さいたまゴールド・シアター×瀬山亜津咲『KOMA'』

標記公演を見た(8月28日 彩の国さいたま芸術劇場小ホール)。一年前のワーク・イン・プログレスとは全く異なる感触の作品に仕上がっている。前回はリハーサル室、今回は小ホールという条件を差し引いても、その違いは大きい。
前回は瀬山が役者(平均年齢75歳)の側に寄り添って、その人生を解きほぐした印象だった。さらに瀬山自身がピナ・バウシュの空間で感じていた齟齬や違和を梃子にして、日本の体を追求する意図が感じられた。何よりも、演出に瀬山の実存が刻印され、作品に一回性の輝きがあった。
今回、役者たちは作品の駒になり(十分に訓練され、その責を果たしている)、日本の体は1エピソードに縮小、定型化された。その結果、確かに作品としてのまとまりがよくなり、再演可能にもなった。ピナの手法に軽やかな現代性を付加した作品として、一応成功したと言えるかもしれない。
ただし演出家瀬山の美点は影を潜めている。パートナーのファビアン・プリオヴィルが演出・振付補として加わったからだろうか(選曲にハードな音楽が増えたことはその影響だろう)。最も違和を感じたのは、最高齢者高橋清による大野一雄張りの手のダンス(手本役付き)。これは高橋の人生から生み出されたものだろうか。また瀬山の調整室からの呼びかけ、特に最後のストレッチのインストラクションは、彼らの日常風景の再現にもかかわらず、演出家と役者の支配関係を端的に表して、鼻白む思いだった。瀬山の個性とは相反している。
ワークショップから作品への移行過程で、演出家が非情になるのはもちろん当然のこと。ピナ・バウシュの母性と絡み合ったサディスティックな演出を経験してきた瀬山が、同じ轍を踏むのも理解できる。が、あのワーク・イン・プログレスの「あづさ」コールを思うと、あの空間の生のエネルギーを思うと、作品化の意味を考えずにはいられない。
唯一、作品の駒に見えて駒とならなかったのが、遠山陽一。人が行きかう中、両手で顔を拭い、片腕を拭い、脚を触り、反転して同じことを繰り返す。お風呂で体を洗う動きが、強度と速度を増しながら連続する。そして天からの水の滴を、裸の背中に受けるのである。全てを受け止める肉体の静けさ。遠山が一歩いっぽ歩んできた人生の集積が、その背中にあった。