長谷川六最新ソロを見る

批評家、ダンサー、プロデューサー、教師として、日本ダンス界で独自の地位を築く長谷川六のソロを見た(7月10日 キッド・アイラック・ホール)
長谷川は、日本画家間島秀徳による巨大な円筒二基の間で、湯浅譲二の40年前の曲をバックに踊った、と言うか、居た。円筒が陰になってほとんど見えない位置(私)。時々長谷川の研ぎ澄まされた美しい手がぬっと出てくる。ガラス玉をばらばらと落とす音が、食べ物をこぼすようにユーモラスに聞こえる。円筒にしゃぶりついたり(ほんとはいけないこと、絵の具が落ちる)、左右の椅子を行ったり来たりして見た。左の女性はすごく迷惑そうにしていた。集中できないからか。でも見えないことに怒っている風も。
湯浅の音楽はノイズ風で、アフタートークの時、音量が足りないとの湯浅の苦言あり。長谷川が使用する音とは違って、生の荒々しさがある。そのため、いつもの美的に洗練された空間とは異なる破れ目、裂け目が生じた。踊り自体も音に立ち向かっているような、対話しているような切迫感があった。キュレーションの面白さだろう。
こういう事故的パフォーマンスだったが、と書いて思い出したのが、終盤の長谷川。若い男の子二人にガラス玉を拾うよう命令、また正座で見ていた女の子に立つように促した。しかしその子は足が痺れて立てない。生まれたばかりの子鹿のように、長谷川の手につかまり、ようやく立ち上がった、その初々しさ。長谷川の慈母のような肉体を招き寄せた。
帰り道はいつものように体がほぐれ、細胞が解放された。長谷川の気が空間に充満し、客の体を通り過ぎたからだ。このように、踊りを見て、自分が肯定(解放)されることはほとんどない。神事のような踊り、本来の踊りである。だからダンサーの才能を評価しようとするスケベ根性は出てこない。