西村未奈・山崎広太 @ DaBY トライアウト[ダブルビル]2021

標記公演を見た(2月9日 Dance Base Yokohama)。ダブルビル1作目は、鈴木竜(DaBY アソシエイトコレオグラファーを中心としたコレクティブダンスプロジェクト『never thought it would』、2作目が西村未奈・山崎広太の『幽霊、他の、あるいは、あなた』。スタジオは暗幕が張り巡らされ、薄暗い照明。入口側三方に2列の客席が設置されている。天井には白木の木組みが吊られ、所々斜めに落ちている。鈴木作品の舞台美術だが、西村・山崎作品でも共有された。暗幕については、後者のために設えたのだろうか(前者とはそぐわず)。

『never thought it would』は、鈴木が演出・振付・ダンスを担当、池ヶ谷奏、藤村港平のダンス、タツキアマノの音楽、一色ヒロタカ、宮野健士郎の舞台美術、丹羽青人のドラマトゥルク、竹田久美子の衣裳、武部瑠人の照明に、畠中真濃(DaBY レジデンスダンサー)、田中希(DaBY / 制作)という布陣。トライアウトはこれが3回目だが、配信で見た前回とは美術が異なる。本番に向けて作品を練り上げるというよりも、毎回様々な角度から実験を行なってきたのだろう。12月には、愛知県芸術劇場小ホールで作品を上演予定とのこと。本格的な作品作りはこれからという印象を受けた。

天井に吊るされた木枠は、一つの横木を引くと、別の箇所が連動して動く仕組みになっている。ダンサーがその木の動きとユニゾンしたり、コンタクトするなど、舞台美術と関わる動きが大半を占めた。鈴木の肉厚な動き、池ヶ谷の振付意図を完全に理解した、切れ味鋭い動き、藤村の分節化されていない肉体の甘やかさ、自意識の強さなど、それぞれの個性は発揮されたが、ダンス自体の熱量には、やや物足りなさを覚える。鈴木の本来の体は、実存的なぶつかり合いを欲している(藤村と実際ぶつかっていたが、もっと本質的な)。統一的視点を作らず、それぞれのクリエーターがドラマトゥルクの言葉に沿って作品を持ち寄る、多視点のパフォーマンスなのだとは思うが、最終的には、演出する鈴木の世界観が核として必要ではないか。

『幽霊、他の、あるいは、あなた』は、西村、山崎の振付・テキスト・出演、菅谷昌弘の音楽による。薄闇の中、濃紺と黒の柔らかい上下を纏った西村が、舞台の中央に佇んでいる。意識の凝集されたその身一つで、空間、観客が一気に統一され、息づき始める。右腕長めのスレンダーな体に、様々な意識が入っては去る、その微細な肉体の動き。川に面したベンチに座るお婆さんの話をひと頻りして、西村はお婆さんになった。

カミテ床には、黒い上下の山崎が、うつ伏せになっている。頭を奥にし、動かない動きで徐々に前進。体は動かずとも、意識が行き渡っているので、肉体を凝視できる。カミテ奥壁に到達した山崎は、立ち上がり、動きながら前方へ来る。クネクネ動くだけで、華やかな色気が迸るのはいつも通り。今回はその体の重さに驚かされた。昨夏の軽快な体とは全く異なる、暗黒物質のような重厚な塊。やや湿り気を帯びた、吸い込まれそうな暗闇である。『暗黒計画1』に続く、土方巽へのオマージュだろうか。山崎は再び奥へと向かい、闇に消えた。

西村は、地衣類の好きな友人の話をする。あまりに好きなので、地衣類になって世界を見るのだという。地衣類は百年に1ミリしか成長しない。見えていない所にいるので、幽霊と似ている。西村は小さくなり、地面の底から世界を見る。奥壁には、山崎の後ろ姿が幽霊のように現れる。動かない動きでシモテへと漸進。山崎は地衣類、苔だったのか。頭を屈し、両手のみ見える場合、右手のみ踊る場合あり。両手を広げる動きは、背中合わせにもかかわらず、前方の西村と同期した。場を少しずつ変える山崎に対し、西村は舞台中央をほとんど動かず。西村が樹で、山崎は苔? 体の絡みはないが、気配を絡ませて、老婆、幽霊、地衣類、苔、と変態していく静かな時空を共に生きた。

菅谷昌弘の作る轟音、生体モニターのようなピッという微かな音(途中ピッピッピッピッと急変を告げることも)、音をモノ化させたようなピアノ音が、途切れ途切れの体、生死のあわいを、控えめに示唆する。ダンサー二人の老いて引いていく体に、慎ましく繊細に寄り添った。

かつて人形のような幼さを帯びていた西村は、ソーダ水のような透明無垢の資質はそのままに、成熟を通り過ぎて、老いを表象しうる体に到達している。体と踊りが一致し、意識の変遷を含め、全てを見ることができた。山崎の舞踏メソッドに沿っているが、発話、変態が自然で切れ目がない。西村固有の汗をかかない、死体に近い体だった。

山崎は、西村を中央に置き、自らは周縁に陣取る。『暗黒計画1』の明暗デュオと同じ、西村への深い愛情を感じさせる。自身は貫禄の舞踏。客席を確認する余裕あり(以前からそうだが)。「日本の体」を標榜しつつも、オリエンタリズムには迎合しない、現在の自分を追求する体だった。昨夏の軽みと今回の重みは、どのように体を変えているのだろうか。