中村恩恵×新国立劇場バレエ団『ベートーヴェン・ソナタ』2017

標記公演を見た(3月19日 新国立劇場中劇場)。中村恩恵が同バレエ団に新作を振り付けるのは、2013年の『Who is “Us”?』以来。一晩物は初めてである。中村の緻密な演出、音楽性、感情と連動する振付術の全てが十全に発揮された力作。レパートリー化しうる骨格と内容を持っている。中劇場の奥行きを生かす照明(足立恒)、シンプルで洗練された美術(瀬山葉子)、的確な衣裳(山田いずみ)が、深く厚みのある空間を作り上げる。さらに、考え抜かれた衣裳の着脱とポアントの有無。特にジュリエッタ・米沢唯の裸足、ヨハンナ・本島美和の赤いドレスとベージュのレオタードが、キャラクターを端的に示していた。野沢美香による音楽監修・編曲も素晴らしい。冒頭、唯一使用されるモーツァルト(『レクイエム』)は、ピアノ編曲で静かに、第九はベートーヴェンの聴覚の変調を表して途切れ途切れに、終曲の弦楽四重奏曲第15番は、ベートーヴェンの生の終わりをレコード針のピチピチ音で告げる。中村の計算通りの舞台世界が実現したと思わせる、完成度の高さだった。
配役は適材適所(と言っても、ベートーヴェンの生涯を知っている訳ではないが)。ベートーヴェンに福岡雄大ジュリエッタ(伯爵令嬢・教え子)に米沢唯、アントニエ(不滅の恋人)に小野絢子、カール(甥)に井澤駿、ヨハンナ(弟の妻・カールの母)に本島美和、ルードヴィヒ(ベートーヴェンの魂?)に首藤康之。コンテンポラリー語彙と演劇性の合致を、ダンサー達は高レベルで実現する。福岡のエネルギッシュな踊り、米沢の剝き出しの魂、小野の涼やかで端正な踊り、井澤の素直な演技、本島の知的で成熟した踊り、そして首藤が、かつてベジャールダンサーであったことを思い出させる入魂の演技を見せた。
首藤は国内で気になるダンサーとして、福岡、井澤、小野の名前を挙げている(『ダンスマガジン』2017.4)。だが、首藤の内なるベジャール魂を呼び起こしたのは、米沢と本島だった。米沢との『月光』でのパ・ド・ドゥは、剝き出しとなった米沢を首藤が追いかける格好。米沢の実存の苦しみを、首藤の体が看取する。ダンサーとして熟年に入った首藤の現在を、米沢があぶり出したとも言える。一方、本島とのピアノ・ソナタ第31番によるパ・ド・ドゥは、本島の美貌とエレガンス、鋭敏な振付解釈に、首藤というダンサーへの洞察が加わり、深い感応を感じさせる円熟のデュエットとなった。ベジャールの不死鳥フォルムの引用もある。東京バレエ団退団後、これほどまでに首藤が本来の姿を見せたことはなかっただろう。ベジャールがハイデとノイマイヤーに振り付けた『椅子』のような作品を、中村の振付で、本島と首藤、あるいは米沢と首藤で見てみたい。
コンテンポラリーの振付家がバレエ団に振り付ける試みは、記憶に残るもので、金森穣、島崎徹、中村と新国立、勅使川原三郎東京バレエ団(駒としてだが)、舞踏系では、鈴木ユキオと東京シティ・バレエ団、伊藤キムNBAバレエ団、山崎広太と井上バレエ団(上演順)がある。コンテンポラリー系は、ダンサーに語彙の拡張を促す。舞踏系は意識の革命を促す。「場」を作るという意味では、舞踏系が圧倒的に面白い。しかしレパートリー化を考えると、それが徒となる。今回、中村のダンサー采配を見て、Noism のような劇場付ダンスカンパニーを立ち上げられるのでは、と思った。神奈川県、または横浜市の劇場が、新潟市りゅーとぴあと同じ栄誉を担うべきではないだろうか。キリアン・ラインで埼玉県でも。