『無限大∞パイプオルガンの宇宙―バッハから現代を超えて』

標記公演を見た(4月12日 東京芸術劇場コンサートホール)。
改修後はじめてのコンサートホール。大エスカレーターが壁際に寄せられ(以前は両脇から下が見えて、怖かった)、絨毯の模様が、青い銀杏から赤バラの線画に変わった。椅子もクッションが分厚くゴージャスな布張りに(クッションのせいで足が着かなくなったが・・・)。一階吹き抜けもガラスで囲まれ、吹きさらしでなくなった。
鈴木優人のオルガン、勅使川原三郎、佐東利穂子、KARASのダンスを合わせた公演。面白かったのは、表裏になったモダン・オルガンとバロック・オルガンの回転、そしてルネサンス・オルガンの調律。J.P.スウェーリンク(1562-1621)の『半音階的ファンタジア』では、ミーントーン調律法による調子っぱずれの笛のような音に魅了された。平均律ではない、肉体に密着した音。鼻の穴が広がり、体の筋肉が緩んだ。
先月BCJの『ヨハネ受難曲』で通奏低音を弾いていた鈴木は、今回主役。父雅明がロックスターのように華やかなオルガニストであるのに対し、鈴木(優)は翳のあるオルガニスト。モダンを使ったインプロでの軋み、轟音はこの世への自己主張だった。それにしてもオルガニストはダンサーである。バッハ演奏時の脚さばき、両手両足を鮮やかに使い分けて、巨大なオルガンを鳴らし続ける。一方モダンでは、巨大コンピューターか宇宙船の操縦士みたい(オルガンのデザインのせいもあるけど)。あちこちにあるストップを操作し、ホール全体を振動させる。ピアノに増して、世界を作れる楽器だなあと思った。
一方勅使川原は、還暦とは思えない体の切れ。コラールでの素朴な味わいも新鮮だった。全体を見据える演出もセンスがよく、オリエンタリズムを武器にしないで、西洋人と同じ土俵(パリ・オペラ座)に上がれる理由が分かる。ただダンサーとしては、相変わらずコラボレーションができない。「ラ・フォル・ジュルネ」でもそうだが、相手(たとえばチェリスト)とのコンタクトが取れない。今回はオルガニストが二階にいるためコンタクトの必要がなく、自由だったはずだが、それでも音楽との遣り取りは僅かしか見ることができなかった。かつて同じ芸劇の小ホールで、山崎広太がシェーンベルクの『浄夜』を生きたのとは対照的である。
鈴木は5月26、31日には、再びBCJ通奏低音に戻る。11月には、横浜シンフォニエッタの首席指揮者就任記念演奏会が控える。音楽監督山田和樹に依頼されての就任。山田は自分とは違うタイプの指揮者を迎えたかったとのこと。プログラムが楽しみだ。