バレエシャンブルウエスト『ルナ―月の物語かぐや姫』2018

標記公演を見た(10月6日 オリンパスホール八王子)。『天上の詩』、『時雨西行』と並ぶ、和物の創作レパートリーである(2004年初演)。演出振付の今村博明・川口ゆり子は、地元八王子で160年続く車人形(西川古柳座)と、プラネタリウムMEGASTAR-Ⅱ」(大平貴之)を演出に採り入れ、人形と共演する繊細な小宇宙から、劇場全体を覆う無限の星空まで、振幅ある世界を一つにまとめ上げた。熟練の演出は相変わらずだが、今回はアクセントの付け方に若々しい勢いが感じられる。音楽はグラズノフの『愛のはかりごと』を中心に構成(原案・編曲:福田一雄、構成:江藤勝己)。ドラマの流れや古典バレエの形式を反映した立体的な選曲で、『ライモンダ』、『四季』以外のグラズノフの魅力に触れる貴重な機会となった。衣裳は桜井久美(刺青使用)、美術は桜井麗、映像に立石勇人が加わっている。月世界に咲く銀百合は、かぐや姫演じる川口ゆり子へのオマージュだろうか。
かぐや姫に求婚する4人の皇子のキャラクター色豊かなソロ、姫をめぐるローズアダージョ、時の帝の凛々しいソロ、竹の精のエキゾティックな踊り、龍のアクロバティックな踊りなど、物語とグラズノフを堪能できる振付が並ぶ。終幕は、月の帝と時の帝がかぐや姫を素早くリフト交換、かぐや姫は一瞬開いた月世界の入り口へパ・ド・ブレで消え、一人残された時の帝に、銀百合のしずくが降り注ぐ。古典の豊かな蓄積を持つ今村・川口ならではの優れた演出だった。男性ダンサーのノーブルスタイル、女性ダンサーの大きく伸びやかな踊りは、同団の特徴。大胆な回転技、気品あふれるバットリーに加え、今回は新加入ダンサーの躍動的でチャレンジングな踊りも見ることができた。
かぐや姫の川口はアダージョの気品が際立っている。リフト時の研ぎ澄まされたフォルム、斜めを見上げるデコルテの捻りから、古典のオーラが立ち昇る。日本的所作の透明感あふれる美しさも川口の持ち味。両親(車人形)に手をついて挨拶する姿が、一瞬にして深い情愛の形となり、人形と一体となった親密な空間を作り出す。終幕の天空へと消えるパ・ド・ブレでは、人間界から月世界へ戻るかぐやの心と体の移ろいを繊細に描き出した。一幕 月世界でのやんちゃぶりも引き出しの一つだが、ややエネルギーが後退気味である。
月の帝 ジョン・ヘンリー・リードの圧倒的存在感、時の帝 橋本直樹のロマンティックな凛々しさ、銀百合のしずくの精 松村里沙の脚線美(鱗あり)と切れ味鋭い踊り、かぐやに付き従う長耳 江本拓の美しいバットリーと回転技、同じく赤目 吉本真由美の可愛らしさ、さらに龍のかしら 藤島光太のダイナミックな踊りが、物語の堅固な骨格を作る。4人のベテラン皇子(宮本祐宣、正木亮、持田耕史、奥田慎也)による心得た踊りも素晴らしい。岡田幸治を引き継いだ持田のコミカルな演技に、思わず見入ってしまった。人形では西川古柳が遣う翁の妻の品格が印象深い。ゲストから団員まで全員が力を出し尽くし、高いハードルを越えた舞台だった。
東京ニューシティ管弦楽団率いる末廣誠の指揮は、舞台と豊かに呼応。星空を眺めながらの序曲には陶然とさせられた。

牧阿佐美バレヱ団『白鳥の湖』 2018

標記公演を見た(9月29日 文京シビックホール 大ホール)。文京シビックホール主催 バレエ・エデュケーショナル in Bunkyou の一環である。現行三谷恭三版の基になったウェストモーランド版は、1980年に団初演。N・セルゲイエフによるプティパ=イワノフ原典版に、アシュトン、ヌレエフ等の振付が加わった英国バレエ史を反映するヴァージョンである。本家の英国ロイヤルバレエでは今年、ダウエル版初演から30年ぶりに、リアム・スカーレット版『白鳥の湖』が初演された。この新版にはブルメイステル版、ヌレエフ版の影響も見られるが、全体的に、プティパ=イワノフ版を重視したダウエル版以前の、英国伝統版に立ち返った印象を受けた。パ・ド・シス曲を使用した3幕パ・ド・トロワ(アシュトン振付ではカトル)、4幕別れのパ・ド・ドゥなど、ウェストモーランド版と共通する場面が随所に見られる。スカーレット版(映像)を通して見ることで、今回改めてウェストモーランド版が振付家の緻密な思考を窺わせる名版であると確認された。1幕ワルツ、乾杯の踊り、3幕花嫁候補の踊りの、音楽的で複雑なフォーメイションがその証である。スカーレット版では曖昧だったが、終幕「死ぬ」マイムの劇的音楽的一致にはいつも衝撃を受ける。
主役のオデット=オディールは、初日が青山季可、二日目が阿部裕恵、ジーグフリード王子は菊地研、清瀧千晴の配役。その初日を見た。
ベテランの青山は、これまで佇むだけで周囲を祝福する暖かなオーラを個性としてきたが、昨秋の『ア ビアント』パ・ド・ドゥが象徴するように、ドラマ性、音楽性、磨き抜かれた踊りが完成の域に達している(ライモンダは未見)。古典バレエの技法を追求してきた結果だろう。オデットの抒情的で繊細な腕使い、オディールの涼やかな品格。シンプルな表現の中に、音を自在に扱う音楽的ひらめきがある。自らの持ち味を生かして、『白鳥』をロマンティック・バレエのように踊ってもよいのではないか、という思いを残しつつ、青山の緻密なオデット解釈に静かな感動を覚えた。
王子の菊地は、本来の激しさを身内に収め、王子らしいノーブルなスタイルに終始した。もう少し個性を発揮してよいとも思うが、伝統の王子役を真摯に受け継いでいる。ロットバルトの塚田渉も控え目。陰の存在感を示しながら、プリマを立てる行儀のよい演技だった。王妃 坂西麻美の行き届いた演技、家庭教師 保坂アントン慶の包容力ある演技が、舞台に古典らしい落ち着きを与えている。
バレエ団は実力派の若手・中堅が勢ぞろいしたオールスター・キャストの趣。茂田絵美子の正確なポジションから繰り出される美しい踊り、久保茉莉恵のパトスのこもった生きた踊りが、一幕群舞、白鳥群舞を牽引する。パ・ド・トロワは永遠に伸びるようなラインを誇る日高有梨、登場するだけで舞台が華やぐ中川郁、日高と同質のラインを見せるラグワスレン・オトゴンニャム。中川はルースカヤでもおっとりと光り輝く姫を演じた。3幕パ・ド・カトルは、美しいラインの太田朱音と山本達史、鮮やかな足技の上中穂香、音楽性豊かな細野生が、クリアカットの弾ける踊りを見せた。王子友人を率いる坂爪智来のノーブルスタイル、ナポリターナ 田村幸弘の闊達な踊りも印象深い。
質の高い踊り、適材適所の配役に加え、今回はコーチにイルギス・ガリムーリン、成澤淑榮を招き、キャラクターダンスの充実を図っている。ボブ・リングウッドの重厚で美しい美術、小保内陽子の繊細な照明も加わり、古典バレエとは何か、を文京区民に示すことができたのではないか。
指揮は正統派アンドレイ・アニハーノフ、管弦楽は東京オーケストラMIRAI。

Dance Dance Dance @ YOKOHAMA 「トリプル・ビル」 2018

標記公演を見た(9月2日 横浜赤レンガ倉庫1号館 3Fホール)。フェスティバル・ディレクター ドミニク・エルヴュのコンセプトによるヒップホップ系トリプル・ビル。ジャンヌ・ガロワ振付『リバース』、東京ゲゲゲイ、Ryouta Takaji振付『東京ゲゲゲイ女学院』、カデル・アトゥ振付『要素』というプログラムで、ガロワとアトゥは、5人の日本人ブレイクダンサーを起用した。この後「ジャポニズム2018」公式プログラムとして、パリ国立シャイヨー劇場、リヨン・ダンス・ビエンナーレなど、フランス10ヶ所、スイス2ヶ所を周る。
幕開けのガロワ作品は、Hayate、Jona、Katsuya、Sakyo、Takashi が踊る。頭を床に付けたまま虫のような動きで前進し、床に幾何学模様を描くなど、ブレイクダンサーにしかこなせない振付である。特に前半はブレイクダンス特有の技術を生かした面白さがあった。足で床と対話するクラシック・バレエ、低い重心で床を使うモダンダンス、全身で床と対話するブレイクダンス、という技法の流れが見える。今年からユース五輪の正式競技となったが、普遍的なダンス技法としての可能性も大きい。後半はシンクロナイズド・スイミングの陸上版。衣裳のせいもあるが、ダンサーの技量、個性が分からないのが残念だった。
二つ目は東京ゲゲゲイ作品。四畳半私小説のような情念を背負ったMikeyを中心に、ヤンキー系女子高生4人が裏アイドルのように踊る。手前の送風機からは常に風が送られて、正面のヴィジュアルを強調。ショーダンスの気持ちよさがあった。客席にはペンライトを持った女性ファンが陣取る。途中で掛け声もかかる人気ぶりだった。振付自体は、脚をほとんど動かさず、腕のみで想いを伝える日舞の発展形である(途中ヒップホップも入ったが)。日本画の発展形であるマンガ同様、海外で正統的日本文化として受け入れられるかもしれない。
最後のアトゥ作品は、ブレイクダンスの技法と創作が当たり前のように結びついている。ダンサー個々の見せ場もあり、振付家の円熟を感じさせた。音楽や照明で自然に近い環境(地、水、火、風)を作り出し、ダンサーもその一部となって本来の身体を保っている。前半で長いソロを踊った Jona は、腕の表現に優れる。ブレイクダンスの前に他の技法を身に付けていたかもしれない。情感のこもった踊りだった。振付をこなし切れていなかったが、ソロではダイナミックな旋回で爆発した Katsuya 、振付の意図を的確に把握し、終始舞台をリードした Takashi など、ダンサーの個性がよく見える。作品の緩やかな流れの中で、高度なブレイクダンス、コンタクト・インプロのような掛け合い、武術風の動きを堪能した。

星野幸代著『日中戦争下のモダンダンス』(汲古書院、2018.2.6)

星野の専門は近現代中国文学と近現代中国舞踊史。概略をメモする。


【第一章】民国期中国におけるモダンダンスの受容。
【第二章】植民地時代の台湾の舞踊家、蔡瑞月と李彩娥の活動を、朝鮮の崔承喜の影響を視野に入れつつ考察。蔡は石井漠舞踊学校から石井みどり舞踊団、李は同じく石井漠舞踊学校から石井漠舞踊団で踊る。
【第三章】上海バレエ・リュス―日本統治下文化工作における小牧正英。
【第四章】1930年代に日本でモダンダンスを学び、帰国してダンスで抗日宣伝した呉暁邦について。呉は高田舞踊研究所の門下生となり、山田麗介名で舞台に立つ。その後江口・宮舞踊研究所でヴィグマンの手法を学ぶ。
【第五章】英領トリニダード・トバゴ華僑の戴愛蓮が受けた舞踊教育と、香港帰国後の抗日活動を考察。戴は、はとこがアントン・ドーリンと同じバレエ学校出身という縁で、ドーリンに、続いてマリー・ランバートに師事。ランバートからはリトミックとチェケッティ・メソッドを学ぶ。さらにヴィグマン系のレッスンを受け、ヨース=レーダー・ダンス・スクールにも入学、ラバノーテーションを学ぶ。
【第六章】呉暁邦と戴愛蓮の戦災児童教育支援と、抗日義援金のための舞踊コンサートを考察。


専門の中国文学(文芸誌・新聞を含む)のみならず、幅広い舞踊専門書を読み込んだ緻密な考察に驚かされる。モダンダンスのインターナショナルな流れ、小牧の上海での立ち位置や評価等、多くを知ることができた。

阪本順治『エルネスト』2017

標記映画を昨年見た(10月18日 イオンシネマ板橋)。最近BS-TBSで、同監督の『顔』(2000年)、『団地』(2016年)を改めて見たので、昨年書いたメモをアップしてみる。


主人公はチェ・ゲバラの志を継いだ日系ボリビア人、フレディ前村ウルタード。冒頭のゲバラ広島訪問、最後のボリビア内戦以外は、フレディが医学生として留学したキューバが主な舞台。フレディはそこでチェ・ゲバラと出会い、母国ボリビアでのゲリラ戦隊に加わる。
日本・キューバ合作で、主演のオダギリジョーを除いて、ほとんどキューバ人俳優が動いているにも拘らず、阪本映画だった。一つ一つのショットにこう撮られるべきという意志と、人間に肉薄する深い情念が宿っている。美的なこれ見よがしのショットとは真反対の倫理的なショット。初めから終わりまで、身動きできなかった。
主演のオダギリは、スペイン語キューバ人たちとコミュニケーションを取る難役をこなした。役に不足がないのか、時折見かけたうまぶる素振りは微塵もない。冒頭の広島シーンでは、中国新聞記者役に永山絢斗がキャスティングされている。平和記念公園原爆ドーム原爆資料館を訪れるゲバラ一行(キューバ使節団)を、唯一取材する役回り。永山は『海辺の生と死』(17年 監督:越川道夫)で島尾敏雄役を演じるなど、いわゆる“昭和顔”である。「初期衝動のまま演じました。ビリビリ痺れることの多い現場でした」と語る通り、昭和の新聞記者をそのまま生きていた。ゲバラ役のホワン・ミゲル・バレロ・アコスタは永山とは一つ違いだが、とてもそうは見えない。ゲバラ(アルゼンチン人)を演じる初めてのキューバ人だという。「広島のシーンで共演をした永山さんは大変若いアクターですが、落ち着いていて、しかも同じ島国育ちだからか、キューバの役者と感受性が似ていると感じました。リハーサルを重ねて臨んだのですが、言葉が違っても二人で共有する世界を作り出せました」(プログラム)。広島シーンでの氷柱の立った記者会見場、報道カメラマンの広島弁に、魂を鷲掴みにされた。


『団地』についてはすでにアップ済み(http://d.hatena.ne.jp/takuma25/20160613/1465795640)。

Noism01『ROMEO&JULIETS』 2018

標記公演を見た(9月14日 彩の国さいたま芸術劇場 大ホール)。演出振付は芸術監督の金森穣。本拠のりゅーとぴあ新潟市民芸術文化会館で3回、富山市オーバートホールで1回、今回共演した俳優達(SPAC)の本拠 静岡芸術劇場での2回公演を経た、埼玉公演3回の初日である。
劇的舞踊4作目は、シェイクスピアの戯曲(台本:金森)、プロコフィエフの音楽を使用。前作『ラ・バヤデール―幻の国』よりも俳優の数を増やし、舞踊と語りの混淆、車椅子ダンス、手話での語りなど、表現手法の実験性をさらに追求した。また、現実になりつつあるアンドロイドやサイボーグと人間の関係がリアルに描かれる。舞台は近未来の精神病院。『ロミオとジュリエット』の物語は患者の妄想で、看護師や医者は医療と物語の二重のレベルで介入する。ロミオは車椅子に乗り(最も狂気に近いということか)、車椅子を押すアンドロイドの看護師が、ロミオの後を追って心中、物語はアンドロイドの恋に収斂する。鈴木忠志から平田オリザまでを射程に入れた演劇へのオマージュである。
鏡の衝立、ランプ、炎の皿、黒衣と馴染深い道具立てに、今回は三方を出入り自由な鎖のカーテンで囲む(美術:須長檀、田根剛)。衣裳(YUIMA NAKAZATO)は透明感のある白を基調とした病人服に、金の腕飾り、顔にはペインティング、医療側も白服で、看護師2人はそれぞれ胸とお尻を強調する。オケ・ピットは死の空間、マキューシオ、ティボルト、ロミオとアンドロイド看護師が、正面から奈落へ落ちる。鈴木メソッド発声の俳優達は、音楽との関係か、マイクを使用。ただし声の遠近がなく、ダンサーの生の身体に対して強すぎる印象だった。地声の方が声の持つ身体性が生きるのではないか。その中で、キャピュレットの貴島豪、夫人の布施明安寿香に、ドラマティックな感情の起伏を見ることができた。ロミオの武石守正は、定型とは異なり骨太なタイプ。車椅子早走りの運動性、死体となってからの身体性に強度がある。
金森の演出は、初演ということもあり、見る側の感覚の閾値を超える場面が散見された。音楽と発話と踊りが重なる場面は強烈ではあるが、それらすべてを感受することはできない。一方踊りの場面は、音楽性の鋭さは変わらぬまま、円熟味が増している。ティボルト(中川賢)、ベンヴォーリオ(吉粼裕哉)、マキューシオ(チャン・シャンユー)による肉弾相打つ男性トリオ、ジュリエット5人によるユニゾン、カノンの素晴しさ。浅海侑加、鳥羽絢美、西岡ひなの、井本星那、池ヶ谷奏が、亡霊のように俯きながら次々と登場し、車椅子のロミオに思いの丈を伝える。それぞれに個性があり、自分を出し切る強さがあった。特に池ヶ谷は自在な動き、情熱の強さで際立っている。5人がベッドの上で仮死状態になり、一つの生物のように動く場面には振付の妙があった。
井関佐和子のアンドロイド振りは素晴らしい。ピコピコと音が聞こえるような歩行、体の殺し、磨き抜かれた美しさが、リアル(?)なアンドロイドを現前させる。山田勇気演じる献身的使者からロレンス神父の手紙を取り上げ、ジュリエットに成りすますが、ロミオは気付かず自死。膝を着いてくずおれる井関のフォルムに、アンドロイドの悲劇が見えた。続いてロミオを担ぎ、共に奈落へ落ちるまでの緻密な振付には、金森の強靭な思考の跡が見える。その衝撃の強さに、終幕の鎖のカーテンが落ちる音は余計に思われた。
医者とロレンスを演じた金森の踊りは、重厚だった。腕の鮮やかさは金森の個性。美しく力強く雄弁である。ノマディック・プロジェクトで、平原慎太郎とユニゾンした腕の踊りを思い出した。井関とは兄妹のような身体性。普通に二人のロミオとジュリエットを見られないのは残念である。

東京バレエ団 「プティパ・ガラ」 2018

標記公演を見た(9月1日 神奈川県民ホール 大ホール)。マリウス・プティパ生誕200周年を記念し、『ジョコンダ』より「時の踊り」、『アルレキナーダ』よりパ・ド・ドゥ、『エスメラルダ』よりパ・ド・シス、『ラ・バヤデール』より「影の王国」、『騎兵隊の休息』よりパ・ド・ドゥ、『タリスマン』よりパ・ド・ドゥ、『ライモンダ』よりグラン・パ・クラシックが上演された。59歳から82歳までのプティパ円熟期の作品である。チャイコフスキー音楽の有名作を選んでいないのは、振付が主役だからか。群舞のシンプルかつ豪華な振付、パ・ド・ドゥのエスプリあふれる対話のような振付、そのいずれもが音楽の魅力を生かし、豊かな物語性を帯びている。故ヴィハレフ、ラトマンスキー、ブルラーカ等が、舞踊譜を基にプティパ作品を復元し、19世紀バレエの思いもよらない姿を明らかにしているが、一方で、師から弟子へと伝わったプティパ振付の極意もある。今回の振付指導には、元ボリショイ劇場バレエ団プリンシパルのニコライ・ヒョードロフが招かれた(氏によるプレレクチャー「プティパ〜クラシック・バレエ黄金時代の幕開け」も同ホール大会議室にて同時開催、通訳:斎藤慶子)。
プログラム構成の妙もさることながら、薫り高く細やかな演出がプティパ生誕を寿いでいる。バックドロップには巨大な額縁。ピアノ譜が映し出され、曲名と作曲家名が徐々に大きくなると、シモテ花道に陣取るピアニストが作品の主旋律を奏でる。ピアノ譜の表紙がロシア語から日本語へと変わる頃、ワレリー・オブジャニコフ指揮、神奈川フィルハーモニー管弦楽団の演奏が始まる。額縁の映像は作品に合った街並みや大空の情景へ。ピアノのアットホームな雰囲気から厚みのあるオケへの流れが、舞台への自然な集中を促した。
配役はバレエ団の才能を生かした適材適所。中でも『エスメラルダ』の伝田陽美と柄本弾、『タリスマン』の沖香菜子と宮川新大に魅了された(出演順)。共に音楽がよく聞こえ、物語がよく見える。伝田は持ち前の強烈なパトスと高い技術を惜しみなく役に注ぎ込んだ。全身に感情が行き渡り、腕の一振りで見る者の心を鷲掴みにする。全幕で見たいと思わせる素晴らしさだった。グランゴワールの柄本は、暖かいオーラでエスメラルダの伝田を見守り、愛情を捧げる。伝田の深い絶望の受け皿となった。一方、沖と宮川は、天界の娘とお付きの風の神が下界へと降りていくパ・ド・ドゥ(プログラム)を、『白鳥の湖』で培った無垢なパートーナシップで、ゴージャスに、またロマンティックに綴った。沖の繊細でみずみずしい踊り、宮川の覇気あふれる大胆な踊りが、対話のように呼吸しながら絡み合う。沖の踊りには、観客を祝福する晴れやかさがある。いつまでも見ていたいと思わせた。