フレデリック・アシュトン メモ 2017

John Selwyn Gilbert文、Zoe Dominic写真の FREDERIC ASHTON 〜A CHOREGRAPHER AND HIS BALLETS (Henry Regnery Company, 1973)に、アシュトンの「子供時代から振付家になるまで」をフォーカスしたインタビューがある。興味深かったところを簡単にメモする。本書はアシュトンの主要作品を舞台写真と解説で紹介し、合間に、ニジンスカ、ガートルード・スタイン、マリー・ランバート、ド・ヴァロワ、チャペル、ヘルプマン、サムズ、フォンテイン、グラント等がコメントを寄せたものである。


・1904年エクアドルで生まれ、赤ん坊の時にペルーのリマに移り、そこで育った。母はサフォーク出身の活発でユーモアあふれる人、父は名誉領事のような存在で、ケーブル会社に勤めていた。厳しく、メランコリックな性格(自分も受け継いでいる)だった。二人は一緒にいてとても幸せ、とは言えなかった。中流階級で、3人の兄と義理の弟、妹がいた。一緒に遊んだのはペルー人。子供の頃は、英語よりスペイン語を喋っていた。リマには英国コロニーもあったが、英国について考えたことはなかった。

・8歳の時、リマにあるドミニコ修道会の学校に通い始めた。そこで学んだのは、祈ること。教会で多くの時を過ごし、聖体拝領の準備もした(母が気付いて止めさせたが)。カトリック教徒ではなかったが、リマ大聖堂の全てのミサを手伝った。金髪だったため、リマ大司教のお気に入り侍者だったのだ。学校はイエズス会ドミニコ会があって、イートンとハローのようなものだった。自分が通ったドミニコは、司祭がフランス人で、全てがフランス語で行われた。13歳の時、リマの英国公使が学校を始め、そこへ通うようになった。

・だが同じころ、父が仕事でエクアドルに戻り、家族とミラフロアズに住むことになる。そこでパブロワの公演があり、初めてバレエを見た。パブロワが「フェアリー・ドール」を踊ったのを覚えている。最初、年を取っていて醜いと思ったが、踊り始めると本当に美しかった。パブロワを見たことで自分の生涯は決まった。彼女に毒を注入され、その夜から踊りたいと思うようになったのだ。その圧倒的な風格とインパクトの強さに観客は興奮し、一目見たら忘れられなくなる。母は楽屋にまで押し掛けた。美しいボールルーム・ダンサーだった兄は、舞踏茶会でパブロワに目を付けられ、カンパニーに誘われた。だが兄は恐怖を感じて、すぐに断ってしまった。考えられないことだ。

第一次大戦が終わった1919年、15歳で英国のパブリック・スクールドーバー・カレッジに通い始めた。ぞっとするイングランドの気候、南米との違い、当時はスペイン語なまりの英語を喋っていた。新入りとして手ひどい扱いを受けたが、最後には友人もできた。休日はチェルシーのキングズロードにある、母の学校友達の家で過ごした。自分は劇場やコンサートに行きたかったが、彼女(母の友人)は少年にはふさわしくないと考えて、田舎に連れ出されたものだ。ロンドンにいる時は10時30分が門限。10日間で12から15の劇場を回った。マチネからソワレまでぶっ続けで。音楽を聴いたり、プロムナード・コンサートに行ったり、劇場に通ったり、美術館に行ったりすることで、自分を支えていたのだ。

・パブロワの次に見たバレエは、ディアギレフの『眠り姫』。素晴らしかった。スペシフツェワのローズ・アダージョを今でも覚えている。それ以後コリジウムのシーズン全てを見るようになった。だが本当のディアギレフ・バレエは『青列車』が最初。『牝鹿』、『牧神の午後』、『結婚』を見たのは、初めての自作バレエ『ファッションの悲劇』の初演前日だった。観客の反応が芳しくなく、『結婚』に対して冷淡だったことを覚えている。自分は大いに興奮したが。

・自分は興味のないことを学ぶキャパシティがなかったので、試験に合格しなかった。それで母の望んだ大使館勤務ではなく、輸入商社のオフィス・ボーイになった。最初は簡単な事務だったが、後見人だった人の兄が会社のパートナーだったため、昇進して、ビジネスレターを翻訳する通信員になった。どうやってシティの仕事に耐えられたのか分からない。このころ父が新しい事業に失敗し、自殺した。その後、母がロンドンにやってきて、自分が養わなければならなくなった。それで1年半、シティで仕事するはめになったのだ。

・丁度同じ頃、マシンのレッスンを受け始めた。学校友達のレジナルド・パーマーが、新聞広告を見つけて教えてくれたのだ。マシンに手紙で、「お試しレッスンを受けられるか、その時何を着ればよいのか」と尋ねると、マシンは、「柔らかい上靴とパジャマでどうぞ」。厳格に育てられたため、パジャマはふさわしくないと思い、クリケットフランネルとシャツでレッスンを受けた。もちろんスタートから正しい人の手に渡ったことは、とても幸運だった。マシンは超然として打ち解けることがなかったが、バレエ団を作ろうとしていたので、教えることには熱心だった。10人ほどの生徒のうち、ほとんどが芸術家ぶった少女たち。自分はシティで働いていたので、土曜の午後しか通えない。一週間で1ギニーのレッスン料。30から35シリング稼いでいたが、他に何も払うことができなかった、洗濯代さえも。母はバレエのレッスンのことを知らなかったので、なぜお金がないのか理解できなかった。自分は当時とても痩せていて、悩んでもいて、さらに自分のミスから会社に1000ポンドの損失を与えてしまい、ベッドから起き上がれなくなった。スコットランド人の医者は非常に賢い人で、ダンスのレッスンのことを聞き出し、もしバレエをすることを許さなかったら、息子さんは精神病院で生涯を終えるかもしれないと母に告げた。母は了承したが、家族は怒り、母も息子がダンサーであることを口外しなかった。

・自分は毎日マシンの所に通うようになった。彼からは、スタイルとポール・ド・ブラの美について学んだ(振付については、直接は何も教えてくれなかった)。世界的なダンサーになりたかったが、始めるのが遅く、テクニックも強くなかった。ダンサーが少なかったので、見逃して貰えたのだろう。1925年、マシンはディアギレフのカンパニーに戻ったが、その前に、マリー・ランバートに自分を推薦してくれていた。最初は彼女のことを好きになれなかったし、パートタイムのスタジオだったので、レガートの所や、お金が払える間はアスタフィエワ、マーガレット・クラスクの所に通った。ランバートについては最初お金を払っていたが、自分に余裕がないと分かると、受け取らなくなった。それで彼女の所にいることになったのだ。

ランバートは私のキャリアにたくさんのものをもたらした。彼女は文学や詩について膨大な知識を持つ知性豊かな女性だった。私の読書に大きな影響を与え、私を鍛えてくれた。彼女の物事の分析や推論が非常に優れていることには、いつも気付かされた。ダルクローズの訓練を受けたにもかかわらず、音楽的側面は目立たなかったが、ダンスへの情熱があり、非常にエネルギッシュで、刺激を与えられる人物だった。私が本当に人生をスタートさせたのは、ランバートとの最初の日々においてである。

・私の最初のパフォーマンスは、ブライトンの遊歩桟橋だった。そして初めて創作したバレエは『ファッションの悲劇』(1926年)、衣裳は後に親友となるソフィ・フェドロヴィッチが担当した。この作品は完全にオリジナルとは言えなかった。自分のパートはマシンの影響、女性のパートはニジンスカの影響があったからだ。しかしいくらかは独自のものがあったと思う。ディアギレフが見に来て、オーディションを受けるよう勧めてくれたが、自分の力不足を知っていたので行かなかった。後でひどく後悔した。と言うのも、『悲劇』の上演中は週に10ポンド貰ったが、その後は何もなかったからだ。母は、何もしないのなら、シティに戻って職につくよう言い続けた。それでソフィが、母にお金を出してくれる友人を探し、私がダンスを続けられるよう説得してくれた。1928年、私がルビンシュタインのカンパニーに行く直前、ディアギレフがリハーサルを見に来て、どうするつもりか尋ねた。私が答えると、彼は嘲笑するような笑みを浮かべた。ルビンシュタインを認めていなかったのだ。私のバレエに興味を持っているようにも見えなかったので、ソフィにお金を借りて、パリでニジンスカのオーディションを受けた。

振付家に必要なものは、眼である。彼は振付家になる訓練を、眼を通して行わなければならない。私は他の振付家の仕事を見て、振付家になることを学んだと思う。特にニジンスカは私の助けとなった。一日中隅っこに座って、彼女のリハーサルをじっと見ていた。ニジンスカのリハーサルは厳しかった。若いカンパニーで、経験のないダンサーたちを鞭打って、何とか形にしなければならなかったのだ。ダンサーはあちこちからリクルートされたが、ニジンスカの稽古を経たコール・ド・バレエは素晴らしかった。舞台をだめにしたのは、ルビンシュタイン自身だった。ビリー・チャペルと私はコール・ドのメンバーで、月に1000フラン(10ポンド)貰っていた。ランチは6、7フラン、ディナーが8、9フラン、風呂なしだった。私はソフィのポーランド人の友人に英語を教えて、お金の足しにした。だが彼女に十分に教えられたかどうか。英語の文法を誰かに教えることはできなかったし、今でもできない。1929年の夏、休暇で英国に戻った時にニジンスカが辞職し、契約は打ち切られた。全てが崩壊した気分だった。

・状況は以前と同じ静かなものだった。アシュリー・デュークスの芝居のバレエシーンを振り付け、その後『カプリオール組曲*1を作った。この作品は自分にとって重要だった。ピーター・ウォーロックによる音楽が素晴らしく、スカラ劇場でのサンシャイン・マチネで上演された。パブロワが来ていた(出演していたカルサヴィナを見に来たのだと思う)。アーノルド・ハスケルの後ろに座り、私のことを尋ねたと言う。私は手紙を書き、意見を聞きたいと伝えた。ヴィクター・ダンドレからの返事は、お茶にいらしてくださいというものだった。

・ダンサー パブロワは生命の息吹であり、炎だった。一方カルサヴィナは女性であり、女王だった。パブロワと同じくらい、カルサヴィナにも影響を受けたが、彼女のアプローチは理知的、パブロワは感情そのものだった。私がバレエを続けてこられたのは、パブロワの記憶があったからだ。私は怖れ、震えながら、アイヴィ・ハウスに向かった。最初の一言は「すごく若い」。その後、お茶になった。テーブルの上にはたくさんのジャムの小瓶があり、彼女は優美な手つきでよそった。私たちは自由に、楽な気持ちでお喋りをした。彼女に会ったことはぞくそくする出来事だったが、彼女がとても年取って見えたのも事実(肌が羊皮紙のようだった)。誰もが年寄りにみえるほど、当時は若かったと言える。

・作品を見に来てくださいとお願いしたが、ツアーに出るところなので行けないと断られた。駅に行く途中に来てもらえませんか? 彼女は驚いたようだったが、やってきて『レダと白鳥』といくつかの断片を見て、励ましてくれた。その後パブロワに会ったのは、英国での最後のマチネ公演の時。終演後、楽屋に何とか辿り着くと、ダンドレが入れてくれた。彼女は胸骨に傷を負っていた。上演中に自分で刺したのだ。私の心はこの奇妙な傷に釘付けになった。だが彼女は私の手を取って、「あなたには大きな未来があります。それはゆっくりだけど、必ず来ますよ」と言ってくれた。それが彼女を見た最後だった。彼女はヨーロッパのツアーから戻ったら、カンパニーを再編し、私を入れてくれると言った。でも彼女は戻ってこなかった。

*1:*『カプリオール組曲』―1930年リリック劇場、ランバートバレエ初演。トワノ・アルボーの『オルケソグラフィ』(1588年)からヒントを得て制作。フランス宮廷舞踊、バス・ダンス、パヴァーヌガヤルド、ブランルに、エリザベス朝の舞踊を加え構成された。参照:『バレエ音楽百科』(小倉重夫編)