クライム・リジョイス・カンパニー第1回公演2016

標記公演を見た(7月7日 メルパルクホール)。クライム・リジョイス・カンパニーとは、優れたダンサー・振付家である坂本登喜彦・高部尚子が、2015年に設立したカンパニーのこと(高部のたかは、本来ははしごだか)。一風変わった名前だが、公演プログラム掲載のうらわまこと氏の文章から、クライムは登る、リジョイスは喜ぶで、坂本登喜彦の下の名から採ったことが分かった。高部の夫への愛を窺わせる命名。カンパニーは「唯一無二の世界を創出するバレエ作品の創作・上演を目指す」。
演目は、坂本振付の『Feeling Grieg』(2016ver.)、高部振付の『Transparency』(初演)、佐多達枝振付の『父への手紙』(1993年)の3作品。佐多作品は、坂本・高部が初演し、今回も出演している。
坂本作品は、グリーグ組曲『ホルベアの時代から』を使用したシンフォニック・バレエ。西野隼人と真鍋明香里をソリストに、8人の女性ダンサーがアンサンブルを踊る。西野にはノーブルな憂いを含んだソロ、西野と真鍋には、台詞の掛け合いのようなゆったりとしたパ・ド・ドゥが振り付けられている。音楽性よりもむしろドラマ性を重視した作舞で、長調よりも短調アレグロよりもアダージョに、坂本のドラマティックな資質が生かされた。たなびく雲のような美術は河内連太。
高部作品は、打って変わってバレエの語彙を含むコンテンポラリー・ダンス。美術も高部が担当。音楽はAOKI takamasaによるミニマル・ミュージック。紗幕と3枚の白スクリーンで題名の『透明』を示唆し、3脚の椅子を使った3人一組の3つのグループが、ユニゾンで踊ったり、ばらけたりする。高部所属の谷桃子バレエ団から男性3人、女性6人が集結、バレエダンサーにしか踊りこなせない難度の高い振付を、切れ味よく踊り抜いた。山科諒馬、安村圭太が、振付をよく理解した鋭い動きで、ソリストとしての存在感を示している。
高部の振付はこれまで、舞踏風ダンス、シンフォニック・バレエなどを見てきたが、コンテンポラリーは初めて。さらにカンパニー・デラシネラ風の素早いマイム動きの導入もあり、高部の動きそのものに対する探究心の強さに改めて気付かされた。振付は一見、よくあるように見えるが、一時も目を離すことができない。つまり高部の思考が、隅々まで漲っているのである。ミニマルでもストラヴィンスキーでも、高部の音楽的精度は同じ。ここまで音楽を腑分けする能力は、シチェドリン音楽でアンナ・カレーニナを踊った、ロパートキナくらいしか思い浮かばない(振付はラトマンスキーだが、明らかにロパートキナの音楽性)。緻密な音楽性に加えて、高部のもう一つの特徴は「過剰さ」にある。今回は、構成がよくまとまったせいもあり、そこまでやるのか、という過剰さは影を潜めている。
佐多作品は、3回目の上演。カフカの同名作(手紙)を河内が台本化、音楽はグレツキスクリャービンリゲティ、ペルトを小森昭宏が選曲した。美術・衣装は前田哲彦。小森の選曲、前田の空間で、作品の半分が作られていると言ってもよいほど、隙のない時空構成である。
トタンの幕がガタガタと上がると、白い部屋の中央に白のベッドが置かれている。その上方には、百合の花のような形をした白い大型照明器具(?)。バックのシモテ上には、トタン幕同様、小さい窓ライトが当てられ、主人公「私」の閉塞状況を示している。衣裳は、「私」が黒のズボンを穿いている以外は、全員白。コロスの女性6人のみがポアントを使用した。
河内の台本は、ベッドに眠る「父」への、「私」の葛藤と苦悩を中心に、「フィアンセ」や「友人」、さらには一種道化の役割をする「メイド」を加えて、人間関係の様々な局面を描く。原作と異なるのは、母が登場せず、父がフィアンセを「私」から奪うという妄想が加わった点。父と子の戦いが分かりやすくなったと同時に、舞踊的な見せ場を作るという効果があった。ただしカフカの分かりにくい自意識の感触は薄らいでいる。
佐多の振付は、モダンバレエの可能性を突き詰めたもの。コロスにはニジンスカの『結婚』のエコーが、メイドの強張ったメルヘン調の動きには、マッツ・エックとの同時代性が息づいて、ダンス・クラシックの語彙に表現主義的要素が加わった、モダンバレエの極北を示す。世代を超えて再演されるにふさわしい作品と言える。
主役の「私」には坂本。ロマンティックなダメ男ぶりが板についている。全身を使った苦悩の表現は塩辛く、そこに坂本のクールな特徴がある。友人・足川欣也(ノーブル!)とのデュオは、二人の長い歴史を感じさせた。
メイドの高部は自在。音楽的な鋭敏さはもちろん、動かない時でも、常にその体になりきる点に、舞台人としての凄みを感じさせる。初役の作間草は、彼女のために作られたとさえ思われるほど、官能的なフィアンセだった。身体を投げ出す思い切りのよさは相変わらず。張り切った美脚も健在だった。また要の父には演技派の堀登。原作の圧倒的な存在感とは異なる、明るく、ややコミカルな役作りは、佐多のカリカチュアを実践した結果なのだろう。
3作とも、振付家の想いがこもった力強いトリプル・ビル。佐多作品の継承については、坂本・高部の芸術的意志を感じさせた。