標記公演を見た(1月12, 13, 14日 新国立劇場オペラパレス)。フォーキン振付『レ・シルフィード』、中村恩恵振付『火の鳥』、フォーキン振付『ペトルーシュカ』というバレエ・リュス・プログラムである。それぞれ、黒一点のロマンティック・スタイル、紅一点のコンテンポラリー・ダンス、男女によるキャラクターダンスという形式。取り合わせの好いトリプル・ビルだった。
『レ・シルフィード』(09年)は「ロマンティックな夢想的情景」というジャンル名が示す通り、夢見る詩人とシルフィード達が森で戯れる一幅の絵のような作品。ショパンのピアノ曲(管弦楽編曲:ロイ・ダグラス)と柔らかなロマンティック・スタイルが渾然一体となるところに、作品の妙がある。昨秋のマリインスキー・バレエ来日公演では、明るい背景画に、シルフィードの無邪気で闊達な性格が反映されていたが、新国立版では、暗めの背景画に息をひそめるような精緻な踊りが展開される。バリシニコフがキーロフ版を移植したABT版(映像)でも同じ演出、同じ配役(主役女性がプレリュードを踊る)だったので、こちらの系譜なのだろう。
主役は初日が井澤駿と小野絢子、二日目が渡邊峻郁と木村優里、ワルツとマズルカは両日 寺田亜沙子と細田千晶だった。井澤は佇むだけ、腕を上げるだけでロマンティックな世界を現出させる。ニジンスキーではないが、体に含まれる無意識の大きさゆえだろう。小野は繊細で音楽的、大団円での軽やかに走り抜けるフレーズに個性が出た。共に様式に対する意識が高い。
一方、渡邊と木村は生身を感じさせる点が作品から外れているが、踊り自体は生き生きとしている。渡邊は例によって優男風。木村はパ・ド・ドゥでの存在感が持ち味ながら、もう少し二人で踊る気持ちも見せて欲しい。
ベテランソリストの寺田はみずみずしく、細田はクラシカルなラインに風格を漂わせた。アンサンブルはポアント音がコトリともしない。コントロールされた優美な体捌きに、幽玄という言葉が思い浮かんだ。
新作『火の鳥』は、中村がバレエ団に振り付けた2作目(小品は除く)。ストラヴィンスキーの同名組曲45年版を使用、紅一点という縛りに沿って物語にアレンジを加えた。
ある独裁国に伝わる伝説「火の鳥の羽をもつ者が全てに勝つ」。父の命を受けた王子、反乱軍のリーダーが羽を求めて、火の鳥の住む辺境にやってくる。そこには処刑された王の側近の娘が、身一つで逃れていた。リーダーは娘を助け、男装させて反乱軍に入れる。一方、王子は火の鳥に魅了され(魅了し?)、羽を手に入れる。王子を籠絡しようと、反乱軍の男たちは女装する。一番美しかった(男装の)娘が、王子に取り入り、羽を奪う。王子に襲いかかる男たち、娘は思わず間に入るが、裏切られた王子からも拒絶される。女性と分かった娘に襲いかかる男たち。混乱のなか、辺りは焦土と化す。火の鳥が娘の中に入り、不死鳥となる。「終曲・賛歌」では王子と反乱軍が一緒に、銃に旗を繋いで走り抜ける。娘は内側が光る枯れ木に見入る。
ベジャールの影響を感じさせる重層的な物語。ただし、世界が焦土と化した後、なお人々が武器を手にすることには違和感があった。振付が音楽的なので、あらすじを知らなくても作品は享受できるが、もう少し物語の整合性が必要だろう。振付家の頭と身体感覚に、まだ乖離があるように見える。
演出面では、ドラグ・クイーンの火の鳥、男装する娘、女装する反乱軍と、ジェンダーが交錯する。また火の鳥は装飾的な厚底ハイヒールを履くため、飛ぶどころか歩くことさえ難しい。そのため彼(女)をサポートする黒衣が3人配された。花魁風でもある。装置・衣装は串野真也。レディ・ガガに靴を依頼されたとのことで、やはり火の鳥のハイヒールに最も個性が表れていた。
火の鳥にはバットリーが得意の木下嘉人。今回は上体のみで、しかもドラグ・クイーンの妖しさを加えながら、クールに王子を誘惑する。冷静な距離感が役に生きた。
娘はWキャスト。初日の米沢唯は、少年ぽい可愛らしさ、裸脚の初々しい表情など、いつもとは異なる魅力を発散した。リーダー福岡雄大との同質のユニゾン、王子 井澤との新鮮なデュエット、子守唄での深い孤独のソロ、そして終幕での未知との遭遇。米沢の様々な側面が引き出されている。
二日目は五月女遥。中村振付のソロを踊ったことからも分かるように、振付の機微を的確に捉え、その音楽性を極限まで身体化することができる。終幕は音楽と完全に一体化、体から音楽が流れるようだった。
リーダーの福岡、王子の井澤は、当て書きのようにはまり役だった。福岡の凛々しさ、井澤の無垢。男性をリフトする献身的黒衣は、渡邊、趙載範、福田紘也、反乱軍は福田圭吾筆頭の7人が女装しつつ、生き生きとコンテ・アンサンブルを形成した。
『ペトルーシュカ』(11年)は全4場のバーレスク・バレエ。メロディアスな『火の鳥』とは対照的に、ストラヴィンスキーの弾けるリズムと鮮やかなキャラクター描写が、ピアノと管弦楽の掛け合いによって繰り広げられる。福田一雄によれば、ロシア民謡を始め、既成音楽の断片が用いられている。ヨーゼフ・ランナーの『シュタイアー舞曲』『シェーンブルグの人々』、ロシア民謡『ヴォルシェビキ』『聖ヨハネの夜』『祭りの夜』『私の部屋』『おお雪解けだ』、また人形芝居の小太鼓など(1999年 新国立劇場バレエ「トリプル・ビル」プログラム)。アヴァンギャルドな枠組みと民謡が合体した、郷愁を誘うロシア物である。
主役のペトルーシュカには奥村康祐。当たり役である。かつて『シンデレラ』の道化を演じた際、そのペーソスと自在な演技に驚かされたことがある。今回もピエロの哀しみを、ぶらぶらするおがくず人形の体に濃厚に漂わせた。動きは自然、世界との関係が最も良好な自画像だった。
バレリーナは池田理沙子。こちらも当たり役だろう。『ホフマン物語』で自動人形オリンピアを精密に踊ったことからも予想はついたが、今回はおがくず人形の素朴さ、可愛らしさ、シンプルな感情を付加している。奥村共々、憑依のレベルと言える。
ムーア人の中家正博は、踊りの美しさ、足捌きの鮮やかさが際立つ。愚かさを出す中に、ややノーブルなラインがちらついた。
謝肉祭の人々は心から祭りを楽しんでいる(演出:デニス・ボナー)。人形を取り仕切る親方には、大きさと奇妙な味がぴったりの貝川鐵夫、踊り子 奥田花純・柴山紗帆の妙技、ジプシー 渡辺与布の豪放磊落、乳母 寺井七海のロシア味、馬丁 井澤諒の正確な踊り、仮装の悪魔 速水渉悟のダイナミックな跳躍、そして皇室の御者 中島駿野の晴れやかな統率力が広場をまとめている。仮装の乳母は福田(圭)に見えたが。
指揮者 マーティン・イェーツの緻密な解釈と、音楽を創り出す喜びが、公演の土台となった。イェーツ自身が物語を生きているように聴こえる。東京フィルはイェーツの細かい要求に応え、地力を発揮。力感あふれる岡本知也のピアノもオケと拮抗している。