ピナ・バウシュ ヴッパタール舞踊団『カーネーション』2017【追記】

標記公演を見た(3月16日 彩の国さいたま芸術劇場)。ヴッパタール舞踊団の来日は3年ぶり。演目は1982年初演、1989年日本初演の『カーネーション』(未見)である。舞台一面にピンクのカーネーションが屹立し、その上を縫うようにダンサー達が歩く。例によって悪夢のような(つまり見たときは鮮明でも後で思い出せない、ただその時の感触だけが残る)取りとめのないエピソードが展開する。ダンサー達は、ダンスを始めた時には思いもよらない様々な演技をこなさなければならない。犬になる、ウサギになる、オウムになる、ヤギになる。男たちがウサギになった時、四隅に配置された4頭のシェパード(本物)の中の1頭が、激しく反応した。ウサギの演技が真に迫っていたのだろう。なぜこんなことを? とダンサーは思うと思う。だが、ピナが生きていた頃に感じられた、何もかも剝き出しにされるサディスティックな感触(と共同体意識)は、今回感じられなかった。ダンサーが大幅に入れ替わり、1レパートリー作品の演出・振付として、受け入れているように見える。ピナ・ファンにとっては、物足りないかもしれないが、健全な経過だと思う。
踊り自体の面白さはラインダンスにある。椅子から繰り返し起き上がるダンスや、春夏秋冬の歩行ダンス等。後者は一瞬、盆踊り状態に思えるが、大きな違いは、ピナの振付が客席に向かって行われていること。必ず客席目線で、玄人っぽくミステリアスに踊られる。見る度に彼我の距離を感じざるを得ない。ショーダンスのニュアンスを取り入れたのは、劇場にくる観客を意識してのことだろうか(つまり劇場のレパートリーという意識)。カーテンコールは、ピナを失いダンサー達が孤児のように見えた前回とは大きく異なり、1ダンスカンパニーのダンサー達が全力を尽くした充実感が漂っていた。ピナの愛情という恩恵を受けられないのに、困難な作品をやり遂げたダンサー達には胸迫るものがあった(プロのダンサーなら当然とも言えるが、それにしても)。

【追記】
動物になることについて。昨日(4/6)、青年団こまばアゴラ劇場演劇学校“無隣館”の公演『南島俘虜記』で、佐々木役の大村わたるが、犬になっていた。遠吠えをし、飼い主にじゃれ、魚肉ソーセージを貰って嬉しそうに口でくわえて食べていた。見ていて思い出したのが、伝統芸能では動物になるのが当たり前ということ。伝統芸能の側面を持つバレエでも、ペローが猿役に励み、ボリショイ・バレエの『ファラオの娘』(原版:プティパ)にも猿役があった。