風間サチコ「セメントセメタリー」2020 【訂正】

標記個展を見た(2月8日, 28日 無人島プロダクション)。風間は、個展直前の1月、新鋭作家を助成する第30回タカシマヤ美術賞を、映像の小泉明郎、現代美術グループ「コンタクトゴンゾ」と共に受賞した(2月4日 朝日新聞)。また個展期間(2月8日~3月8日)中の21日には、自作『ディスリンピック2680』がNY 近代美術館に収蔵されたことを明らかにしている(ブログ『窓外の黒化粧』 )。

会場となる無人島プロダクションへのアクセスは、「菊川」から6分、「住吉」から8分、「錦糸町」から10分とのことで、ティアラこうとうのおかげで行き慣れた「住吉」から目指すことにした。ティアラとは反対方向を、総武線に向かって斜めに進む。大横川沿いに歩いて左側の黒い木造建て工場が、ギャラリーだった。看板はなく小さなネームプレート、入り口も普通の引き戸。

扉を引くと、古い木の床。正面に巨大な木版画6枚。右手に受付、その奥に5枚綴りの等身を超える木版画と、その版木を埋め込んだセメント墓、左手には拓本連作、その手前に中規模木版画が展示されている。廃屋の感触を残す木造建築、正面の木壁下半分をぶち抜く大横川の護岸壁が、木版の持つ職人性(風間は市販の彫刻刀と手作り馬楝で、242.4×640.5㎝の巨大木版画を彫って摺る)と、セメントをモチーフにした連作と合致する。

個展初日の1回目は、風間と思しき女性が取材記者に自作解説を行なっていたため、逆打ちで見た。2回目は順打ち、さらにこの時購入した『コンクリート組曲』図録(黒部市美術館、2019年)を家で見、解説を読んで、風間の意図するところをようやく知る。ギャラリーでは、作品の表記がなく、受付の方に教えて貰ったりもしたが、ただ意味分からず、風間の彫りの感触を体中で浴びたという印象。素朴な木の空間で、好きな画を見る喜びのみがあった。

新作『セメント・モリ』(メメント・モリでなく)は、奥秩父 武甲山の石灰掘削作業員を彫ったもので、同じ5枚の巨大版画に後から手を加えている。脚絆に草鞋を履き、鶴嘴とドリル化した手を持つ5人の男たちが、自らの版木が埋め込まれたセメント墓を前に、棺桶に入ったまま、並び立つ。木版らしい民芸的な画風。

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『セメント・モリ』

個展標題の『セメントセメタリー』は、武甲山が切り崩されて、ピラミッド風巨大墳墓へと変容する過程が、9枚の拓本(フロッタージュ技法)で表されている。この技法を選んだのは、『セメント・モリ』の巨大版画5枚を手作り馬楝で摺り、肘を痛めたため(ブログ1/24)→【馬楝が壊れたため(ブログ4/24)】。同じ版木を彫っては墨でこすり、彫ってはこする、その時間の豊かさ。取材で武甲山を見に行ったが、快晴過ぎてハレーションで見えず、ようやく帰り際に削られた山肌が見えたという(ブログ12/16)。

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『セメントセメタリー』

正面に掲げられた6枚の連作は、黒部ダムワーグナーの『ラインの黄金』を幻視した『クロベゴルト』シリーズ(黒部市美術館初出)。逆打ちの1回目は、「ヴァルハラ」、「新秩序」、「侏儒の王国」、「ファーゾルトとファーフナー」、「ローレライ」、「クロベゴルト」の順で見てしまい、風間と思しき女性は気が気でなかったかもしれない。銅版画に近い彫りこまれた画風で、ブレイクの幻視力、ドレの緻密さを思い出した。

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「ヴァルハラ」

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「クロベゴルト」

『ゲートピア no.3』は、版画と版木が並んで展示されている(黒部市美術館では壁の表と裏に配置)。エジプト神殿に王族の彫像が並んでいると思ったら、スコップや鶴嘴を持つ男、荷物を担ぐ男女、ドリルを持つ男、ダイナマイトを持つ男(朝鮮服)が彫られていた。図録によると黒部川第三発電所建設の労働者とのこと。版木を見た時、削られた跡があるとは思ったが、図録を読んで、その深い意図を知る。「『版』もまた『影』の存在でありながら『版画』が存在するためには絶対に必要なものである。しかし尚も、朝鮮人が削り取られているのは、黒部峡谷の過酷な工事を描いた物語等でさえ語られず、黙殺されている事を表している」(テキスト:尺戸智佳子、テキスト監修:風間サチコ)。

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『ゲートピアno.3』

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『ゲートピアno.3』版木

風間の画に鷲掴みにされたのは、「ヨコハマトリエンナーレ2017」において。それまでも作品を見ていたはずだが、この時出品された学校物を見て「瞬殺」された(参照)。瞬殺とは、風間自身の言葉。作品集『予感の帝国』(朝日出版社、2018年)のエッセイ「石上20年(私のスローガンライフ)」に出てくる。

風間は空手家 大山倍達の現代空手批判「一撃必殺をとなえつつ、鼻血も出せぬ空手ダンスになりさがる」という言葉が、「現代美術」に対する自分のモヤモヤ感を解消する手掛かりとなるのではないか、と直感した。「空手バカの言うところの『第一義』とは強さ、すなわち作品の強度だ。それを忘れ『きれいごと』(=正義や美徳)ばかりにかまけていると、観客を瞬殺する(=鼻血が出るほど感動させる)ことのできない、スタイル重視の『美術ダンス』になりさがる・・・。こう拡大解釈し、自分のなすべきことは《一撃必殺の空手版画》であるという決意表明に至った(が実際は手書きスローガンを自室に貼っただけだった)」。

学校物は自身のいじめ体験に基づくという。優生思想とリンクする全体主義への呪詛(ディスリンピック)と、自然破壊を物ともせず突き進む人間の物欲・権力欲への忌避(コンクリート・セメント物)の根っこには、児童期から蓄積された異物としての身体意識があるように思う。暗雲漂う不吉画への傾斜においても。同時に、数々の文学書、哲学書、歌謡、落語によって醸成されたユーモア(作品名、文章)が、ディストピアを生き抜く武器となり、一撃必殺強度の創作を補完している。