新国立劇場バレエ団2006年公演評

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●「ナチョ・ドゥアトの世界」


新国立劇場バレエ団恒例の中劇場公演は、「ナチョ・ドゥアトの世界」。ドゥアトはベジャール、アルヴィン・エイリーの下で学び、クルベリ・バレエ、NDTに在籍、現在はスペイン国立ダンスカンパニー芸術監督を務める。プログラムは、すでにレパートリーに入っている『ドゥエンデ』(91年)と『ジャルディ・タンカート』(83年)に、新レパートリーの『ポル・ヴォス・ムエロ』(96年)を加えたトリプル・ビルである。


三作中ドゥアトのオリジナリティを最も感じさせたのが、ドビュッシー室内楽、とくにフルートとハープを主とした曲に振り付けられた『ドゥエンデ』である。振付はニジンスキーの『牧神の午後』を思わせるアルカイックなフォルムに、昆虫や動物の奇怪な動きが加わっている。パンやニンフが戯れる神話的世界の現代版とも言え、スペイン色を排除することで、かえってドゥアト最大の特徴である音楽性が浮き彫りになった。ダンサーには、音楽のみを身体化する高度な音楽性が求められる。


『ドゥエンデ』四曲のうち、吉本泰久、グリゴリー・バリノフ、中村誠によるパ・ド・トロワが充実していた。吉本、バリノフの音感鋭いソリッドな動きを背景に、中村の身体が纏っている一種の狂気が音楽と一体となって、みずみずしい牧神のエロティシズムを醸し出す。音楽の身体化と音楽への没入を同時に感じさせる、稀有な踊りだった。また、パ・ド・シスの西山裕子はいかにもニンフ。西山独特の自然で流れるような音楽性が、柔らかでしかもピンポイントの動きを生み出す。陶然とするばかりだった。


男女三組が棒杭に囲まれた土色の舞台で踊る『ジャルディ・タンカート』は、カタルーニャ語の労働歌に振り付けられた土俗色の強い作品。エイリーやキリアンの語彙による影響もうかがえるが、処女作らしい自然な感情の発露がある。厚木三杏が音楽的かつ創造的な動きで突出している。現代的な動きのアクセントやニュアンスを、最も魅力的に作り出せる踊り手である。


宮廷舞踊風ネオ・クラシックとコンテンポラリーを行き来する『ポル・ヴォス・ムエロ』は、十五、六世紀スペインの古楽と同時代の詩人ガルシラソ・デ・ラ・ベガの詩に振り付けられている。作品構成の点でキリアンの影響を思わせるが、スペイン人のアイデンティティを前面に打ち出した、いかにも国立のダンスカンパニーらしい作品。ネオ・クラシックの部分では、高橋有里と西川貴子がクラシックの密度を感じさせる踊りで作品に重みを与え、コンテンポラリーでは、吉本と末松大輔によるデュオが新鮮な空気を作品にもたらしている。


初日と三日目では舞台の印象が大きく異なった。とくに三演目出演の山本隆之が、初日とは見違えるほどの精彩を三日目に見せている。山本のドゥアトへの情熱が舞台を牽引し、トリプル・ビル全体を覆わんばかりだった。同じく三作品出演の湯川麻美子は演技力で舞台に貢献。中心としてはもう少し踊り自体の密度が求められるだろう。


今回のトリプル・ビルは派手な演目がなく、玄人好みのプログラムと言えるだろう。しかし現代物の来日公演ラッシュのさなかにあって、「ドゥアト・プロ」がややインパクトに欠ける印象に終わったことも否定できない。新レパートリーが、動きの追求よりも演出に傾きがちな作品であったことも原因の一つだろう。かつてのJバレエやミックス・プロで見られたような、バレエ団が一体となったプログラムを、今一度期待したい。(3月23日、25日 新国立劇場中劇場) *『音楽舞踊新聞』No.2692(H18.5.1号)初出

●『こうもり』


新国立劇場バレエ団三回目の『こうもり』。02年の初演時に、振付家ローラン・プティによってコール・ド・バレエから一気に主役のベラに抜擢された真忠久美子が、ようやく大輪の花を咲かせ、プティの慧眼を証明した。真忠の美点は他のプティ・バレリーナとは異なり、上体の美しさと魔術的な腕の動きにある。細くしなやかな両腕が流れるような軌跡を描くとき、豊かな感情が音楽となり詩となって立ち現れる。腕のほんの一振りで見る者を陶酔させるその技は、愛のパ・ド・ドゥでヨハンをくるくると踊らせる際にもっとも威力を発揮した。真忠ほど、この振付の魔術性を浮かび上がらせるバレリーナは他にいない。


しかし真忠を真忠たらしめている最大の特徴は、無意識の大きさだろう。昨秋の『カルミナ・ブラーナ』で、男たちに喰われるローストスワンに全く違和感を抱かせなかったのは、役作りもさることながら、その存在のあり方による。今回のベラも、ただそこにいるだけで周囲の目を惹きつける、内在的な輝きを帯びていた。ショーアップされた演出においても、繭にくるまれたような浮世離れした雰囲気を漂わせるのは、無意識に吸収したものを、無意識のままに出せる才能のなせる業だろう。喧騒の夜が明けて、朝日の中に浮かび上がる真忠のシルエットは、驚くほど美しかった。美を表現しようとしているのではなく、美そのものとして存在していたのだ。


夫ヨハンを演じた森田健太郎も、その豊かな才能を十全に発揮している。プティ独特の(意味を持たない)アクセントを、これほど粋に見せられる日本人ダンサーがいるだろうか。そのセンスのよさに加え、気品ある正統的なラインと、物語をその場で生きる無意識の力は、森田を理想的な男性主役に位置づけている。森田の堅固で大きなサポートに、真忠のかよわい女らしさがしっとり絡み合ったパ・ド・ドゥは、プティの思惑をはるかに超えて、香り高く情感に満ちたデュエットとなった。終幕、膝に寄り添う妻の背に、夫がそっと手を置く光景は神々しく、二人が無意識のうちに交わした感情の大きさを物語っていた。


日本人初日を飾ったゲストの草刈民代は、ベラの役をよく理解し、華やかな存在感で行き届いた芝居を見せる。ソロではやや硬さがあったが、一期一会を感じさせる真摯な舞台だった。草刈のヨハンは山本隆之。振付の意味をもっともよく伝える。愛情と呼ぶしかない献身的なサポートと、舞台全体を巻き込む強いエネルギーが、シュトラウスの音楽、プティの振付と相まって、観客に生へのポジティヴな力を与えている。


ウルリックはヴェテランの小嶋直也と新人の八幡顕光。小嶋は完璧な足技とシャープなライン、役をよく心得た演技で、目の覚めるようなウルリック像を作り出した。一方八幡は、ペーソスなどの感情的な厚みには欠けるが、初役にしてすでに、役の明確な輪郭を描きえている。さっぱりとすがすがしい、少し和風のウルリックだった。


楠元郁子のメイド、トレウバエフのチャルダッシュとギャルソン、厚木三杏のカンカン、イリインの警察署長に、洒落た男女アンサンブルが元気に脇を固める。急遽代役のギャルソン奥田慎也がようやく舞台に戻り、十人分の明るさを振りまいた。男性陣の黒髪は粋。舞台の仕上がりの良さに比べ、今回の東京フィルは、プティの繊細な振付に対応していなかった。(5月26日、27日 新国立劇場オペラ劇場)  *『音楽舞踊新聞』No.2697(H18.7.1号)初出

●『ジゼル』


新国立劇場バレエ団今季最終演目は、四年ぶり三回目の『ジゼル』。パリ・オペラ座エトワールのクレールマリ・オスタとバンジャマン・ペッシュをゲストに四組がキャストされたが、オペラ座の都合でオスタは来日せず、代って初演時に主役を踊った西山裕子が、円熟のジゼルを披露した。


西山は現在バレエ団でもっともロマンティック・バレエが似合うバレリーナと言えるだろう。演技やマイムの明晰さ、踊りの軽やかさ、自然な音楽性、繊細な感情といった西山の特徴が、内気で感受性豊かなジゼル像を作り出している。
西山における音楽性と演劇性の結合は、すでにガムザッティ役での驚くべき音楽的マイムで確認されているが、今回も全編にわたってその見事な融合を見ることができた。二幕のアダージョでは、ラインの端々からアルベルトへの愛情が流れ出し、音楽とともに舞台を覆いつくす。感情と音楽が一体化した、まさにポエジーの化身だった。


この日のミルタは、やはり初演組の西川貴子。踊り、マイム、立ち姿の全てに、ミルタの性根が入っている。凛として統率力のある堂々たるミルタだった。今回『ジゼル』らしい霊的世界を現出させたのは、唯一この組だけだった。他は全員初役という状況の中、西山、西川による初演ヴェテラン組の功績は大きい。


初日、二日目には、バレエ研修所第一期生の若手二人が抜擢されている。初日(最終日代役も)の本島美和は、まだ固有のラインを獲得しておらず、役作りが全て表現として定着しているわけでもない。しかし、役を自分で咀嚼しようとする強い意志に、将来への展望を感じさせた。とくに狂乱の場は、自らの存在の底にまで降りていったことをうかがわせる、強い静けさに満ちていた。


一方のさいとう美帆は、長い手足を生かしたラインが美しく、相手を翻弄する小悪魔的な魅力を備えている。一、二幕ともに踊り方をよく心得て粗がない。しかし、狂乱の場が象徴するように、いわゆる良いとされる表現に留まっていて、心底からの感情が表現として表に出るには至っていない。今後主役として、本島には外からの眼差しが、さいとうには内面との対話が求められるだろう。


『眠れる森の美女』『ドン・キホーテ』で、音楽性と様式性、スター性を併せ持つ大型主役であることを証明した厚木三杏は、今回残念ながら真価を発揮するには至らなかった。柄としてはミルタだろうが、様式性で押していく厚木ならではのジゼル・アプローチもあったかと思われる。華やかなスター性を持つ貴重な踊り手として、今後に期待したい。


アルベルトはゲストのペッシュ、シーズンゲストのマトヴィエンコ、バレエ団の山本隆之。ペッシュはハムレット的陰鬱さを帯びたキャラクター性の強いタイプで、まだ役作りの途上にあるが、西山の透明感とはよく合っていた。マトヴィエンコは端正。持ち味の爆発力よりも、ラインのコントロールを重視している。厚木、本島を丁寧にケアしていた。


山本は作品を構築する深い物語性を発揮した。足技の明晰さにはまだ向上の余地があるが、一幕役作りの説得性はもちろんのこと、二幕の登場では唯一空虚なナルシシズムを免れている。終幕の片膝をついて花を拾う姿には、ジゼルとの逢瀬からその死、そして死後の愛の交感が、全て刻み込まれていた。


バレエ団では、村人のパ・ド・ドゥを踊った大和雅美と中村誠の香り高い踊りが印象深い。また冨川祐樹が節度あるマイムで誠実なハンスを演じ、クールランド公爵のイリインが、品格あるマイムでロシア・バレエの香りを伝えている。
今回コール・ド・バレエは、珍しく揃っていなかった。ウィリの本質を出す以前に、動きの方向性が指し示されていないように思われた。エルマノ・フローリオ指揮、東京フィル。(6月24、25、30日、7月1日 新国立劇場オペラ劇場)  *『音楽舞踊新聞』No.2700(H18.8.1号)初出

●『白鳥の湖』新制作


新国立劇場バレエ団が八年ぶりに『白鳥の湖』を新制作した。改訂振付・演出は芸術監督の牧阿佐美、舞台装置・衣裳は『ラ・シルフィード』と『リラの園』を担当したピーター・カザレット、照明は沢田祐二による。全四幕で休憩が一回という上演形式である。旧版のセルゲーエフ版は、マイムを減らし、演劇性よりも音楽性を前面に出したスピーディでコンパクトな演出。ラストはソビエト・バレエらしく戦って悪を滅ぼすハッピーエンドである。新制作ではこうした時代性を払拭し、原典重視の世界的潮流が反映されるのではと期待したが、残念ながらほとんどがセルゲーエフ版の踏襲だった。


演出上の改変部分は、プロローグとしてオデットの変身場面(室内)を加えた点と、終幕のロットバルトの死を入水自殺(?)に変えた点である。ただ両者ともに演出の練り上げがまだ弱く、説得性を獲得するに至っていない。なぜ友人二人がオデットの部屋からいなくなるのか疑問だった。一方、三幕で各国の花嫁候補とキャラクターダンスを結びつけた演出は、効果的だった。イギリスの踊りも加えるとより整合性が増すと思われる。


舞踊面では三幕に「ロシアの踊り」が加わった点と、四幕冒頭に王子が紗幕前で少し踊りを見せる点が新しい。また、一幕王子のソロを中盤から幕の最後に移し、「乾杯の踊り」の後半を村人の踊りに変更している。ただ後者については、音楽の急なテンポダウンを要する振付と音取りの変化にやや違和感を覚えた。


旧版のオークネフの美術は明快すぎるほど主張がはっきりしていたが、カザレットは中庸を重んじたのか、あまり特徴がない。湖畔も森の神秘性や廃墟趣味といったロマン主義的風景には至らず、小さな洞窟(通り抜けられる)と湖に落ちる滝が、どこがうらぶれた雰囲気を醸し出す。照明は横ライトを駆使し個性的だが、ダンサーのライン、とくにロットバルトの踊りが見えなかったのは残念だった。


オデット=オディールには、旧版での一月公演と同じくスヴェトラーナ・ザハロワ、酒井はな、寺島ひろみという配役。二回目となる寺島が成長の跡を見せて、三者三様の白鳥を競い合った。ザハロワは、所属のボリショイ劇場バレエでも組んでいるデニス・マトヴィエンコを相手に、いつもより伸び伸びとした踊りを見せた。ソロの解釈にはまだ物足りなさを残すが、ラインの美しさには一段と磨きがかかっている。きらめくようなグラン・アダージョだった。


ヴェテランの域に入った酒井は、以前のようなパトス全開の踊りは影をひそめ、高度にコントロールされたラインとすみずみまで施された深い解釈で、完璧とも言える白鳥を踊っている。当日は中高生の団体が半分近く入った半ば教育プログラムのような公演だったが、酒井は社会的啓蒙の役目を見事に果たしたと言えるだろう。一方客席は私語をする中高生と隣り合わせの劣悪な環境にあった。劇場側はオペラ同様、学生鑑賞日を別に設けるべきではなかったか。


『ライモンダ』に続いて主役を踊った寺島ひろみは、ようやく個性を発揮し始めたようだ。スポーティかつダイナミックな白鳥で、主役としての大きさが備わっている。ただ四肢の扱いが雑に見えることがある。かつて『眠れる森の美女』の銀の精で見せた、艶のある豪華な踊りをもう一度見てみたい。


ジークフリード三者三様。マトヴィエンコは華やかさに欠けるが端正な踊りで、酒井と組んだ山本隆之は、登場しただけで舞台の輪郭を作るドラマ性で、逸見智彦は寺島にはおとなしすぎるが、類稀な音楽性で、個性を顕かにした。


パ・ド・トロワでは江本拓の覇気、中村誠の優美、さいとう美帆の清新さが、白鳥たちでは厚木三杏と西山裕子の音楽的な姿形の美しさが、キャラクターではスペインの楠元郁子、ハンガリーの奥田慎也のはつらつとしたニュアンスが印象深い。楠元は王妃でも温かく気品のあるマイムを見せた。イリインの家庭教師は十八番、一幕の要である。


渡邊一正指揮の東京フィルは、いつもより音が分厚すぎて渡邊の機動力が生かせなかった。オーケストラの状態もよくないように思われる。(11月12、15、18、19日 新国立劇場オペラ劇場)  *『音楽舞踊新聞』No.2712(H19.1.1-11号)初出

●『シンデレラ』


新国立劇場バレエ団が三年ぶり五回目のアシュトン版『シンデレラ』(48年)を上演した。プロコフィエフの叙情性と諧謔性がすべて振付に写し取られた、アシュトン中期の傑作である。


振付は一見すると古典バレエのパロディに見えかねない。しかし、シンデレラと王子のパ・ド・ドゥが古典の様式に準拠していることから、振付自体がアシュトンによる古典バレエの解釈、メタ振付であることが分かる。バランシンのネオ・クラシックと並ぶ、プティパへの特異なオマージュと言える。のみならず、アンサンブルのスライドを多用した幾何学的フォーメイション、振付における上体の極端な捻りが、依然として作品に前衛の輝きを与えている。三幕の「誘惑」と「東洋」の省略には異論もあるだろう。だがこの版のもう二人の主役、義理の姉たちによるパントマイム演技の重量感からすると、三幕の短さは妥当と思われる。


七公演のうち、初日から三公演を英国ロイヤルバレエのアリーナ・コジョカルが、残りの四公演をベテランの酒井はなと宮内真理子、若手のさいとう美帆と本島美和が担当、王子にはそれぞれフェデリコ・ボネッリ(ロイヤル)、山本隆之(二日)、トレウバエフ、中村誠が配されている。


シンデレラ像の完成度の高さは、ゲストを含めても酒井がずば抜けていた。アシュトン振付の細やかな襞に分け入り、そのすべてに真の感情を満たしている。これほど繊細な造型は世界でも珍しいのではないか。カーテン・コールでは、謹厳な指揮者エマニュエル・プラッソンが酒井の頬に祝福のキスを与えている。ただし、今回の酒井にはいつものようなエネルギーの放射は見られなかった。その理由は不明だが、いずれにしても、バレエ団のほとんどのレパートリーを初演し、その蓄積を社会に還元すべき円熟期に入りつつある酒井を有効に生かすことは、観客に対する劇場側の義務と言えるだろう。


全幕久々復帰の宮内と、この作品で主役デビューを飾ったさいとうは共にはまり役。無理なく作品世界を作り上げる。特にさいとうは演技が自然になり、初演時よりもみずみずしさが増した。同期で初役の本島はいわゆる姫役のタイプではなく、今回は挑戦の意味合いが強い。古典もしくは古典に準じる作品を踊るには、もう少し様式への意識が必要だろう。またゲストのコジョカルは本調子ではなかった。本人特有の生きいきとした生命感が感じられない分、アシュトン・アクセントの緩さが目立った。


王子四人は持ち味を十全に発揮している。ボネッリのゆったりとした鷹揚さ、山本の気品に満ちた細やかな演技、トレウバエフのりりしさ、中村の優美ななまめかしさ。とくにトレウバエフは王子役の進境著しい。


この版の基盤である義理の姉たちは、乱暴だが妹想いの姉にマシモ・アクリと保坂アントン慶、恥ずかしがり屋の妹に篠原聖一、奥田慎也、堀登(出演日順)が配され、それぞれ献身的な演技を見せている。アクリのパワフルな姉は独壇場だが、アンサンブルで優れていたのは、父親役イリインを中心とした保坂=堀組。三人の娘を見守り、末娘の不幸を思って苦悩するイリインの父、妹への優しさがにじみ出る保坂の姉、そして堀の妹が絶品だった。手への接吻をダンス教師と王子の二人に拒否されるおかしさが初めて分かった。


観客への演技を含む難役の道化は、バリノフと八幡顕光が健闘。四季の精では、西山裕子の春の精がアシュトンの音楽性を余さず表現している。舞台を包み込む豪華な厚木三杏の冬の精、けだるい夏になりきった真忠久美子も印象深い。ナポレオンの伊藤隆仁もますます面白くなっている。


久しぶりに艶と張りのある東京フィルを聴く喜びもあった。指揮者エマニュエル・プラッソンの功績だろう。(12月15、16、19、22、23、24日 新国立劇場オペラ劇場)  *『音楽舞踊新聞』No.2715(H19.2.11号)初出

新国立劇場バレエ団2007年公演評

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●『眠れる森の美女』


新国立劇場開場記念公演から十年、五回目のセルゲーエフ版『眠れる森の美女』は、川村真樹の主役デビュー公演として記憶されることになった。川村は99年に入団、04年にソリストに昇格し、リラの精、ミルタ、『シンデレラ』の仙女など、重要な役どころを踊ってきた。美しい容姿に伸びやかなライン、正確な技術を持ちながら、今一つ押し出しの弱さが弱点となっていたが、初主役の今回、これまでの印象を完全に覆すパフォーマンスを見せた。


とても初役とは思えない完成度の高さ。川村の七年間が凝縮されている。踊りは繊細で、真情がこもっている。役解釈はすみずみまで施されているが、演技上の工夫で見せるよりも、常に周囲を祝福する存在として輝きを放つ、理想的なオーロラ像だった。バレエ団は酒井はなを登録ダンサーに移行させた後、酒井の跡を継ぐプリマを育てようと努めてきたが、現状では必ずしも成果が上がっているとは言えない。その中で今回川村が成功を収めたことは、バレエ団にとって重要な意味を持つと言えるだろう。さらに川村は酒井同様、舞台を一変させ、劇場を親密な空間に変える力を持っている。プリマ誕生への期待を十二分に抱かせるデビュー公演だった。


王子は初役の貝川鐵夫。ヴァリエーションの完成はこれからだが、踊りに勢いがあり、何よりも舞台を明るくするポジティヴな精神性が魅力である。前髪はわざとカジュアルにしたのだろうか、少し気になった。


トリプル・キャストのうち最終日を踊った真忠久美子は、二度目のオーロラ役。パートナー山本隆之の手厚いサポートを得て、二幕では夢のようなアダージョを展開した。真忠のおっとりした眠り姫らしい存在感は、バレエ団随一と言えるだろう。しかし一方で、一幕の不安定さはオーロラ役から大きく乖離している。古典全幕の主役としては、もう少し自立した踊りが要求されるだろう。山本は、回転技に少し乱れがあったものの、王子役としては完成されている。パートナーへの目配りと舞台をまとめる責任感は、山本の美点である。


初日と三日目を踊ったゲストは、キエフ・バレエソリストのアナスタシア・チェルネンコと、ボリショイ劇場ゲストソリストのデニス・マトヴィエンコ。チェルネンコは初役なのか、役作り、踊りともに精彩を欠いていた。初日のゲストとしては力不足だろう。パートナーのマトヴィエンコはここ一年で踊りが格段に進歩した。しかし依然としてノーブルな演技は不得手のようで、王子らしさを出すつもりが陰気としか映らない。ドゥミ・キャラクテールが本来なのかもしれない。


リラの精とカラボスはダブル・キャスト。西川貴子は役(リラ)の性根が入った踊りを見せる。三幕のヴァリエーションはもう少し柔らかさが欲しいが、ロシア派の規範に則った踊りと善の精としてのリラが二重写しになり、作品の堅固な要となっている。一方湯川麻美子のリラは、妖精らしい甘い雰囲気。踊りも精度を増しているが、残念ながら役の踊りとまでは行かなかった。


カラボス初日のイリインは、音楽のドラマ性を汲み取った優れたマイムで舞台にアンサンブルを作り上げる。今やバレエ団の宝的存在。一方のアクリはかわいらしく華やかなカラボスだった。妖精では、鷹揚の西山裕子、呑気の高橋有里、勇気の厚木三杏、元気の寺田亜沙子が、妖精らしい雰囲気を伝える。また寺島まゆみの白い猫がかわいらしい。パも明晰だった。


エルマノ・フローリオ指揮、東京交響楽団の初日は、まるでゲネプロだった。セルゲーエフ版の目玉である間奏曲も安定しない。最終日までにはフローリオがまとめ上げたが、もったいないプロセスだった。(2月1、2、4日 新国立劇場オペラ劇場)  *『音楽舞踊新聞』No.2718(H19.3.11号)初出

●『オルフェオとエウリディーチェ


新国立劇場バレエ団が、アメリカ人振付家ドミニク・ウォルシュの新作『オルフェオとエウリディーチェ』(グルック曲)を上演した。05年の石井潤振付『カルメン』に続くエメラルド・プロジェクト(内外の振付家に物語のある新作バレエを委嘱する)の一環である。


ウォルシュ版『オルフェオとエウリディーチェ』は、グルックのオペラ全三幕を二幕に縮め、オルフェオバリトンに変更した上で、オペラのアリアやレチタティーヴォ、合唱を最大限に生かしている。序曲とバレエ曲を使ってプロローグとエピローグを設け、物語に現代的な枠組みを加えているが、概ねオペラの構成に忠実である。


ただし、グルック独特のオルフェオとエウリディーチェによる迷路の掛け合いから解釈したのか、エウリディーチェ像が女性の原型的な二面性(聖母と娼婦)を併せ持つ人物にまで膨らんでいる。さらに、プロローグの出かけようとするオルフェオをエウリディーチェが引き留める愛の戯れは、ウォルシュ自身が今回の主役の一人、酒井はなと踊った『マノン』を想起させて、この版の出自の一つを明らかにした。


振付はバレエを基礎に、モダン、コンテンポラリーの語彙を加えている。ポアントはFuries(復讐の女神たち)のみが使用、その化け物性は、エリュシオンの精霊たちによる平面的でアルカイックな動きと対照を成す。全体的にマクミラン張りのリフトの浮遊感が多用されるが、物語に立脚した使用と言える。演出は緻密。特にウォルシュがその音楽によって作品を選ぶきっかけとなった復讐の女神たちと死霊のシーンは、照明バトンの上下動と、奥舞台の距離感を有効に生かした劇的な演出だった。ルイザ・スピナテッリの洗練された衣裳も効果的。


音楽のドラマ性を写し取るウォルシュの力は、『ア ビアント』(牧阿佐美バレヱ団)におけるクラシックの振付同様、明白である。ただしこの作品が、歌手の参加する舞踊作品ではなく、舞踊シーンの多いオペラ作品に見えるのは、ソリストの踊りが歌と拮抗するだけの強度に欠けること、独立したパ・ド・ドゥがないこと、ソリストが三名のみで、群舞は音楽の背景と化してしまうこと、また、照明がダンサーの判別を許さないオペラ寄りであることが理由として挙げられるだろう。この作品の可能性は、オルフェオバリトン(吉川健一)の歌唱と、オルフェオ役ダンサー(中村誠)の音楽性が響き合った二日目の組で発揮された。


ダンサーは初日と三日目が山本隆之と酒井はな、二日目は中村と湯川麻美子、四日目は江本拓と寺島ひろみという組み合わせである。山本と酒井の踊りは、動きの隅々まで解釈が行き届き、振付の希薄さを感じさせない。特に二幕の迷路は感情のやりとりが濃厚で、近松の道行きを思わせた。酒井は女性の聖性と魔性を、細かい役作りと磨き込まれた身体で浮かび上がらせる。繊細でエロティックな感触は酒井独特のもの。ファム・ファタルの輝きがあった。


中村と湯川組も、相性の良さを窺わせる熱演。特に湯川は、今までで初めて形式と内容が一致した踊りを見せている。体も透明で美しい。一方の中村も、美しいラインと優れた音楽性を発揮する。体が音楽で分節化されているようだった。振付の音楽性を振付家の意図以上に身体化させたという点では、エリュシオンの女性リーダー西山裕子と双璧である。江本=寺島組は、実力を出し切れなかったせいか、先行二組がそれぞれ達成した虚構度の高さを示すには至らなかった。


バリトンオルフェオ)の吉川、ソプラノ(エウリディーチェ)の國光ともこ、八名からなる新国立劇場合唱団がすばらしい。編曲を担当したガーフォース指揮の東京フィルも緊密な音を響かせた。(3月21、23、24、25日 新国立劇場中劇場)  *『音楽舞踊新聞』No.2721(H19.4.21号)初出

●『椿姫』


新国立劇場バレエ団が、同劇場開場10周年記念公演の一環として、『椿姫』(全二幕四場)を上演した。振付・演出は99年より芸術監督を務める牧阿佐美、音楽はエルマノ・フローリオ編曲のベルリオーズを使用、舞台装置・衣裳はルイザ・スピナテッリ、照明は沢田祐二の組み合わせによる全幕創作バレエである。


牧版『椿姫』の根幹はフローリオの優れた音楽構成にあった。ヴェルディのオペラ『椿姫』の台本を踏襲し、ベルリオーズの『幻想交響曲』『イタリアのハロルド』『ファウストの劫罰』等から的確な選曲を行なっている。自ら率いる東京フィルの好演もあり、継ぎ目を感じさせない独立した音楽世界を築き上げた。演出・振付はアシュトン、マクミラン、ノイマイヤー等の影響を感じさせはするが、牧自身の呼吸と思考が全編を貫いている。牧が現在持てる力を出し切った力作と言えるだろう。


独自性を感じさせたのは、二幕ディヴェルティスマン。ポアント使用のジプシー、チャルダッシュ、タランテラや、官能的なアラブは、音楽の見事な舞踊化だった。特に回転技やステップの切れに、振付家の自然な音楽性を見ることができる。一方、本筋のドラマ場面では、マルグリットとアルマンの父による引導を渡すデュエット、終幕のマルグリットとアルマン、アルマンの父による脱力のパ・ド・トロワに力があり、逆にマルグリットとアルマンのパ・ド・ドゥに物足りなさが残った。


出会いのパ・ド・ドゥは短く、田舎での幸福のパ・ド・ドゥは困難なリフトが二人の愛を妨げるかに見える。終幕のマルグリットはすでに死の淵にあって脱力しており、さらにアルマンの父の介入もある。二人の愛の悲劇よりも、マルグリットの崇高な自己犠牲に焦点が当てられた演出は、残念ながらドラマのダイナミズムを失わせる結果となった。


マルグリット四キャストのうち、これまでの印象を塗り替える進境を示したのが、初日のザハロワ。アルマン役マトヴィエンコの形式的な演技や演出傾向のせいもあり、ドラマティックな愛を描くことはなかったが、高級娼婦の華やかな存在感、女主人の毅然とした立居振舞、アルマン父との苦しみの葛藤、終幕の崇高なソロと、牧の振付を十全に咀嚼し、そこに自らの解釈を加えている。ドラマティック・バレリーナとしての思いがけない一面を見た。


国内組では、トップを切った酒井はなの磨き抜かれたラインが圧倒的だった。アルマン父森田健太郎との激烈なパ・ド・ドゥは、二人によるマクミラン版『ロメオとジュリエット』を想起させる。またバレエ団の若手、本島美和は終始駆け抜ける若々しいマルグリットを、ゲストの田中祐子(牧阿佐美バレヱ団)は落ち着いた母性的なマルグリットを造形した。


対する男性陣は、山本隆之がソフトな語り口で恋するアルマンを、ゲストの菊地研(牧阿佐美バレヱ団)が無謀さを秘めた激しいアルマンを、そしてゲストのテューズリーがデ・グリュー張りの美しいアラベスクで正統派アルマンを作り上げた。ただし国内ゲストの演技は、所属団員の出演機会を奪うに足るレヴェルとは言い難い。


アルマンの父森田の力強い存在感と美しいラインが印象深い。公爵のテューズリー、冨川祐樹は適役、プリュダンスの厚木三杏は主役を凌ぐ華やかさだった。また小間使いナニーヌの神部ゆみ子が、優れた演技でザハロワを支えている。


ディヴェルティスマンでは、ジプシー川村真樹の正統的な踊り、アラブ真忠久美子の魔術的な上体の美しさと金の奴隷を思わせる中村誠の官能的な踊り、チャルダッシュ西山裕子の驚異的な音感の鋭さと精妙な腕使いが楽しみだった。また女装のメヌエットダンサー、トレウバエフと相手役吉本泰久の演技力も注目に値する。


二幕でマルグリットの落とした扇を傍らの男性ではなく自らが拾う演出にしたのは、何か特別な意図があったのか。不明だった。指揮はフローリオ、演奏は東京フィル。(11月4、7、10、11日 新国立劇場オペラ劇場)  *『音楽舞踊新聞』No.2742(H20.1.1-11号)初出

新国立劇場バレエ団2008年公演評

標記公演評をまとめてアップする。

●『カルメン


新国立劇場バレエ団が三年ぶりに石井潤振付『カルメン』を上演した。初演時にもすでにレパートリーとしての地力は予想されたが、今回の再演でこれが確認されたことになる。


石井版『カルメン』の特徴は、オペラにほぼ準じた構成にホセとカルメンの心象風景を挿入している点、全体を闘牛のモチーフで貫いている点が挙げられるが、今回改めて、これらを駆使する石井の緻密な演出手腕に驚かされた。物語上の現在と象徴的場面が、演劇的必然性を伴って織り合わされている。ただ、ロビン・バーカーのきめ細やかな選曲とは足並みを揃えているものの、美術とはコンセプトの共有がなく、さらに照明の主張が強すぎて石井の実験性や諧謔味が前面に出ないなど、コラボレーションとしての不満が残った。


振付のスタイルは役に即した多彩なもの。主役、ソリスト、群舞、および男女舞踊のバランスのよさが、全幕物の醍醐味をもたらす。最大の見せ場はやはり「花の歌」のパ・ド・ドゥだろう。直接的表現にのみ目が行きがちだが、カルメンの孤独の激しさと深さが痛切に刻まれた、優れたパ・ド・ドゥである。また街の男による闘牛士を象った踊りは、発声に依然として問題を残すものの、フラメンコと東洋武術の掛け合わせが面白い。


カルメンは四キャスト。そのうち三人のベテランが、それぞれ役作りに充実を見せている。初日の酒井はなは、自らのカルメン像を振付に反映させ、その上で肉体の変容を目指す、一種巫女に似たアプローチを取る。今回は初演時のようなエネルギーの爆発はなかったが、舞踊の原点に遡る貴重な方向と言えるだろう。


二日目の湯川麻美子は、その場で役を生きる演技派の正統的アプローチ。四人のうちで最もホセへの愛を肉体化させている。「花の歌」のパ・ド・ドゥでは、湯川のこれまでの人生がすべて動きに注ぎ込まれ、真実とまで言える表現に到達した。


最終日の厚木三杏は舞台の上で自由になれるプロのダンサー。舞台で死んでもかまわないと思っている風に見える。クリエイティヴなアプローチはバレエ団随一と言えるだろう。石井の振付を細部まで読み込み、十全に身体化する。厚木の描く「孤独を抱えながら誰にも束縛されない自由人カルメン」には普遍性があり、石井の作品世界もより明晰になった。


対するホセもベテラン三人が個性を発揮している。初日の山本隆之は踊りの質も向上し、磨き上げられたホセ像を見せる。ただ前回よりも酒井を受け止める度合いが狭まったため、一人芝居に見える部分があった。二日目のゲスト、ガリムーリンは、往年の切れは見られなかったものの、ホセのプロトタイプを示す円熟の舞台。湯川との呼吸も深く、唯一、愛の物語を現出させた。最終日の貝川鐵夫は厚木に匹敵する思い切りのよさが身上。平気で舞台に身を捨てることができる。踊りはあくまで正統派ノーブル系だが、そのギャップに魅力がある。


三日目に踊った若手二人は課題を残した。カルメンの本島美和は、解釈を身体化する方向をまだ見つけていないようだ。動きが動きのままで終わっている。様式性の獲得、ラインの彫琢という原点に立ち返るべきだろう。一方ホセを踊ったゲストの碓氷悠太は、恵まれた容姿と一定の技量を持つノーブル候補。途中からロミオのようになってしまったが、場数を踏めば有望と思われる。


カエラの真忠久美子、川村真樹、西山裕子、大湊由美(出演日順)もやはりベテランが個性を発揮した。中でも川村は華やかで大きさのあるプリマの踊りを見せる。大湊は時期尚早のデビューだったかもしれない。


スニーガの市川透は嫌らしさで独壇場、パスティアのイリインは登場するだけでドラマが立ち上がる。また街の男ソリストでは、吉本泰久の東洋的呼吸と切れ味鋭い所作が光った。男女アンサンブルは年末の『くるみ割り人形』に引き続き円熟味を感じさせる。大井剛史指揮の東京フィルも、初日こそ硬かったものの、舞台との呼吸もよく、ビゼーの魅力を堪能させた。(3月27、28、29、30日 新国立劇場中劇場)  *『音楽舞踊新聞』N0.2753(H20.5.1号)初出

●『白鳥の湖


新国立劇場バレエ団今季最終演目は、牧阿佐美版『白鳥の湖』。06年の初演以来一年半ぶりの再演である。牧版は、セルゲーエフ版本体にオデットが白鳥に変えられるプロローグを追加。終幕は同じハッピーエンドながら演出を変更し、さらに三幕にルースカヤ、四幕冒頭に王子の独白ソロが加わる。


プロローグと終幕の演出は依然として演劇的説得力を欠くが、全体の仕上がりが良く、特に一幕男女アンサンブル、二幕の白鳥群舞、三幕キャラクターダンスは、これまでになく生きいきしていた。「中学生のためのバレエ」を含め連続六日間、レヴェルを落とすことなくむしろ向上させて公演を終えた点に、十年を経過したバレエ団の成熟がある。


四キャストの初日は例によって海外ゲスト(ザハロワとウヴァーロフ、ボリショイ劇場バレエプリンシパル)だが、今回は日本人ダンサー三人の表現の違いに、考えさせられる点が多かった。日本人初日の川村真樹は初役。そのせいか白鳥では手足が縮こまり、長所の伸びやかなラインを見ることができない。だが一転して黒鳥では、コントロールされたラインが醸し出す輝かしい気品、踊りの正統的な美しさ、アチチュードで立つだけでふっと浮くような歴史的肉体が出現する。英国ロイヤル直系の姫役であり、同時に、酒井はなに並ぶ唯一のオールラウンド型プリマである。


二日目の寺島ひろみは スピーディ、スポーティにドラマティックが加わり、長足の進歩を遂げた。長い手足、ふくらはぎの筋肉、少し長めの胴が弓のようにしなり、音楽と一体化した力強い動きを繰り出していく。終幕では王子の貝川鐵夫、ロートバルトの冨川祐樹、指揮者のエルマノ・フローリオと四つ巴になり、破格のクライマックスを作り上げた。極めて意志の強い寺島の白鳥は、貝川の優しい王子とよく合っている。だがカーテンコールを含め、もう少し二人の共同作業も見せて欲しかった。


最終日、今季のトリを務めた酒井はこの十年間、第一線のプリマとして白鳥を踊り続けてきた。今回はその総決算とも言うべき、極めて完成度の高い白鳥を披露している。ただし、かつてのようなあの篠山紀信をかぶりつきに座らせた肉体の熱はなく、観客が体から自然に拍手をしてしまう霊的交感もなかった。劇場における酒井の位置付けの変遷を考えると、当然の結果と言えるだろう。


酒井の特徴は、バレエのパが完全に遂行されているのに、所謂「バレエ」に見えないこと、バレエという枠組みでは捉えきれない、ジャンルを超えた「踊り」そのものになっている点である。拍を刻まない独特の音取りや体幹の使い方と言った技術的なことよりも、舞台上での身体感覚や存在のあり方が、日本の伝統芸能に近い点に理由があると考えられる。


息を詰める座敷舞のような白鳥のアダージョ、花魁道中のようなマノン二幕の登場、道行きのようなオルフェオとのデュエットなど、身内がトロッとするような、日本の芸能が与える独特の感覚を、酒井の舞台から何度も味わってきた。さらに佐々木大と組んだ『ドン・キホーテ』では、巫女がトランスに入ったのと同じような破壊的なエネルギーを劇場に充満させている。世界(社会)を相対化させる劇場本来の機能に、最も貢献したプリマと言えるだろう。もう二度と篠山をかぶりつきに座らせるダンサーは現れない、酒井の静かに閉じた舞台を見て、そう思った。


三人のパートナーは、それぞれ中村誠、貝川、山本隆之。中村はノーブルな立ち姿とは裏腹にソロルの方が適役。ただ、いずれにしても体力、筋力の向上は必須だろう。貝川はおっとりした無垢な王子。登場するだけで場がなごむ。一幕ソロはまとまらなかったが、三幕ソロでは喜びが爆発、四幕は情熱的だった。酒井のパートナー山本は、第一舞踊手としての求心力がある。白鳥群舞をざわめかせる色気もこの人ならでは。


冨川の様式的でドラマティックなロートバルト、厚木三杏の鮮烈な大きい白鳥、中村の美しいスペイン、若手小野絢子のはじけるトロワが印象に残る。イリインの愛情深い家庭教師はやはり一幕の要。フローリオ指揮の東京フィルも、管のミスを帳消しにする重厚で体に残る音楽を作り上げた。


中学生とは別に二日間学生団体が入り、一般客に非常な忍耐を強いたが、中学生に対するのと同じ、適切な手当が必要だろう。(6月24、25、26、27、28、29日 新国立劇場オペラパレス)  *『音楽舞踊新聞』No.2761(H20.9.1号)初出

●『アラジン』


新国立劇場バレエ団に老若男女が楽しめる魅力的なレパートリーが出現した。『アラビアンナイト』の一話として伝えられてきた『アラジン』である。構成・振付・演出はバレエ団次期芸術監督で、現ロイヤル・バーミンガムバレエ団芸術監督のデヴィッド・ビントレー。映画音楽で有名なカール・デイヴィスによる入魂の音楽に、創意あふれる舞台装置(ディック・バード)、美しい衣裳(スー・ブレイン)、マジカルな照明(マーク・ジョナサン)がスクラムを組んだ、高レヴェルの総合芸術である。


一見してビントレーの指導者としての力量は明らかだった。ダンサーのほぼ全員が、技術的にも表現的にもレベルアップしている。バレエの伝統的役柄に則った適材適所の配役で、久々にバレエ団全体が使い切られている印象を受けた。
明確な構成、演劇的で緻密な演出、優れた音楽性は、いかにもド・ヴァロア、アシュトンの後継者である。振付は前回の『カルミナ・ブラーナ』とは異なりクラシックスタイル。音楽に沿った自然な振付は、ビントレーの円熟を示している。


アシュトンへのオマージュ(ダイヤモンド)を含む宝石のディヴェルティスマンの完成度は高く、コンサートピースにできるほど。一方、結婚のパ・ド・ドゥと幸福のパ・ド・ドゥはストイックなまでにシンプルである。主役(特にプリンセス)に音楽性、様式性、演劇性を要求する試金石のような振付と言える。


主役のアラジンとプリンセスにはトリプル・キャストが組まれたが、今回は二人の新星が誕生した公演として記憶されるだろう。すなわちプリンセスの小野絢子と、アラジンの芳賀望である。


二日目を踊った研修所出身の小野は、新人ながら最も明確なプリンセス像を描き出した。清潔で伸びやかなライン、正確な技術、優れた音楽性、様式的かつ感情豊かなマイム、そして愛情あふれるユーモアのセンス。特に最後の属性は天から授かった最高の贈り物である。パ・ド・ドゥでは小柄ながら献身的な八幡顕光のサポートを得て、シンプルな振付を主役の輝きで満たした。


一方、三日目を踊った芳賀はやんちゃなアラジンそのままだった。つむじ風のようなピルエット、はじける跳躍、そして「ダイヤモンド」の振りマネの美しさ。舞台やパートナーへの献身性もあり、役柄は限定されるが、即戦力の主役である。


芳賀のプリンセス湯川麻美子は『カルミナ・ブラーナ』でも主役を務め、ビントレーの信頼が厚い。所謂姫役ではないが、役の感情を一つ一つ大切にし、丁寧な踊りで円熟味を見せた。一方、初日の本島美和は華やかな存在感が持ち味。ただ依然として人気が先行しており、今後は技術の向上、肉体(特に腕)の意識化もさることながら、主役として観客のために踊ることが求められるだろう。


初日のアラジンはプリンシパルとなった山本隆之。これまで王子役や『カルメン』のホセなど二枚目系統で優れた演技を見せてきたが、今回のやんちゃな役柄には自身今一つはまっていないようだ。珍しく役との隙間が見え隠れした。二日目の八幡は健気で真面目なアラジン。踊りの切れはあるが、もう少し役作りにゆとりが欲しい気がする。


魔術師マグリブ人のトレウバエフは様式美で、冨川祐樹は妖しさで、ランプの精ジーンの吉本泰久は高速の回転技で、中村誠は美しい肢体とエキゾティックな雰囲気で、物語の脇を固めた。特に中村は抜きん出た音楽性を示したエメラルド役と共に、究極のはまり役と言えるだろう。


サルタン役のガリムーリン、アラジンの母の難波美保は適役。ディヴェルティスマンでは、美しいシルバーの川村真樹、官能的なルビーの厚木三杏、ゴージャスなダイヤモンドの西川貴子が印象深い。


定評のアンサンブルも踊りが大きく勢いがあった。特に「砂漠の風」はこのバレエ団にしては珍しくエロティックなニュアンスを出している。ポール・マーフィ指揮、大編成の東京フィルも充実していた。(11月15、19、20日 新国立劇場オペラパレス)  *『音楽舞踊新聞』No.2773(H21.1.1-11号)初出

●『シンデレラ』


新国立劇場バレエ団が二年ぶり六度目のアシュトン版『シンデレラ』をクリスマス上演した。前回公演はアシュトンのプティパ・オマージュが明確に伝わる批評性の高いパフォーマンスだったが、今回そうした振付のエッセンスは影を潜めている。星の精やマズルカ群舞の鋭いエポールマンによる人体のきらめきは消えてしまった。また、前公演『アラジン』のような演劇的な演出の痕跡もない。その代わりダンサー達は伸び伸びと明るく踊っており、指導者は芸術的な完成度よりレパートリーとしての安定感を目指したと思われる。ただし、5キャスト8公演の長丁場は波乱含みだった。


当初予定されていたアリーナ・コジョカルの代役ラリーサ・レジニナが初日の舞台で故障。第二幕で王子のヨハン・コボーがソロを踊って幕が降り、短い休憩を挿んで他日主演のさいとう美帆とマイレン・トレウバエフがパ・ド・ドゥから引き継ぐ一幕があった。


故障は避けられないが、最終日のアクシデント、馬車の横転は緊張感の欠如と言われても仕方がない。一つ間違えばけが人が続出する可能性もあり、何より物語上あってはならない事故である。


初日の短時間での代役交替は評価されるべきだろう。ただし観客への告知は表方の責任者が行なうべきだろうし、最終日、十数秒にわたって横転した馬車と呆然と立ち尽くす御者を観客の目に焼き付けたのは得策ではなかった。


シンデレラの4キャストはそれぞれの個性を発揮。ベテラン酒井はなは息の合ったパートナー山本隆之と共に、隅々まで心を込めた細やかな演技と踊りで、夢のような暖かい舞台を作り出した。


レジニナの残り二公演も代役したさいとう美帆(22日夜、23日昼夜のハードスケジュール)は、コボーとも自然なコミュニケーションを取り、きらきらと輝くシンデレラを造形、初役の寺島まゆみは、古典作品のような客席目線が気になったが、可憐で力みのない踊りが貝川鐵夫の優しい王子とよく合っていた。


最終日の西山裕子は最もアシュトン振付の可能性を明らかにしたと言えるだろう。室内楽のような繊細な音楽性、的確で自然な演技、妖精のような詩情が融合し、ダンサーとして円熟の境地に達している。とくに一幕が素晴らしく、マイム役者西山を見る喜びがあった。王子は同種の音楽性を有する中村誠。二幕で一瞬二人の音楽性が共有される瞬間はあったが、本調子でなかったのが残念。


義理の姉たちでは、姉役の保坂アントン慶のアンサンブルを見守る視野の広さが際立った。妹の初役高木裕次、ベテランの堀登とも呼吸を合わせ、物語の土台作りに貢献している。名父親役のイリインは残念ながら配役されなかった。


仙女のダブル・キャストは共に一長一短がある。初日の川村真樹はバレエの美そのもののヴァリエーションを見せたが、役作りに物足りなさが、一方の本島美和は役にふさわしい大きさはあるものの、踊りの精度に問題があった。


春の精小野絢子の清潔なポール・ド・ブラと優れた音楽性、冬の精厚木三杏の圧倒的な存在感と研ぎ澄まされたラインが印象的。吉本泰久、バリノフ、八幡顕光の道化三人組は献身的、伊藤隆仁のナポレオンは今回も期待を裏切らなかった。デヴィッド・ガルフォース指揮、東京フィル。(12月20、22、24、26、27日、新国立劇場オペラパレス)  *『音楽舞踊新聞』No.2778(H21.3.1号)初出