Noism0/Noism1『Duplex』2021

標記公演を見た (2月26日 彩の国さいたま芸術劇場 小ホール)。ゲスト振付家 森優貴の『Das Zimmer』、Noism Company Niigata 芸術監督 金森穣の『残影の庭~Traces Garden』によるダブルビルである。

森は昨シーズン『Farben』を振り付けて、Noism ダンサーの新たな側面を開拓。初めて出会うダンサーたちとの生々しいぶつかり合い、混沌とした不定形な作品の流れが、ダンサーたちに新鮮な息吹を与えた。今作の『Das Zimmer』では対照的に、小空間ゆえのソリッドに作り込まれた構成、ダンサーたちの資質を把握した振付が行われている。

椅子の置かれた薄暗い部屋に、古風な洋服を着た人々が半ば亡霊のように佇んでいる(衣裳:鷲尾華子)。ラフマニノフショパンピアノ曲、人声、轟音、無音が組み合わさって、時空を形成。鳥羽絢美とカイ・トミオカの夫婦を中心に、西澤真耶、三好綾音による娘たちの物語が展開される。ただし、短いシークエンス、暗転、シークエンス、暗転、が最後まで続き、物語は断片的に示されるのみ。結末は分からず、ただ濃厚な夢を見たような後味が残った。

ダンサーたちの情感あふれる踊り、スタイリッシュな動きの連続、濃密な集団フォルムなど、ドイツの歌劇場ダンスカンパニー芸術監督として、作品を創り続けてきた熟練の技が冴えわたる。その質の高さに驚かされたが、一方で、森の創作の軸足はどこにあるのかという疑問も浮かぶ。ヨーロッパ風の風俗、物語性が前面に出たせいか、観客との地続き感がやや希薄に思われた。

金森作品『残影の庭~Traces Garden』は、ロームシアター京都 開館5周年記念作品として、今年1月、雅楽の伶楽舎と Noism0 により初演された。今回は「小空間・録音」音源による再構成版である。演出・振付は金森穣、音楽は武満徹の『秋庭歌一具』、衣裳は堂本教子、木工美術は近藤正樹、映像は遠藤龍。

舞楽を思わせる四角い舞台、三方には石棺のような長方形の石壁が並び、それぞれに小さい炎が燈されている。Noism0 所属の金森、井関佐和子、山田勇気が、黒の上下(袖なし)を身に着け、横並びで舞う。舞楽の振り(両腕を上方斜めに広げる、片脚を上げて踏み下ろす、開脚グラン・プリエ、両脚閉じプリエなど)、バレエの腕遣い、ノイズム・メソッドの中腰バレエ歩きが、金森の優れた音楽性を通して融合、武満雅楽と呼応する。洋舞ダンサーの舞楽、または「日本人」の洋舞が、高度な身体技法、緻密な音楽解釈により実現されたと言える(先月急逝された山野博大氏が、この作品を見られないことに驚きを禁じ得ない、あるいは初演をご覧になったか)。

冒頭と最後の3人ユニゾンには、同じメソッドを体に入れたダンサーにしか出せない、吸い込まれるような美しさがあった。その中で、特にダンサー金森の充実が際立つ。持ち味の魔術的な腕遣いが、力強く、壮年期の厳しさを纏っている。エポールマン、スパイラルの入った立体的な肉体美。動きの一つ一つに、複雑なニュアンス、力感が宿り、円熟の踊り盛りを印象付けた。終幕、墨色狩衣での蹲踞には、舞台を鎮めるような意識の統一があった。

井関は質の異なる体で、伸びやかな踊りを見せる。天から降りてくる紅色の狩衣が、お伽話の世界を呼び起こし、都の貴人 金森、また流浪の僧侶 山田との物語を紡ぐ。金森とのお雛様のような相似形では、溶け合うような呼吸=体の一致を見せて、類まれなパートナーシップを再確認させた。座敷童のような黒い小人(映像)との戯れ、木の下で瞑想する山田とのやり取りは、妖精のような透明感にあふれる。山田は茶色の狩衣、禁欲的な修行僧そのものだった。2004年カンパニー設立の翌年に入団、退団を経て、指導者として帰団する。苦楽を共にした3人ユニゾンの志の一致に、胸打たれた。

                               

新国立劇場バレエ団『眠れる森の美女』2021

標記公演を見た(2月20日, 21日昼夜 新国立劇場オペラパレス)。イーグリング版『眠れる森の美女』は2014年初演。その後 17, 18年と再演され、本公演としては今回が4回目の上演となる。セルゲイエフ舞踊譜に端を発する英国版の流れをくみ、洗礼式の儀式性の高さ、雄弁なマイム、3幕キャラクターの演劇性が際立つ。間奏曲による「目覚めのパ・ド・ドゥ」、男女配役の宝石の精など、英国独自の伝統も受け継がれている。

プロローグの妖精は、リラの精を軸としたシンメトリーを築くため、ヌレエフ版、P・ライト版同様、6人が配されるが、新振付(気品の精)を加えたのは、イーグリング版のみ。初演時には物議を醸したものの、プティパ様式ゆえ、現在では当たり前のように踊られる。一方「目覚めのパ・ド・ドゥ」は、アシュトン、ウエストモーランドの古典様式、P・ライト(81年)のモダン寄りを経て、完全にモダンバレエのスタイルで振り付けられた。トゥール・ヴァン・シャイクの超美的な衣裳と共に、強烈なオリジナリティを古典中の古典に付与している。

本公演は元々「吉田都セレクション」として、ハンス・ファン・マーネン振付『ファイヴ・タンゴ』、デヴィッド・ドウソン振付『A Million Kises to my Skin』、バランシン振付『テーマとヴァリエーション』を上演する予定だった。コロナ禍のため、イーグリング版『眠り』に変更されたが、オーロラ姫を当たり役とした吉田監督の、鮮やかな采配を確認する結果となった。

シーズン開幕の『ドン・キホーテ』では、米沢唯、池田理沙子、奥田花純が踊り方を変え、吉田監督の方向性を示したものの、年末の『くるみ割り人形』は、手腕を振るう余地が少なく(配信の小野絢子・福岡雄大による2幕パ・ド・ドゥには指導の跡が見える)、年明けの「ニューイヤー・バレエ」はコロナ陽性者のため、無観客配信での上演となる。本公演でようやく、吉田イズムの浸透を、生の舞台を通して確認することができた。ベテランへの最後の味付け、中堅の技量向上、若手の抜擢がことごとく成功している。吉田チルドレンが次々と生まれる予感も。マイムの流れもより自然になった。

主役キャストは3組。初日の小野絢子は適役のオーロラ姫を、さらにグレードアップさせた。踊りが自分の矩を超え、今ここで動きが生まれたような生成感を纏っている。このため、小野の本質が剝き出しになり、観客は小野と共に生きられるようになった(鑑賞するのではなく)。優れた音楽性、精緻なパの遂行にも心が躍る。2幕幻影のジゼルのような儚さ、ナイトドレスでの目覚めの pdd は、本好き、引っ込み思案のタチヤーナを想起させた。所々、森下洋子のフォルムが見えたがなぜだろう。バレエの普遍へと身を投じる覚悟を、随所に感じさせた。

対する福岡雄大は、ノーブルで凛々しいデジレ王子。磨きのかかった美しい踊り、落ち着いたパートナリングにベテランの貫禄を見せるが、ふとしたところに新たな発見を加えて、新鮮な造形を心掛けている。

2日目夜の米沢唯は、キトリ時の動きの追求を一旦 脇に置き、役から動きを生み出す本来のアプローチに戻った。周囲との濃密なコミュニケーションはいつも通り。1幕の無垢な少女らしさ、ローズ・アダージョも盤石のバランスに支えられて、王子たちとの恥じらいを含む挨拶と化している。目覚めの pdd は、パートナー渡邊峻郁との呼吸が一致、慎ましやかな喜びにあふれた。3幕は舞台全体を受け止める風格がある。古典の感触よりもその場を生きることに力点のある、米沢らしいオーロラ造形だった。

対する渡邊はデジレの仁(ニン)。今回がまだ2度目のせいか、古典主役の必須条件である立ち姿、マイムにぎこちなさが残るが、モダンテイストの目覚めの pdd では、持ち味の情熱的なパートナー振りを遺憾なく発揮した。3幕 pdd での凛とした佇まい、踊りの鮮やかさに、美しいデジレの片鱗が見える。相手の動きや感情に無意識に応える体ゆえ、パートナーシップの相乗効果は大きい。

2日目昼の木村優里は、直前のパートナー変更がかえって奏功したようだ。目覚めの pdd では情熱的な踊りを披露、3幕アダージョでは、これまで淡泊だったパートナーとのコミュニケーションが正面から行われている。互いに見かわす顔と顔、が何とも微笑ましく、結婚の甘い喜びにあふれる。パートナー奥村康祐の、若々しい情熱の裏に隠されたベテランの包容力が、木村の自然な姿を引き出したのだろう。デジレ4回目の奥村は、青春の孤独、愛する人と出会った喜びを、瑞々しく真っ直ぐに表現する。品の良い甘さ、柔らかいマイムが、いかにも王子だった。

リラの精✕カラボスは研修所出身者で固められた。木村と本島美和の先輩後輩組は、パワフルな対決、細田千晶と寺田亜沙子の同期組は、息の合った繊細な駆け引きで善と悪を体現。木村の毅然とした強さ、本島の世界を揺るがす怒りの表出、細田の舞台全体を統率する気品ある佇まい、寺田の妖艶な悪の魅力と、それぞれ個性を発揮した。ベテラン本島は、はまり役を新たに生き直す独自の道を歩んでいる。

6人の妖精は中堅、若手を取り混ぜた充実のWキャスト。初日は玉井るい、柴山紗帆、飯野萌子、広瀬碧、奥田花純、横山柊子、二日目は廣田奈々、木村優子、池田理沙子、廣川みくり、五月女遥、中島春菜。中堅では飯野(寛容)、奥田(勇敢)、池田(寛容)の吉田イズム浸透が際立ち、若手抜擢はいずれも見る喜びがあった。横山(気品)の大らかな伸びやかさ、廣田(誠実)の繊細さ、木村優子(優美)おっとりとした明るさ、廣川(歓び)のきびきびとした踊り、中島(気品)の夢のような気品。また、リラの精お付きに多田そのかが加わり、優美な踊りで将来への期待を抱かせた。

対するカヴァリエは、大きく安定感のある小柴富久修を中心に、木下嘉人、中家正博、速水渉悟、原健太、中島駿野、浜崎恵二朗がノーブルスタイルを誇る。浜崎はローズアダージョでも、舞台に華やかな気品を加えている。

池田・奥村の可愛らしいフロリナ王女と青い鳥、同じく柴山・速水の古典パワー(速水の難技を簡単に見せる踊り方健在)、ゴールド木下の粋な踊り、宇賀大将・原田舞子の夫婦漫才風 猫、同じく 原と組んだ渡辺与布が美脚だったのに驚かされた。五月女・中島の赤ずきん組は盤石。井澤諒の晴れやかなトム、同じく小野寺雄はもう少し笑顔が望まれるが、切れの良い踊りを披露した。

国王はノーブルな貝川鐡夫、王妃は美しく愛情深い本島、同じく美しい関晶帆、カタラビュートは菅野英男があっさりと演じているが、同版初演はロックスターのような造形だったので、もう少し芝居を期待する。伯爵夫人は美しくサディスティックな寺田と、情に厚い渡辺、ガリソンは献身的で人の好い福田紘也。福田はノーブル味も出せるのでそれも期待したい。1幕村人のワルツは、初演時の気合をやや欠いている。『くるみ割り人形』花のワルツも同様だったが、優雅さを旨としたのだろうか。

冨田実里は3日間で4公演を指揮。東京交響楽団から奥行きと厚みのある音を十全に引き出し、舞台を力強く牽引した。

NBAバレエ団新制作『シンデレラ』2021

標記公演を見た(2月7日 東京文化会館 大ホール)。同団は新制作の『シンデレラ』振付・演出にヨハン・コボーを招聘。コロナ禍のなか、様々な困難を乗り越えて、世界初演に漕ぎ着けた。コボーは、デンマーク・ロイヤル・バレエ、英国ロイヤル・バレエでプリンシパルを務め、振付家として『ラ・シルフィード』を始めとする改訂作品を、世界各国で上演している。13年から16年には、パートナー アリーナ・コジョカルの故郷、ルーマニア国立バレエ団で芸術監督も務めた。優れたブルノンヴィル・ダンサーで、DVD『Bournonville Ballet Technique-Fifty Enchainements』の模範演技は有名。新国立劇場公演でも、切れ味鋭いジェイムズを披露している。

コボー版『シンデレラ』全2幕(音楽 プロコフィエフ)は、主人公のシンデレラを、バレリーナを夢見る少女に設定した。自ら踊ってきたアシュトン版の影響を窺わせつつも、第1幕のレッスン場では、デンマーク・ロイヤルの出自を存分に生かしている。ピアノとヴァイオリンによる伴奏、教師の膝下丈ワンピースなど、20世紀前半を思わせる古風な教場。シンデレラ、教師(実は仙女)、継母のピアニスト、義姉たち、ヴァイオリニスト、男子生徒(後に王子)が、細やかなマイムで、悲喜こもごものドラマを描き出す。センターでのブルノンヴィル・クラスと共に、19世紀バレエの伝統を引き継いだ名場面だった。

幕開けのシンデレラと仙女による鏡面の踊りは、ブルノンヴィルの『ラ・ヴェンターナ』に由来。教場のポスターからにょきりと出てくる緑の精は、アシュトンの『夏の夜の夢』、白の精はプティパ=イワノフの『白鳥の湖』、赤の精はバランシンの『ルビー』を表して、先人振付家たちへのオマージュとなっている(3人は四季の精に相当)。

第2幕は王子の舞踏会。赤い靴を手にして結婚相手を探す王子が、ようやくシンデレラと出会う。仙女が銀河の流れる星空を出現させると、金のチュチュを身に着けたシンデレラと王子が劇的なパ・ド・ドゥを踊る。ダイナミックなシンデレラ・ソロからグラン・ワルツ、そして継母の時間厳守を想起させる時計のテーマへ。夢から覚めると、元の教場。現実に引き戻されるシンデレラに、マフラーを取りにきたヴァイオリニストが、優しくトゥシューズを履かせる。二人は手に手を取って教場を後にする。華やかな王宮の幸せではなく、バレエへの夢を共にするパートナーとの未来は、いかにもコボーの選んだ結末だった。

初演ということもあり、教場から舞踏会に至るシーンはドラマの流れがやや弱いが、バレリーナを夢見る少女が勇気を持って生きるストーリーは、若い観客の琴線に触れるのではないか。バットリー多め、高難度の振付は、クラシックダンサーの究極の理想を提示し、ダンサー、観客の両方に啓蒙的な効果をもたらした。

主役のシンデレラには、若手の野久保奈央が抜擢された(初日は英国ロイヤル・バレエ プリンシパルの高田茜)。文字通りシンデレラ・ストーリーだが、とても初主演とは思えない堂々たる主役ぶりだった。持ち味の高い跳躍、バットリーの鋭い切れ味、変則フェッテの鮮やかさ、回転技の揺ぎなさなど、技術の高さ、確かさが、舞台に熱い旋風を巻き起こす。さらにチュチュ姿での迫力にも驚かされた。ラインに気が漲り、懐の深ささえ感じさせる。古典の様式性、ドラマティックな踊り、温かみのある自然な演技、コミカルな味わいが揃うバレリーナ。今後が大いに期待される。

両日王子を務めた宮内浩之は、持ち前のノーブルな味わいを十分に発揮、踊りにもさらに磨きがかかった。シンデレラの野久保を優しくサポートしている。一方、ヴァイオリニストで、舞踏会では道化となる新井悠汰は、力みのない軽やかな跳躍で、舞台に清涼な風をもたらす。ヴァイオリニスト時には、性根からの優しさを見せて、シンデレラと共に歩む地道で慎ましやかな日々を予感させた。

バレエ教師=仙女の浅井杏里は、厳しさ、暖かさ、品格ある佇まいが揃う、まさにバレエ教師(実際バレエミストレスでもある)。シンデレラに自立を促すところなど、演技とは思えないリアリティがあった。継母ピアニストの佐藤圭、義姉たちの鈴木恵里奈、阪本絵利奈、男子生徒の三船元維も、役どころを十二分に心得て、作品の演劇的側面を支えている。緑の精 須谷まきこの小気味よい踊り、白の精 吉川風音の優雅さ、赤の精 猪嶋沙織の情熱的な踊りなど、全体に個性を生かした配役が楽しい。男性アンサンブルの技量の高さ、女性アンサンブルの統一されたスタイルが、舞台に厚みを加えている。

NBAバレエ団オーケストラを率いる冨田実里が、力強く情熱的な指揮で、世界初演を成功に導いた。星空のパ・ド・ドゥでは、激烈なクレシェンドで、野久保の踊りを大きく盛り上げ、主役デビューを祝福している。

 

 

西村未奈・山崎広太 @ DaBY トライアウト[ダブルビル]2021

標記公演を見た(2月9日 Dance Base Yokohama)。ダブルビル1作目は、鈴木竜(DaBY アソシエイトコレオグラファーを中心としたコレクティブダンスプロジェクト『never thought it would』、2作目が西村未奈・山崎広太の『幽霊、他の、あるいは、あなた』。スタジオは暗幕が張り巡らされ、薄暗い照明。入口側三方に2列の客席が設置されている。天井には白木の木組みが吊られ、所々斜めに落ちている。鈴木作品の舞台美術だが、西村・山崎作品でも共有された。暗幕については、後者のために設えたのだろうか(前者とはそぐわず)。

『never thought it would』は、鈴木が演出・振付・ダンスを担当、池ヶ谷奏、藤村港平のダンス、タツキアマノの音楽、一色ヒロタカ、宮野健士郎の舞台美術、丹羽青人のドラマトゥルク、竹田久美子の衣裳、武部瑠人の照明に、畠中真濃(DaBY レジデンスダンサー)、田中希(DaBY / 制作)という布陣。トライアウトはこれが3回目だが、配信で見た前回とは美術が異なる。本番に向けて作品を練り上げるというよりも、毎回様々な角度から実験を行なってきたのだろう。12月には、愛知県芸術劇場小ホールで作品を上演予定とのこと。本格的な作品作りはこれからという印象を受けた。

天井に吊るされた木枠は、一つの横木を引くと、別の箇所が連動して動く仕組みになっている。ダンサーがその木の動きとユニゾンしたり、コンタクトするなど、舞台美術と関わる動きが大半を占めた。鈴木の肉厚な動き、池ヶ谷の振付意図を完全に理解した、切れ味鋭い動き、藤村の分節化されていない肉体の甘やかさ、自意識の強さなど、それぞれの個性は発揮されたが、ダンス自体の熱量には、やや物足りなさを覚える。鈴木の本来の体は、実存的なぶつかり合いを欲している(藤村と実際ぶつかっていたが、もっと本質的な)。統一的視点を作らず、それぞれのクリエーターがドラマトゥルクの言葉に沿って作品を持ち寄る、多視点のパフォーマンスなのだとは思うが、最終的には、演出する鈴木の世界観が核として必要ではないか。

『幽霊、他の、あるいは、あなた』は、西村、山崎の振付・テキスト・出演、菅谷昌弘の音楽による。薄闇の中、濃紺と黒の柔らかい上下を纏った西村が、舞台の中央に佇んでいる。意識の凝集されたその身一つで、空間、観客が一気に統一され、息づき始める。右腕長めのスレンダーな体に、様々な意識が入っては去る、その微細な肉体の動き。川に面したベンチに座るお婆さんの話をひと頻りして、西村はお婆さんになった。

カミテ床には、黒い上下の山崎が、うつ伏せになっている。頭を奥にし、動かない動きで徐々に前進。体は動かずとも、意識が行き渡っているので、肉体を凝視できる。カミテ奥壁に到達した山崎は、立ち上がり、動きながら前方へ来る。クネクネ動くだけで、華やかな色気が迸るのはいつも通り。今回はその体の重さに驚かされた。昨夏の軽快な体とは全く異なる、暗黒物質のような重厚な塊。やや湿り気を帯びた、吸い込まれそうな暗闇である。『暗黒計画1』に続く、土方巽へのオマージュだろうか。山崎は再び奥へと向かい、闇に消えた。

西村は、地衣類の好きな友人の話をする。あまりに好きなので、地衣類になって世界を見るのだという。地衣類は百年に1ミリしか成長しない。見えていない所にいるので、幽霊と似ている。西村は小さくなり、地面の底から世界を見る。奥壁には、山崎の後ろ姿が幽霊のように現れる。動かない動きでシモテへと漸進。山崎は地衣類、苔だったのか。頭を屈し、両手のみ見える場合、右手のみ踊る場合あり。両手を広げる動きは、背中合わせにもかかわらず、前方の西村と同期した。場を少しずつ変える山崎に対し、西村は舞台中央をほとんど動かず。西村が樹で、山崎は苔? 体の絡みはないが、気配を絡ませて、老婆、幽霊、地衣類、苔、と変態していく静かな時空を共に生きた。

菅谷昌弘の作る轟音、生体モニターのようなピッという微かな音(途中ピッピッピッピッと急変を告げることも)、音をモノ化させたようなピアノ音が、途切れ途切れの体、生死のあわいを、控えめに示唆する。ダンサー二人の老いて引いていく体に、慎ましく繊細に寄り添った。

かつて人形のような幼さを帯びていた西村は、ソーダ水のような透明無垢の資質はそのままに、成熟を通り過ぎて、老いを表象しうる体に到達している。体と踊りが一致し、意識の変遷を含め、全てを見ることができた。山崎の舞踏メソッドに沿っているが、発話、変態が自然で切れ目がない。西村固有の汗をかかない、死体に近い体だった。

山崎は、西村を中央に置き、自らは周縁に陣取る。『暗黒計画1』の明暗デュオと同じ、西村への深い愛情を感じさせる。自身は貫禄の舞踏。客席を確認する余裕あり(以前からそうだが)。「日本の体」を標榜しつつも、オリエンタリズムには迎合しない、現在の自分を追求する体だった。昨夏の軽みと今回の重みは、どのように体を変えているのだろうか。

笠井叡『櫻の樹の下には ― 笠井叡を踊る ―』2021

標記プレビュー公演を見た(2月3日 吉祥寺シアター)。笠井叡は2015年春、女性ダンサー6人(黒田育世、寺田みさこ、森下真樹、上村なおか、白河直子、山田せつ子)を集めて、『今晩は荒れ模様』を創った。この時は、笠井のテリトリーである舞踏、オイリュトミーの経験者が含まれていたが、今回集められた男性5人(大植真太郎、島地保武、辻本知彦、森山未來、柳本雅寛―五十音順、辻本のシンニョウは一つ点)は、バレエ、ジャズダンスを起点とするコンテンポラリーダンサーばかりである。いずれも3,40代の踊り盛り、荒武者のような彼らの体に「笠井さんのウィルス*」がどのように侵入したのか、昨秋の詳細発表以来、待ちわびた公演だった。

* 「笠井さんのウィルスが侵入してきて、私の細胞に振付しているようです。動きを与えるというより、呼び覚ますというような振付」(2020.11.28 島地保武 Twitter

標題通り、笠井は梶井基次郎の短編『櫻の樹の下には』を作品のモチーフとし、補助線に、戦後のニヒリズムを描いた三島由紀夫の『鏡子の家』を使用した。1人の女性に4人の男性が通う三島作品の構造を、櫻=日本をめぐる自作の導入に用いている。冒頭、黒スーツの男性5人がふらりと現れ、鬱々と佇む。そこに、輝くアイボリーのドレス姿、白とピンクの羽耳飾りを付けた白塗りの笠井が、風に吹かれるように登場する。「この国は櫻の国、この国は櫻の国」と謡いながら、中央奥の小部屋へ。桜の花びらがはらはらと散るなか、女王のように悠然と座り、男たちを見守る。

笠井=鏡子は櫻の樹、彼女に群がる黒スーツの男たちは、その樹の下に埋まる屍体である。黒スーツの中身、筋骨隆々とした屍体の背には刺青が施され、白褌が締められている。彼らの体から流れ出る「水晶のような液が、静かな行列を作って、維管束のなかを夢のようにあがってゆ」き、笠井を潤すと、その笠井のエネルギーが男たちに放射され、狂乱へと駆り立てる。藤圭子『命預けます』をバックに踊られる日舞デュオや剣舞、上方に吊られた笠井が絢爛たる櫻となり、その花吹雪のなか屍体たちが乱舞する終幕。美を突き抜けるアナーキーな「日本」が、笠井の痩身から一息に吹き出された90分だった。

『今晩は荒れ模様』同様、今作でも、笠井のダンサー評を見る楽しさが横溢する。5人それぞれへの愛称。大植はユリアヌス、島地はカリオストロ、辻本はジニウス、森山はド・モレー、柳本はジャンヌ。

笠井と最も近い所にいたのは、ユリアヌス大植。最初から最後まで、まるで我が家のように超ハイテンションで動いていた。得意の鉄板ブリッジや、直立後方倒れ、肩首逆立ちを披露しつつ、笠井の振付も全力で遂行。笠井にドイツ語で操られるソロもハンブルク・バレエ在籍経験あり、ノイマイヤーがこれを見たらどう思うか)。最もバレエの技法が入っているのに、最も遠い精神性を持つ。終盤、笠井が、「ユリアヌス、スウェーデンに帰らないでー、日本にいておくれー」と叫ぶ一幕もあった。

カリオストロ島地は、唯一関西勢ではない。笠井の技法を分析、クールに習得しようとする。大きさと技術面から、柳本と相似形の振付も。島地のダイナミックな中盤ソロに、笠井が奥から加わり、激しくアナーキー踊りをする即興デュオには、笠井の島地への愛があふれた。77才と42才のバトルは互角のエネルギー。20年前、50代の笠井がいきなり青年将校になったことを思うと、内実は同い年バトルだったのかもしれない。

ジニウス、天才と名付けられた辻本は、中盤、薄羽かげろうのライトがちらつくなか、得体のしれない不定形のソロを見せる。かつてのストリート系を駆使した切れのよい踊りから、どのようにしてここまで来たのか。

ド・モレー森山は体躯と相貌から、女形を振り付けられた。白打掛に白袴で辻本、柳本と日舞デュオを踊る。内股も実行したが、動きよりも心根で女性となった。正座の涼やかさ、笠井ににじり寄る慎ましさ、露わになった太ももの品のよいエロティシズム。作品世界への入り方、身の投げ出し方に、俳優 森山を見た気がする。

ジャンヌ柳本のみ女性名。『瀕死の白鳥』のような腕遣いとパ・ド・ブレを見せたが、途中で日本刀の剣舞を舞い、男性と化した。柳本の美しいポール・ド・ブラで女性を思い、迎合しない気質を見て男に変えたのか。それともジャンヌ・ダルクか。

かつて土方巽にライバル視され、大野一雄に深い愛情を注がれた笠井*は、一世代下のダンサーたちに、繊細な愛のウィルスを降り注ぐ。彼らも笠井を胴上げすることで、その愛への返礼を行なった。公演が終わった後も、5人の体には、笠井叡の後遺症が目に見えない形で残るだろう。

* 笠井叡『未来の舞踊』(ダンスワーク舎, 2004年)―長谷川六による「あとがき」 + 山野博大(編著)『踊る人にきく』(三元社, 2014年)―笠井叡 × 木佐貫邦子「男のソロ、女のソロ、そしてデュオ」

付記:山野博大氏は、2月4日、本作初演に立ち会った後、翌5日に急逝された。享年84。

 

 

 

1月に見た振付家・ダンサー2021

島地保武日本バレエ協会全日本バレエ・コンクール ガラ・コンサート」(1月23日 新宿文化センター)

コロナ禍で開催されなかった「全日本バレエ・コンクール」に代わり(訂正 夏の予定が、延期された)同コンクールより輩出されたダンサーたちのガラ公演が開催された文化庁 次代の文化を創造する新進芸術家育成事業)。歴代入賞者の華やかなヴァリエーションや創作が並ぶなか、最後を飾ったのが、酒井はな(89年ジュニア部門入賞)とパートナー島地保武による『In other words』(振付:島地保武)。二人はこれまでも「アルトノイ」というユニット名で作品を上演してきたが、今回はバレエ協会という場所柄か、酒井を生かす振付となっている。

小品ながら3場に分かれ、1場は脱力自然派の日本語女声歌(音源記載なし)に乗せて、二人の出会いを描く。原始人(未開人?)風オカッパ頭、肌色オールタイツの島地が、シモテから直立でギコギコと滞る動きを見せる。中央奥から、お下げ髪、カラフルな上着の酒井が、後すざりしながら手前へ。互いにぶつかると、なぜか四つん這いになった島地の背に酒井が立つ。バランスを取りながら上着とズボンを脱ぎ、肌色オールタイツに。酒井も島地レベルの原始人になったということか。島地は四つ足歩行でカミテへ入る。

音楽はバッハ(?)に切り替わり、酒井が中央でフォーサイス崩しを伸びやかに踊る。マルコ・ゲッケを踊る時のような、開放的な喜びが体に広がり、バレエとコンテを両立させてきた 酒井の来し方を思わせる。直立歩行に戻った島地との大小ユニゾンは、パートナーであることの喜びにあふれていた。島地の太いしなやかさ、酒井の引き絞られた繊細な切れ味が、音楽と同期し、同じラインを描き出す。二人のユニゾンを、初めて見た気がした。

甘いアメリカン・スタンダード(女声)が流れると、二人はハッと驚く。今度は向かい合っての愛のパ・ド・ドゥ。抱っこ回転で、酒井のお下げが飛び跳ねる可愛らしさ。最後はヒコーキぶん回し回転で、二人共うつ伏せに。島地の「ブタイ?」という発語で、終幕となった。島地の作りたい世界は明確である。屈折した照れ隠しを含みながらも、酒井との原始的な愛の形を初めて踊りにした。

舞台を見ながらの妄想。金森穣振付で、酒井と島地が踊り、島地振付で、井関佐和子と金森が踊る。こうすれば、島地は照れずにパ・ド・ドゥを踊れるし、井関と金森は、別次元の関係を結べるのではないか

 

吉﨑裕哉日本バレエ協会全日本バレエ・コンクール ガラ・コンサート」(1月23日 新宿文化センター)+ 現代舞踊協会「新進舞踊家海外研修員による現代舞踊公演」(1月26日 新国立劇場小劇場)

吉﨑裕哉は島地同様、演劇学科出身で、Noism 在籍経験がある。大きさとスター性は共通するが、資質は対照的。島地は即興・振付をするのに対し、吉﨑は振付家の意図に沿う踊り手である。驚いたことに吉﨑は、日本バレエ協会現代舞踊協会文化庁 次代の文化を創造する新進芸術家育成事業」公演の両方に、二日を挟んで出演した。

日本バレエ協会では、キミホ・ハルバート振付『INBETWEEN REALITIES』。ペルトの音楽によるスタイリッシュなコンテンポラリーダンスを、女性二人を相手に踊る。「その場にいる」強烈な存在感、女性と自然に絡む開かれた身体、真摯な振付遂行で、作品に暖かな血を通わせた。

現代舞踊協会では、土田貴好・小倉藍歌振付『giving』。「3月満月」の自然派音楽(生演奏)をバックに踊る6人の一人。切り株の上に立ったり座ったり、男性同士ハグしたり。土田・小倉の創るユートピアの中で、吉﨑はこれまた自然に存在する。ただし土田と相対するエッジの効いた振付では、共に Noism での蓄積を思わせる切れ味があった。真っ直ぐに振付を遂行する姿勢は、ハルバート作品と同じ。さらには、山田うん演出・振付『NIPPON・CHA! CHA! CHA! 』での、熱い演技と踊りを思い出させた。

東京シティ・バレエ団「ウヴェ・ショルツ・セレクションⅡ」2021

標記公演を見た(1月24日 ティアラこうとう大ホール)。演目は、日本初演の『Air !』(82年 シュツットガルト・バレエ団)、団初演の『天地創造』よりパ・ド・ドゥ(85年 チューリッヒ・バレエ団)、再演の『オクテット』(87年 チューリッヒ・バレエ団)の3作。ウヴェ・ショルツ(58~04年)初期作品群である。指導は、ライプツィヒ・バレエ団でショルツの薫陶を受けた ジョヴァンニ・ディ・パルマ、木村規予香による。

東京シティ・バレエ団が最初にショルツ作品を導入したのは、13年の『ベートーヴェン交響曲第7番』(91年 シュツットガルト・バレエ団)だった。「音楽性の優れたバレエ団」を目指す 安達悦子芸術監督の希望による。同作は14年「NHK バレエの饗宴」で再演、16年都民芸術フェスティバル参加公演で再々演された。17年には『オクテット』団初演。18年「ウヴェ・ショルツ・セレクション」で『ベト7』と『オクテット』をダブル上演、19年に再び「NHK バレエの饗宴」で『オクテット』を再々演し、今回の「セレクションⅡ」に至る。

幕開きの『Air !』は、バッハの「管弦楽組曲第3番」に振り付けられたシンフォニック・バレエ。第2楽章の有名な「アリア(エア)」を含む。ショルツ24才の作品だが、若書きの印象はなく、すでに独自のスタイルが確立されている。左右に移動する二次元美の追求(アラベスクへの執着)、カノンの楽しさ、繰り返しの懐かしい喜び、モダンの語彙を含む動きの自在さ(前後に開いたポアント立ちの両脚をブルブルさせて、トリルを表す)など。バランシンの音楽性が視覚に訴えるのに対し、ショルツの音楽性は胸、肚、皮膚を直撃する。音楽の腑分けが、ショルツの体全体を通して行われ、動きが快楽と共に生み出されているからだろう。

白、黄土色、海老茶それぞれのオールタイツを、男女が身にまとい、総勢14名のダンサーが踊る。ショルツ・ダンサーの佐合萌香、華やかな中森理恵、献身的にサポートする土橋冬夢、ノーブルな濱本泰然による第2楽章エアは、シルエットから始まり、女性の浮遊するラインの美しい軌跡を描き出す。第4楽章ブーレでは、土橋が全てを出し切る情熱的な踊りを見せた。アンサンブルを率いる玉浦誠の技量と優れた音楽性が、ショルツ振付のニュアンスを実現している。

続いて上演された『天地創造』からパ・ド・ドゥは、ハイドンの同名オラトリオを舞踊化した全幕作品からの抜粋。第3部のアダムとイヴによる愛の二重唱(バスとソプラノ)が踊られる。アダムの力強さ、イヴの嫋やかさを、キム・セジョンと佐合が体現。キムはこれまでにない逞しさを見せたが、さらなる情熱を期待したい。佐合は「するするする」(小山久美 スタダン総監督)と独特の踊り方で、ショルツ振付の切れを滑らかに見せる。しっとりとした中に、何があっても受け止める芯の強さを感じさせた。

4回目の『オクテット』は、メンデルスゾーンの「弦楽八重奏曲」に振り付けられた作品。バッハの『Air !』と似たような構成(総踊り、アダージョ、男性ソロ、総踊り)ながら、動きの面白さが際立っている。音楽が要請するのだろうか。急にポアント立ち、急にアラベスク、急に直立倒れ、急に女性の膝を抱える、など。思わず頬が緩む。もちろん心を温める繰り返しの喜びも。第2楽章では、美しい肢体の清水愛恵とノーブルな濱本による、情感あふれるアダージョを見ることができた。第3楽章の福田建太(初日は吉留諒)によるアレグロ・ソロは、溌溂と美しい。動きの溜めが面白く、音楽を楽しんでいるように見えた。女性ダンサーの伸びやかなライン、男性ダンサーの切れの良さが、作品に生き生きとした躍動感を与えている。

バッハ、ハイドンメンデルスゾーンと、バロック、古典派、ロマン派の音楽を続けて聴く(見る)喜びがあった。バッハとメンデルスゾーンライプツィヒに縁が深く、後者は前者の死後初の『マタイ受難曲』復活上演を果たした関係にある。選曲の妙を感じさせる「ショルツ・セレクション」だった。