Noism1『マッチ売りの話』+『passacaglia』2017

標記公演を見た(2月10日 彩の国さいたま芸術劇場小ホール)。ダブル・ビル形式ではなく、続けて2作品が上演された。場面転換は、『マッチ売りの話』の精霊(井関佐和子)によって促される。『マッチ』は『箱入り娘』に続く近代童話劇シリーズ。『箱入り娘』が子供の観客を前提としていたのに対し、今作は娼婦が登場することもあり、大人のための童話劇と言える。演出:金森穣、振付:Noism1、原案:アンデルセン『マッチ売りの少女』+別役実『マッチ売りの少女』、音楽:デヴィッド・ラング《The Little Match Girl Passion》より+梅林茂、衣装:中嶋佑一、木工美術:近藤正樹、面:石橋秀美。
舞台は三段構造。卓袱台のある居間を挟んで、前と奥に街路が横に伸びる。前路カミテには、別役作品に必須の電柱と裸電球の街灯、バックに向かいの家の窓とドアが見える。居間には木製のドア。アンデルセン童話は街路、別役戯曲は概ね居間で行われ、ラングの『マッチ売りの少女受難曲』と梅林ワルツ等が交互に流れる。アンデルセン童話とラングの受難曲のみでも作品は成立するし、金森の音楽性と抒情性が十全に生かされたはず。しかしそこに別役と梅林を介入させ、アジアの仮面劇の伝統と中腰を取り入れることで、アジアのカンパニーとしてのアイデンティティを鮮明にした。別役を導入したとは言え、不条理劇の軽みはない。2作品が複雑に絡み合う濃厚な金森ワールドが展開される。原作に寄り添うのではなく、原作を自分に引き付ける演出手法と言える。終幕、精霊(原作は祖母)に導かれて天国へ登ったマッチ売りの少女が、蘇って自爆テロの戦士となるエピローグは辛口だった。大人の童話だからか。
石橋の作る面は表情豊かで素朴、人間の哀しみを伝える。ダンサーは面を付けることで、動きが自在になり、マイムも感情豊かに見えた。自分たちで作った動きということもあるのだろう。女の石原悠子、少女の浅海侑加(内股!)、義父の吉粼裕哉の存在感が際立つ。双子の弟(リン・シーピン、チャン・シャンユー)の中腰歩きの鋭さ、少女が亡くなった時、全員で裏返り祈祷する動きも、面白かった。冒頭に登場し、少女がマッチを擦るごとに窓辺に現れ、最後は少女を天国へ導く精霊の井関は、ベールと長いフレアスカートを身に着けているにもかかわらず、全身の表情が素晴らしかった。腕の一振りで空間を変えることができる。リラの精の趣があった。
『passacaglia』は、演出振付:金森穣、音楽:ハインリッヒ・ビーバー《Passacaglia in G minor for violin solo》+福島諭、衣装:中嶋佑一。ドロップは切れ目の入った出入り可能なゴム布、三方(?)のフットライトがスチールのような硬質な空間を作り出す。ビーバーの音楽時はスタイリッシュなコンテンポラリー語彙、福島の音楽時は、入り乱れた不定型な動きで踊られる。福島は、ビーバーの『パッサカリア』を「祈りの結晶化」と捉え、楽曲を結晶化される直前の飽和状態にまで戻すことを目指した(プログラム)。実際には『パッサカリア』のメロディは全く聞こえず(当然?)、不透明、不定形な音響が響くのだが。2種の動きがドロップの出入りによってすっきりと切り替えられ、ダンスの醍醐味を味わうことができた。
『マッチ売りの話』から『passacaglia』への舞台転換時、ダンサー達の仮面を取らせ、装置を移動させた精霊の井関が、長い衣装を脱ぎ捨てると、磨き抜かれた身体が現れる。少女のような、晴れやかなオーラが舞台に充満し、春が来たような心持になった。中川賢とのデュエットでも自らを開放する。中川がデュエットをコミュニケーションと捉えれば、阿吽の呼吸が生まれるのだが。共に踊り、共に呼吸することがパ・ド・ドゥの面白さ、楽しさ。ダンサー達は『マッチ』の生き生きとした動きとは対照的に、高度な振付にチャレンジする難しさを感じているようだった。
今回は物語ダンスと抽象舞踊の二作品だったが、作品中、二つのフェーズが交互に現れるという共通点があった。「複雑な事象を複雑なまま、多様な価値を多様なままに、その混沌を享受する強さを身につけること」(金森、プログラム)を、ダンサーのみならず、観客に対しても要求しているのかも知れない。