平山素子『Trip Triptych フランス印象派ダンス』

標記公演を見た(6月7日 新国立劇場中劇場一階席のみ使用)。
見ながら思ったのは、時々曲が長い、後半が面白い、『ボレロ』はバレエダンサーのレパートリーになりうる、平山のダンサーとしての成長、平山の優れた音楽性、地についた世界観と演出、中村恩恵との違い、シルヴェストリンが東洋的になっているなど。
曲が長いと思ったのは、第一部のドビュッシー弦楽四重奏曲ト短調』、ラヴェルの『5つのギリシャの民謡』、第二部のサティ『ノクターン』。特に最後は、『ジムノペティ第3番』で二枚の白いチュールが舞うデュエットがよかっただけに、短く終わってほしかった。
演出は自分が考え出したもの、外からくっつけたものではないので、肯定できる。特に後半の水関係、チュールの踊りが面白かった。
ボレロ』はいくつかのシークエンスを使い、少しニュアンスを変えながら、繰り返していく。ラヴェルの明晰な構造を理解し、振りのパーツを組み立てている。さらに音楽のうねりを、動きの波動に変えているところが素晴らしい。時々休止(ポーズ)を入れる、その入り方と出方(動き出し)の音取りが絶妙で気持ちがいい。重心の低さは、プリエではなく、東洋的な中腰に見える。何よりも自分の音楽解釈から生み出された動きなので、ベジャールの呪縛から逃れている。酒井はなと米沢唯は、「絶対私が踊りたい」と思うだろうなあと思った。同時に、平山のダンサーとしての成長を思った。以前は自作自演の場合、自意識が見えてつまらなかったが、今回は自分の体を他者として振り付けている。作品が独立して存在する。『Revelation』『Butterfly』『ボレロ』を様々なバレエダンサーで見てみたい。
サティ、ドビュッシーラヴェルを使用し、バレエ・リュスへの理解を交えた作品だが、自分の音楽の好み、自分の世界観が作品に反映されている。ペダントリーではない。そこに中村との違いがある。中村の価値観は自分の外にある。
冒頭のシルヴェストリンのソロには、東洋的なニュアンスを感じた。以前はもろフォーサイス踊りだったのに。肩が上がり、手が外に曲がっている。動きの質感が湿っている。個性が出てきたのだろうか。小尻健太の牧神起用は正しい。テクニックの凄さ、重厚な体、存在感。元Noismダンサーは4人。青木尚哉、平原慎太郎、高原伸子、原田みのる。青木、平原はそのまま、高原はやはり井関佐和子の味を思わせる。平山の弟子、西山友貴が、平山そっくりなのに驚く。動きの癖、存在の出し方。驚いた(訂正:西山ではなく福谷葉子?ポアント履いてた)。新国立の宝満直也は、何もしないでそこにいるように見えた。大物か。宝満にとって勉強になったと思う。
平山が、真にクリエイティヴ振付家(山崎広太、遠藤康行)と踊ってきたことが、『ボレロ』への到達を促したような気がする。