を継承しつつ、コンセプトへのアプローチ、衣裳(岩戸洋一・本柳里美)、選曲に独自性を見せる。宇宙を題材とするが、その壮大さよりも、馬場の濃密な思考を辿るところに面白さがあった。14人のダンサーたちを振付の駒とはせず、喜びと共に自らのヴィジョンに引き寄せている。フォーメーションも緻密。美術、音楽、振付の揃った円熟の作品である。

「月の暈」と題された馬場のソロはゴージャスだった。青白ライトのなか、突起物のあるピンクのオールタイツを身に着けた馬場は、よく利く体に、ゆったり動きと、なぜか舞踏のニュアンスを加えている。震えながら突っ張る。回転してはよろける。またニジンスキーの牧神動きも。今現在の馬場の体と思考が横溢した、瑞々しく強度の高い踊りだった。照明(加藤学)も素晴らしい。

スターダンサーズ・バレエ団「Dance Speaks 2022」

標記公演を見た(3月26日 東京芸術劇場 プレイハウス)。演目は、バランシン振付『セレナーデ』(35年/83年)、カイェターノ・ソト振付『マラサングレ』(2013年/22年)、クルト・ヨース台本・振付『緑のテーブル』(32年/77年)。1930年代のモダンバレエ作品の間に、今世紀のコンテンポラリーダンス作品が挟まれる 興味深いトリプル・ビルである。

幕開けの『セレナーデ』はバレエ団の重要なレパートリー、5年振りの上演である。初日は渡辺恭子、塩谷綾菜、喜入依里、西澤優希、林田翔平、二日目は塩谷、渡辺、杉山桃子、久野直哉、林田の配役。その初日を見た。指導は前回と同じくベン・ヒューズだが、出演者26人中、作品経験者は9名ということもあり、これまでとは全く異なる感触だった。メリッサ・ヘイドン由来(と思われる)の生々しい情感は後退し、親密で暖かい雰囲気が漂っている。劇的というよりも詩的。最終場面もパセティックではなく、薄明りに消えていくようなはかなさが漂った。渡辺の華やかさ、塩谷の規範に則った踊りと詩情、喜入の太っ腹な貫禄が三つ巴となる。林田と西澤はノーブルな味わい。ベテラン率いるアンサンブルの呼吸の一致は変わりなく、バレエ団の優れた音楽性を証明した。

二つ目はソト作品『マラサングレ』。ソトは75年バルセロナに生まれ、当地とハーグの舞踊学校で学ぶ。ミュンヘン・バレエ入団後、初の振付作品がレパートリーに。その後フリーの振付家として、欧米各地で作品を提供している。日本でも昨秋、新国立劇場バレエ研修所のコンサートで『Conrazoncorazon』の抜粋が上演された。指導は今回も担当した新井美紀子。ショーアップされたダンス、黒ハイソックスが共通する。

題名の『マラサングレ』は「悪い血」を意味する。キューバ出身の歌手ラ・ルーペことグアダルーペ・ビクトリア・ヨリ・レイモンドへのオマージュ作品。彼女のだみ声に近いエキセントリックな歌に合わせ、床一面に撒かれた黒い紙屑(に見える)を踏みちらしながら、10人の男女が激しく踊る。男性は上半身裸、白スカートに黒ソックス、女性は白シースルーTシャツに黒ブラジャー、黒ハイソックス。ソロ、デュオ、トリオ、総踊りが、切れの良い出入りで次々に展開された。

初日は小澤倖造、加地暢文、関口啓、飛永嘉尉、冨岡玲美、フルフォード佳林に、1週間前 神戸で本作を上演した貞松・浜田バレエ団の切通理夢、名村空、水城卓哉、宮本萌が加わった。ユーモアを交えながらも、マチズモ全開の喧嘩のような踊り。特に水城のたくましさ、フルフォードの鉄火肌が目につく。女性がドスを利かせて「ハイハイ」と言うと、男性一列が「クンクン」とカミテに引っ込む場面も(逆マチズモ)。ラテン風の細かいステップよりも、プリエを深く使い、上体を大きくくねらせる土俗的な味わいが印象深い。ペーソスなくカラッとした怒りを含む、腹から踊るダンスだった。顔を確認しようとオペラグラスを覗いていたら終わってしまった。15分は短い。

最後は『セレナーデ』と並ぶ重要なレパートリー『緑のテーブル』。2020年バランシン振付『ウェスタン・シンフォニー』と共に、14回目の上演が行われる予定だったが、コロナ禍のため中止に。今回ロビーで販売された2年前のプログラムには、『緑のテーブル』作品紹介、クルト・ヨースの小伝、ヨースの娘で振付指導者のアンナ・マーカードと小山久美総監督による対談(05年)、32年の「国際振付コンクール」で本作初演を見た江口隆哉のエッセイ、当団における本作上演の歴史が掲載され、貴重な資料となっている。特にマーカード=小山対談では、本作のエッセンス、スタイル、音楽、さらにヨースが影響を与えたチューダー、クルベリ、ピーター・ライト、ピナ・バウシュについての言及があり、当団レパートリーにおけるヨース、チューダー、ライトの必然的流れが浮き彫りとなった。

作品は「死の舞踏」をモチーフに、戦争の始まりから、戦争が引き起こす様々な悲劇、戦争の終結までを、モダンダンスとバレエを融合させた力強い振付で描く。現在の世界状況と合致する普遍的な力を、依然として持ち続けている。指導は前回同様、マーカードの跡を継いだジャネット・ヴォンデルサール。ヨースの息吹を感じさせる生き生きとした舞台を作り上げた。ピアノも同じく小池ちとせ、山内佑太。ハバネラ、ワルツ、葬送行進曲等、劇的かつ引き締まったピアニズムで舞台を大きく支えている。

ヨース自身が踊った「死」は池田武志。前回よりも実質的な存在感が増している。ソロは呼吸が深く、内側からの力が漲っていた。世界を統べる存在であることがよく伝わってくる。前任者の新村純一は、求心力のある体で悲劇的なドラマを作り出したが、池田は体の大きさを生かすボワッとした存在感で、死すべきことが常態であると示した。死が常に人に寄り添い、救いともなるような明るさがある。

騎手の林田、若い兵士の佐野朋太郎、若い娘の早乙女愛毬、(パルチザンの)女のフルフォード、老兵士の大野大輔、老母の喜入、戦争利得者の仲田直樹、兵士たちの加地、関口、渡辺大地はそれぞれ適役。特に大野のどっしりとした存在感、仲田の軽妙な動きが印象深い。老母の喜入は覇気があり、「死」と互角に見えた。黒服紳士アンサンブルの切れの良さ、避難民、娼婦の女性アンサンブルも気迫がこもり、動きが明快。ヨース振付の意図するところを的確に示している。

プログラムもよく、高レベルのパフォーマンスを堪能したトリプル・ビル。今後は鈴木稔(新作コンテ期待)を始めとする所属振付家作品との組み合わせも見てみたい。

東京シティ・バレエ団「トリプル・ビル 2022」

標記公演を見た(3月10日 東京文化会館 大ホール)。本来は1月、新国立劇場中劇場での公演だったが、関係者のコロナ陽性が確認されたため、場所を変えて3月の開催となった。プログラムは、山本康介振付『火の鳥』、ウヴェ・ショルツ振付『Octet』、パトリック・ド・バナ振付『WIND GAMES』。当初組まれたバランシン振付『Allegro Brillante』は、コロナ禍で指導者の来日が困難となり、ショルツ作品に変更。さらに、ド・バナ作品は2020年7月の上演予定が、緊急事態宣言の影響で延期されたものである。波乱含みの公演ながら、東京文化会館のピットでは、井田勝大指揮、東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団が、濃厚なストラヴィンスキー、瑞々しいメンデルスゾーン三浦文彰独奏による鮮烈なチャイコフスキー・ヴァイオリン協奏曲を奏で、音楽的充実を印象付けた。

幕開けの山本版『火の鳥』は、夜の森、月明かり、コンビナート爆発、監視塔といった不穏な映像(笹口悦民)から始まる。幕が上がると、中央にはきのこ雲のような林檎の木。民話の素朴な味わいよりも、ホラー系の雰囲気が漂う。衣裳(桜井久美)は、火の鳥の赤チュチュを除くとモダン路線。ただし最後は全員白い着物を羽織って終わる。王子が火の鳥に貰った日本刀でカッチェイを切り殺すという、和風の設定ゆえだろうか。暗雲の垂れ込めるような映像に対し、衣裳はキッチュなまでに華やか。視覚的統一よりも相互作用を求めたのだろう。

振付は、フォーキン原振付やマイムに、姫と王子のパ・ド・ドゥ、侍女や手下の躍動的なアンサンブルを加えたクラシック・スタイル。和風の動きは採用せず。物語バレエとシンフォニックバレエを合わせたような味わいだが、山本の小品に見られる抒情的で繊細な音楽性は後退している。物語の骨格を考えたせいだろうか。山本の長所は音楽を細かく腑分けし、そこからドラマを立ち上げる点にある。再演に向けてさらなる音楽的アプローチを期待したい。

火の鳥の中森理恵は硬質な踊り。野性味や奔放さはなく、美しいラインを誇る火の鳥だった。対するイワンの濱本泰然はノーブルな造形。カッチェイを刀で切るという単刀直入さとは相容れなかったが。カッチェイの内村和真、王女の清田カレンは適役、元気のよい手下と侍女をそれぞれ率いた。

2つ目は再演を重ねるショルツ作品『Octet』。東京シティ・フィルの瑞々しい弦楽八重奏に乗って、快調に滑り出した。繰り返しシークエンスの懐かしさ、いきなりアラベスク、いきなり膝抱え、いきなりルルヴェの楽しさ。動きの流れが気持ちよいのは、全て音楽から生み出されているから。木村規予香指導の下、新キャストも加わり、バレエ団は生き生きとしたパフォーマンスを繰り広げた。3楽章の福田建太は幼さが抜け、男性の色気が備わってきた。独自の音取りと動きに面白さがある。

最後のド・バナ作品『WIND GAMES』は、ド・バナがチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を聴き「平原を駆け抜け鷹を放って狩猟する遊牧民の姿が浮かんだ」ことから創作された。明確な物語はなく、植田穂乃香とキム・セジョンのデュオを中心に、吉留諒のソロ、4人の女性、2人の女性、4人の男性が様々な関係性を紡ぎ出す。植田は赤のロマンティック・チュチュ、女性4人は白のロマンティック・チュチュに細い2本の三つ編みが顔を跳ねる。男性陣は上半身裸で、黒ズボンという衣裳。振付はコンテンポラリーの語彙を基盤に、正座やフラダンス風動きなど、民族舞踊のニュアンスが加わる。動きが内面から生まれる点、ダンサーを巻き込むパトスの強さを含め、やはりベジャールを思い出させる。

ソリスト吉留の情熱的で鮮やかなコンテの動きに驚かされた(これまでクラシックしか見てこなかった)。ベジャールダンサー首藤康之の系統だったのか。キムは均整の取れた美しい肉体を駆使し、重厚な存在感を、植田は堂々とした立ち姿に風格を漂わせた。ダンサーたちはド・バナの熱い肉体を通したチャイコフスキーに、持てるエネルギーの全てを投入、全身全霊でド・バナの愛情に応えている。

国内外の振付家作品を踊る意欲的なトリプル・ビル。音楽的にも変化に富んだ組み合わせだったが、一方で、所属振付家作品を踊る機会が減っている。そのうちの一人、中島伸欣の作品評を以下に再掲する。昨年東京シティ・バレエ団「シティ・バレエ・サロン vol.10」で上演されたスタジオカンパニーによる『Movement In Bach』である。

中島曰く「創作する時は絵コンテを描くが、今回は音楽のみで創った」。20年はコロナ禍の人々を描く問題作、19年は今回と同じく音楽のみの作品だった。以下はその時の評

中島作品『セレナーデ』は、ドヴォルザークの「弦楽セレナーデホ長調」を使用。ネオクラシカルなスタイルで、中島らしい諧謔味があちこちに付される。特にフレックスの足技が可愛らしい。背中を丸める、膝を曲げるなど、体のアクセントも面白く、明るく晴れやかな音楽性が横溢する。バランシンの引用もあるが、オマージュと同時に、捻りを加えて楽しんでいる様子あり。愛のアダージョは例によって対話のごとく雄弁だった。音楽から汲み取ったものが余さず形になった、瑞々しく機嫌のよいシンフォニックバレエ。レパートリー保存を期待する。(19/12/20)

今回はバッハの「ヴァイオリン協奏曲第1番」「2台のヴァイオリンのための協奏曲」を使用。冒頭、黒いスポーツウェアに煉瓦色タイツ、黒サングラスの女性たちが無音で動き始める。音楽が入ると、楽器と呼応して三々五々、ステップはなく、両腕のみでクネクネと動く。なぜバッハでこの動き、と思うが、確信に満ちた振付。続いて奥から男女が出現。男は白シャツに白ズボン、女はピンクワンピースにピンクタイツ。極めて音楽的なパ・ド・ドゥである。見る側も、音楽、動きと共に体がほぐれ、暖かくプリミティヴな喜びが胸一杯に広がった。男の両耳を後ろからつまむ女、男の胸をツンと突く可愛らしさ。肉体から逸脱しない愛の形、美しく声高でない、中島にしか作れない愛のパ・ド・ドゥだった。続く「2台の」では水色と藤色のワンピースを着た4人の女性が、ポアントで左右に揺れる動きを見せる。音楽に合わせるのではなく、戯れる感じ。リズムよりも曲想が動きとなっている。中島の素晴らしい音楽性を改めて確認した。

スタジオカンパニーの育成公演ながら、中島の創作エネルギーがダンサー、観客に伝播、クリエイティブな喜びがホールを満たす。人間としての誠実さ、生活の根っこ、嘘の無さが、小声で可愛らしく伝わる新作だった。(11月6日 豊洲シビックセンタホール)

ぜひバレエ団員にも踊って欲しい。

長谷川六先生を偲ぶ2022

昨年3月30日に亡くなられた長谷川六先生を偲び、これまで書いたダンス評をまとめて掲載する。表題(緑太字)前の日付はブログ掲載日。

 

2012-01-15

長谷川六の踊り

実演者として、批評家として、プロデューサー(教育者)として、特異な歴史を刻んでいる長谷川六氏。氏の舞踊公演について昨年と一昨年のものをアップする。

「自由であれ」                            

 長谷川六の『櫻下隅田川』を見た。客電が落ちても、客席は落ち着かない。後方で紙をめくる大きな音、携帯音が鳴り、通路では遅れてきた親子連れの声、「あ、六さんだ!」。そうしたざわめきを物ともせず、長谷川は悠然と舞う。清濁あわせ呑む風でもなく、無関心でもなく、ただ一期一会を貫いている。

 舞台は空間的にも時間的にも厳密に構成されていた。助演の中西晶大にはおそらく細かな指示が出されているだろう。二人の動きの質的変化は徹底してコントロールされている。しかしその場で実際感じられるのは、セッション感覚、何も前提としない究極の自由である。来る局面ごとに長谷川の体が反応し、動いているように見える。しかもその反応は深部に生じて、肉体は力みなく静かに漂っている。これまで見せてきた地母神のようなパワー、気の漲り、エロスの横溢は消え、消えたこと自体も想起させない新たな境地だった。

 助演の中西はモノとして存在する能力を持つ。亡霊のように、あるいは精霊のように狂母の傍らに佇む。仄暗い照明を浴びて蹲る姿は、石仏かイコンのような聖性を帯びていた。長谷川の空間で生きることのできる、自立した踊り手である。

 能を基に身体を使った作品だが、受ける感触は音楽に近い。刻々と変わる微細な動きが、快楽を伴って感覚を刺激する。ただし動きの解釈は拒絶され、思考は麻痺したままだ。ベケットのような空間、または能のエッセンスを抽出したような舞台。メッセージは常に「自由であれ」である。(2011年7月7日 シアターX)

     * * *

「鎮魂の舞」

 長谷川六が『薄暮』の2010年版を上演した。87年の初演。能の形式を採り、前後二場を長谷川のソロ、間狂言はその都度変わる。今回は韓国現代ダンスの南貞鎬(ナム ジュンホ)が務めた。この作品は「天声人語」(朝日新聞)に書かれた沖縄の一人の老女から、インスピレーションを得ている。神山かめは夫をニューギニア、長男をスマトラ、次男を沖縄で失う。以来、膏薬を体に貼りながら反戦行進を続けてきた。長谷川はこの老女の慟哭を身体化し、能の形式を用いて老女に救いを与えている。

 作品は例によって長谷川の美意識の具現だった。カミ手にギターを持つマカオが登場する。生演奏と歌に同時録音のエコーをかぶせ、ブルースの感触とミニマルな現代性を行き来する。その傍らで長谷川は土色の長衣を身につけ、狂女のように髪を逆立てて佇む。音楽とは交感のようなセッション。音楽によって長谷川の体が劇的に変わることはないが、集中が増し、体の統一が促される。老女神山となった長谷川は、夫への想い、子への愛情を少ない動きで表現、ほの暗い照明の中で己の肉体との対話を続けた。

 長谷川の横の動きは美的。日本刀のような厳しさを帯びた右腕と、微細な手の動きが尋常ならざる美しさである。一方、前後の動きは危機を孕む。世界が瓦解するのではと思わせる危うい歩行。舞踏を経由した果ての現在のすり足なのだろう。かつては今よりもポジティヴな気のみなぎる神山かめだったかもしれない。現在は静か。しかしこれを衰えと思わせないのは、長谷川の肉体の探求が継続しているからである。

 間狂言を挿んでの後半は一面海の底だった。鬱金色の鉢巻きに水色の長衣、クリーム色の打ち掛けを着た長谷川は、鳥のように両手を広げてたゆたう。海の底で神山かめは長谷川によって救いを与えられる。膏薬を貼って歩き続けた神山への、まさに鎮魂の舞だった。

 間狂言の南は黒い袖無しTシャツ、クリーム色の柄物スカート、黒いベタ靴という日常的な装いに、赤い紅を両頬に丸く塗って滑稽味を添えた。相方はベースの斉藤徹。南が「斉藤さーん」と呼んで掛け合いが始まる。圧倒的な美意識を誇る長谷川の空間とは異なり、南の空間は日常性から発するコミュニケーションの場である。互いの即興に耳を傾け、動きを見守る。南の韓国舞踊に由来するエレガンスと暖かさ、内側からスパイラルに広がる肉体がすばらしい。斉藤の音もいつしか韓国太鼓のように響いた。どんなリズムでも三拍子を拾う南の軽やかな足踏み。踊りの愉楽と、無垢でユーモラスな対話が横溢した空間だった。

 南の間狂言を入れたことで改めて、長谷川の演劇と美術への傾斜が明らかになった。実演者として批評家として、日本ダンスシーンに多くの栄養を注ぎ込んできた歴史を思った。(2010年7月7日 シアターX)

 

2012-07-11

長谷川六最新ソロを見る

批評家、ダンサー、プロデューサー、教師として、日本ダンス界で独自の地位を築く長谷川六のソロを見た(7月10日 キッド・アイラック・ホール)

長谷川は、日本画家間島秀徳による巨大な円筒二基の間で、湯浅譲二の40年前の曲をバックに踊った、と言うか、居た。円筒が陰になってほとんど見えない位置(私)。時々長谷川の研ぎ澄まされた美しい手がぬっと出てくる。ガラス玉をばらばらと落とす音が、食べ物をこぼすようにユーモラスに聞こえる。円筒にしゃぶりついたり(ほんとはいけないこと、絵の具が落ちる)、左右の椅子を行ったり来たりして見た。左の女性はすごく迷惑そうにしていた。集中できないからか。でも見えないことに怒っている風も。

湯浅の音楽はノイズ風で、アフタートークの時、音量が足りないとの湯浅の苦言あり。長谷川が使用する音とは違って、生の荒々しさがある。そのため、いつもの美的に洗練された空間とは異なる破れ目、裂け目が生じた。踊り自体も音に立ち向かっているような、対話しているような切迫感があった。キュレーションの面白さだろう。

こういう事故的パフォーマンスだったが、と書いて思い出したのが、終盤の長谷川。若い男の子二人にガラス玉を拾うよう命令、また正座で見ていた女の子に立つように促した。しかしその子は足が痺れて立てない。生まれたばかりの子鹿のように、長谷川の手につかまり、ようやく立ち上がった、その初々しさ。長谷川の慈母のような肉体を招き寄せた。

帰り道はいつものように体がほぐれ、細胞が解放された。長谷川の気が空間に充満し、客の体を通り過ぎたからだ。このように、踊りを見て、自分が肯定(解放)されることはほとんどない。神事のような踊り、本来の踊りである。だからダンサーの才能を評価しようとするスケベ根性は出てこない。

 

2013-04-27

長谷川六パフォーマンス『透明を射る矢2ヒロシマ

長谷川六のパフォーマンス『透明を射る矢2ヒロシマ』を見た(4月26日 森下スタジオ)。

長谷川の主宰するPAS東京ダンス機構による新作公演シリーズ「ピタゴラス2」の一環。今回は上野憲治との共演。両手奥それぞれに書見台を置き、原民喜『夏の花』の一節を交互に読み、交互にソロを踊る。

長谷川は黒いプリーツのソフトジャケットに黒のロングスカートで登場。「大の字」に立つと、黒子役の女性(後に衣装デザイナーと分かる)が、置いてあった赤い衣装と冠を長谷川に着せる。衣装は細かく切れ目が入り、体全体を覆う筒状のもの。同じ赤い布で作られた冠は、四角い底辺に山型の屋根を持ち、紐で固定する。シルエットは能衣装、赤いビラビラは原爆の業火を身に纏っているように見える。

上野が原民喜の言葉を読んでいる間、長谷川は研ぎ澄まされたフォルムで、空間を作る。「立つ」、それだけでスタジオを異化する。身体のあり方は能に近く、背後に無数のフォルムを感じさせる。両足で立つと左脚の曲りが深い。長谷川の表徴。手足は苦行僧のように極限の様相を帯びて、節があるのに優雅で美しい。このような能、または神事に関わる身体に加え、今回初めて太極拳の型と、気の放出を見せた。

赤い衣装を脱いだ後、『夏の花』の朗読へ。上野は美丈夫だが、まだ拮抗できる体ではない。長谷川は朗読を終えると、メガネを付けたまま奥の立ち位置へ行く。どうするのかと見ていると、何事もなかったようにメガネを置きに書見台へ戻った。以前シアターXの公演で、時計を付けたまま舞台に出たことがあるが、そんなことはどうでもよいのだ。

徹底したモダニズム美意識と、能、神事、武術の体の融合、そこに何でもありの精神が加わった踊り手。そして自分にとっては舞踊批評の唯一の師匠である。

 

2013-09-13

長谷川六『曼荼羅

標記公演を見た(9月12日 ストライプスペースM&B)。

今井紀彰の曼荼羅のようなコラージュ作品と、柳田郁子の赤と生成りの布造形作品が置かれた空間でのダンス公演。前半は坂本知子の構成で、坂本と加藤健廣、上野憲治が、走り回り、ぶつかり合い、ころげ回り、踊る。坂本の緻密な肉体の輝き、一秒たりとも躊躇を見せない集中した動きが素晴らしい。加藤は肉体の虚ろな部分が他者との接点になっている。上野は感じはよいが、まだ見られる体とは言えない。

後半は長谷川のソロ。黒いジャージ地のロングドレスで、ギャラリー前方部分中央に位置をとる。たちまち長谷川の気が空間に満ちて、見る側の身体が自由になる。両足を踏ん張り、やや前傾、掌を上に両腕を前方下に差し伸ばし、少しづつ動く長谷川。ロマン派をくすませたような不思議なピアノ曲の高まりと共に、右回りに空間に入り込んだ。曲はグルジェフアルメニア生まれの思想家、精神指導者で、グルジェフ・ムーヴメントと呼ばれる舞踏を残す)の弾く瞑想のための音楽とのこと。メロディに身を委ねるロマン派的な熱さは、これまで感じたことがなかった。終盤、柳田郁子自らが長谷川の体に、生成りのビラビラした布を付けていく。微動し続ける長谷川、布の形を直し続ける柳田。最後にビラビラで完全に顔を隠した。ケイタケイが服をめでたく重ね着するのとは違って、得体のしれない豪華な異人(貴人)が突っ立っている。柳田の愛、柳田に肉体を差し出す長谷川の愛の一致だった。

 

2013-10-11

長谷川六@ヒグマ春夫

長谷川六がヒグマ春夫の空間に存在するのを見た(10月9日 キッド・アイラック・アートホール5階ギャラリー)。「連鎖する日常あるいは非日常の21日間・展」の一環である。

開演30分前にすでに長谷川は、白い布でぐるぐる巻きにされて椅子に座っていた。道路に向かって開放された大きな窓に、ほぼ正方形の部屋。中央に立方体の木枠が組まれ、半透明の白レースが上と窓方向に張られている。さらに窓にも揺れる白レースのカーテンが。木枠のレースと窓のカーテンにヒグマの映像がノイズ音と共に映し出される。焦点の合っていないシミだらけの車窓風景が飛ぶように過ぎて、時折深海魚の燻製が風景にかぶさる。カーテンに映される二重の映像は、風に揺らめいて外界へと消えていく。骨だけの傘が浮かぶ天井には、波飛沫の映像。隅にはミイラのような長谷川の体。三々五々人が集まるなか、30分間、長谷川と共にその空間に身を浸した。

開演時間になると、長谷川がぬーっと立ち上がり、布を内側から広げて体を現した。左腕には腕時計。木綿の紐を持って水平に伸ばし、肩幅に繰り、弓のように引き絞る。木枠と窓の間で動くので、途中からレース布で遮られ見えなくなった。昨年のパフォーマンスでもインスタレーションで、ほとんど体が見えなかった。キッド・アイラックでは見えないことになっているのか。

布を取った長谷川は、ツナギの上だけみたいな赤い作業着を身に着けている。これが着たかったとのこと。高橋悠治とヒグマ春夫のサインが背中に入っている。いつものような気の漲りがなかったのは、30分間布に入っていたせいだろうか。終演後の挨拶で「呼吸ができないし、暑いし」と言っていた。布の中ではどういう体だったのだろうか。瞑想状態? 人の声だけが聞こえる。音で人を判別していたのだろうか。長谷川ミイラの並びに座ってヒグマのぼんやりした映像を見るという、夢に近い体験だった。

 

2014-07-19

長谷川六パフォーマンス『素数に向かうM』『透明を射る矢M』

六本木ストライプハウスでの「TOKYO SCENE 2014」の一環。米人報道写真家トーリン・ボイドの日本風景をバックに飾ったパフォーマンス企画である(企画・制作:PAS東京ダンス機構、後援:ストライプハウス、助成:PAS基金)。『素数に向かうM』(7月16日昼)は、深谷正子の構成・振付で長谷川がソロを踊る。『透明を射る矢M』(7月18日)はヒロシマをテーマにした連作で、上野憲治とのダブル・ソロ。両作ともストライプハウスの中地下ギャラリーで行われた。芋洗坂に面した幅広い窓から、昼間は陽光が、夜は街灯が降り注ぐ。道行く人の顔も。(もう一作『そこからなにか』というソロ作品もあったが、見ることができなかった。)

素数』は深谷の構成が入ったかっちりした作品。外光が入るので弛緩するかと思ったが、もちろん長谷川の身体は外部条件とは無関係にそこに存在する。4つの背の高いティーテーブルの上に、折り畳み式鏡が横向きに置かれている。長谷川も鏡を持って登場。両手で鏡をまさぐりながら佇む。左手首にはいつものように時計。両脇に袋状のポケットが着いた黒い麻のワンピース。脹脛と足が見える。その足に惹きつけられた。右足には土踏まずあり。左足は外反母趾で土踏まずが中にめり込んでいる。その不具合は個性を突き抜けて、絶対的フォルムにまで昇華している。左右の足が生み出す密やかなステップ―太極拳の弓歩のような柔らかさ―を凝視してしまった。

途中、両脚を肩幅に立ち、両手で胸を押さえ、次に頭を押さえ、顔の前で両肘下腕をくっつけ、そうして両肘を脇に引きつけてから、思い切り息(気)を飛ばすシークエンスが繰り返された。「ハッ」。その度に長谷川の気がギャラリーに充満し、愉快な気分に。深谷の振付とのことだが、長谷川の武術に馴染んだ体が生かされていた。最後はエラ・フィッツジェラルドの弾力のある歌に合わせて、体を揺らす。観客席のみやたいちたろう君(1歳)に手を振りながら、機嫌よく終わった。剣道(?)、モダンダンス、能、舞踏、オイリュトミー、太極拳、バレエ他が混淆された肉体。その運用を見るだけで喜びを感じる。

『透明』の方は、今回『夏の花』(原民喜)を読む場面がなかった。バッハ、忌野清志郎、ビリー・ホリディを長谷川がCDで流す。上野とは絡まず、それぞれがヒロシマを思いながら動きを見出していく(泳ぐ動きは共通していた)。上野は分節化された肉体ではないが、生の、豪華な存在感がある。少し長谷川を見過ぎていたのが残念。長谷川があまり既製のダンサーと組まないのは、生の味が欲しいからだろうか。

長谷川の演出は、作品と言うよりも「場」を作ったという印象。そのため、地下で行われる次の公演の観客が、窓を覗きながら建物に入ってくるのが、よく見えた。全体に小ぎれいな女性が多い。うなじの美しい女性が窓の向こうで人待ちしているのと、直下で行われているパフォーマンスを同時に見ることになる。舞踊評論家山野博大氏も通行人の中に。外に開かれたギャラリー公演ならではの面白さだった。

 

2015-07-12

長谷川六『闇米伝承』2015(追記あり

標記公演を見た(7月10日 ストライプハウスM)。東京ダンス機構主催「TOKYO SCENE 2015」の一環である。作・演出・装置・出演は長谷川六。衣装(装置としての衣服)製作は奥野政江。照明はカフンタ。と書いて、照明に気付かなかったことに気付いた。照明効果は無意識に刷り込まれている。あるべき照明の姿。

昨年は、道路に面した半円を描く大ガラス窓を背景にし、行き交う人々が見える舞台設定だったが、今回はギャラリー中央にある階段がバック。壁には高島史於による70年代の写真が並ぶ。花柳寿々紫、藤井友子、三浦一壮、矢野英征、畑中稔の霊に囲まれて踊る形。

カミテ通路から長谷川が登場。留袖をリフォームした長い衣装、右手には杖、ではなく竹刀、左手には紫の花束。盲目のオイディプスか、能役者の佇まい。竹刀がよく似合っている。ついさっきまで受付でにこやかに微笑んでいたのが、一瞬で本来の体に統一される。つまりどこでも集中できるということ。足袋のような白い靴下をはき、地面を選びながら静かに動く。床の中央には三枚の畳んだ着物。その前で、長谷川は体と対話しつつ、フォルムを変えていく。竹刀を斜めにしたり、両の手で捧げ持ったり。その腕の美しさ(左前腕裏には丸い痣がある)。様々な身体技法を経てきた果てに獲得された美しさである。一瞬一瞬フォルムを切り取り、体の位相を変える手法は、能に由来するのだろうか。気の漲りは穏やかだが、見る者の中に確実に堆積して、ふと気が付くと涙が流れていた。

『闇米伝承』という題の下に、「母親の箪笥から着物が一枚、また一枚消え、四人の子供のいのちを繋いだ」とある(ちらし)。母の着物を思い、父の竹刀を使った舞。そこにバッハの無伴奏チェロ組曲を流すところが、モダニスト長谷川。一方、張りつめた神事のような瞬間ののち、それを破壊するかのごとく、母の着物を両腕に巻きつけてぶん回すのが、ポストモダニスト長谷川。最後は『ケ・サラ』を「70年代を思って歌い」、終わりとなった。

「昨日膝を痛めて歩きづらいので、父と祖父の使った竹刀(剣道の師範だった)を杖に使いました」と挨拶。花束も「今朝頂いたもの」だった。完全な自由を垣間見られる時間。人間は自由なのだと思い出させるパフォーマー

*長谷川六氏より「着物を振り回すのは、乱拍子、唄を歌ったのは、シテは謡うので」とのご指摘を頂いた。全て能にある要素で創られていたということ。

 

以上がこれまで書いたダンサー長谷川六評。以下は、今年3月6日にシアターX で行われた山野博大・長谷川六追悼公演「舞踊と批評の60年」のプログラムに寄せた追悼文である。

 

六先生のこと

長谷川六先生とは、教師と生徒、編集者と書き手、ダンサーと批評家、という三重の関係だった。初めてお会いしたのが98年の森下スタジオ。先生の「舞踊学」の講座を受講し、現代ダンスの歴史や公演評の実践的な書き方を教わった。記憶に残っている言葉は「批評を書く者はプログラムに書いてはいけない」。ご自身も能藤玲子の評伝以外、プログラムに書かれていない。

最初に公演評を書くよう依頼して下さったのも先生だった。『ダンスワーク』での公演評や年間総括、「山崎広太論」、さらにインタビュー集『舞台の謎』の出版まで面倒を見て頂いた(当時はその有難さが分からなかった)。

ダンサーとしては、武道、能、舞踏、バレエ、オイリュトミーを経過した、誰とも似ていない体で、一気に異次元を現出させた。先程まで受付で観客の応対をされていたのに。ダンスにおいても日常においても人を魅了する、その繊細で知的な手の動きは、ダンサー長谷川の表徴である。それはまた、酔った山崎広太の吐しゃ物を掬う愛の手でもあった。

 

六先生、ありがとうございました。