牧阿佐美バレヱ団ローラン・プティの『ノートルダム・ド・パリ』

アレクサンドロワの繋がりで、牧阿佐美バレヱ団の『ノートルダム・ド・パリ』評をアップする。

牧阿佐美バレヱ団が創立55周年記念公演の一環として、ローラン・プティの『ノートルダム・ド・パリ』を上演した。プティは昨年七月に87歳で逝去。追悼公演はプティの懐刀ルイジ・ボニーノの愛情深い指導、プティ作品を知り尽くしたデヴィッド・ガーフォースの指揮、さらに主役の充実、溌剌とした音楽性豊かな群舞により、晴れやかな舞台となった。
65年パリ・オペラ座委嘱の本作は、プティが全力を傾けたモダンバレエの古典である。モーリス・ジャールの原始的かつ民謡的な音楽に、プティの恐れを知らない振付が炸裂する。動きの奇矯さがドラマに直結する不思議、天才の技である。
同世代の振付家グリゴローヴィチとは、象徴的手法による作品構成と女性脚線美の強調という共通項を持つ。ただし振付は、グリゴローヴィチがアスレティックで動きの運動性を重視するのに対し、プティはジムナスティックで動きの面白さを追求する。前者があくまでバレエの枠組に留まるのに対し、後者はアン・ドゥダンの脚、大地を踏みしめるステップ、全方向への動きといったバレエの禁じ手をやり尽くす。曾祖父がサーカスで綱渡りをしていた出自と無縁ではないだろう。
見る度に驚かされ、今回も驚いたのは、奇跡小路の赤い起き上がり小法師軍団。膝を抱え、ユニゾンで前後に揺れる振付は、魂のふるさとのように懐かしい。また祈りの場ではミニスカートの女達が、祈るというよりも拝んで、原初的な力を見せつける。ルネ・アリオの骨太な美術、サン=ローランのカラフルな衣裳も前衛と中世のアマルガムだった。
エスメラルダには同団より二名が予定されていたが故障で降板、代わりにボリショイ・バレエ団プリンシパルのマリーヤ・アレクサンドロワが勤めた。いわゆる「プティの脚」ではないが、エスメラルダの心情が手に取るように伝わってくる。フェビュスとは女の喜び、カジモドとは母性的な憐れみ、フロロとは怖れ、それぞれのパ・ド・ドゥが自らの内面に基づいた正直な造型により、しみじみとした説得力を持つ。舞台に全てを捧げる献身性、精神的な好ましさ、真面目さといった美質は、先の来日公演でも明らかだったが、ゲスト出演においても何ら変わりはなかった。カーテンコールで団員たちとハイタッチをするバレリーナは見たことがない。公演成功の最大の功労者である。
カジモドにはプティに見出された菊地研、亡き師匠への想いに満ちた好演である。異形性は薄く、格好良さが先行するが、素直に役に入り込んでいる。フェビュスはベテランの逸見智彦、適役である。成熟した男性の色気や身体性を見せるが、パ・ド・ドゥでの愛の表現はやや控え目だった。
一方フロロには新進の中家正博。正確で洗練されたテクニック、鋭い振付解釈、気の漲りが素晴らしい。特に祈りの場や、エスメラルダを支配する際の手の表現が際立っていた。サポートによる対話も可能。アレクサンドロワと拮抗するエネルギーの持ち主である。今後は役を選ばない活躍が期待できる。
男女群舞は見応えあり。特に男性若手の切れのよい動きが素晴らしい。古典作品の桎梏から解放され、動く喜びや楽しさが舞台に横溢した。演奏は東京ニューシティ管弦楽団。(2月19日 新国立劇場オペラパレス)
『音楽舞踊新聞』No.2868(H24.4.21号)初出


アレクサンドロワは『ダンスマガジン』のインタヴューで非常に興味深いことを語っている。まず今年の3月号では、「観客の声援はとても励ましてくれます。しかしそれと同時に、私にはいつだってプロの意見が必要です。それがあるからこそ、それを踏切板にして跳躍ができるのです。観客や批評家の意見に心を動かされることはありません。こんなこと言ってごめんなさい。」と、あやまりつつも正直な気持を述べている。プロとは同業者(ダンサー)のこと。観客や批評家の意見に心を動かされないのは、プロなら当たり前だろう。ただここまではっきり言うダンサーはいない。
同じく5月号では、『ノートルダム・ド・パリ』のプティパ版とプティ版の違いを明確に述べ、パートナーだったセルゲイ・フィーリンについても的確に分析している。さらに「自分で言うのも恐縮ですが、私は誰かの支えになることができる人間なんです。すごく芯が強いんです。」とも。いかにもアレクサンドロワの言葉。